(一)源信和尚の芳跡
講義が終っても寂として声もなく、今日の結果は如何であろうかと、後で固唾をのんで聞いておられた師匠良源上人も、その見事さに思わずはらはらと落涙されたと伝えられています。天皇も御感のあまり、おほめの言葉と絹一疋を賜りました。源信和尚は一時も早くこの喜びを故郷の母に知らせようと、使いの者に手紙をしたため、恩賜の絹を持たせて、大和の国に走らせました。けれども母は様子を聞いて、その絹に触れようともせず、手紙を持たせてそのまま比叡に帰らせました。「あなたをお山に登らせたのは、偉い坊さんともてはやされるためではありません。ひたすら真実の道を求めて、それを私に教えて欲しかったのに他ありません。それなのにあなたは男女雑居する宮中に出入りして、名聞僧となり果てたことはなんと悲しいことでしょうか。」と、切々と訴え、”後の世を渡す橋とぞ思いしに、世渡る僧になるぞかなしき”と書かれてありました。源信和尚は母の手紙によって、一時なりとも名利に心が動いたことを深く恥じられて、名利という字を部屋にはりつけてひたすら自己を戒めながら、勉学に努められました。
良源上人によって復興されたと思われた比叡も、再び名利を争う巷と化し、僧とは名ばかりで、名利に狂奔している東塔西塔を逃れて、横川谷にこもり、ひたすら真実の道を求めて勉学修行されました。その頃から、源信和尚の眼は、聖道門自力の教えから浄土に生まれてさとりを開く浄土教に向けられたのであります。四十一才の時にお母さんに送られた「勧進往生偈」を見ても、よくそのことが窺われます。四十二才の時に、どんな浅ましい悪人凡夫でも、お念仏によって必ず浄土に生れ行く確信をお持ちになり、このことを一時も早く母に知らせようと、初めて山を下り、故郷に向かわれました。お母さんは既に病床にありましたが、源信和尚より、往生浄土の道は、お念仏にあることを知らされて、”思えば十三の時にあなたを膝元から離し、二十九年間そのさみしさに耐え忍んで来たのは、このことひとつを聞かせて頂くためでありました。”と、はらはら落涙して源信和尚の手を握りつつ、お念仏の中に安らかに往生を遂げられました。源信和尚は母の一周忌を迎えられた、四十三才の時に、亡き母を偲んでお書きになったのが有名な「往生要集」であります。
当時、中国は先に申しました、三武一宗の法難が続いて、貴重な経典や書物が焼失されていましたので、仏教復興を願う皇帝の使者として周文徳が日本に仏教を学ぶために、来ておりました。この周文徳によって「往生要集」は書写されて中国に持ち帰られ、時の天子に献上されました。一説によると、これをごらんになった天子は、「この素晴らしい書物を書く人は、ただ人ではない、まさに生きた仏である。印度にお釈迦様が出られて、み教えを説きたもう如く、今東方日本に源信如来というみ仏がお出ましになって妙法を説いて、迷える人々を救いたもうか。」と朝夕日本に向かって、源信如来と礼拝されたと伝えられています。思えば仏教が日本に伝わって以来、幾多の名僧高僧が出られましたが、遙か異国の天子から礼拝を受けられたのは源信和尚ただ一人であります。このことを思うにつけて「往生要集」が如何に素晴らしいかということがよく窺われます。源信和尚は後一条天皇の寛仁元年六月、七十五才で往生されました。その著述は恵心僧都(源信の別名)全集に収められているだけでも八十一部百二十巻あります。これによって源信和尚が仏教について、いかに広く深い知識をもっておられたかが、よく解ります。けれどもその中心は先に申しました「往生要集」上中下三巻で、この書には地獄、餓鬼、畜生等の迷いの世界を離れ、真実の浄土に生れることを、力を尽くし、言葉を尽くして説かれてあります。
(二)源信和尚の勲功
雑行雑修とは聖道門の諸々の自力の行をもって阿弥陀仏の浄土を願生することです。この行は一行に限らず、いろいろの行を修めていますので雑行雑修といいます。
さて他力の念仏の信心と、雑業雑修の信心との相違を明らかにされて、他力の念仏の信心は阿弥陀如来より恵まれた信心であるから深く、雑行雑修の信心は凡夫の自力の計いより起す信心であるから浅いとお諭しになって、他力の信心の人々は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力信心の人々は方便化土に生れると判定されて、信心の因と果報について優劣を明らかにされたのであります。
このことを「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」とお説きになりました。因みに執心とは信心の異名であります。専修念仏の他力の教えと雑行雑修の自力の教えについての相違点を更に詳しく申しますと、雑行雑修の自力の教えでは、自分の力をあて頼りとし、その上に仏の力を求めて自分の力、プラス仏力によって救われていこうとするのであります。これは仏教の自力の教えばかりではなく、あらゆる宗教にも言われます。自分が信心しお祈りすることによって、神の恵み、或いは力を頂いて救われようとするのです。これに対して、他力の救いは、私は救われるような価値又は力は全然持たない、言い換えれば私は0(ゼロ)であると自覚し、全く仏の願力の一人働きによって救われて行くのであります。従って他の宗教には必ず祈願祈祷祈りがありますが浄土真宗では祈りが全く否定されて、祈りなき宗教と言われるのはこのためであります。
(三)念仏の利益
然しみ仏の大悲を感ずることはなかなか容易なことではありません。曇鸞大師は”非常の言葉は常人の耳に入らず”と仰せになりました。その非常の言葉が私の心に頷けるのは、永い間にわたってのみ仏のお育ての他ありません。そのことを親鸞聖人は「遇たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せになり、お軽同行が、”おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから”とうたわれたのはこの心からであります。み仏の大悲に育てられ、大悲に目覚めるたった一つの道が、聞法であります。私の眼には見られないけれども、私を暖かく見護りたもう大悲に目覚める時、そこに苦悩の人生を心豊かに生き抜く道が開かれることでしょう。
私は昭和五十四年九月、指宿組乗船寺藤岡義昭先生のお寺に彼岸の布教に参りました。
”築地本願寺では、浄土真宗に関係のある国会議員の方々が、月に一度、揃って参詣されると聞きましたが、今もそれは続いているのでしょうか。”
二十四才の時に黒谷を出て嵯峨の清涼寺をたずね、更に南都(奈良)に遊学されました。十数年後再び黒谷に帰り、報恩蔵に籠もって一万二千余巻の一切経を五回も読み返されたと伝えられます。しかし法然上人の胸には、救いの光はさしては来ませんでした。ひたすら悶々たる求道のうちに、善導大師の観無量寿経を解釈された四帖の疏の散善義の中に”一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、時節の久近を問わず念々にして捨てずば、是を正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に”の言葉が焼き付くように、上人の目に入ってきました。
その後法然上人は吉水に居住して、善人悪人全ての人々が平等に救われていく本願他力の念仏を説かれました。当時、貴族政治から武家政治に、古代から中世への大きな時代の変動期と源平二氏の戦いの動乱の中に喘いでいた人々は、乾天に慈雨を得たように貴賎老若を問わず法然上人のもとに集まりました。上は後白河法皇、尼将軍とうたわれた源頼朝の奥方政子夫人、九条関白兼実公等、高位顕官の人々や、又かっては源平の戦いに互いに刃を交えた平家の御曹司、平重盛の孫勢観坊源智、一の谷の合戦で花の若武者十六才の平敦盛の首を切った源氏の荒武者熊谷次郎直実、一般の町民百姓、遊女と卑しまれた白拍子等、あらゆる人々がこの世の恩讐を超えて手を取りながら念仏を称えてみ教えを仰いでゆかれました。その姿は誠に壮観で美しいものでありました。
翌年の元久二年(七十三才の時)奈良の興福寺より興福寺奏状が朝廷に送られました。延暦寺奏状は念仏者の行いについての糾弾でありますが、興福寺奏状は、他力念仏の教義についての糾弾であります。
こうした法難によって一時は念仏の灯は消え去ったかのように思われましたが、その灯は消えること無くお弟子や信徒の間に継承されて行きました。これは偏に法然上人が智恵第一の法然房と言われるように、あらゆる仏教に精通してその心から苦悩の凡夫を慈しまれたことによるのであります。このことを「本師源空は仏教に明らかにして善悪の凡夫人を憐愍せしむ」と讃えられました。
又親鸞聖人は源空上人のお徳を深く感佩して和讃に
(二)源空上人の勲功
今まで聖道門の片隅にあってその存在意義を僅かに認められていたのが、浄土往生の念仏のみ教えでありました。即ち聖道門のきびしい修行に行き詰まった人々が、お念仏してまずお浄土に生まれようと願ったのであります。それは浄土はこの娑婆世界と違って誘惑や妨げが少なくて、仏道修行がし易いから先ず浄土を願生しました。これに対して法然上人は、聖道門より念仏を独立させて浄土宗と名乗ってこのお念仏によって全てのものが救われていくことを明らかにされました。
七高僧は何れも念仏による浄土の往生を勧められたのでありますが、何故お念仏で浄土に往生することが出来るかということについて、この高僧方の深い心を鋭く見抜いて、それはお念仏は阿弥陀如来様が衆生を救う為に選び抜かれた選択本願のお念仏であり、この念仏には最も勝れた徳と最も易い徳が具わっているからであると開顕されたのであります。ここに念仏往生について確固不動の基礎が明らかにされました。これが法然上人の素晴らしい功績と言われるものであります。
法然上人は極悪最下の機の為に極善最上の法を説くと仰せになりました。つまり”仏の大悲は苦者に於てす”とありますように最も苦悩するものが仏の救済の対象であります。従って最も愚かな罪の深い私達の為にみ仏は最も勝れたみ教えを以て私を救おうとされました。この救いの法こそ選択本願のお念仏であると、法然上人は明らかにされたのであります。それは上人六十九才の時に、九条関白兼実公の請いによって書かれた「選択本願念仏集」の中に、具さに説かれてあります。この書は選択本願の念仏の理を明らかにすると共に、浄土独立の宣言書とも言うべき書であり、今迄の聖道門の学匠達の考え方を全く逆転されました。
即ち先に申しますように念仏して浄土に往生する道は、聖道門の自力修行に行き詰った人々の為にあり、聖道門の自力修行を完成する為の方便の道として存在価値が認められたのでありますが、法然上人は一切の人々が速やかに迷いの世界を離れようとするならば、二種の勝法の中、しばらく聖道門をさしおきて、選んで浄土門に入りなさい、と力強くお述べになって、聖道門ではもはや迷いの世界を離れることは出来ないと宣言されました。これは当時の仏教界の常識を根本的に破られたのであります。親鸞聖人はこのお意を承けて御和讃に、
(三)疑と信心
このお言葉の意は、初めの大意の所で申しましたように、迷いの世界を生まれては死に、死んでは又生まれつつ永久にさ迷うて行くのは罪の深い浅いによるのではなくて、本願を疑うか疑わないかにかかっている。この迷いの世界を離れて煩悩の炎が消えて、清浄真実の寂静無為の都に速やかに入ることは信心の一つにかかっている、とお諭しになって偏に他力の信心をお勧めになったのであります。この言葉は選択集の信疑決判に説かれた法然上人のお言葉で、従って信心正因は法然上人の教えに背いたものではないことをお示しになったのであります。
そこで法然上人は念仏往生を高く掲げて人々を導かれました。それに対して親鸞聖人は、何故、信心往生を説かれたのでしょうか。思うに法然上人の説かれたお念仏は自力念仏でなくして他力の念仏であることを決して見落としてはなりません。何故称名念仏によってこんな浅ましい十悪の法然、愚痴の法然と言われたものが救われていくか、それが長い間の法然上人の胸を苦しめた疑問でありました。この言葉によって上人の胸を閉ざしていた暗雲がカラリと晴れ渡っていったのであります。即ちこの称名念仏が、本願他力によって顕れた念仏であって、自分の力で称えて功徳を積んでいこうとする自力念仏でないということを明らかに知られたのであります。
これによって法然上人がお念仏一つで救われると説かれたお念仏は、自力念仏でなくて他力の念仏であることが明らかであります。
しかし、浄土宗鎮西派、西山派を開いた聖光房弁長、善慧房証空という人達は、聖道門自力の教えから、法然上人の学徳にひかれてお弟子になられたのですが、親鸞聖人とはその趣が違うのであります。親鸞聖人は何度となく申しますように、全く自力ではどうにもならない、自力の教えの限界を極めて一切の自力を捨てて全く己れを空しくして、ゼロの立場に還って素直に法然上人の教えを受け入れられました。
これに対して他の弟子達は、自力聖道門の心を残しながら法然上人の徳にひかれて弟子になられたのですから、他力の教えをそのまま素直に受け入れることが出来ずして自分勝手な解釈をしたため、半自力半他力の教えになりました。これを蓮如上人は、”本宗の心捨てやらずして”と仰せになっています。これについてこんな話が伝えられています。聖光房弁長は北九州の方で学匠の誉高かったのでありますが、法然上人と問答を交わし”もし私が負けたら弟子になりましょう。貴方が負けたら弟子になりなさい。”と言い、論争に負けたが故に法然上人の弟子になられた方です。と、このように三百有余人のお弟子はありましたが、多くのお弟子は自力の執心にとらわれて、麗しく他力の教えを受け取ることが出来ず、却って法然上人の他力の教えをくらましました。法然上人の念仏往生は称えた功徳で救われていく教えではなくて、すでに救うと呼び給う本願を仰ぎ大悲に任せた姿であると、法然上人の心を明らかにされたのであります。
従って法然上人の念仏往生は、信心を内に孕んだお念仏によって往生すると勧められたのであります。親鸞聖人はこのお念仏の真意を見誤った他の人々に対して、念仏に孕んでいる信心を表に立てて信心往生と説かれたのであります。
たとえば提灯明るしと勧められたのが法然上人の念仏往生であり、提灯の中のローソク明るしと勧められたのが親鸞聖人の信心往生であります。このように頂いてみれば、法然上人の念仏往生の勧め振りと、親鸞聖人の信心往生の勧め振りは、言葉はしばらく左右はありますが心は全く一つであって、自力念仏による往生を勧めた聖光房弁長、善慧房証空の弟子達の方こそかえって背師自立であり、親鸞聖人は決して背師自立でないことがうなずけるでしょう。
ここに親鸞聖人は恩師法然上人のお徳を高く高く讃えながら、本願を疑う心を離れて素直に大悲を仰ぐ信心によって、速やかに寂静無為の都に還りなさい、と法然上人がひたすらお勧めになったことを明らかにして源空章を閉じられたのであります。
◇重ねて信心往生について
これを取り違えると、知らず知らずのうちに自力の信心に陥って、如来の大悲を見失うことになり、生死の迷いの世界に流転していくことになります。
昔から、親鸞聖人のみ教えを聞きながら信心を得ようとして得られず、多くの熱心な求道者が苦しんできたのは、信心正因というおいわれを信心が救いの条件であると取り違えたことによるのであります。ではこの二つはどう違うのでしょうか。
と仰せになったのはこの意であります。自分の心すなわち信じぶり聞きぶりに用事がなくなった姿、このことを思う時に私は、何回目かの本願寺総会所の布教の時に、よく参詣されるお同行から聞いたお話を思い浮かべるのであります。これは私が直接、K和上から聞いた話ではありませんのでもし間違いであるならば、お許しいただきたいと思います。
K和上が京都から大阪のあるお寺に御講話に行かれようとして電車に乗られました。その電車が向日町に着いた時、知り合いの同行が乗って来て先生の前に腰かけられました。多分お二人の間に法談の花が咲いた時のことでしょう。この同行が、
信心正因とは聞法を通して大悲に目覚めた時、すなわち摂取の光明に照護され、お浄土への道へと方向転換させていただくことを言うのであります。その点、返す返すも間違いのないよう、よくよく聞かせていただきましょう。
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経の取り扱いについては古来より、三経一致門と三経差別門の二つがあります。三経一致門とは大無量寿経は法の真実を説き、観無量寿経は機の真実を説き、阿弥陀経は機法合説と言われています。これを例えて申しますと、大無量寿経の法の真実とは重病を癒やす薬に当り、観無量寿経の機の真実とは正に重病人の姿を説き表されたものであります。阿弥陀経の機法合説とは、重病人が薬を飲んだ姿を説かれたのであります。大無量寿経に説かれた南無阿弥陀仏の名号は、観無量寿経に説き示された下品下生の極重の悪人に働くことを表し、阿弥陀経はこの名号によって極重の悪人が必ず救われることを説いて、しかもそれはお釈迦様一人の説法でなくして十方恒沙の諸仏がこれをまちがいないと等しく証明し讃嘆したもうたことを明らかにされたのであります。
三経差別門とは、大無量寿経は初めからお終いまで他力の教えでぬりつぶされ、観無量寿経は表には第十九願の自力諸善(定善散善)の道を説き、裏には他力の念仏を説かれています。阿弥陀経は観経に準じてその説きぶりを見るときに表には、第二十願による自力念仏を説き、裏にはやはり他力の念仏を説かれているのであります。説きぶりにはこのようにしばらく左右がありますが、お釈迦様の真意は正に、弥陀の本願の他力の教えによって苦悩の衆生を救うことにあったのはいうまでもありません。お釈迦様がこのような説き方をされたのは、自力修行の人々を他力念仏に導き入れる為の巧みな説法の手段でありました。従って七高僧の本意も、お釈迦様の心を明らかにして弥陀の本願を説くにありました。この七高僧のお徳を讃えて、「弘経大士宗師等」と仰せになったのであります。
このように七人の高僧は出生された時代や国も違いまたその教えの説きぶりもそれぞれ異なった特徴がありますが、弥陀の本願を一器写瓶と言って、一つの器の水を次の器に増さず減らさず移していくごとく、正しく継承されたのであります。このことを親鸞聖人は「七祖各々この一宗を興行す。愚禿すすむるところさらに私なし」と仰せになりました。この心は七高僧が各々この浄土真宗の教えを広め伝えられて、親鸞が別に新しいことを説くのではありませんということであります。
この言葉によって伺われますように親鸞聖人が本願に遇いお念仏に救われた喜びを深く思われた時に、折角お釈迦様によって説かれたみ教えも、もし七高僧によって正しく継承されなかったならば私はこの法に遇うことは出来なかったと、その高恩を深く深く感佩されて教行信証総序のお言葉に「西藩月氏の聖典、東夏日域の師釈に遇い難くして今遇う事を得たり、聞き難くしてすでに聞く事を得たり」と、述懐されています。このお言葉は印度中国日本の三ヶ国にわたって七高僧方の書き残された尊い聖典に遇い難くして遇った喜びをお述べになったのであります。
(二)七高僧のあわれみ
七高僧は今申しましたように大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のお意を開いて選択本願の他力のお念仏を継承されて、偏に数限りない極重の悪人、即ち自己中心の我執煩悩の中に明け暮れし迷いの生死の世界にさ迷うている私達を慈しみお救いになりました。この七高僧の恵みによって幾多くの人々が迷いの世界を離れて、寂静無為の清らかなみ仏の世界に生まれていかれたことでしょうか。そのことを静かに思いながら七高僧の憐れみ慈しみを受ける悲しき凡夫とは人のことではなくて、私自身のことであったとしみじみ思われます。そう申しますと或いはいや現代多くの人々は、私がなぜそんな憐れみ救いを受けねばならないものであろうか。一体私はどんな哀れな生き方をしていると言うのか。私は人間として恥ずかしくない立派な人の道を歩いているではないかと反発されるかもわかりません。私はこれについて次のようなことが頭に浮かびます。
一切のみ仏は私達の姿を御覧になった時に思わず目を閉じ耳を塞ぐ、と説かれた事であります。私達が立派なこと正しいことと思っていること或いは行動している姿を御覧になりお聞きになったら、危なくて危なくて見てはおられず聞いてはおられなくて、思わず目を閉じ耳を塞がれると言うのであります。人間世界でも時としてこんなことがよくあります。
かって私の恩師利井興弘先生から聞いたお話でありますが、昭和十五年日支事変のさ中でありました。先生が結婚の仲人をされました。その花嫁さんは両親が早く亡くなられ一番上のお姉さん夫婦から親がわりに育てられた娘さんです。義兄さんは支那事変が始まって間もなく召集を受けて、支那大陸に転戦しておられました。この縁談も留守中に先生の勧めによるものでした。戦地の義兄さんも喜んで賛成されましたので、留守中ではありましたが式が挙げられました。仏式による式典も終り披露宴に移りました。酒が回されて次第に座もはなやかになり両家の親類の間に杯の取りかわしも始まりました。その時ホテルの支配人に
私はこの話を思い浮かべる時に行信教校に入学した当初、恩師利井興隆先生からこんなお話を聞きました。先生がいつも行っておられる理髪屋に行き散髪終わって世間話しの中に、
(三)親鸞聖人のすすめ
ここで終りに臨んで今一度お正信偈の大綱を伺ってみますと、最初に申しましたようにまず親鸞聖人自身の信仰をお述べになって、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と仰せになりました。即ち我に任せよ必ず救うと呼び給うみ仏の仰せに素直にハイと信順してお任せ致しますとお述べになり、大無量寿経のお釈迦様の教えと七高僧の御釈によって、そのことが間違いないことを讃嘆されました。
従って依経段には「応信如来如実言」、釈迦如来の真の言葉を信ずべしと強くお勧めになり、依釈段にも「唯可信斯高僧説」とお説きになりました。「唯可信斯高僧説」の言葉には直接には七高僧の徳を讃嘆された依釈段の結びの言葉になりますが、信心を偏にお勧めになった親鸞聖人のお心からいただきますと、お正信偈全体の結びの言葉になるとうかがわれます。
さて依経段にも依釈段にも信ずべしと力強く無上命令の言葉を以てお勧めになったお心を伺う時に私は、次の二つのことが深く思われます。一つは言うまでもないことでありますが親鸞聖人の信心の智慧の眼には、お釈迦様並びに七高僧と同じように人の世のありのままの姿がよく見えておられたということです。それは花が咲くのが人生ならば、花の散るのも人生ということです。即ち生きつつあることが人生であれば死につつあることも人生であります。
私は先日私の門徒の出来場村落の正信偈会の時に総代の増田蔵一さんが言われた話が頭に浮かびます。
蓮如上人が
昭和五十四年九月鹿児島別院並びに出張所の仏教婦人会の幹部研修会が行われて、私は一時から五時まで講話を依頼されました。四時で講話が終わり、後一時間は話合いにしました。予定通り五時に終わり会場から事務所の方へ行く途中、後から
私はこのお言葉を思う時に、長い間学んだ行信教校の講堂の正面仏壇の真上に掲げられた三条実美卿の筆になる”学仏大悲心”の横額と、木辺孝慈猊下の書かれた”唯信仏語・唯順祖教”の左右両側の縦額の文字が鮮やかにまぶたに浮かんでまいります。私達僧侶の真宗学研鑽の目標並びに門信徒の方々の聞法は、仏の大悲心を学び仰ぐほかありません。その姿勢はただ、仏語を信じ、ただ七高僧並びに宗祖親鸞聖人の教えに随順することであります。私は今ここにこの正信偈の稿を書きながら、行信教校の美しい伝統の中に良き師良き法友に恵まれて育てられた幸せを、しみじみ感ずるしだいです。
第十五章 源信章
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
源信和尚は今から約一千年前、平安朝の中期に出られて、日本浄土教の始祖と仰がれました。七高僧の第六番目の方であります。
源信和尚は朱雀天皇の天慶五年西暦九四二年大和の当麻村(奈良県北葛城郡当麻村)に誕生されました。幼き時より神童の誉高く、七才の時父を失い、十三才の時に比叡山中興上人と仰がれた慈恵大師即ち良源上人について出家されました。十五才の時、早くもその英才が認められて、村上天皇の前で称讃浄土教(または法華八講)の御前講義をされました。左右両側には大政大臣、左大臣、右大臣等の高位顕官の殿上人や南都北嶺の由々しき学匠達の居並ぶ中で約四時間にわたり怖めず臆せず、あらゆる教典をふまえて講義されました。
特に地獄の描写はすさまじく、真実に迫り、読む人をして地獄の罪人の悲愁の声が切々と胸に迫るのを感じさせます。その往生浄土の道は、幾多あろうとも、私のような愚かな者は、ただ念仏による他はないと述べられ、自らも浄土を願生しながら、多くの人にこれをお勧めになりました。この源信和尚の功績によって、日本に於いて浄土教が確立されたのであります。よって先に申しましたように、源信和尚を日本の浄土教の祖と仰いでいるのであります。そのことを今「源信広く一代の教を開き、偏に安養に帰し、一切に勧む」と讃えられたのであります。
さきの第十三章道綽で詳しく述べましたが、道綽禅師はお釈迦様の説かれた教えを、聖道門、浄土門と分類整理されました。これは龍樹菩薩の難行道、易行道の教え、曇鸞大師の自力、他力をふまえて説かれたもので、即ち難行道自力の教えを聖道門と定め、これはこの世でさとりを開き、仏になる教えであります。それに対して、易行道他力の教えを浄土門と定められました。これは阿弥陀仏の浄土に往生して仏になる教えであります。道綽禅師は聖道門をのがれて、偏に浄土門に入ることを勧められましたが、今源信和尚は、その浄土に往生する道について、専修正行(念仏)の他力の道と雑行雑修の自力の道のあることを説いて、その優劣を明らかにして、専修念仏の道を勧められたのであります。ここに源信和尚の素晴らしい勲功があります。専修正行と難行については、色々難しい道理が説かれていますが、いまその心をふまえて解りやすく申しますと、専修正行とは専ら阿弥陀如来の功徳を説いたお経、即ち
この五つの正行の中、第四の称名が中心で他の四つはこれに収まりますので、つまり専修正行とはお念仏を称えることであります。
阿弥陀如来を心に思い浮べ (観察)
阿弥陀如来を礼拝し、阿弥陀如来のみ名を称え (称名)
阿弥陀如来を讃嘆供養することであります。
また、たとえお念仏ひとつを称えていても、自力の心が雑るならば、やはり雑行雑修といわねばなりません。さらにもう少し詳しく申しますと、先の五つの正行に対して、阿弥陀如来以外のお経を読み、仏を心に思い浮べ、礼拝し、仏名を称し、讃嘆供養することを五つの雑行といわれます。したがってどんなお経を読み、どんな仏を礼拝してもよいのではありません。この点私達はよくよく注意しなければなりません。
ここに浄土真宗の他力の教えと、他の教えとの根本的な相違があることを知らねばなりません。
親鸞聖人のゼロの自覚に立つ告白の言葉に耳を傾けますと
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
以上の言葉は倫理道徳の反省より起こるところの浅いものではなくて、み仏の光に照されて、徹底的に知らされた深い内観よりほとばしり出た言葉であります。けれども深い内観は大悲によって知らされた境地でありますので、自己を悲しんでいたむ心のままに大悲を仰ぎ大悲に支えられた喜びのあることを見忘れてはなりません。
修善も雑毒なる故に 虚仮の行とぞなづけたる
第二節で雑行雑修と専修念仏の優劣を示して専修念仏を勧められました。よってこのお言葉はその利益を説かれたのであります。極重悪人とは今までしばしば述べてまいりましたが、自己中心の我執煩悩の中に明け暮れして、悪より悪に入り、暗きより暗きにさまようている私の姿の他ありません。
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
そうした私も、本願を信じ念仏するところに摂取の光明の中に照護されるのであります。煩悩によって眼障えられて、仏の姿を見ることは出来なくても、常に私を倦むことなく護り照らしたもう事をうたわれたのであります。
この言葉は往生要集に書かれたもので、源信和尚の生き方の方向を決定し、生き方を支えられた持言であります。それは源信和尚が寛仁元年西暦一〇一七年七十五才の六月に亡くなられましたが、その年の五月に書かれました「観心略要集」の中にも書かれていますので、そのことがよく知られます。親鸞聖人もこのお言葉に深く感動されて、このお正信偈と教行信証の信の巻に引用されました。また御和讃にこの言葉の意をうたって
と仰せになりました。この言葉には何等の注釈は要りません。宗教生活の喜びを素直にお述べになったものであります。凡夫の肉眼では、み仏を見ることはできませんが、み仏は常に私を照し護りたもうものであります。
大悲ものうきことなくて 常にわが身をてらすなり
よく、「私を救うみ仏があるならば見せてみよ、それなら文句なしに仏を信ずるが」と、言われる人があります。いやこれは人の問題ではなくて、私自身学生時分に、そんなことを思ったことがあります。私はこれについて、恩師利井興隆先生と関田正雄さんのお話を思い浮かべるのです。関田さんは、両親は天理教と真言宗で、真宗に全然関係のない家庭に育った方ですが、友達のすすめで利井興隆先生のお話を何度か聞いているうちに、一つの不審を持たれました。その時の会話です。
”先生、地獄、極楽、仏様がほんとうにあるのですか。”
”おおあるわい。”
”そんなら見せて下さい。”
”馬鹿もの、目を洗って出直して来い。”
この先生の言葉に家へ帰って考えに考え抜かれました。そうしてやっとこの言葉の謎が解けました。関田さんは先生を訪ねられて
”先生、よく解りました。”
”そうか、それでよいのじゃ。”
私は学生時分に聴いたこの話が、今も時々頭に浮かびます。ちょっと聞くと禅問答のようで、ちんぷんかんぷん解りませんが、よく味わって見ると、汲めども尽きぬ深い味わいがあります。地獄、極楽が見え、仏の姿が見えたなら、信ずるというけれど、果して仏や浄土を見る眼を私が持っているかどうかという問題であります。赤い眼鏡をかけて見れば世界はすべて赤く見えます。青い眼鏡をかけて見ればすべてが青く見えます。私達のまなこは、我執煩悩によって曇っている迷いの眼でしかありません。迷いの眼を以て見る世界は、すべてが迷いなのであります。もし迷いの眼に見える神、仏であるならば、それは迷いの神、仏でしかありません。地方に行くとよく阿弥陀如来を見せると説くいかがわしい宗教がありますが、そんな宗教は全く迷信という他ありません。関田さんが、あるなら見せて下さいと言われた時に、先生が言葉鋭く、”馬鹿者、目を洗って出直して来い”と言われたのは、お前は仏を見る立派な眼をもっているのか、思い上がるなと厳しく叱られたのであります。私達は仏を見ることは出来なくても聞法を通し、大悲を感ずる素晴らしい心の働きを持っています。故に万物の霊長と言われるのであります。
藤岡先生は私の尊敬する先輩で、鹿児島に入寺以来、いろいろ指導頂いて来ました。先生は数年前、築地本願寺の輪番をしておられましたので、こんなことを尋ねました。
”うん続いているよ。”と詳しく話されました。
”国会が開かれている間、自民党、社会党、民社党、新自由クラブ、無所属n浄土真宗に関係のある衆参両院の議員の方々が、月に一回日曜日の七時に集り、お正信偈でおつとめされて、前門様のお話を二十分聞かれ、八時に会食されて散会されるのですが、そうした方々の中で、前衆議院議長の保利茂さんの聞法の姿勢、その後姿には、私達も頭が下がりました。”と云われました。
私はこれを聞いた時に、なるほどと一つの疑問が解けました。それは保利さんが内閣官房長官の頃、NHKの国会討論会に数回出られました。野党の人が歯に衣着せず、ずばりずばりと鋭く詰問されます。聞いていても、冷っとすることが度々ありましたが、保利さんは少しも腹を立てることなく、酸いも甘いも噛みわけたものわかりの良いおやじさんが、噛んで含めるようないい方で答弁しておられました。
私は、なんと心の広い、温い人であろうかと聞いていましたが、ここにその謎が解けました。
この保利さんが国会議員団の団長として中国訪問を前に、癌で倒れ、慈恵医大病院に入院されました。文芸春秋五十四年十月号に、この様子が詳しく書かれてありましたが、保利さんは、見舞いに来た人達に、お正信偈を開いて、私の最も心ひかれる言葉は「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の言葉であると話しておられました。私はこれを読んだ時に保利さんの政治生活を支えたものは、お念仏の救いであり、人間はやはり宗教の支えを持つことが真実の生き方であるということをしみじみ感じました。
第十六章 源空章
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(一)源空上人の足跡
源空上人は法然房源空と称し、七高僧の第七番目の高僧と仰がれ給い、法然上人とも呼ばれています。今を去る八百五十年前、長承二年(一二三三)四月七日美作国久米郡稲岡の庄(今の岡山県久米郡稲岡南村)に生まれました。お父さんは漆間時国と言い、押領使としてその地方を治めておられました。仏教の信仰厚く領民をやさしく慈しまれましたので、人々は慈父のように慕っていました。ところが明石の源内定明がそれをねたみ、夜襲をかけました。当時十三才であった法然上人は、勢至丸と呼ばれていました。たまたま叔父のうちに行っていたのでありますがこの変事を聞いて、取るものも取りあえず駆けつけてみると、源内は既に引き上げて、お父さんは瀕死の重体でありました。勢至丸は父の手を握りながら、
”お父さん御安心下さい。私はどんな困苦に耐えても憎い敵を打ち果し、お父さんの恨みを晴らします。”
と言った時に、父、時国は苦しい息の中から喘ぎ喘ぎ、
”恨みに報いるに恨みをもってしては恨みの消ゆる時がない。お前はこの断ちがたい恨みを断ち切って、敵も味方も平等に救われる仏の道を求めてくれ。”
と、懇懇とさとされて息が絶えました。勢至丸は父の意志を継いで叔父の観覚の許にひきとられました。十五才の時、観覚の勧めで比叡山にのぼり源光上人をたずねられました。この時叔父観覚の、源光上人に送られた手紙の中には「文珠一体を送る」と書かれてありました。普賢菩薩がお釈迦様の慈悲を表すのに対して、文珠菩薩はお釈迦様の智慧を表します。いかに、叔父観覚上人が勢至丸の英才を認めておられたかがよくうなずけます。このことを和讃に
とうたわれています。更に皇円阿闍梨について出家し、十八才で黒谷の叡空上人の弟子となって、法然房源空と名乗られました。これは師源光上人と叡空上人の名を一字ずつ頂かれたものであります。
厭離の素懐をあらわして 菩提のみちにぞいらしめし
この言葉の意味をもっぱらふた心なくお念仏して、その姿形にとらわれず、又時節の長い短いを問わずしてお念仏を相続するならば、これによって正しく浄土に生まれることができる。なぜならば、このお念仏は衆生を必ず救うという阿弥陀仏の本願によるからである。この言葉によって必ず救われるという確信が生まれました。ここに長い間上人の胸を閉ざしていた闇雲が晴れたのであります。時に承安五年の春、上人四十三才でありました。浄土宗ではこの年を以て、立教開宗と定められています。
こうした法然上人の名声は日増しに高まると共にその反動は強く、五十四才の時、聖道門の学匠達と大原の三千院で法論を交えられました。これが有名な大原問答であります。その後各宗より法然上人の念仏教団に対する圧力はいよいよ強く元久元年、上人七十二才の時比叡山より念仏教団糾弾の延暦寺奏状が朝廷に出されました。この時法然上人以下お弟子百八十九人の署名による七ヶ条の請文を、天台の座主真性上人の元に送られて一応事なきをえました。親鸞聖人は綽空の名を以てここに名を連ねておられます。
これが導火線となって上人七十五才承元元年、念仏禁止の命が下り、法然上人以下高弟の人々が死罪、或いは流罪に処せられたのであります。上人は土佐の国に流罪と決まりましたが九条兼実公の特別の計いで、その荘園がある讃岐に留まられました。その年十二月に、流罪は許されましたが都に入ることはできず、摂津の国勝尾寺(大阪府箕面市)に四年余り居住されました。許されて建暦元年十一月に都に入り、東山の吉水の庵室に帰られましたが、翌二年(一二一二)一月二十五日八十才で往生の素懐を遂げられました。
片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし
と、その高恩を仰いでおられます。
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎざまし
この二句のお意は、親鸞聖人が和讃に、
と述べられていますように、法然上人が日本に真宗を開いて真実のみ教えを興し給い、第十八願の選択本願の念仏を弘め給うことを讃嘆されたのであります。
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべ給う
とうたわれました。これは聖道門は往生浄土のお念仏に入るため、仮に設けられたものであり、衆生はいたずらにこの方便の教えに止まっているから迷いの世界に流転して行くのであると言う意であります。法然上人はこの心を確信を以て選択集にお書きになり、本願他力の念仏を高らかにお勧めになりました。しかしこの書が世に公開されるならば、仏教界に大きな波乱を巻き起こすであろうと予知されて、兼実公に、「この書は決して公開して下さいますな。お読みになったら焼き捨てるか壁の中に塗り込んで下さい。」と申されて、三百有余人のお弟子にもこの書を書き写すことを許されたのはわずか五、六人にすぎませんでした。
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ
果たして上人の亡き後この書が公開されるや栂尾の明恵上人は直ちに摧邪輪を作って、法然並びに念仏の教えは仏教に非ず、外道であると、厳しく糾弾の矢を放たれました。又比叡山の僧徒は選択集の版木を山に持ち帰り、大衆の面前で焼き捨て法然上人の墓をあばいて、その遺体を辱めようとしました。幸いそのことが事前にわかって、上人の遺体はお弟子の手によって他に移され辱めを逃れたのでありますが、墓は乱暴に破壊されました。親鸞聖人は畢生の力をこめて教行信証を書かれたのは、選択集に対する厳しい誤解を解く為でもありました。このような他宗派よりの厳しい弾圧の中にも、法然上人は毅然として浄土宗の独立を守り選択の本願の念仏を末の世の私達の為にひろめられたのであります。
法然上人のお弟子の中で上人の没後、親鸞聖人を除いて外に五人の高弟によって教えが五つに分かれました。それを法然門下の五派分裂と言っています。その代表的なものが今日残っている浄土宗鎮西派(本山京都知恩院)を開いた聖光房弁長、浄土宗西山派(本山京都西山光明寺)を開いた善慧房証空等のお弟子達であります。親鸞聖人が信心一つで往生すると説かれた信心往生に対して、これ等の人々は背師自立(師の教えに背いて自分勝手な考えを主張する)と非難攻撃しました。法然上人は、往生の業は念仏を以て本となす、と説かれて、ひたすら念仏を勧められました。それに対して信心で往生を説かれた親鸞聖人は師の法然上人の教えに背いて自分勝手なことを言い出したと非難されたのです。その誤解を説こうとして法然上人の言葉を引いてお示しになったのがこの四句の言葉であります。
速入寂静無為楽 必以信心為能入
次に信心往生とは言葉を換えて申しますと、信心正因ということであります。親鸞聖人の教えの最も大きな特徴は信心が正因で称名は報恩であるということです。称名報恩についてはしばらく置いて、信心正因について考えて見たいと思います。まず明らかに心得ておかねばならないのは、信心正因は信心一つで往生の因が定まるということでありますが、それは信心が往生の条件即ち救いの条件ではない、ということであります。
もし、信心を往生の条件と考える時に、当然聞きぶり信じぶりが問題になり、信心の味わいの深い浅いが問題になってきます。こんな聞きぶりこんな信じぶりで果たして良いのであろうか。あの人はあんなに深く喜んでおられるが、私はどうしてもあんなに喜べない。あの人と比べたらまだまだ信心が薄い、信仰が足りない。こんなことで良いのであろうか、といつまでたっても、これで救われるという確かな安心ができません。
それは他力の無条件の救いを聞きながら、自分の信心を役立てようとする、そんな計いに陥っているからです。自分の信心を役立てようとする計い、親鸞聖人は定散自力の信心、本願疑惑の人々として強く戒められました。
またその姿は、本願を仰ぐ眼をいつの間にか自分に向けていますので、本願を見失っている姿とも言えましょう。信心正因とは信心が救いの条件でなくて、こんな浅ましい私を必ず間違いなく救うと呼び給う大悲を仰ぐ姿であり、いつ思い浮かべてもこんな浅ましい奴をお救いの本願と仰いでゆくのであって、もはや自分の信じぶり聞きぶりに用事がなくなって、御本願一つを仰いでゆくのであります。
これはとりもなおさず聞いて信じてまいるお浄土ではなくして、参らせて頂くお慈悲を聞いて安心させていただくのであります。まいらせていただくおいわれを聞いてみれば、いつ思い出しても、こんな浅ましい奴をお救いの御本願であると、両手離して、御本願一つを仰いでゆく姿であります。そこには、こんなに喜ばれたからこんなに有難い心になれたという、そんな所に腰をかけて安心しようとする計いは全くなくなり、ただほれぼれと御本願一つを仰ぐばかりであります。大丈夫の親様の御本願一つによって救われることよと安心させていただく、これを信心正因と申されたのであります。歎異抄に、
”和上、和上には信心がありますか。”
と、ぶしつけに問われたそうです。その時和上は、
”さあ、あるやらないやら。”
と答えられました。同行が、
”和上さんでもまだそんなことですか。”
と、問い返して来た時に、
”あるやらないやら解りませんが、この浅ましい私が、大悲の親様の御手に抱かれていることは、おかげさまで味わうことができます。”
と、お答えになったそうです。さきにも申しました通り、私が同行から伝え聞いた話でありますので、お二人の間の言葉のやりとりには、多少の相違があるかもしれませんが、私はこの会話を通してK和上の温和な人柄がなつかしくしのばれると共に、お慈悲の聞きぶり信じぶりに用事がなくなって、御本願一つをすっきり仰いでゆかれる他力信心の風光が鮮かに伺われます。よくお同行の中に、
”私は信心をいただいている。”
と、強く主張する人がありますがそんな言葉を聞いた時私は、
”それは本当でしょうか。間違いありませんか。自分の心で思いかためた信心ではないのですか。”
と、もう一遍、念を押してみたい気持ちが致します。
第十七章 信心をすすめて結ぶ
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
(一)七高僧の功
お正信偈の後段の依釈段では初めに七高僧の芳蹟を総じて讃嘆されて、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓機に応ずる事を明す」と仰せになり次に、七高僧一人一人の勲功、即ち教えを讃えられましたのでこれを結ぶにあたりて七高僧共通の功績を讃えて弘経の大士宗師等と仰せになります。これは七高僧おのおのおでましになった国や時代は違ってもお釈迦様が説かれた大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のお意をそれぞれの立場から明らかにされて阿弥陀如来の本願を説いて人々をお救いになったことを讃えられたのであります。
”先生、ちょっと”と別室へ呼ばれました。
”どうしたのだね。何かあったのか。”
”先生大変な事ができました。”
”何が起こったのかね。”
”戦地に行っておられる花嫁さんの義兄さんが今戦死されたという公報が入りました。どうしたらよいでしょうか。”
”ああそうか。しかし今これを発表すると式が壊れるから済むまで伏せておきなさい。”
とおさえておいて何知らぬ顔をして元の席へ帰られました。会場では新郎の側の親類の方がお姉さんの所に挨拶に行かれて、
”奥さん御主人は今、中支に転戦しておられるそうですがおげんきでしょうか。”
”はい数日前手紙が来て『今度の妹の結婚式色々と心配だろうがよろしく頼む。自分は元気だから安心するように』と書いてありました。”
”奥さん大きな声で言えませんがある筋の情報によりますと、家庭を持ち二年以上戦地にいる兵隊さんは今度部隊の交替があって、日本に帰還されるようですがお宅の御主人は何年程になられますか。”
”日支事変の直後でしたからもう二年半近くになります。”
”そうですか。それでは今度の部隊の交替でひょっとしたら帰還されるかも・・・。”
”そうだったらうれしいのですが。”
奥さんは何も知らずうれしそうにニコニコしながら対応しておられます。その姿を見られた先生はまともにその奥さんを見ることが出来ずその声も聞くことが出来ずして、思わず耳を塞いでその場をはずして廊下にでられました。ああしたにこやかな明るい幸せも、後わずかの間で、我家に帰ってみると悲しい戦死の公報が届いている。一切のみ仏たちが私達の姿を見られた時に、思わず目を閉じ耳を塞がれると説いていますが、私達の姿は正にこの奥さんのような姿ではありますまいか。
”おやじ、お前いくつになったか。”
”先生早いものですな、もう五十八ですよ。あと二年も経つと六十ですが。”
”そうかもうそんな歳になったか。おもえもいつまでもうかうかしておらず時にはお寺に詣って御法義を聞かんといかんぞ。”
”先生それはようわかっています。けれどもこせがれが多くて今日の食べることに追われてなかなかお寺詣りする暇がありません。まあまあそのうちにお詣りします・・・。先生こうしましょう。私が病気したら家内を先生の所に走らせますから先生来て下さい。そこで先生から有難いお話をチョコッと聞いてお浄土に参りますから。”
”アホ! そんなうまくいくものか。”
と言って帰られ、それから二日後にこのおやじ、心臓マヒでポコッと死にました。今私はこの事を思うのです。この対話をみ仏たちが聞かれたら、思わず目を閉じ耳を塞がれることでしょう。賢そうな立派そうなことを言っていても私達の生活の姿はこれとどれ程の違いがあるでしょうか。今無辺の悲しき罪の人々を恵み救い給うと、七高僧のお徳を讃嘆されましたが、それは救わねばならない自己の姿を見つめつつ「拯済無辺極濁悪」と七高僧のお徳を讃えられたのであります。
親鸞聖人はこの正信偈を結ぶに当り、七高僧の大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の意を説かれて阿弥陀如来の本願を正しく世々に継承しながら濁りの世にさ迷うている苦悩の人々を救われた功績を讃えられました。それを承けて僧侶も在家の人々も何時の時代にあっても共に心を同じくして、ただ一筋に七高僧の教えを信ずべしと、強く無上命令の言葉を以ておすすめになったのがこの二句であります。
私達にはこの二面が本当に見えているのでしょうか。生きつつあことは誰しも見つめ、如何に生きるかということについては額に汗しながら働いていますが、生の一面のみに心が奪われて死の一面が見えていないということがはっきり言えると思います。そう申しますと、そんなことはない、死ぬこと位は誰でも解っていると言われるかも知れませんが、それではあなたは死に対応する道を真剣に考えたことがあるでしょうか。また死の対応の道を身に付けられたでしょうか。これだけ科学が進歩しているのに、また科学万能を誇っていながら、いかがわしい迷信に振り回されている現代人の姿を見るたびに、迷信の根元である死の不安が解消されていかないことが強く感ぜられます。
”先生、私の父は仕事には大変やかましく小学校時代でも学校から帰ってくると休む暇も与えず畑や田んぼの仕事にかりたてられました。学校の勉強があるからと言っても勉強は学校でするものだと厳しく言って、許してはくれませんでした。そんな父ではありましたが、月二回の日曜学校にはどんなに仕事が忙しくても快く出してくれました。学校からの帰りが少し遅れると大変やかましく叱りましたが、日曜学校から帰った時は遅くなっても何とも言いませんでした。だから日曜学校では遊べるからと三十分かかる山道を休まず通いましたが今思うとこうしてお寺の総代をしてお寺のお世話が出来るのも日曜学校に快く出してくれた父のおかげです。”
と言われた時に、昔の人はたとえ高い教育は受けておられなくとも人生のまことの姿、即ち生と死がよく見えていたのだなあと思うことでした。
とのお諭しが胸に響きます。生きつつあるが死につつあるこの厳粛な事実をしっかりふまえて力強く生き抜く道。それはみ仏の本願に遇うことでありこれなくして死を超えて生きる道があるでしょうか。増田さんのお父さんはこのことがよく見えていたと思います。み仏の本願に遇うことこそ凡夫のたった一つの救いの道であることを見抜かれた聖人が、この本願を身にかけてお勧め下さったお釈迦様七高僧の教えに対して、「如来如実のみことを信ずべし。また唯この高僧の説を信ずべし」と力強くお勧めになったのであります。今一つは聖人自身が阿弥陀如来の本願に遇うことによって人間にうまれた真の喜び真の幸せをひしひしと身に感じられたからであるとうかがわれます。
”御院家さんお元気そうで結構ですね。今日は良いお話有難うございました。”
という懐かしい声がかけられました。山崎さよさんと言って二十数年前日置におられた当時、明信寺仏教婦人会の幹事として熱心に御世話下さった方です。娘さんが鹿児島市紫原に家を作られたのでそこに一緒に住んでおられます。
”ああ、あなたですか。今日はよく参加されましたね。”
”御院家さんが見えることが一ヶ月前に知らされていましたので楽しみに待っていました。”
”ああそうですか。あなたも元気で結構ですね。ななた今日はどうして帰るのですか”
”お友達とバスで帰ります。”
”それではもう少し待ちませんか。五時半に私を迎えに車が来ますから紫原を回って日置に帰りましょう。”
と言って同乗しました。その車の中で、
”御院家さん、私はこの頃長生きして本当にありがたいとしみじみ思います。早く死んでおればこの御法義に遇うことも出来ませんでした。また若い頃はお寺にお詣りしましたがそんなに深く味わうこともなく聞き流していました。この年まで長生きしたお陰でこんなに深く御法義が味わえます。”
と話されました。私はこの言葉に深く胸を打たれました。それ以来私は思うのです。どんなに長生きしてももし御法義を頂かなかったならば、長生きがどれ程の価値があるのでしょうか。年と共に体力衰え身体の自由もきかなくなり希望も消えて、後に残るものは老いのさみしさと迫りくる死の不安だけです。これが七十年八十年働いて最後に与えられるその報酬ならば、人生まことにむなしいものではないでしょうか。
山崎さんが長生きしたお陰でこんなに御法義がありがたく味わえると言われた言葉には、老いのさみしさも死の不安も消えて、永遠にみ仏に抱かれて生きる喜びと希望があふれています。ここにこそ生れ難い人間世界に生を受けた本当の意味があるのであります。親鸞聖人も長い真剣な求道聞法と、いろいろな人生経験を通して、こうした深い信仰体験を味わわれた時に、み仏の本願に遇ってこそ人間世界に生を受けた本当の価値がある、との確信から力強く無上命令を以て「如来如実のみことを信ずべし唯この高僧の説を信ずべし」と仰せになったのであります。
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