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第十二章 曇鸞章

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
本師曇鸞は梁の天子、常に鸞の処に向いて菩薩と礼したてまつる、三蔵流支浄教をさずけしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)して楽邦(らくほう)に帰したまいき、天親菩薩の論、註解(ちゅうげ)して報土の因果誓願に顕(あらは)す、往還(おうげん)の廻向は他力による、正定(しょうじょう)の因は唯信心なり、惑染(わくぜん)の凡夫、信心発(ほつ)すれば生死即涅槃なりと証知せしむ、必ず無量光明土に至れば皆普(あまね)く化()すといえり
浄土真宗の七高僧の中、第三祖である曇鸞大師は、学徳すぐれた方で、梁の武帝は常に曇鸞大師の居住しておられた北方に向って、朝夕曇鸞菩薩と礼拝されました。印度から中国に来られた高僧で、経典の翻訳家である菩提流支から浄土の教えを説いた観無量寿経(浄土論とも言われている)を授かり、それを読まれて、ああ我あやまれり、と不老長寿の道を説いた仙人の経を焼き捨てて深く浄土の教えにはいられました。天親菩薩の浄土論を註釈されて、凡夫が阿弥陀仏の浄土に生れる因も浄土に生れて開く果も本願の力によると顕わされました。又浄土に生れることも、浄土より衆生を救うためにこの世に還り来ることも本願他力によると説かれたのであります。従って浄土に正しく往生する正因は、ただ信心であります、よって煩悩に染まり、煩悩の中に明け暮れしている凡夫は、一度信心を頂いたならば、やがて浄土に生れて、生死の迷いがそのまま涅槃であるという仏のさとりを開くのです。必ず光り輝く浄土に生れたものは、あらゆる迷いの国の人々を普く救うと仰せになりました。
(一)仙人の経を焼き捨てて浄土の教えに
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
 今から約千五百年前、北中国の雁門に誕生された曇鸞大師は、十五才の時に出家されて四論宗に身を置いてひたすら学問の研鑽につとめられました。大師の学徳は年と共に輝き、梁の武帝粛王は常に曇鸞大師の居られる北の方に向って曇鸞菩薩と礼拝され、魏の天子は神鸞と称して、その徳を仰いで行かれました。この事を親鸞聖人は
本師曇鸞大師をば 梁の天子粛王は
おはせし方につねに向き 鸞菩薩とぞ礼しける
魏の天子はとうとみて 神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば 鸞公巌とぞ名づけたる
 曇鸞大師は或る時四十巻ある大集経の講釈をしようと思い立たれましたが、僅か数巻終えたところで病気にかかられました。その為この仕事をしばらくおいて静養につとめられました。或る日野外に出られた時、空を見上げると、果てしない大空を白雲が悠々と流れています。この天地自然の悠々さに心うたれた曇鸞大師は、人間は如何に立派な事業を成し遂げようとしても、先ず命が大切である。命短ければどんな立派な仕事でも完成することは出来ないと深く心に感じられました。
 当寺江南の上海のあたりに陶弘景という仙人が居て、不老長寿の道を説いていました。その頃中国は黄河の流域と揚子江の流域と南北に別れていて相互に行来することは出来ませんでした。これを犯せば極刑に処せられます。曇鸞大師は、道を求める為にあえてこの厳しい禁を破って、陶弘景を訪ねられました。一説によると、忽ち捕らえられて梁の武帝の前に引き出されました。武帝は大師を一目見るなり、その徳に打たれて唯人ならずと深く感銘し、丁重にもてなし、陶弘景の許に送り届けられました。北支那に帰られた後も鸞菩薩と礼拝されたと伝えられています。

 三年間陶弘景の許で仙人の道を学ばれましたが、学徳兼備の英才を謳われた曇鸞大師は悉くこれを学び尽くされました。師匠の陶弘景は「あなたはもはや学ぶべきものは学びつくされました。これ以上私の処に居られても、もう学ぶべきものはありません」といって、別れの形身として不老長寿の道を説いた仙人のお経である、衆しょう儀を授けられました。
 曇鸞大師は厚く礼を述べて故郷に向かわれました。当時都は洛陽に在り、ここまで来られた時に、印度から皇帝の招きで中国に来て、お経の翻訳と伝道に従事しておられた菩提流支に逢われました。
 その時曇鸞大師はやや得意気に、

”私は仙人陶弘景について、不老長寿の術を学び、そのお経を授かりましたが、仏教ではこれ以上の長寿の道を説いた経典がありますか。”
とさし出されますと、菩提流支は手にしながら開こうともせずそのままパッと大地に投げ返して、
”お前は若くして仏門に入り、四論宗を学び大集経の講釈をしているから少しは仏教が解っていると思ったら全然何も解ってはいないではないか、今更何を血迷ったことを言っているのか。”
と鋭く叱り、これを読んで見よと「観無量寿経」、又一説に天親菩薩の「浄土論」とも言われていますがともかく浄土に往生して行く教えを説かれた浄土の経典を渡されました。これを読まれた曇鸞大師は「ああ我あやまりて」と仙経を焼き捨て、更に今まで学んだ四論宗をも捨てて、浄土の教えに転向し深く帰依して行かれたのです。それは曇鸞大師五十一、二才の頃といわれております。

 私はこの曇鸞大師の足跡を思う時に、次の三つの事柄に心が引かれます。
 一つは私達が頂いている他力のみ教えは、こうした先人の命をかけて求め聞き開かれた道であります。故に私達は聞法の座に連なる時は襟を正して真剣に聞かねばなりません。

 二つには曇鸞大師が陶弘景の許で三年の歳月を費やして求められた不老長寿の道は、総ての人々が願い求めている道であります。それを惜しげもなく捨てて、浄土のお念仏の道に転入して行かれたのは何によるのでしょうか。永遠の世界、即ち浄土に往生することを外にして、唯この世だけの不老長寿を求め、それがたとえ叶えられても、私達の死の問題が解決されたことにはなりません。死出の旅路を前にして、この世の逗留期間が少し延びたに過ぎません。その私達の姿は”糞中の穢虫、居を争うて外の清きを知らず、残水の小魚、餌を争うて水の渇することを知らず”との状態に外ならないでしょう。
 ここに目覚められた曇鸞大師が、仙人のお経を焼き捨てて浄土の教えに転入させられたのであります。

 三つは、人間は年と共に思考力に柔らかさを失い、かたくなになります。けれども曇鸞大師が五十を過ぎてそれまで学んで来られた聖道門自力の教えである四論宗を捨てて、他力の念仏に転向されたのは、如何に青年のような若々しい求道心を持って、ひたすら真実の道を求めて行かれたかをよく物語っています。

(二)曇鸞大師の勲功☆☆他力を明らかにする

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
 曇鸞大師の輝かしい勲功は、菩薩の智慧をもって書かれて、深い深い意味を湛えた天親菩薩の浄土論を註釈して往生論註二巻を著わし、その正意即ち本願他力を明らかにされた事であります。この事を親鸞聖人は和讃に

天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずば
他力広大威徳の 心行いかでかさとらまじ
即ち天親菩薩の説かれた尊い浄土論も、もし曇鸞大師の註釈がなかったならば、私達はその正意を領解することは出来ず、従って他力の信心を頂くことは出来なかったでしょうと。

 それでは曇鸞大師は浄土論のお心をどのように私達にお説き下さったのでしょうか。浄土論には浄土を願生する菩薩が修行して仏のさとりの果を開く為に五念五果の道が説かれています。それは此の土において礼拝、賛嘆、作願、観察、廻向という五念門、即ち五つの行を修行して、浄土に往生し、五念門行の果徳としての近門、大会衆門、宅門、屋門、薗林遊戯地門という五つの果を開くのであります。これはさとりの風光を家にたとえてお説きになったのであります。
即ち近門とはさとりの門に入ることであり、大会衆門とはさとりの人々の仲間に入ること、宅門とはさとりの家の玄関に入ること、屋門とは家の座敷にはいること、薗林遊戯地門とは座敷を出て庭園に遊ぶように楽しみつつ思いのままに衆生救済に向うことであります。菩薩はこのようにきびしい五念門の修行をし、五つの果を得て、仏のさとりの果に向うのでありますが、曇鸞大師はこうした修行をされた菩薩は、実は法蔵菩薩であり、法蔵菩薩はこの修行によって成就した功徳の全体を私達に与えて下さるのであると明かされました。従って浄土に生れ行く因も、浄土で恵まれる果も、又浄土に往生することも、浄土より衆生救済に向う還相の働きもすべて本願力の恵みであると開顕されて他力の救いを鮮明にし、初めて他力救済の原理を明確にされたのであります。すべてが本願他力の恵みによるならば、私の方にはこの本願他力を素直に信受する信心の外ありません。このことを今「報土の因果を誓願に顕し、往還の廻向は他力による、正定の因は唯信心なり」と仰せになりました。これを意訳には

浄土に生れる因も果も 往くも還るも他力ぞと 唯信心をすすめけり
と詠われています。ここで私は従来も、しばしば他力本願に触れてまいりましたが、これをまとめる意味で今一度おさらいしたいと思います。
 今日マスコミでも、また一般社会でも、自分が努力せずして、人のおかげで甘い汁を吸う場合を表現するのに、しばしば他力本願という言葉を使い、また他力本願では駄目だ、自力本願でなければならないという、言葉にならない言葉を平気で使っています。
 このように宗教上の大切な言葉を濫用するところに、日本人の宗教的知性の低さを感ずるのであります。他力本願をこうしたあやまった意味に用いるようになったのは昭和の初め、第一次欧州大戦の反動として世界不況の旋風が起って、日本もその中に巻き込まれて喘いでいる時、朝鮮総督府の長官であった斉藤実氏が総理に迎えられ、不況を克服する為に自力更生という言葉を掲げて運動を展開されました。その時口がすべったか自力更生の対句として他力本願ではいけないと言われました。
 それ以来今日までこの言葉が濫用されているのであります。けれども他力本願という言葉は浄土真宗にあっては大変大切な宗教用語であります。親鸞聖人は”他力というは如来の本願力なり”と仰せになっています。即ち相対的な人の力ではなくして、人間を超えた大いなる仏の力であります。このことを先ず私達ははっきり心に銘記しなければなりません。
 この本願力の働きを聖人は更に”本願力とは尚磁石の如し”と仰せになりました。八百年前科学の未発達の時代にこうした表現をしておられることについて、今日心ある人々は驚きの眼で見ています。
 磁石は鉄を引きつけ、鉄の中に磁気が入り込み、鉄全体を磁石に変えて行きます。従ってその鉄は又他の鉄をよく引きつけます。
 本願力は遠い仏の手元に止っているのではなく、私の上に働いて私の命、力となりきるのであります。そこに私が迷いを破って仏の世界に入る道理があるのです。先に述べたとおりに、闇は闇によっては破れません。氷は氷で溶けません。闇を破るのもはあくまで光であり、氷を溶かすものは熱であります。私達はこの仏の本願力の恵みによって仏の命を我が命とし、仏の力を我が力として、悩み果てしない迷いの世界を力強く越えて、仏のさとりの世界に入らして頂くのであります。これが他力本願の宗教であります。
 先に述べましたように中野藤助さんが六年余りの闘病生活の中にあって、いろんな迷信の誘惑に心を動かすことなく、ひたすら闘病につとめられて、病気を克服され、他力本願に支えられて生き抜かれた姿に頭の下る思いがすると共に、他力本願が今現に私の上に躍動する姿を感ずるのであります。

(三)信心の利益

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
 第二節で浄土に往生していくことも、浄土のさとりを開くこともすべてが本願他力の働きであるから、救われる私達の方は唯本願他力に素直に信順する信心こそ、まさしく往生の正因であると説かれましたので、ここからはその信心の利益をお述べになるのであります。
 この四句のお意は、煩悩が身に染みついて、煩悩の中にあけくれしている凡夫も、一度信心を頂いたらやがて浄土に生まれて、仏のさとりを開かして頂き、このみ仏の光の国に生れたならばそのまま、あらゆる迷いの世界にある人々を救う働きをさせて頂くことをお諭しになったのであります。
 今日、浄土真宗の中で、時々死んだ先のことは解らない。そんな夢のようなことを言っても、現代の人々は受けつけない。真宗の救いは現在今の救いであって、それより他にないという人があります。これは今までの真宗の説き方が、死後のことに重点が置かれて、現代の救いを軽視して来た一つの反動とも思われます。
 しかし現代だけの救いが真宗の救いであるということも又片寄った考え方と言わねばなりません。親鸞聖人は往生について、はっきりと二つの往生を説いておられます。

 一つは即得往生、二つには難思議往生であります。即得往生とは信心頂く時、み仏の光明に摂取されて、必ずみ仏の世界に生れて行く身に定まり、そこに大きな安心と喜びに恵まれ、苦悩多い人の世を、お陰様と心明るく浄土に向って進み行く姿であります。即ち正定聚の位に入ることです。
 難思議往生とは浄土に生れ、無明の闇が晴れ、煩悩を永く断ち、仏のさとりを開くことであります。この事を蓮如上人は、
 浄土真宗は二つの利益がある。一つは正定聚でこれはこの土の利益、二つは滅度(仏のさとり)即ち彼の土の利益であると明確に諭されています。私は浄土のさとりの風光は知るよしもありませんが、浄土に生まれゆく喜びは、現実の中にはっきりと味わうことが出来ます。浄土に生れる喜びがあってこそ、現在の救いがあきらかになるのであります。
 次に浄土に生れ、仏のさとりを開いた時に、迷える世界の人々を救う働きが展開されるのであります。これを今、「諸有衆生皆普化」と仰せになりました。これは先程からたびたび述べました還相廻向の働きであります。
 この還相廻向についても、最近の学者の中に、還相の働きとは信心頂いた者の生活の上にあると説き、これに追従する僧侶も中にはありますがこれも親鸞聖人のお心に反するものと言わなければなりません。信心頂いた喜びから”世の中安穏なれ、仏法広まれ”の願いの中に行動することを常行大悲の利益として教行信証、信の巻の現生十種の益の中に説かれています。従って、これは信後の生活の中に起る働きであります。それに対して還相廻向の働きは教行信証・証の巻に仏のさとりを開いた者は恵まれる働きとして説かれていることによっても明白であります。
 こう申しますとこのような還相の働きで衆生を救済する事は夢物語のようで、そんなことを今の時代に言っても現代人には通用しないと言う人があります。
 これについて私には誰が言われたか、”往相は還相に支えられて”という言葉が頭に浮かんで来ます。私が本願を信じ念仏しつつ浄土に向かう姿は数知れぬ還相の方々に導かれ行く姿ということでしょう。私の本性は仏に背き、念仏に背いた生き方の他ありません。それが浄土への方向に転換されたということは容易なことではないのです。その容易でないことが今現になされている。ここに数知れぬ還相の方々の恵みが味わえることでしょう。
 親鸞聖人は”偶々行信を獲ば遠く宿縁を慶べ”と仰せになり、また蓮如上人が”宿善めでたしというは悪し。当流には宿善有難しと言うべし”と仰せになったのはこの意です。宿縁宿善とは過去世で仏法を聞く因縁に恵まれているということであります。

 昭和四十六年七月一日、鹿児島実業高校教諭東兼二氏、トキさん夫妻が長男哲郎君(十才・小四年)を水難事故で亡くされました。その悲しみから何とか立ち上がろうとして、あちらこちらのお寺の先生を訪ねて歩かれました。たまたま鹿児島西本願寺別院を訪ねられた時、私が一泊二日の研修会に行っておりましたので、別院の受付の職員の方の要請で、一時間程面接しました。聞けば、私の町内に最近移住されてお東の清浄寺の門徒になっておられました。それ以後何回となく訪ねられ、又法義についての文通を重ねて来ましたが、その年十二月一日、命日に東氏夫妻が花束果物等を持って水難事故の浜辺を訪ねられました。私はそれを聞いて両親の心情に深く思い致してなぐさめの手紙の中に次の歌を書き添えて送りました。

悲しみのうつろの中にみ名呼べば 吾子の面影 胸に迫りて
しろしめすほとけいますと知りつつも 悲しき時は 悲しかりけり
運命の海に向つていとし子を 呼べどむなしく 消えて答えず
荒海に花をたむけて吾子の名を 呼べどとぎれて 三度つづかず (賞雅)
明けて正月、お礼の返事の中に、奥さんの次のような歌が記されていました。
金色に輝く夕日 今沈む 吾子住む国を 母はおがまん
海に来て 声を限りに吾子の名を 呼んで空しい たそがれの波
吾子の名を 呼んで捧し花束も 波間に消えて 年の暮れ行く
師の手紙悲しみ沈む元旦に みおやのお慈悲 心晴れ行く (東トキ)
 こうした中に、或る日私を訪ねられて、
 「先生、あの哲郎は今どんな世界に往っているでしょうか。ある先生にうかがったら、子供で罪が浅いから悪い所には往ってはおられませんよと言われるし、もう一人の先生は、子供といっても信心頂けていないからよい所(お浄土)には往っておられませんと言われました。どちらも真宗のお寺の先生です。どちらでしょうか。先生の口からはっきり教えて下さい」と言われるのです。
私は大変大きな問題と思い「仏様の前でよく話し合いましょう」と庫裡(住職住宅)の方から本堂に行き、そこでいろいろ話し合いました。
 子供を亡くした親の悲しみは、子供を亡くした親のみが知る世界であります。そのことを思う時に、この方の子供の行方を尋ねられる母の気持が痛い程に胸に響いて来ます。

 真宗の教えから申しますと、信心が頂けないものは、お浄土に詣れないと言うことも間違いではありませんが私はそれを口にする事は出来ませんでした。というのは、その時親鸞聖人が頭に浮かんだからです。
 教行信証のはじめのお言葉の中に「浄邦縁熟して調達闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機あらわれて釈迦韋提をして安養をえらばしめたまえり、斯即ち権化の仁齊しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲(お釈迦さまの慈悲)正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」と。
この意はお釈迦さまを幾度か殺そうとし、又阿闍世太子をそそのかして、父の王を殺害せしめ、母を七重の牢獄に閉じこめさせた、正に地獄の底から這い出て来たような提婆も、又この提婆の扇動によって五逆の罪(地獄におちる悪業)を犯した阿闍世太子も、愚痴多い愚かな凡夫の韋提希夫人も、さらに耆婆、月光、行雨等王舎城の悲劇をとり囲む人々も、私達にお念仏の教えを聞く機会を造るためにお浄土から現れた還相の人々であるという意味であります。それを思った時に、唯一つの教義だけで裁くことは出来ませんでした。そこで私は、「哲郎君がどんな世界に往っておられるかは私には解りません。それが解るのは仏様しかないでしょう。たとえばどんな世界に往っていてもみ仏の大悲の光明は、必ず哲郎君の上にも注がれていることでしょう。哲郎君の行方を尋ねる前にあなたは哲郎君の死をどう受けとめられるか、それが一番大切なことではないでしょうか。」と申し上げました。
 ただ悲しい悲しいと愚痴の涙の中に明け暮れするか、あなたのお陰で、うかうかして居たお母さんが真実のみ仏のお慈悲に目覚めさせて頂けた、と感謝して行けるか、そこに問題があるのでしょう。何時かお話しした通り、和泉式部が我子小式部を亡くし、その悲しみを縁として、み仏の道を聞き開いていかれました。
 そこに詠まれた歌が

夢の世に あだに果敢なき身を知れと 教えて帰る 子は知識なり
というものでした。
 哲郎君の死を無駄にすることなく、しっかり御法義を聞いて下さいと話しました。静かに涙をぬぐいながら「先生、有難うございました」と言われた情景が今も鮮かに私のまぶたに浮びます。

 吉川英二先生が”我以外は皆我が師なり”と言われた言葉を思い合わせ、私がお浄土へ向う往相の中にこそ、還相の方々の無限の働き、導きが感じられます。
 次に折角お浄土に参ったのに、又お浄土から迷いの世界に出て行くのですかという素朴な疑問をした人がありました。
 浄土に往生した人々の還相の働きとは、身は浄土にありながら、十方世界にその姿を顕わし、一念の短い間に同時にその働きを普く顕わして至らざる所はないのであります。これを不動而至と説かれています。たとえば天上に輝く月は天上にありながら、同時にあらゆる所の水に影をうつすようなものであり、これがさとりの世界の風光であります。

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第十三章 道綽章

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
道綽、聖道の証し難きことを決して、唯浄土の通入すべきことを明かす、万善の自力勤修を貶し、円満の徳号専称を勧む、三不三信の誨え慇懃にして、像末法滅同じく悲引す、一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといえり。
七高僧の第四番目に出られました道綽禅師は、末の世の今の時は聖道門の自力の教えではさとりを開くことは出来ないとして、唯浄土門の他力の教えによってさとりの世界に入ることが出来ると明らかにされました。そうして万善万行の自力の行を退けて、あらゆる功徳を円かに具えた南無阿弥陀仏の名号を専らに称えることを勧められたのです。又称名する信心について三不信の不淳心・不一心・不相続心と、その反対の三信の淳心・一心・相続心のすがたを丁寧に教えて、他力の信心を勧めて、像法、末法、法滅の時代の人々を等しく導かれました。従って一生悪を造る凡夫も、本願を信じ念仏すれば安養浄土に生まれて、勝れた仏のさとりを開くと教えられました。
(一)道綽禅師の足跡と勲功
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
 七高僧を讃嘆されるのに、龍樹天親曇鸞の三高僧は六行十二句を以て讃嘆されていますが、ここから道綽・善導・源信・源空の四高僧は四行八句を以て讃嘆されています。先輩の学匠はここに注目して七高僧を分けるのに、上三祖と下四祖と呼んでおられます。七高僧各、本願他力を軸として教えを展開しておられますがその勧め振りに相違があります。即ち上三祖の龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師の高僧方は、信心を中心として、信心往生の立場で他力の救いを説いておられます。これに対して下四祖道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空上人は何れも称名念仏を中心にして、念仏往生の立場から他力を勧められました。

 これは上三祖と下四祖の教えに相違があるのではなくて本願他力の勧め振りに相違があるので、上三祖は本願を頂く信心について往生を説かれ、下四祖はその信心が口に表れたお念仏の処で他力を勧められたのです。  このことをよく理解することがお正信偈を正しく頂く為に大切なのであります。

 さて七高僧第四祖の道綽禅師は、紀元五六二年、今から一四〇〇年前、中国の并州汾水にお生まれになりました。十四才の時に出家されましたが、非常に自己にきびしい方で、また道念非常に厚い方でした。始め涅槃経を拠所とした涅槃宗に学び、ひたすら仏道に精進され、清僧の誉れ高く、多くの人にその徳を仰がれました。或る年、曇鸞大師がお亡くなりになられた玄忠寺に詣でられました。玄忠寺境内に曇鸞大師の芳績を讃えた石碑が建てられています。その碑文を読まれた道綽禅師は、梁の天子粛王から曇鸞菩薩と礼拝を受け、魏の天子より神鸞とあがめられた曇鸞大師すら、四論宗の聖道自力の教えを捨てて、他力の浄土門に転入しておられることに、深い感銘を受け、自らも聖道自力の涅槃宗を捨てて、曇鸞大師のみ跡を慕い、浄土門他力の教えに転入して、日課七万遍のお念仏を称えつつ、浄土往生の道を歩まれたのであります。清僧の誉れ高かった道綽禅師の徳は普く行きわたり、長安の都では、幼い子供達もお念仏を称えたと伝えられています。そうして一生の間に二百回も観無量寿経を講釈されました。安楽集上下二巻はその代表的なものであります。
 お釈迦様が説かれたみ教えは煩瑣とも思われる膨大な教えになっています。この教えを分類整理して価値づける作業を教相判釈と申します。仏教各宗皆この教相判釈があります。さきに述べました龍樹菩薩の難行道易行道、曇鸞大師の自力他力、何れも教相判釈であります。道綽禅師の勲功は、龍樹菩薩、曇鸞大師の難行易行、自力他力の教相判釈をふまえて、お釈迦様の一代のみ教えを聖道門浄土門と分類整理されたことであります。即ち難行自力の教えを聖道門として、それはこの土でさとりを開く教えであり、易行他力の教えを浄土門としてそれは浄土に往生して仏のさとりを開く道であると示されました。しかも聖道門の教えでは、末世の今の世にはさとりを開くことが出来ないとし、唯浄土門のみがさとりの世界に入る道であると明らかにされたのであります。

 この道綽禅師の教えを正しく理解する為に当時の人々の心を強く支配していた三階教による正法像末末法の思想を知らなければなりません。
 この正像末三時の思想は、仏教の時代観の一つであります。即ち釈尊の在世、及び亡くなられた後五〇〇年を正法の時代と云い、五〇〇年以後一〇〇〇年間を像法の時代、一五〇〇年以後一万年を末法といいます。末法の後を法滅と言われます。
 正法の時代とは、お釈迦様の感化力がそのまま残っている間をいいます。例えば太陽は没してその姿は見えなくとも、余光が輝いて昼と変わらない明るさ、この時代は教えもあり、教えによって修行する人もあり、それによってさとりを開く人もあります。即ちお釈迦様在世時代と少しも変わらない状態の時代といえましょう。

 次に像法とは、像とは似るという意味で、正法に似た時代ということです。太陽がだんだん余光がうすれて行く状態で、お釈迦様の感化力がうすれて行く時代であります。この時代は教えがあり、教えの通り修行する人もありますが、もはやさとりを開く人がありません。

 最後に末法とは余光全く消えて、真の闇になった状態で、お釈迦様の感化力も全くなくなった時代です。この時は教典は残っておりますから、教えはありますが、もはや教えの通り修行する人はなく、勿論さとりを開く人はありません。

 道綽禅師がお生まれになった陳の天嘉三年はお釈迦様が亡くなられて一五一二年に当ると考えられて、当時の中国仏教界は末法の時代に入ったという悲観的な暗い気持ちの中に覆われていました。それを裏書きするように三武一宗の法難が起りました。これは三人の武帝と一人の世宗によって仏教が永い間にわたって、しばしば弾圧されたのです。壮麗な寺院が次々とこわされ、数々の貴重な教典は惜しげもなく焼かれました。これに抵抗する僧侶は生埋めにされる者、その数を知らず、こうした姿を目のあたりにみた当時の人々は、いよいよ末法感を深くしたのであります。道綽禅師は、北周の武帝の弾圧にあわれたのですが、そうした時代に生きられた道綽禅師の思想、教学に深い影響を与えない筈はありません。私達が道綽禅師の教えを学ぶ時に、末法思想を無視することは出来ません。道綽禅師は聖道自力の教えではさとりを開くことは出来ないと説かれたことについて、二つの理由と一つの証しを挙げておられます。

 一つは大聖を去ること遙遠なり、これは釈迦様が亡くなられて一五〇〇の遙かなる年月を経ている、即ち時代は末法に入り、お釈迦様の感化の力がもはや及ばないということであります。

 二つには理深解微なり、これは即ち末法になって、人々は甚深微妙な仏教の道理を理解する能力を失っているという意味であります。先に龍樹菩薩が難行道ではさとることは出来ないと言われた理由は、諸々の行を修し、久しい時間を要し、途中で退堕するという諸、久、堕の三難を説かれたのに対して、今は末法に入り、お釈迦様の感化の力がなくなり、人々の根気が劣っているからだと説かれたのであります。これによって道綽禅師の上に末法思想がいかに強く働いていたかを知ることが出来ます。

 次に一つの証しとは、「大集月蔵経」に説かれた釈尊の言葉によるのであります。即ち「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し、道を修するに、未だ一人もさとり得るのもあらじ」と。

 この二つの理由と一つの証しによって、聖道自力の法では、もはやさとりを得ることは不可能なりと宣言されて、浄土のさとりの世界に通入すべき道であると明らかにされたのであります。

(二)ねんごろなお諭し

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
 お釈迦様の説かれた一代の教えを聖道門と浄土門に整理して、聖道門は末の世の今の時はさとることは出来ないと定められて、ただ浄土門一つがさとりの世界に入ることが出来ると明らかにされましたので、今それを具体的に行と信とにわたってお諭しになったのがこの四句の言葉であります。特に念仏の信心については曇鸞大師の言葉を引いてねんごろに説かれました。

 さて道綽禅師は、聖道門の修行の道を万善万行と示されて、この自力の行ではさとることが出来ないとおとしめ退けられて、あらゆる功徳が円かに具わった南無阿弥陀仏の名号を専ら称える事を勧められました。それは自力より他力への転向を勧められたのであります。

 ではどうして他力のお念仏で総ての人々が救われるのでしょうか。これについてこんな話があります。
 法然上人の教えをうけた高野の明遍僧都が、こんな疑問を起こされました。 厳しい自力修行の人々も、末の世(末法)にはなかなかさとりを開けないのに、果して私のような者がお念仏一つで救われるのだろうか、という疑問です。疑問は疑問を呼び、ますます広がって行きました。ところがある日こんな夢を見られたのです。それは天王寺に参詣した時のこと、天王寺には多くの乞食が参詣者にしきりに哀れな声で物を乞うています。それを見て可哀想に思いながらも、出家の悲しさ、与える物がありません。
 ところがその時ある人が大八車に大きな釜とお米を運び、境内でお粥を炊いて、やがて乞食に向かって、きょうは私の親の命日である、だからお前達も私の供養を受けておくれと言われました。
 乞食達は先を争ってお椀を出し、久し振りに温いお粥に舌鼓を打っています。それを見て、ああよかったと喜びながら、ふとみ堂の縁の下を見るとそこに一人の乞食がじっとうずくまっています。どうしたのかとよく見ると眼がつぶれ、足が立たないのであります。可哀想に何とかならないかなあ、折角の供養もそのために頂くことが出来ないなとあわれに思っていると、先の人が鍋にお粥を入れて、乞食のそばに来て、お前もどうか供養を受けておくれとお椀に注いでやられました。乞食は、見えない目から涙しながら拝んで頂いています。ほんとうに感心な人だ、どんな人だろうかとよく顔を見ると、その顔は懐しい恩師法然上人のお顔に変わって来ました。そこで夢がさめたのです。不思議な夢を見たものと考えていたこのお弟子は、ああ有難いと思わず合掌してお念仏されました。このこころはここまで修行して来なさい、助けてやるという自力の教えならば、智慧の目が開け、修行の足のある聖者は救われても、智慧の眼がつぶれ、修行の足のたたない凡夫は、到底救われません。その凡夫の為にみ仏が立ち上がって歩みを運び、救いの手をさしのべて下さることによってのみ、初めて救いの道が開かれます。これが他力のお念仏のみ教えと気付かれたのであります。

 すれば南無阿弥陀仏の名号を称える称名は救いを求める祈りの声でもなければ、利益を祈る呪文でもありません。み仏の大きなお慈悲を素直に頂いた感謝の声であります。
 前門主様が”思うに宗祖親鸞聖人のお念仏は如来の大悲を仰ぐ感謝の声であります”とお諭しになりました。大悲を仰ぎ、大悲に答える姿が南無阿弥陀仏の名号を称える称名であります。故に末の世の衆生は諸善自力の修行では救われないと退けて偏にお念仏をすすめられたのであります。
 そのお念仏する信心について、自力の信心と他力の信心のすがたを明らかにして、ねんごろに永く末の世の人々を導かれました。そのことを「三不三信の誨、慇懃にして像末法滅同じく悲引す」と讃嘆されたのであります。
 三不三信とは、もともと曇鸞大師が往生論註にお諭しになったお言葉であります。

 無碍光如来(阿弥陀仏)の光明は、十方世界に普く輝いています。衆生がみ仏を思い称名しながらも無明なお有って未だ志願満たされず迷うているのは何によるかと問いを出して、その答えに、二不知三不信によるのだと述べられました。二不知とは一つにこのみ仏は真如(真実)の世界から現れた真のみ仏(実相身)であることを知らないによる。

 二つには衆生の為に立ち上がられた如来であることを知らないことによる。阿弥陀如来は決して他人仏で向うに眺めているみ仏でなく私の為に立ち上がって下さったお方であります。即ち真実の私の親であるということです。  三不信とは自力の信心のことであって、一つは不淳心、二つには不一心、三つには不相続心であります。即ち自力の信心は凡夫の計いが混り往生について決定の心もなく信心も相続しません。これに対して三信(他力)は一つには淳心、二つには一心、三つには相続心といわれます。

 この他力の信心は、み仏のお慈悲を計いなく素直に頂き、往生は間違いなしと安心し、命終るまでこの信心を相続します。
 このように道綽禅師は、自力の行を退けて、称名念仏を勧めながら、その信心について、自力の信心と他力の信心の相をねんごろに説いて像法、末法、法滅の人々をあやまちのないようにおみちびきになりました。これを意訳には

信と不信をねんごろに 末の世かけて教えます
とうたわれています。

(三)末通ったまことの救い

一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
 先にお念仏する信心について、自力の信心と他力の信心のすがたをねんごろに説きあらわされたので、この二行はその他力のお念仏による末通った真の救いについてお諭しになったのであります。即ち一生の間悪ばかり造る浅ましい愚かな凡夫でも、一度本願を信じ念仏する者は浄土に生れて妙なるみ仏のさとりを聞くことを説き示されたのであります。
 ここで注意しなければならないのは、値弘誓を弘誓に値(もうあ)うと読んでおられます。これは本願を信じ御念仏することでありますが、会うべくして会うたこと、又会う資格があって会うたことではありません。よくこの頃、”親鸞との出会い”とか”法然との出会い”という言葉を使い、この出会いという言葉を親鸞聖人の値うと言われた言葉と同じように理解している人が多いのでありますが、これは大きな誤りであります。
 出会いとは会うべくして会い又会う資格が有る者同士が会うことを言うのです。聖人が値うと言われる時は会うべき筈のない者が会うたことであり、あうべき資格のない者が会った場合に使われるのです。即ち如来の働きによって本願に値うたことであります。
 今までしばしば述べてまいりましたが、私達は真如背反と申しまして真実に背を向け、仏に背いて逃げよう逃げようとしているのです。
 仏法にあえるような資格は微塵もありません。
 それが偶々あうことが出来たのです。あうべからざる者が、み仏の一方的な働きによってあわせて頂いているのであります。ここに親鸞聖人は弘誓に値うと仰せになりました。聴聞ということも私は仏法を聞くような資格は微塵もありません。それを私は今聴聞させて頂いているのです。このことを聖人は、”許されて聞く”と特に註釈をおつけになっておられるのもこの意でしょう。

 さて一生造悪という言葉でありますが、私達は一生悪を造りつつ、悪の中から一歩も抜け切れない凡夫であると言われると、俺は何時どんな悪いことをしたと言うのかと強い抵抗を感ずる人が多いことでしょう。けれども、私達は悪の中に埋没し切っているから、悪を感じなくなっている程悪が深いのです。そんな馬鹿なことがと反対する人もいるでしょう。けれども仏教で説かれる悪とは、倫理や道徳で言われる悪とは違うのです。倫理や道徳では人の道を正しく守ることを善といいこれに反する行為を悪と言っているのに対して、仏教では真実の智慧を持たない無明から起こる自己中心の心、つまり我執より現れる総ての行為を悪と言われるのであります。それは社会や他人をきずつけると共に、私をいよいよ深い迷いの世界に追い込んで行くからです。そこに心を止めて、私達の日常生活を静かに内省してみると、我執より一歩も離れることが出来ないことを知らされるでしょう。

 親鸞聖人はたとえ世間で善と言われるものも雑毒の善、虚仮の行と言われました。即ち我執の毒のまじった善であり、真実のない行と言われたのです。どんなおいしいごちそうでも、一滴の毒が混じっていたならばそれは御馳走にはならないでしょう。私達のすべての行為が我執の上に立ち、我執から一歩も離れられないと言うことについてこんな話を思い出します。

 或るお寺の仏教婦人会の方が入院されました。御住職が見舞いに行かれた時に、案外元気で枕元にはお見舞いの品が沢山置かれていました。
 親しい間柄なので、”奥さん沢山のお見舞い頂きましたね。”と言われたら、”いや先生まだ来るんですよ。”ともらされました。極端な話のようでありますが、私達もこんな場合にやはりこれに類した、見舞いを期待するような心が動かないでしょうか。私はその言葉を通して、その人の心の底を、いや私自身の心の底をのぞき見たような感じがしました。人をお見舞いすることは美しい行為でありますが、然しこれだけのことをしてあげたと言う執着が尾をひいているのです。それを思う時に、我執の凡夫と言われた言葉が何かしみじみと胸にひびきます。

 親鸞聖人が一生造悪の凡夫と仰せになった言葉もこうした世界ではないでしょうか。こんな私が値い難くして値うことによって、やがて浄土に生れて妙果を開かして頂くことを讃嘆されたのであります。今静かに聖人の数々のお言葉を味わう時に、そこに浄土に生れ行く喜びがそのまま人生に反映する明るい温かさとなって伝わって来ます。

娑婆永劫の苦を捨てて 浄土無為を期すること
本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし (浄土和讃)
超世の悲願ききしより 我等は生死の凡夫かは
有漏の穢身は変らねど 心は浄土に住み遊ぶ (帖外和讃)
 昭和三十九年五月二十二日七十五才を一期に往生された家内の伯父元宮崎教区教務所長、慶正寺前住職小野鴻基法師(現住職小野一修師)のことが私の胸に浮んで来ます。昭和三十八年五月二十二日より、二十六日までの行信教校の安居に出席している時に、家内より連絡があって、伯父さんが福岡の九大病院に入院されたので、帰りに見舞って下さいとのこと。博多駅に途中下車して病院の個室を訪ねました。その時伯父さんは端然と椅子に寄って本を読んでおられました。側のベットに伯母の靖子夫人が休んでおられました。私は伯父さんが入院と聞いて来たが伯母さんであったのかと一寸とまどいましたがやはり伯父さんで、伯母さんは看病疲れで休んでおられるところでした。やがて伯母さんも起きられ、挨拶を交してトイレに行かれました。その時伯父さんが静かに”君だから話すが、わしは口腔癌で余命幾ばくもない。家内には知らせてないから今しばらく君の胸に伏せておいておくれ。今知らすと余計な心配をかけるから。”と淡々と話されました。私は今その情景を思い起こす時に、やはりお念仏に遇うた素晴らしさを思うのです。死を前にしながら、なるべく家族に心配をかけないようにとのやさしい心の配り、さすがお念仏ならではとの思いがしみじみ致します。然しこれは伯父さん一人だけのものでなくて、本願を信じお念仏をする私達に恵まれている道であることを思う時に、浄土真宗に遇うた幸せを思い、「一生悪を造る者も弘誓に値いぬれば、安養に到りて妙果を証す。」とのお言葉が一層懐かしくひびいてまいります。

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第十四章 善導章

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
善導独り仏の正意を明らかにす。定散と逆悪とを矜哀して、光明名号因縁を顕わす。本願の大智海に開入すれば、行者正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲る。即ち法性の常楽を証せしむといえり。
善導大師独り正しく観無量寿経を解釈して、お釈迦様の正意を明らかにされました。定善と散善を修める自力修行の善人も、又五逆や十悪の罪を犯した悪人も共にあわれんで、光明と名号のいわれを顕わして、他力をお勧めになりました。本願のいわれを聞き開いて他力に転入した人々は、正しく金剛堅固の信心を頂いて、必ず救われるという一念の喜びによって仏のみ心にかなう時、韋提希夫人と等しき喜忍・悟忍・信忍という真如の徳を恵まれて、やがて浄土に生れ永遠のたのしみのさとりを開くのであるとお説きになりました。
(一)善導大師の足跡と勲功
 善導大師は紀元六一三年に隋の煬帝大業九年に生れて、隋唐の時代に活躍された方であります。それは今から約一三〇〇年前で日本では聖徳太子の活躍された頃であります。この時代は先に天台大師智ぎ、浄影寺慧遠大師・嘉祥寺吉蔵大師等のすぐれた学匠が出られて、法難の為に衰微した仏教復興につとめられました。又、隋の煬帝等の皇帝もこれに尽くされましたので、正に中国仏教の黄金時代と言われてその全盛をきわめました。
 そうした中に誕生された善導大師は、若くして仏門に入り、戒律を中心とする律宗に身を置き道宣律師に学ばれました。大変自己に厳しく、一生、お湯に入る以外は法衣を脱がず、又道を歩かれる時には、目を上げて女人を見ずと伝えられています。長安の城外終南山に居住されましたので終南大師ともいわれ、又長安の光明寺に住されましたので、光明寺の和尚とも称されています。道綽禅師の晩年八十才を過ぎられた頃弟子になり、浄土教を学ばれました。如何なる悪人も、本願名号の働きによって救われるという他力の易行の道を自らも信じ人にも伝えながら、己を持すること誠に厳しく、清僧の誉れ高かったことは私達は見落としてはならない大切なことであります。これは善導大師のみならず七高僧方には等しく言えることであります。それは本願の光に照らされて、浅ましい我が身が見えれば見える程自とたしなみ、つつしみが深くなるのは自然の道理であります。

 ここで私達がよくよく注意しなければならないのは、どんな者でも救われるということは、どんなことをしてもよいということでは決してありません。浄土真宗では昔から、造悪無碍の異安心と言われる一群の信仰の間違った人々がありました。それはどんな悪人でも救うて下さる本願だから、どんな悪いことをしてもよいという受け取り方をした人々です。
 或るおばあさんがお寺に詣りました。家を出る時は古びた下駄をはいて出ましたが、帰って来た時は新しい下駄をはいていました。お嫁さんが、
 ”おばあさん、下駄をまちがったね。”と言うと
 ”私が一番先に本堂を出たら、そばに新しい下駄があったので、はいて帰りました。”
 ”おばあさん、お寺参りする人がそんな事をしたら・・・”
 ”こんな欲の深いばばあをお目当ての本願じゃ。”
と、これは極端な話で事実あったとは思われません。けれども真宗門徒の生活態度を風刺して作られたものであることに留意しなければなりません。
 私達はややもすればこれに類して本願に甘えるような心が動かないでしょうか。蓮如上人は、

我が心に任せずして 我が心を責めよ。
我が心に任せば 必ず必ず誤りあり。
と、お諭しになっておられます。利井鮮妙和上が、
子の罪を 親こそにくめ にくめども 捨てぬは親の情けなりけり
と、詠まれましたが、子の罪を心の底から憎み悲しむのは親であります。憎み悲しみつつなお捨て切れないのが親の慈悲で、この親心が本当に解ったら、どうして本願に甘えることができるでしょうか。七高僧始めその他の高僧方が他力のみ教えを説きながら、常に自らに厳しかったことを見忘れてはなりません。私達も本願を仰ぎながら自らの行ないを慎み、たしなんでいくべきでしょう。そこにこそ、本当の念仏者の風格があると言えます。

 昭和四十三年、鹿児島組西寿寺の開基住職佐々木教正法師の二十五回忌と後継住職村永行善法兄の住職披露の法要が行われました。その時、後継住職の挨拶の中に亡きお父さんをしのんで、次のような話をされました。
 ”門徒の或る方が「私は親鸞聖人の教えは解らなかったけれども、あなたのお父さんの言われることだから素直に聞いてきました。」”と。
 私はその言葉を感銘深く聞き、今も頭に鮮かに残っています。又、村永さんはこんなことも私のお寺の勉強会の時に言われました。
 ”私はお寺に生まれ、龍谷大学を出ましたが、僧侶になるのがイヤでイヤでなりませんでした。ところが或る日、亡き父の日記を見て僧侶になる決心がつきました。”と。
 私は佐々木教正法師に一度も面識はありませんが、これらの言葉を通してその風格が、なつかしく慕われます。そうして、み教えはどんなに立派であっても、人によってのみ伝わるという言葉が、しみじみ思われるのです。

 善導大師の行跡を忍びながら、少し話が横にそれたようでありますが、大師の勲功はお釈迦様のお説きになった観無量寿経を正しく解釈して、お釈迦様の正意を明らかにされたことであります。前の章に述べましたように当時は、末法時代に入って、人々の心に悲観的な暗い影がさしていました。その中に末法の人々の為にと説かれた観無量寿経は、当時の学匠方にもてはやされて、これらの学匠はこぞって観無量寿経の註釈に手を染められました。先に申しました天台大師や慧遠大師等がそれらの代表的な方々であります。しかし、観無量寿経は他力を説かれたお経でありますがこれらの人々は、自力の教えに立っておられます。従って、自力の色眼鏡をかけて他力のお経を見られたので、その正意を見誤られたことも止むを得ないことであります。それについて今少し述べますと、観無量寿経は表には定善と散善の自力の教えが説かれて、裏に他力のお念仏が説かれているのです。これは偏に、自力の人々を他力に導き入れる為のお釈迦様の巧みな説法であります。

 定善の十三観とは心を一つの境に注いで、お浄土のみ仏の姿を観察して心を清め、さとりに近づこうとする教えです。次に散善とは、こうした浄土及び仏を観察することのできない凡夫の為に、悪をやめ善を修めて仏に近づこうとする教えであります。この散善には凡夫の姿を、九つの種類に分けられています。上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生であります。その中、上品上生から中品下生までが善凡夫であり、下品上生から以下が悪凡夫であります。この下品下生の悪凡夫即ち一生の間一つの善もなく悪ばかり造った人がいよいよ臨終迫った時に、その造った罪におののき苦しむのです。その時良き師が現れて、この人の為に色々の妙法を説いて仏を念ずることを勧められました。けれども苦に逼められて念ずることができません。そこで、

”汝もし念ずる事ができなければまさに無量寿仏の御名を称えよ”
と、称名を勧められました。そこでこの人は勧められるままに、

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」
と、十遍、称名する事によって、八十億劫という長い間の罪が消されて、やがてお浄土に救われてゆきました。この一段に来た時に、先の聖道自力の学匠たちは、その解釈に行き詰ってしまったのです。こんな極重の悪人が臨終迫って苦しまぎれに十遍の称名をしただけで真実のお浄土に生まれゆく筈はないと。ここにこのことについて二つの解釈が生まれたのです。一つは天台大師(智ぎ)浄影寺慧遠大師、嘉祥寺の吉蔵大師などは、どうせこんな悪人が十遍ぐらいの称名で参るお浄土だから、たいした浄土ではない。凡夫と聖者が一緒にいる非常に劣った浄土で、娑婆とそう変わらない方便化土であると説かれました。

 今一つは、この考えに対して天親菩薩の兄、無着菩薩の書かれた摂大乗論によって成立している摂論宗の学匠達や、法相宗の開祖慈恩大師等が、別時意趣だと主張されました。別時意趣とはお釈迦様の説法の方法の一つで、これを観経に当てはめて解り易く申しますと、お浄土は阿弥陀仏の本願によって出来上った世界であるから、真実の勝れたお浄土であるが、一生悪を造ったような悪人が十遍位の称名で浄土に往生できる筈はないけれども、この十遍の称名によっていつか遠い将来に浄土に参る因縁が結ばれたのである。それを、人々を導く為に、今すぐに次の生で浄土に生まれるように説かれたのであります。例えば一円の金はすぐには千円にはならないけれど、それを積み重ねることによっていつの日にか千円になることをすぐに千円になるように説かれたものです。

 この二つの学説によって長安の都からは、お念仏の声が絶えたと申されています。こうした時代に善導大師が出られて観無量寿経を正しく解釈されて、お釈迦様の正意を明らかにされたのであります。すなわち下品下生の悪凡夫も、十遍の称名によって必ず直ちに、最も勝れた真実の浄土に往生すると説かれました。その書が有名な四帖の疏といわれている玄義分、序分義、定善義、散善義であります。これによって古今の学匠達の誤りを正されました。従ってこれを古今楷定の妙釈と讃えられています。この書を書くに当って、夢の中に浄土や仏、菩薩の姿を観察されて、観無量寿経の文章を分類される時には、夜な夜な一人の僧が枕元に現れて指示されたと、自ら述べておられます。これは善導大師が、この書を解釈するに当って、仏菩薩の加被力を乞い、ひたすら私心を離れて仏の心を仰ぎつつ書かれたということが伺われます。

 さて、天台大師、慧遠大師などが観経の下品下生の一段に説かれる、「悪凡夫が十遍の称名によって往生する浄土は、凡夫も聖者も同居する世界であって、この娑婆世界とはあまり変わりばえのしない劣った浄土、即ち方便化土である」と説かれたのに対して善導大師は、「この浄土は阿弥陀仏の衆生を救うという本願によって建立された浄土であるから、最も勝れた真実の浄土である」と主張されました。

 また、摂論宗の学者や法相宗の慈恩大師などは、往生するには必ず願と行が具わらなければならないけれども、観経に説かれている下品下生の凡夫はただ願だけで行はない、従って別時意であると主張されたのであります。けれども既に十遍の称名を称えているから行があるではないかという不審に対して、摂論宗の人々は称名はしていてもただ救われたいという願いが口に表われているにすぎないから、行という名に値しない。従って、どんなに称名しても願だけであって行はない。即ち唯願無行であり、その凡夫が往生すると説かれているのは、別時意趣であると断定されました。この摂論家や法相宗の学匠達の別時意趣説に対して二つの理由をもって、善導大師はこれを斥けられました。

 その一つは既に阿弥陀経にもしは一日、もしは二日乃至七日の称名をもって命終る時、心は転倒せずして仏菩薩のお迎えを受けて、浄土に往生すると説かれていると示して汝は菩薩(唯願無行は別時意趣であると説いた無着菩薩)の言葉を信じて、仏の言葉を信じないかと厳しく戒められました。

 又、下々品の凡夫の称名は願だけで行がないという主張に対して、有名な南無阿弥陀仏の六字の解釈をもって、願、行が具わっていることを明らかにされました。即ち、南無阿弥陀仏の南無の言葉には、帰命と発願廻向の謂われがあると示し、阿弥陀仏はその行であると説かれて、六字の名号には願行が円かに具わっていることを明らかにされました。この名号を心に領解したのが信心であり、口に表れたのが称名であります。従ってこの称名には願と行が具わっているので、決して唯願無行ではないと説かれて、称名で真実の浄土に生れることを明らかにされたのであります。思うに天台大師や慧遠大師など、又法相宗の学匠達が観経の解釈を誤られたのは、下品下生の悪凡夫の称える称名を、自力の称名とみられたからです。もしこれを自力とみるならば、こうした解釈になるのも当然であります。今、善導大師が下品下生の悪人が十遍の称名で往生できることを明らかにされたのは、称えた力でなく称えしめた名号願力の力によるもので、他力の称名であると、お釈迦様の真意を見抜かれたからにほかなりません。

 自力聖道門の学匠達が自力の心にとらわれて観経の正意を見失われたのに対して、善導大師一人が、お釈迦様の真意を見抜かれたのであります。このことを今、親鸞聖人は、

「善導独り、仏の正意を明らかにす」
と讃嘆されました。

(二)他力の救いを示す

矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁
 聖道門の自力の学匠が、観経下品下生の悪凡夫の称える称名を、自力の称名とみてお釈迦様の正意を見失ったのに対して、今、善導大師はこの悪凡夫の称える称名は他力の称名であると鋭く見抜かれて、お釈迦様の正意を明らかにされました。よって今、この二行は他力の救いを具体的に示されたものであります。即ち、定善を修める聖者も散善を修める善凡夫も、また五逆や十悪を造る悪凡夫も共にあわれんで、光明名号の謂を明らかにして全ての人々が救われてゆく他力のみ教えを勧められたのであります。

 定善と散善とは先に説明した通り、み仏並びに浄土を観察してさとりに近づこうとする聖者(定善)又、この観察のできない人々が悪を止め善を修めて、仏に近づこうとする善凡夫(散善)であります。それに対して逆悪とは正に、地獄の業である五逆罪や十悪を造る悪凡夫であります。

 五逆とは父を殺し母を殺し、教団の和合を破り、羅漢(さとった人)を殺し仏身(お釈迦様)より血を流す悪業であります。

 十悪とは心に犯す貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩、それから口に犯す両舌(二枚舌)・悪口・妄語(まことのない言葉)・綺語(飾り言葉)の四つの悪、身に犯す殺生(ものの命を取る)・偸盗(ものを盗む)・邪婬(邪まな男女関)の三つの悪業であります。今、自力修行の人々も、悪より悪に入り、暗きより暗きに彷徨う悪人も共にあわれんで、偏に他力の謂われを説いて勧められました。

 ここで、悪人を憐れむということはよく頷けますが、自力修行の聖者や善凡夫を憐れむとはどういうことでしょうか。それは、これらの人々は己が善根に心がくらみ、み仏の大悲を見失っているからであります。親鸞聖人は、定善や散善を修めている人々を、疑心の善人といわれて、これらの人々は、方便化土に往生すると仰せになりました。折角、善をしながら大悲を見失い方便化土に生まれるとは、哀れむべき悲しいことであります。それにつけても、浅ましい凡夫である私達がみ仏の大悲に目覚め、本願を信じ念仏しながら真実の浄土への道を歩むことは、まことにこの上ない喜びと言わねばなりません。ちなみに方便化土とは浄土の中の一部でありますが、ここでは五百年間、仏を見ることも出来ず、又仏の説法を聞くこともできません。それは七つの宝を散りばめた牢獄に、金銀の鎖でつながれたようなもので、仏智を疑った罪の報いによるものであると説かれています。

 次に、光明名号の謂われについては、先に第三章、第四章で詳しく述べましたが、本願他力の救いとは、光明名号の働きのほかありません。光明の働きは調熟(お育て)と摂取の二つであります。調熟とは仏に背き真実に背いて、逃げよう逃げようとしている私の上に働いて、楽しみ喜んで仏法を聞く身に育てられることであります。即ち聞法の姿のままが、大悲の光明に触れ大悲の光明に育てられているのであります。
 本年(昭和五十六年)一月十二日歎異抄の集いの夜の事でした。お話し終った時に、会員の阿多鈴子さんが、
 ”先生お寺詣りって、本当に不思議ですね、実は今晩、こんなに寒いし、雨混りの天候でその上少々風邪気味なので休もうかと思いました。けれども最近、伊集院町の叔父が、かりそめの病ではかなく死んだことを思い出し、こんなことではいけないと心に言い聞かせてお詣りしました。そうして今帰る時は、本当にお詣りしてよかった。炬燵に入ってテレビを見ていたよりもと、しみじみ感じます”
私は、この言葉を聞いた時、
 ”そうですね。それはこうして御縁に会っているままが、仏様の大悲に触れ育てられているのですからね”と話したことでした。

 次に、名号の働きとは智恵の眼がつぶれて、修行の足が立たない私に代わって、仏になるべき願も行もあらゆる功徳を南無阿弥陀仏の名号に、円かに具えて、その功徳のありたけを本願の呼ぶ声として私に届けて下さるのであります。親鸞聖人はこれを”本願招喚の勅命を聞く”と仰せになりました。この如来の呼び声に目覚め如来の大悲にお任せする時、ここに私は摂取の光明に抱かれて、必ず浄土に生まれて仏のさとりを聞く身にならせていただくのであります。
 すれば私達が、本願の義を聞くことも信ずることも、浄土に生まれゆくことも全て、本願他力の働きのほかありません。ここに善導大師は、己が善根に心を奪われ、又悪より悪にさまよう悪人、即ち大悲を見失っている人々を憐れんで、光明名号の働きによる他力の救いを明らかにされたのであります。この事を意訳には、

「自力の凡夫あわれみて、光とみ名の因縁説く」
と、讃えれれています。

(三)他力の利益=現在より未来にわたりて

開入本願大智海 行者正受金剛心
慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍
即証法性之常楽
 光明名号による他力の救いを明らかにされましたので、この本願他力による現在から未来にわたる利益を讃嘆されたのが、この五句の言葉であります。
 「開入本願大智海 行者正受金剛心」とは、南無阿弥陀仏の名号の義を聞き開いて自力を捨てて本願他力に転入した人々は、金剛石のような堅固な信心を恵まれると説かれたのであります。自力を捨てて他力に入る姿を親鸞聖人は、
”雑行を捨てて本願に帰す”
と、お述べになりました。このお心は凡夫の自力の計いの不完全さに目覚めて、完全なみ仏のお計いにお任せするということであります。ここに、自力を捨てて他力に転入する理由があるのです。人間は完全なるもの、即ち真善美の世界を求めながら、いやそれを求めれば求める程、自分の不完全さに気付いてゆくでしょう。人間は所詮、どこまでいっても不完全なるものであることを免れません。それゆえにこそ親鸞聖人は、自力を捨てて他力の本願の世界に転入されたのであります。それによって恵まれる金剛の信心について、こんなお話が伝えられております。
 本願寺のある年の安居に、原口針水和上が本講師をつとめられました。その講義の中に、自力の信心と他力の信心を比較されて、
「自力の信心の脆きこと、歯の如し。他力の信心固きこと、舌の如し」
と言われました。お弟子達がこれを聞いて、例えを取り違えたのであろうと講義の後で和上を訪ねられ、
 ”今日の講義、まことにありがたい、よく解るお話でしたが、例えを一つ取り違えられたと思います。”と、今の言葉を引いて、
 ”あれは自力の信心の脆きこと、舌の如し。他力の信心の固きこと、歯の如しではないでしょうか。”と申し上げたら、
 ”いやあれは、あのままでいいのだ。よく考えてごらん。歯は固そうであるけれど根が肉に張っているだけだから、やがて折れもすれば抜けるであろう。舌は柔らかそうであるが体の一部であるから、決して抜けもしなければ落ちもしない。自力の信心は固そうに見えるが凡夫の自力の計いよりなっているので、崩れもし壊れていく。それに比べて他力の信心は、弱そうには見えてもみ仏の、衆生を必ず救う、という金剛の親様のまことが凡夫の上に届いたのであるから、決して崩れもしなければ壊れもしない。”と、諭されました。私は学生の頃、父のお説教で聞いたこの話しが、鮮やかに頭に残っています。
 崩れない、壊れない金剛の信心とは、凡夫の計いで思い固めるのではなくて、いつ思い浮かべても往生は一定、御たすけは間違いなしと本願を仰ぎ、又浅ましい自分の姿が見えるにつけても、こんなことではと心配するのではなくて、こんな奴をお救いの御本願といよいよ大悲を仰いでゆくのであります。これを金剛堅固の信心と仰せになりました。
慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍
即証法性之常楽
 この三句は、往生は間違いなしと喜ぶままがみ仏の喜びであり、み仏のみ心にかなうのであります。従って韋提希夫人が、お釈迦様のお計い即ち加被力によって空中に住立したもう阿弥陀如来のお姿を拝見して、八地以上の菩薩がさとる無生法忍という真如のさとりを得て喜忍、悟忍、信忍の徳を頂いたように、今真如にかのうた南無阿弥陀仏の名号を聞く時に、韋提希夫人と同じく喜忍、悟忍、信忍の徳を頂くのであります。喜忍とは往生一定の喜びであり、悟忍とは悟りを開くに定まることであり、信忍とは本願を信ずることであります。このような徳を今恵まれますので、命終わった時に永久に変わらぬ真の楽しみをさとらせて頂くのであるとお説きになりました。
 これを言葉を換えて申しますと、名号の義を聞き開いて信心の徳として三忍を頂くとは、煩悩を持ちながらほのかに真の世界を感知させていただくということではないでしょうか。

 昭和五十二年九月、私の寺の本堂落成を記念して若婦人の真宗教室を開きました。まる四年経過した今日、ようやくこれらの人達が私の話を吸いついて聞くようになられたなあと感じられた時に、会長の久保きよかさんが、

”真宗教室でお勉強させて頂いたお陰で、車にかけていたお守りが気安めであるということを解らせて頂きました。それで私は、お守り札をはずしました。”

 私はこれを聞いて、正しいみ教えが身についてくる時に、おのずと人生の真の道理が見えてくるのを感じたことです。今、親鸞聖人が信心に目覚めた人に韋提希夫人と等しく三忍を得ると讃えられたのは、ただ言葉の上だけのことではなくていただいたみ教えが私達の日常の生活の上にいきいきと働くことを知らされたのです。


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