ここで話は少し横にそれますが、大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪われるという言葉があります。天皇より大師号をおくられた高僧は沢山ありますが、今日お大師様といえば弘法大師を指し、一宗を新しく開いた高僧を開山と申しますが、今日では御開山と云えば親鸞聖人に限られています。このように普通名詞がこの方々のお徳によって固有名詞に変わりました。親鸞聖人は一宗の開祖御開山と後世の人々から仰がれておられます。それは一宗の開祖としての条件を充分に具えておられるからです。一宗開宗者の条件とは次の四つであります。
思えば、お釈迦様より親鸞聖人に到るまで、国を隔てること、印度、中国、日本と三ヶ国、時を隔てること約二千年、この永い間に七人の高僧が次々とお出ましになって、お釈迦様の説かれた阿弥陀如来の本願を、増さず減らさず、一つの器の水を次の器に移すように次々と正しく継承されました。
親鸞聖人は法然上人の導きによってこの本願を素直に信受されて、私達を導いて下さるのであります。「三国の祖師各々この一宗を興す、愚禿すすむるところさらに私なし」即ち印度中国日本の三国に出られた七高僧が、偏(ひとえ)に弥陀の本願を広宣されました。親鸞はその外に別に変わった教えを説くものではありませんとお述べになりました。そうして聖人自身、遇い難く聞き難い本願に遇い、本願を聞くことの喜びを思うにつけても、お釈迦様以来二千年の長きにわたり、この法を継承された七高僧のご恩を深く深く感佩して、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、如来の本誓、機に応ずることを明かす」と讃嘆されました。
(二)七高僧の選定
私学生時代に、中沢顕明師より史学について特別講座を受けたことがあります。その時、名前は言われませんでしたが、かって東本願寺の僧籍にあった方が、何かの理由で僧籍を離れられました。宗教学については、深い学識があらわれたのでしょう、当時の有力な某新興宗教より、素朴な原始宗教から脱皮する為の教義の書きかえを依頼されました。そうしてこれをなし遂げて現代日本の有力教団として発展させられました。けれどもその方は最後までその宗教の信者にはなられなかったそうです。
第二の理由としては、著述の有無であります。西方浄土を願生された方々は数多くおられますが、後世に輝く著述を残された方となりますと、選定の範囲は狭まってまいります。
三つには法門の発揮、自ら浄土を願生し、著述を残された方々の中から更に伝統をふまえながら、その時代時代に応じて新しい独自の教義を展開された高僧はと尋ねてみれば、この七人に限られます。
(三)凡夫に相応しい教え
第一のお釈迦様のこの世にでられた正意については、第五章「み仏の世に生れ給う本意」のところで述べましたので、そこにゆずり、第二の末の世の凡夫に相応しい教えであることについて考えてみたいと思います。
私、昭和四十一年十一月、北海道を一ヶ月間巡回した時に、鷹栖の専証寺(住職打本信英師)で坊守打本三津江さんから、亀井勝一郎氏の死を悼むという記事を特集したローカル紙を見せて頂きました。その年の十月札幌で北海道出身者の文学展がひらかれました。亀井先生は函館出身ですから係の方が、東京の自邸を訪ね、出品を乞われました。先生は病床にあられましたが、快く承諾されて幼い子供の頃から今日まで、いろんな人の話を聞き、いろんな本を読んで、特に感銘した言葉を三十一枚の色紙に書いて送られました。一番最初の言葉が”よく遊びよく学べ”で三十一枚目の最後の色紙に”いそぎまいりたきこころのなきものをことにあわれみたもうなり”(「歎異抄」第九章)の言葉が書かれたあり「私は数年、病床にある。病床にあってねむれぬ夜、一人死を思う時に、この言葉がひしひしと胸に迫って来る」と註釈が添えてあったそうです。これを読んだ時に、深い感銘を覚え、弥陀の大悲による本願他力の救いこそ、私たちに最も相応しい教えであることをしみじみ感じました。親鸞聖人はこれを「如来の本誓、機に応ずることを明かす」と述べられたのであります。
この龍樹菩薩の輝かしい徳をあらわすものに楞伽の懸記というのがあります。懸記とは遙に記すと言うことで、予言のことであります。即ち楞伽山(りょうがせん)でなされたお釈迦様の予言です。この予言を読む時に、私には次の様な状況が頭に浮びます。
(二)龍樹菩薩の勲功=易行道を開く
諸、久、堕の三つの難があるから、この行を完成することは難しい。よって他に易行のやさしい道がないかと。
私はこのことを思う時に親鸞聖人の比叡の自力の行を捨てて、法然上人の他力の念仏に入られた時のことを思うのであります。もし親鸞聖人が自力修行の難行の外に、他力念仏の易行の道があるから、というので自力を捨てて他力に入られたならば、それは堕落の道をたどったと批判されても仕方はないでしょう。果たして親鸞聖人はそのような方であったでしょうか。私にはそうとうは思われません。聖人の厳しい山上での修行中、数々の難行苦行に耐えながら、常に胸の中に一つの疑惑があったのではないでしょうか。仏教は果たしてこの道だけで良いのであろうか。もしこの道だけだとすると、み仏の救いにあずかる者は極く一握りのえらばれた人に限られてしまう。仏の慈悲は大悲と言われ、あらゆる人々の上にも注がれている筈、それは万人の救いを約束したものであるにもかかわらず難行苦行に耐え得るものしか救われない、それが仏の救いであろうか。少なくとも女人禁制の比叡の掟に従えば、人類の半分の女性は完全に仏の救いの圏外締出されている。仏教はこれだけでよいのであろうかという疑惑であります。
聖人のこの心中の苦悶を伝えるこうした伝説が残されております。聖人が修行中、一日都に下りられました。そうして帰途、みやまの麓、赤池明神の境内にさしかかりました。この明神は、比叡山守護の神として祭られているのであります。ここまで来た時、うら若い女性の声がしました。
(三)信心正因と称名報恩
即ち信心決定のことをいわれました。その信心決定する時、間髪を入ずに、即時に必ず浄土に生れる位に即(つ)くことを、即時入必定と仰せになったのです。言葉をかえて言えば、信心正因を顕わされたのであります。和讃にこの意を、
浄土真宗の教えは、信心正因、称名報恩と定められていますが、それは龍樹菩薩の教えにもとづかれたものです。信心正因のことはこれまでしばしば述べてまいりましたのでそこにゆずり、称名報恩について考えてみたいと思います。
何故称名が報恩と言われるのでしょうか。ひとつには大悲に救われた喜び、即ち報恩感謝の思いから称えるからであります。二つにはこの称名は上讃仏徳下化衆生(じょうさんぶつとくげけしゅじょう)といわれているように、上(かみ)はみ仏お徳を讃嘆し、下(しも)は衆生を教化する徳が具わっているからであります。蓮如上人が”あまかかの嬉しやと称える念仏を聞いて人が信を得るなり”と仰せになったのはこの意です。では何故お念仏に人々を仏法に導く徳があるのでしょうか。み仏を讃嘆するお念仏は、そのままみ仏の大悲が、私の口を通して現れている相(すがた)にほかなりません。このお念仏について甲斐和里子先生は、
これについては二十年も前になりましょうか。私の尊敬する親しい法友佐々木次生(じしょう)法兄のお寺(南隅組願生寺)に永代経の布施に行った時、昼のお説教が終わり、講師部屋に帰って来た時に、仏教婦人会長の前村まつさんが、いろいろお世話して下さいました。夕方近くなって前村さんが帰宅しようとされると、老坊守さんが、”あなたどうせ一人身だから夕飯はここで済まし、御講師さんのお世話をして、晩の御縁に遇うて帰られたら”と言われました。
更にこれについて、深く思われますことは、お釈迦様はこの世を因縁所生(いんねんしょしょう)、相依相関(そうえそうかん)の世界と説かれました。これは総てのものは因と縁によって生じ、互いに関わり合っているということです。例えば網の目によって支えられ、又一つの網の目は全体を支えています。このように私の生活は社会全体によって支えられ、又私の生活は社会全体を支えて、お互いに関連し合って存在しているのです。従って私の一挙一投足、良い事、悪い事、そのまま全社会に影響を及ぼして、互いに響き合うのです。私はこの事についてしみじみ感じました。
第九章 七高僧の功績
顕大聖興世正意 明如来本誓応機
(一)二千年にわたる正法の伝承
今まで述べて来ました依経段は、私を救い給う本願の確かさをお釈迦様の言葉、即ち無量寿経・阿弥陀経によって讃嘆されたのであります。
「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで三十八行七十六句は、七高僧の御釈によってさらに弥陀の本願を讃嘆されました。今この四句はその序文の言葉に当り、七高僧に共通した功績をお述べになります。即ち七高僧何れもお釈迦様の世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにありとあらわされ、その本願こそ凡夫相応の教えであることを明らかにされました。
これを親鸞聖人についてみますと、宗名を浄土真宗と名乗られました。真宗教義のよりどころとなる教典は浄土の三部経、即ち無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と定められました。教法の継承者は、先に述べました龍樹菩薩、天親菩薩(印度)、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師(中国)、源信和尚、源空上人(日本)の七人の高僧です。法門の発揮とは、今までの高僧方が顕わされなかった独自の教えを顕わすことであります。即ち本願他力による往生浄土の道を、法然上人は念仏往生と示されました。この教えを正しく継承しながらそれを信心正因、称名報恩と展開されたところに、親鸞聖人の功績があります。これを法門の発揮と言います。
二、拠り処の教典
三、教法の継承者
四、独自の教えの発揮
このように聖人は一宗を開かれた開祖としての資格を充分具えておられますので、後の人が聖人を浄土真宗の御開山として仰ぐのは当然であります。
けれども聖人は一宗を開こうとする意志は毛頭ありませんでした。それは次の言葉によっても明かです。
この歎異抄また蓮如上人の御文章に引用されている親鸞聖人のお言葉の意は、阿弥陀如来の本願のまことが釈迦如来の説法と顕れ、その説法が善導大師の教えとなり、その教えを承けられた法然上人のお言葉を親鸞聖人が素直に頂いて伝えるばかりである。
この意を更に要約され、親鸞はさらに特別変わった教えを広めるのでなく、釈迦如来の説かれた教法を親鸞自身が頂き、その頂いた喜びをあなた方にお伝えするばかりですと。
この言葉によって明らかに知られるように、親鸞聖人には終始、一宗開宗の意志はなく、あくまで謙虚な聞法の行者として歩み続けられたのです。従って親鸞聖人は開宗の意志なき開宗者という言葉が最もふさわしいと言わねばなりません。
お釈迦様より親鸞聖人に到る二千年の永きにわたり、幾多の名僧高僧
が出られて、浄土の往生をすすめ、人々を導かれましたが、その中より特に、先に申しました七人の高僧を選び出し、七高僧として仰がれたのは次の三つの理由に依るのであります。
第一に自身願生、これは大変重要な意味を持っています。宗教学者必ずしも宗教人に非ずという言葉がありますが、どんなに広く宗教の知識を持ち、その学問に精通していても、その人が必ず信仰の人とは言えません。宗教の学問によってその知識の欲求が満たされても、それはそのまま信仰にはつながりません。何故ならば信仰とは学問知識を超えて、無限の如来の大悲に目覚めた世界であるからです。いろいろな宗教の教えに精通しても、貴方の信仰は何かと問われた時に、私はこの教えによって生かされ、この教えによって安らかに死を迎えることが出来ると言い切れなかったならば、それは学問の世界にとどまって、宗教としては何等価値のないものと言わねばなりません。
二、後の世を導く不朽の書物を書かれた (著述)
三、伝統をふまえながら新しい教義の展開をされた (法門の発揮)
こうした姿は、どんなに宗教的知識を持っておられても、真の宗教者として仰ぐには足りません。
今親鸞聖人が自己の師と仰ぐ方を選ぶについての第一の理由に、自ら本願を信じ、念仏しながら、西方浄土を願生されたことを挙げられたのは当然のことと言わねばなりません。
七高僧についてこれを見ますと、龍樹菩薩には「易行品(いぎょうぼん)」、天親菩薩には「浄土論」、曇鸞大師には「往生論註」、道綽禅師には「安楽集」善導大師には「四帖の疏」、即ち「玄義分」「序分義」、「定善義」「散善義」、源信和尚には「往生要集」、源空上人には「選択本願念仏集」があります。これ等は何れも往生浄土の道について、後世の人々を導いて輝かしい光彩をを放っています。
この新しい教義の展開を七高僧の上に尋ねて見ますと、龍樹菩薩は釈尊一代の仏教を難行道、易行道に分けて易行道をすすめられました。
天親菩薩は一心願生と申しまして礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向の五つの徳を円(まどか)に具(そな)えた一心(信心)によって浄土に願生することを顕されました。
曇鸞大師は自力他力を分別して自力を捨てて他力の行をすすめられました。
道綽禅師は釈尊一代の教えを聖道門浄土門に分かち、末法の衆生にはひたすら浄土門をすすめられました。
善導大師は、古今楷定と申しまして、極悪の凡夫がお念仏によって最も優れた阿弥陀仏の浄土に往生するいわれを明らかにされました。
源信和尚は、専修念仏の他力の行者は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力の行者は、方便化土に往生すると示されました。
源空上人はお念仏によって浄土に往生出来る理由を、阿弥陀仏の選択の本願によることを明らかにされました。このように西方浄土に往生する道について、その時代時代に応じてそれぞれ新しい教義を開いて導かれたのであります。この三つの条件に照らし合わせて、多くの高僧の中よりこの七人を選定されました。よってこの七人を七高僧として、その高恩を仰いで行かれたのであります。
七人に共通した輝かしい功績は、二つに絞ることが出来ます。一つはお釈迦様のこの世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにあると顕わされたこと、二つにはその弥陀の本願は末の世の凡夫に、最も相応しい教えであることを明らかにされたことであります。
源空上人は「極悪最下の機のために、極悪最上の法を説く」とお述べになりました。極悪最下の機とは煩悩の中に明け暮れして、気に入らないと怒りの炎を燃やし、気に入れば貪欲愛着の心に振りまわされ、思うように行かないと愚痴をこぼしながら日暮しをしている私のことであります。これはまさに光を失い、闇の中にさまようている姿であります。これを親鸞しょうにんは
「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と歎かれました。このような私を救う為には、もろもろの八万四千の自力の教えでは到底間に合いません。その為に、大悲の阿弥陀如来は勝れて易い南無阿弥陀仏の他力の法を案じ出し与えて下さったのであります。
これは言葉をかえて言えば、凡夫が凡夫のまま本願を信じ、おまかせするばかりで救われて行くことであります。従って如来の本願こそ、末の世の私達に最も相応しい教えと言わねばなりません。
第十章 龍樹章
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
唯能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。
(一)お釈迦様の予言
このお釈迦様の予言に応じて現れた龍樹菩薩は、外道の邪見を摧破して、大乗無上の法を明らかに説きつつ、お釈迦様の一代の法を難行易行道に分けられて、もはや後返りしない不退の位に達するのに、難行道は例えばけわしい陸路を行くようなものであり、易行道とは水路の乗船を楽しみつつ行くようなものであると教えられました。更に易行道の内容を説かれて、本願を信受する信心によって必ず浄土に生まれるべき必定の位、即ち正定聚に住し、如来の大悲を報ずる為に常に称名念仏すべきことを教えられました。
先に七高僧共通の功績を讃えられましたがこれより以下は一人一人の勲功を讃えられるのであります。今の、「釈迦如来楞伽山」より「応報大悲弘誓恩」まで十二句は、第一祖の龍樹菩薩を讃えられたのであります。
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
印度は、歴史のない国と言われております。それは、古代の印度の人々は記憶力に富んでいたので、文字に書き残さなかったことによるのであります。従って龍樹菩薩の出生の年代についても定説はなく、九説が伝えられて、お釈迦様滅後、百年説から九百年説に及んでいます。然しいろんな資料を総合して、釈尊滅後七百年位という説が最も有力です。それは紀元二、三世紀頃に当たります。龍樹菩薩は青年の頃、英才の誉れ高かったのですが、友人と共に色欲に耽りました。その為に友人が斬殺された姿を見て、色欲は身を滅ぼすもととさとり、出家して初めは小乗仏教を学ばれましたが、後にヒマラヤ山中に住む老比丘(老僧)より、大乗仏教の教えを学び、その奥義に達して甚深微妙なる法を究められました。そうして千部の書を著されましたので、世に千部の論師と言い、第二のお釈迦様とも讃えられ、又八宗(各宗)の祖師とも仰がれています。その中、大智度論百巻、十住毘婆娑論十七巻は最も代表的なものであります。
印度の南海岸に険しくそそりたつ楞伽山に、お釈迦様の説法の座が開かれようとしていました。多くの秀れたお弟子並びに一般の大衆は寂として声はなく静まりかえって、海を渡そよ風は、青葉を通して肌に心地よく、空はあくまで青く澄み渡って、さえずる妙なる小鳥の声はお浄土の伽楞頻伽(がりょうびんが)の鳥の声にも似ています。お釈迦様のやさしいお顔には、真実を説く喜びが満ち溢れています。自信を深く心中に湛えてやがて静かに説かれる一語一語は、清い泉のこんこんと湧き出て大地を潤すように一人一人の胸に注がれて行きました。説法が終わってもお弟子達は感動と喜びに胸ふるえ、その喜びをかみしめて誰一人として声を出す者がありません。
ややしばらくして、大慧(だいえ)菩薩が進み出て、恭しく大地に跪き合掌礼拝してお釈迦様に申しました。
”世尊よ、私は幸いにも世尊に遇うことが出来てこのような尊いみ教えを聴聞することが出来ましたが、世尊も地上の定めに従ってやがて涅槃の雲におかくれになった後、この尊いみ教えはどうなることでしょうか?”その時お釈迦様は静かに、
”私亡き後この正法は、暫くは正しく伝えられるが、やがて心なき比丘(僧侶)によって乱されるであろう。その乱れの隙に乗じて、有の見、無の見の邪法(第八章参照)がはびこり、その為、正法は一時影をひそめる、その時南印度に龍樹と名乗る菩薩が現れて、邪法を悉く打破り、大乗の甚深微妙の法を明らかに宣説しながら、やがて歓喜地を証して、阿弥陀如来の安楽浄土に往生するであろう”と予言されました。
その予言の如く南印度に出現されたのが龍樹菩薩であります。子の予言は楞伽の懸記と申しまして、今日残されている楞伽経の中に明らかに記されています。
親鸞聖人はこのお釈迦様の予言に深い感動を覚えて、七高僧の第一祖に挙げられたのです。
それを今、「釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して歓喜地を証して、安楽に生ぜんと」と仰せられ、更にこの心を和讃に
と詠われました。
有無の邪見を破すべしと 世尊はかねて説き給う
龍樹菩薩の輝かしい功績は、先に申しましたように、お釈迦様の説かれた仏法を、難行道易行道に大きく分かられて、難行道とは険しい陸路を行くようなものであるとして、ひたすら易行道をお勧めになったことであります。易行道とは水路を行く船路の旅であると懇ろにさとされました。
けれどもここに見落としてはならない大切なことがあります。それは難行道とは後に曇鸞大師によって自力であると説かれましたが、自力の行が何故難行かということについて、龍樹菩薩は諸(しょ)、久(く)、堕(だ)の三つの難を挙げておられます。即ち自力の行は諸善万行を修めて行かねばならない。又これには久しい時間がかかる。そうして途中で堕落するおそれがある。この故に難行と仰せになりました。この自力の行に対して、一人の修行者が質問をしました。
これに対して、汝の言葉はまことに弱い愚かな劣った者の言葉で、仏道を求める大きな志を持った勇猛精進の丈夫(ますらお)の言葉ではない、と厳しく叱っておいて、尚、易行道を求めようとするならば、その道はあると易行道を説き開いて行かれたのであります。何故修行者の質問に対して、直ちに易行道を説かずに修行者の言葉が弱い愚かな劣った者の言葉だと叱られたのでしょうか。ここのところを留意しなければなりません。
と袖を振り切って逃げるように山に帰られました。
”貴方は御存じないのですか、比叡は厳しい女人禁制のみ山であります。この境内がら女性は一歩も山に入る事は許されません”
”み仏の大悲は罪深い悲しき者にこそ注がれるのではありませんか。その女性がみ仏のお慈悲にすがれないとは・・・もし女人禁制と言われるならばお尋ね致します。み山に女鹿女猿はいないでしょうか。女鹿女猿がいるみ山に、どうして人の子の女性が登る事が出来ないのでしょうか”
”貴方の気持、私も同じであります。修行未熟な私には、貴方の問に答える力はありません。どうかお許し下さい”
こうした伝説の事実があったかどうかは問題ではないでしょう。聖人の胸にうごめく疑惑と苦悶を伝えて余すところがありません。
聖人の心中には、この自力修行の道は決して間違っているとは思えない。然し仏教はこれだけではない、ほかに今一つの道がある筈、否、なけらばならない。この疑問の最後の解決を求めて、六角堂に百日お籠りになったのであります。そうして九十五日目の暁、救世観世音菩薩の夢の告げによって、法然上人を訪ね、他力念仏の易行の道に転入されました。このことは何を物語るのでありましょうか。
それは決して先に申しましたように、仏道に難行道易行道があり、難行道は難しいから易い他力の易行の道に向かわれたというようなそんな安易なものではなくて、自力修行の限界を見究めて、難行道を超えた他力の道に転入されたのであります。即ち難行道を手がかりとして他力易行の万人の救われる道を発見されたとも言うべきでありましょう。
この心を龍樹菩薩は難行道の苦しさを逃れて、安易に易行を求めようとする者に対して汝の言葉は弱い愚かな、劣った者の言葉であって、仏道を求めようとする大きな志、勇猛(ゆうみょう)精進のますらおの言葉でないと厳しく叱り、難行自力の限界を知らせた上で、易行の大道、即ち万人救済の他力の道を開かれたのであります。親鸞聖人はこのことを和讃に
と詠われました。船のみぞの”のみぞ”の言葉に千金の輝きがあることを見落としてはなりません。
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける
私はこの和讃を拝読する時に、今から十数年前に日吉町立特別養護老人ホーム青松園の法話会の時の事を思い浮かべるのであります。その日は午前中法務が重なっていましたので止むを得ず午後二時からにしました。かねては十一時より始めて、済めばすぐ昼食なので話合いの時間がありませんでしたが、その日は午後三時に終り、入浴時間が四時になっていますので、
と話合いにはいりました。けれどもなかなか発言がありません、この老人達には、何を聞いたらよいのかそれが解らなかったのでしょう。私も辛抱強く発言を待っていました。ややしばらくして両眼失明したおばあさんがおそるおそる
素朴な問いではありますが、このおばあさんにとっては大変な問題だと思いました。
と申しました。するとおばあさんの顔にややホッとした安堵の色が見えました。
と話しました。おばあさんが思わず合掌して、見えない目から涙ポロポロ流しながら、
”それは違う、命終った時には、弘誓の船がお浄土についた時よ、乗るのは今よ、こうしてみ仏のお慈悲を聞いて、煩悩一杯持った私に、そのままを安心してこの親にまかせよ必ず救うと呼んでいて下さる仰せに、素直にハイとおまかせする。これが弘誓の船に乗せられた姿よ”
とお念仏されました。他力の救いとはまさにこの風光で、大悲の呼び声に素直に信順しおまかせするその後の生活は、大悲弘誓の船に乗せられた生活であることを私達によくよく味わわせて頂きましょう。そこに信仰以前の生活と信仰の生活との大きな違いがあることを知らねばなりません。このことを聖人は、
と仰せになりました。これは如来の大悲にめざめ、帰り行く命のふる里を知らされて、大悲に支えられて生き行く喜びを述べられたのであります。
即ち無明の闇(あん)を破し 速やかに無量光明土に到りて
大般涅槃を証す (教行信証 行の巻)
龍樹菩薩は、先に申しました通り仏道に難行道易行道ありと説かれて、易行道をすすめられて、自らも易行道によって阿弥陀仏の浄土に往生して行かれましたが、今ここでは易行道の内容を示されたのであります。
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
憶念弥陀仏本願とは、阿弥陀如来の本願を素直に頂き心に忘れないことであります。
と詠われました。
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける
次に、
とは信心決定して必ず往生する身にならして頂いた者は、常に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と名号を称えて、如来の大悲におこたえすべきことを諭されたのであります。これは取りもなおさず私達の称えるお称名は、善根功徳を積むためのものでもなければ、利益を求める呪文でもなく、広大な仏恩を仰ぐ報恩感謝の称名であることを示されたのであります。
と詠われ、又原口針水和上は、
と詠われました。
又私の恩師利井興隆先生は、
と詠っておられます。これは何れもみ仏の大悲が私の口を通して、宇宙法界に活動している相を詠われているのであります。
このお念仏と生活とのかかわり合いについて思いを巡らす時、私は蓮如上人と大和の了妙さんの対話を思い浮べます。久し振りに蓮如上人が了妙さんを訪ねられました。了妙さんは喜び迎えて、”お上人様、お陰で元気でこうして糸車を廻しながらお念仏させて頂いて居ります”と申し上げた時に上人が”了妙や、それは違うぞ、糸車を廻しながらお念仏をするのではなくて、お念仏の中に糸車を廻すのよ”とお諭しになりました。これは生活の中にお念仏があるのではなくて、お念仏の中に生活のあることを諭されたのであります。信心を喜ぶ私達の全生活が仏恩報謝のほかなく、又御法義繁昌の営みと言わなければなりません。親鸞聖人が「世の中安穏なれ、仏法広まれ」の念願に生きるのが念仏者の姿勢であると仰せになったのはこの意であります。
前村さんは、”いや、私は帰らせて頂きます”と言われ、いくらすすめられても聞かれません。
そこで私は、”遠慮も時によりけりですよ、こんなに親切に言って下さっているのですから奥さんの言葉に甘えられたら”とすすめました。
すると、”いや先生、私は遠慮して帰ると言っているのではありません。私がこのままここに居れば、晩の御縁に遇うのは私一人だけです。だから私は帰って、お友達を二、三人でも声をかけ誘ってお参りしたいからです。”
私はこの言葉にハッと胸を打たれました。そうして、お念仏を喜ぶ人々は目のつけ所が違うなあと思い、”解りました。ではお帰りなさい。いらないことを言ってすみません。”と言いました。
その時前村さんがしみじみこんなことを言われました。
”一人でも多く御縁に遇って頂こうと誘ってまいった時に、御講師のお話しが難しくてよく解らない時は、私はともかく、誘って来た人に対して、身を切られるような思いがします。”と。
私はこの言葉を聞いた時に、布教使の責任の重大さを深く感じて、布教使は常に勉学に心がけて、こうした純真な人々の期待に背くようなことがあってはならないと感じたことでした。
今、称名が報恩と開顕されたのは、ただ仏前に座ってお念仏することだけではなくて、私の生活全体が仏恩報謝の営みであることを教えられているのです。
昨年(昭和五十五年)三月二十九日、私の四男哲量が、福井市の千福寺(住職高務祐成師)に迎えられました。今年御正忌に帰って来た折り、福井の特産である干柿を沢山土産に持って帰りました。
”お父さん、これは高いのですよ。”
”そうだろう、どうしたのか。”
と聞いた時に、お父さんの書かれた「輝くいのち」を読まれた門徒の人達が、報恩講にお参りした時に、
”貴方のお父さんは干柿が好きなようですね、と言って土産にと下さったのです”
”そう! 有難う、よくお礼を言っておいて”と申しましたが、
私はこのことを通して、仏教で説かれてる因縁所生、相依相関の世界なる故に総ての行動が互いに響き合うということをしみじみと実感しました。
私達の念仏に支えられた行為が、宇宙法界に響き合うことを思う時に、その行動の責任の重さをしみじみと感じさせられます。ここに浄土真宗門徒の規範として示された浄土真宗の生活信条の意義の深さを強く感ずることです。
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一、み仏の光を仰ぎ、常に我が身を顧みて感謝のうちに励みます。
一、み仏の教えに従い、正しい道を聞きわけて、まことのみ法を広めます。
一、み仏の恵みを喜び、互いに敬い助け合い社会のために尽します。
”今私は重い病気の為に日夜苦しんでいる、是非逢いたいから早く帰って来るように”と。
天親菩薩は驚いて、夜を日についで兄さんの元に帰って行かれました。お兄さんは元気で病気のような様子が見られません。
”お兄さん病気はどんなぐあいですか?”と問われると、
”私は体の病気ではない、お前の為に今重い心の病気で日夜苦しんでいる”
”それは又どういうことですか。”
”お前は幽玄な大乗仏教の真意を知らず、小乗仏教に心酔する余り、大乗仏教を謗って、折角仏門に入りながら日々地獄の業を造っている。それを思うと私の胸は傷んで張りさけるばかりである。”
”兄さん、では大乗仏教とはどんな教えですか。”
そらからお兄さんより大乗仏教の幽玄な道理を聞いて行かれました。一を聞いて十を覚る英才であられた天親菩薩は、忽ち大乗仏教の真意を体得されて
”ああ、私は知らないとはいえ、何と恐ろしい罪をおかしたことであろうか”
と深く後悔して、大乗仏教を謗った舌を噛み切り、その罪を償おうとされました。お兄さんの無着菩薩はそれを止めて、
”一度大乗仏教を謗った罪は、そなたの舌を千枚噛み切っても償えるものではない。大乗仏教を謗ったその舌で大乗仏教の尊さを広く説いて、人々を救うことこそ、真に罪を償う道である。”と諭されました。
それからこの道を更に深く学んで、又五百部の書をつくって大乗仏教の布教伝道につとめられたのです。よって後年、天親菩薩を龍樹菩薩と共に千部の論師とあがめられました。天親菩薩は小乗仏教を学び尽し、更に大乗仏教を究められました。何れも天親菩薩の知的欲求は満たされたでしょうが、そこには天親菩薩自身の生死の問題、命の行方を解決することは出来なかったのであります。
天親菩薩は生死の問題、命の問題は、お釈迦様がお説きになった阿弥陀如来の本願を信じ、仰せ一つに素直に信順する他力の一心(信心)によってのみ、解決することが出来ると確信されるに至りました。そうして天親菩薩は、あらゆる衆生と共に本願を信じ、浄土を願生して行かれました。このことを具に説かれたのが浄土論であります。そこで「浄土論」の冒頭に先ず自分の信仰を表白され、遠く九百年の隔りはあっても、眼前にお釈迦様がまします如く、世尊よ、私はあなたのお説きになられた阿弥陀如来の仰せに信順し、阿弥陀如来の安楽浄土を願生しますとお述べになりました。そうして大無量寿経によってその教えを明らかにして、他力本願のお心を顕わして行かれたのであります。
ここで私達が心ひかれるのは、小乗仏教の教理、大乗仏教の哲理を究めて、千部の論師と仰がれた天親菩薩も、生死の問題については、その学識を離れて、煩悩一杯持った凡愚の立場に帰って、あらゆる人々と共に手を取り合いながら、本願を信じて浄土を願生されたことであります。闇を破るものは光であり氷を溶かすものは熱であります。私達の真実救われて行く道は私達の学問修行を如何に究めてもその中からは出て来ません。煩悩渦巻く迷いの世界を超えた清浄真実のみ仏の世界から呼び給う無碍光仏の本願の力による外はないと言うことにはかなりません。
親鸞聖人はこのことに深い感銘を受けられまして「天親菩薩論を造って説かく、無碍光如来に帰命し奉り、修多羅(お経)によって真実を顕し、横超の大誓願を広宣す」即ちこの意を意訳には
(二)天親菩薩の勲功=一心願生
天親菩薩の功績は、愚かな凡夫の為に、本願即ち第十八願に往生の正因と誓われてある至心信楽欲生(まことに疑いなく我が国に生まれんと欲(おも)う)の三心が、本願力によって恵まれる他力の一心と開顕されたことであります。
阿弥陀如来の仰せに素直に信順する一心こそ本願力の恵みであり、この一心によって総ての凡夫が浄土に往生出来るのであります。
ではどうして本願に誓われた三心を、天親菩薩は一心と顕わされたのでしょうか。又三心がどうして一心に収まるのでしょうか。これについて親鸞聖人は「教行信証・信の巻」に、三一問答という一段を設けられて、この解明に力を注いでおられます。その意を要約して述べてみますと
”お尋ねします。本願の第十八願にはすでに至心信楽欲生と三心が誓われてあるのに、何故天親菩薩は一心と仰せになったのでしょうか。”
”お答えします。天親菩薩のこころは量り知ることは出来ませんが今私親鸞が推測申しますとそれは愚かな衆生に、たやすく領解せしめるためです。阿弥陀如来は本願に三心を誓われましたが、さとりの真実の正因はただ信心一つでありますので、天親菩薩は三心を合(がつ)して、一心とあらわされたのであります、即ち愚かな衆生には三心と説かれても、その心が領解しにくいので、信心一つで往生の因が定まることを示すために三心をまとめて一心と顕わされたのであります。”
次に第十八願即ち本願の三心がどうして一心に収まるのか、について三つの理由をお述べになりました。一つには字訓釈と申しまして、至心信楽欲生の言葉の意味を探ってみると、至心も信楽も欲生も共に疑いを離れた無疑の心でありますから、至心信楽欲生の三心は無疑の一心に収まるのであります。
二つには法義釈と申しまして、法義の上から窺いますと、源信和尚の横川法語(よかわほうご)に
三つには三心と言えどもその体は南無阿弥陀仏の外はなく、南無阿弥陀仏の謂を聞き開く外なき一心であります。
以上三つの道理を鋭く見抜かれた天親菩薩は、愚かな私達の為に本願の三心は大悲の阿弥陀如来の仰せに信順する無疑の一心にほかならず、この一心こそ、本願力によって恵まれた他力の一心であると示されたのであります。すれば私が迷いの世界を離れて、真実のお浄土、即ち命のふる里へ帰らして頂くのはただこの他力の一心の外ありません。
このことをお正信偈の意訳、信心のうたには
利井鮮妙和上がこんな譬えでここのお謂われを説いておられます。
”箱の中に白豆五合黒豆五合入れて、がらがらと振り廻し、小さい口からどちらが出るかと問われたら、白か黒かと疑いを持つであろう。今度は黒豆九合、白豆一合入れて振り廻してどちらが出るかと問われたら、おそらく黒豆が出ると答えながら、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いが残るであろう。黒豆一升入れて、さあどちらが出るかと問われた時に、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いは誰一人として持つ者はない。
本願力によって必ず救うと大悲の親様の方に決定(けつじょう)し、疑い晴れて呼び給うおいわれを聞き開いた時に、そこには我が心、信じ振りに用意はなく、ただほれぼれと本願一つを仰ぐばかりである。そこに疑いの入る余地はないと。
これが無疑の一心であります。この無疑の一心は如来の大悲に目覚め、大悲を頂いた一心であります。金剛心とも菩提心とも、又仏性ともいわれて、よく浄土に生まれる正因となるのです。
(三)一心の利益
ではお浄土とはどんな世界でしょうか。天親菩薩は浄土論に浄土の相状(すがた)、働き即ち荘厳、功徳を具に説かれて、国土の荘厳十七種、仏の荘厳八種、菩薩の荘厳四種を説かれました。これを三巌二十九種と申されています。
この荘厳は唯美しき妙なる飾りと言うだけでなく、その荘厳の一つ一つが功徳と言われるように衆生救済の働きをするのであります。
阿弥陀経には「これより西方十万億仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という、その土(ど)に仏まします、阿弥陀と号す、今現在説法し給う」と説かれています。これは迷いの世界を超えた彼岸のさとりの世界に阿弥陀如来がましまして、衆生救済のために説法し給うという意であります。
次にこの浄土にありては七宝の池の小波(さざなみ)も、木の葉にそよぐ風の音も、空飛ぶ鳥の囀(さえずり)も清らかな菩薩の、仏を讃嘆し給うみ声も、すべて念仏念法念僧と説かれてあります。これは浄土の荘厳が阿弥陀仏の衆生救済の大音説法の声であり、お念仏のひびき合う姿を示しているのであります。従ってお念仏の生活とはこの浄土の光に導かれ行く生活と言えましょう。
この三種荘厳の浄土をこの土にうつしたのがお寺であります。高く聳(そび)ゆる壮麗な甍(いらか)、美しく掃き清められた境内、み堂の中の美しい数々の飾りは国土荘厳を現し、須弥壇中央に立ちますみ仏のお姿は仏の荘厳であります。それでは今一つの菩薩の荘厳は何でしょうか。それは直接み仏にお給仕する住職、坊守、寺族の人々であると共に、本願を信じ念仏しつつ浄土に生れ行く念仏者の人々であります。すればお浄土の荘厳が衆生救済の働きをなしつつあるのならば、念仏を喜ぶ私達は衆生教化の尊い仕事に参加させていただくのです。浄土の菩薩の仲間に入るとは、単に言葉だけのことではあってはなりません。
大谷嬉子(よしこ)様がお裏様として本山におはいりになられた時にその決意を
本願を信じ、念仏しつつ浄土に生れ行く相(すがた)を往相(おうそう)と言われ、浄土からこの世に現れて、人々を救う相を還相(げんそう)と言われます。
これを親鸞聖人は