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第三章 深く生きる(1)

1 深く生きる 2 「ねえおとうさん」
3 業のつなを握りしめて 4 一人のひとの涙にぞ足る

第四章 深く生きる(2)

1 死を見すえて限りなき前進(往生)をたまわる 2 「ほやのう せめて」覚悟のいらん所で助かる
3 人間の根本的平等とは 4 今度のさよならは否応なしです
5 なぜ旅が待ち遠しいの 6 分限を知る
7 自分以外の一切のものを拝む 8 教えに出遇うてこそ




深く生きる(1)

一 深く生きる
イ) 私がめざめさせていただく
 これまでは「なぜ仏法を聞くのか」について申し上げ、それは「人生を深く生きるためだ」と、申し上げてきました。深く生きることなくして、人間は満足をもって生き切る、安心して人生を送るということはあり得ない、ということを教えてくださるのが仏さまの教えだということを申し上げました。

 ところで深く生きると申しますが、深く生きるの中味は「生かされて生きる、おかげさまの一生をいただくのみ」と申し上げていいと思います。深く生きるということはおかげさまの一生であったといただくことのできる、そういう人生がひらかれてくる。−−それが深く生きるということなのだ、と。そのおかげさまの一生とは、一切の存在するものはみな支えられて生きているのです。犬や猫も、そこら辺に生えている名もない一本の草に至るまで、みんなおかげさまの一生を持っているのです。ただそれをいただくことができるのは、人間だけ。”いただく”とは目覚めるということでしょう。そのことを、先立って目覚めた先輩のことば、残されたものに出遇うて、私自身が目覚めさせていただく、それが”人間存在”。だから、目覚めることができる、いただくことができるところに人間存在がある。それをいただくためには、教えに出遭うということが大事なんだということです。

 お互いわたし達は生かされている身を生きています。ところが、われわれはなかなか”生かされている”ことに気がつかないんです。お互いわたし達、一応”身”と”心”に分けますけども、本当は”身心一如”と申しまして、身と心は一つではないが一つの如し、切っても切れないつながりがあると教えてくださるのが、仏教の教えです。だから今日、わたし達の身の病気も心が非常に影響しておるからと”心療内科”というのがあります。心を治療する内科と。昔は、胃の病気とか、心臓・腸・肺臓と体の内側にあるものを治療するのが内科といわれておった。心療内科が生まれて、胃の病気も心からきておる、だから心から治療しないと胃の病気も治らない。そういうふうに”身心一如”という仏さまの教えの真実性を明らかにしておると思います。そのように、心と身は切っても切れない関係にあるのですが、一応切って身と心に分けて考えます。

ロ) 指がまがるのが不思議でならん
 ”身”の事実から言っても、お互いわたし達は生かされて生きている。−−そのことで思いますのは、今八十歳で、かくしゃくと活動なさっていらっしゃいます新潟出身の平沢興先生がおられます。京都大学の総長を二期つとめられ、脳生理学の世界的権威として知られ、理論医学医学博士であられます。その方が口グセのようにおっしゃるのです。

 「私が目ざめると手の指をまげてみるんだ。指がまがるのが不思議でならんのだ」と。われわれはこの指がまがるのを不思議だと思うたことがあるでしょうか。人間というものは、自分の思い、自分の意志に先立つものをみんな”あたりまえ”にしてしまうんです。われわれに先立って水が与えられているもんやから、水があってあたりまえにしとるんです。空気のあるのがあたりまえ、地面のあるのがあたりまえで、何もかも「あたりまえだ」「あたりまえだ」とおもっている。自分の思いに先立っているものをあたりまえにするから、指がまがるのもあたりまえで、この年歳(とし)になるまで不思議に思うたことがない。けれども平沢先生は「これが不思議でならない」とおっしゃるのです。「もっと不思議なのは、目が覚めるということだ・・・」とおっしゃるのです。われわれは目の覚めることの不思議さに驚いたことがあるでしょうか。女の方なら、朝、目がさめると「ああ、いやなこっちゃ。どんなおかず作りゃいいやら」で、そんなことは考えても、目のさめる不思議さに驚いたことはないんではないでしょうか。

 平沢先生は、

「いったいどこからどんなハタラキがやって来て、私の目をさますのか。私の手の指がまがるのか。私はこの方面の研究を四十数年間やってきた。その私を含めて世界じゅうで、なぜ目がさめるのか・なぜ手の指がまがるのか、このことを完全に説明できるものは誰もおりません」
と、おっしゃっています。そういう不思議なハタラキは現代の科学では完全に説明できん。そういう不思議なハタラキがはたらいて、私の目はさまさしてもらっているのです。自分の思いでさめているのではありません。さまさしてもらっているのです。手の指も自分の思いで折っとるんじゃないのです。折らさせてもらっておる。それがまがらんようになった時、どれだけ自分でまげようと思ってもまげられなくなるんです。これもやっぱり”お与えの世界”なんです。生かされて生きておる世界なんです。
先生は続けて、
「もっとも、なぜ手の指がまがるのか、なぜ目がさめるのか、このことに疑問を抱くには相当勉強しなければなりませんがねえ・・・」
と、おっしゃている。わたし達はこの年齢まで、そんな勉強したことないし、そのままウカウカとこの年齢になったもんやから、この手の指のまがるのに不思議を感じたこともなけば、目の覚めるのに不思議を感じたこともないんです。その不思議を感じないのは、目覚めない私に責任があります。教えに出遇うて、そのことの不思議さに目覚める。そこに本当の人間存在があると思います。

ハ) ぼくの舌動かすやつ なんや
 平沢先生のその言葉をいただきますと、いつも想い出すのがあります。それは満五歳の子どもが叫んだ言葉を保育所の保母さんが記録したもので、東井義雄先生の『根を養えば樹は自ら育つ』の中に載っておったのを見てびっくりしたことがありました。

「ぼくのした うごけ」 というたときは
もう うごいた あとや
ぼくより さきに
ぼくの した うごかすやつ なんや?
 五つの子は何を叫んだかというと、ぼくの舌動けというた。その時はもう動いたあとやと。そのとおりでしょう。大体そんなこと考えたことある? この年齢まで。すばらしいことを思いつきますなあ。「ぼくの舌動け・・・ぼくより先にぼくの舌動かす奴なんや?」これが五歳の子の叫び、すばらしいことばでしょう。

 五つの子どもが、自分が生かされて生きていることを、直感的ではありますけども、ちゃんと気づくことのできる能力を持っているのが人間存在だということを、このことは私たちに明らかにしているのではないでしょうか。毎日毎日、食べるにもしゃべるにも、舌が動かなかったらできません。それほど大事な、しょっちゅう動いていてくれる舌ですが、自分の思いで動かしとるんじゃないでしょう。「ああ百ペンも舌動かしたさかい、一分間休めてやるか」なんてことはただの一ペンも思わないでしょう。自分の好きな時しゃべり、好きな時食べるから、自分が動かしとるつもりですけども、そうじゃない。自分の思いを超えたところで舌も動いておってっくれるんです。そうして生かされているのがお互いわたし達の存在なんです。

 ところが、なかなかそのことには目が覚めない。時々汽車に乗りますが、富山の帰りに津幡(つばた)で七尾線にのりかえましたところ、お勤め帰りの若い娘(ねえ)ちゃんが二人座ってしゃべっておられる。私は本を読みながら、聞くともなしに聞いておったら、

「あんた結婚したら子ども何人作るゥ?」
って。この頃の娘(ひと)は子ども作るじゃネエ。昔は、子どもは授かりものと言いましたが、この頃は子どもを作るんだって。冗談じゃないですね、子どももお与えの世界で授かるんです。授かるんですから、どんな子どもが授かろうと、それが私の子どもでありました、と子どもを背負っていくより他に、親としての私の生きる道はないんです。
ところが、人間というものは自分の都合にふりまわされて、都合のいい子どもが生まれると、まるで自分が作ったようにデカイ顔するし、都合の悪い子どもが生まれると、なんで私だけこんな子が当たったやら・・・、と言ってグチをこぼす。どんなにグチを言ってみても、その子の他に”親”としての自分の生きる場所はない。これは厳然たる事実です。
われわれは、それを引き受けて生きていける身になる、といことが助かったということなんでしょう。自分に都合の悪い子が、都合の良い子になるということが助かったということじゃないんです。お与えの世界で生きとる限り、与えられたものを引き受けて、その中で自分のいのちが尽くせるような、そういう生きざまができるということが助かったということだ、と親鸞聖人はわれわれに明らかにします。子どもは授かりものなんです。

 そのことを私に明らかにしてくださったのが、東京の発生生物学(生物はどのようにして生まれてくるかという学問)の荒井先生です。三年ほど前、岩波新書『胎児の環境としての母胎』(つまりおなかの中の子どもの環境としての母親のからだ)という書物をお書きになった。すばらしいことが書かれています。印象に残っている一つに、こういうのがあります。
子どもを産んだ経験のある皆さんでも、おそらく自分のおなかに子どもが宿ったとまだ気づかないころ、受胎して二週間以内と言うんですから。もうそんな時に脳を形成する蛋白質と、心臓を形成する蛋白質と、胃腸を形成する蛋白質がきれいに分かれるという。
荒井博士は間違いなく最上質の蛋白質が脳を形成し、次のものが心臓を形成し、次が胃腸を形成する。そして、先生は、分かれるということはわかっているが、なぜそうなるかということは現代の科学では神秘だとおっしゃっています。
そのとおり、われわれが子どもを作ったんじゃないでしょう。いつ自分が心臓を作った覚えありますが? いつこんな三つも節のある指を作った覚えありますか・・・。生まれてみたら、こんな子が授かったんでしょう。だから、子どもは授かりものです。

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二 「ねえおとうさん」
イ) 正受の人生
 だから、授かった以上はお互いわたし達はそれを引き受けて生きていく。それを「正受の人生」と、私は言っています。まさしくそれを背負うて生きていける人間になるということが、助かったということです。そして、そこに生きるとき初めて、子どもを授からなかった時には一向に気づかなかった、今まで味わったことのない人生の味を味わわしてもらうことができる喜びを見いだして生きていける人間になるんでございます。

 ここに「ねえおとうさん」という一つの詩がございます。

   ねえおとうさん

ねえおとうさん 生きて行きましょうよ
こんな子が授かったおかげで
誰も歩むことのできない人生を 知りました
誰もが味わうことのない思いも 味わいました
ねえおとうさん
それでよいではないですか

ねえおとうさん 前を向きましょうよ
この子が私達の前に現れてから
壁のカレンダーも十数枚かけかえました
でもこの子はいつまでも三歳です
かわいいではないですか
ねえおとうさん
それでよいことにしましょうよ

ねえおとうさん 笑って生きましょうよ
きょうも食事の時レモンを口に入れて
すっぱいといった顔のおかしさに 大笑いしましたね
まだいいや すっぱいのがわかるから といったのはだれ
この年になって こんなことで喜ぶ親なんて
この世の中にそうざらにはいませんよ

ねえおとうさん
やっぱり幸せだと思いましょうよ

 これは小児マヒの子どもを抱えて、初めはなんとかこの病気を治してくれる近代医学はないかと、あちこちと全国有名な方々をたずねてまわられた。けれども、どうしても治らない。そうすると、その次には、神や仏に祈願したら、お祈りしたらなんとかならんかと、有名な神社や有名なお寺さんをあちこちまわってご祈祷してもらった。

 それでも、どうにもならないというところに立たされて、はじめて、「この子を背負うていくのが、この子の親としての私の生きる道だ」と、真実なる教えに出遇うて、その道にようやく出させてもらった。そのお母さん(四十八歳になる方)が作った詩です。「ねえおとうさん」と、お父さんに呼びかける形で書いていますけど、お父さんに呼びかける形で、自分自身に言い聞かせているといただいていいと思うのです。

 「ねえおとうさん 生きていきましょうよ・・・思いも味わいました」。どんなに陰口を言われたかも知れませんでしょう。マトモな子どもを抱えておっては味わうことのない人生を味わわせてもらった。それだけ深く人生というものを味わわしてもらった。「ねえおとうさん それでよいではないですか・・・(二節・三節)・・・やっぱり幸せだと思いましょうよ」。

 どうにもならない絶望のどん底に立たされて初めて、「正受の人生」の歩む身になる人間の生きざまというものが顕(あらわ)になっていると思うのです。どんなにあがいても背負うより他なかったと、はっきりこううなずいて、その自分の背負わねばならない荷物を背負って力いっぱい生きていける身になる−−それが浄土真宗でいう、親鸞聖人のおっしゃる<助かった>ということだと申し上げていいと思います。

ロ 胃袋の苦労も知らないで
 身の事実から言いましても、お互いわたし達はやはり<お与えの世界>です。汽車に乗って旅行しますと、私は乗るとすぐに予定した本を読み出すんですけど、まわりにご婦人方の団体で入ってきて座られるとゲッソリいたします。なぜやと言うと、座るか座らんうちから紙袋開いて、はやバリバリと。まわして、「お前も食べよ。お前も食べよ」ボリボリやります。ボリボリがすんだと思うたら、ペチャペチャ、ペチャペチャ。ボリボリペチャペチャ・・・。
この間も富山から乗って糸魚川までわずか一時間のことに、一つも口を休ませないで、ボリボリペチャペチャ、ボリボリペチャペチャ。私は、”この人たち胃袋の苦労しっとるんかなあ”と思うた。おそらく知らんからあんなに放りこんでるんだろうと思う。朝飯すんだ。昼飯すんだ。その間に、おやつだって放りこむんでしょう。われわれは喉さえとおれば、ご飯がすんだと思います。しかし、この体ぜんたいのご飯はまだすんでいません。一時間前に食べたものは、今盛んに胃袋の中でこなされているのです。われわれは「ご飯すんだ?」というと、「すみました」と言う。ドッコイ、体の食事はすんでいないんです。それが胃でこなされ、さらに小腸大腸、あらゆるところを通って、きれいな血になって全身をめぐるには何時間も要するのです。だから一食のご飯も何時間も経たないと私の血にならんのです。それほどの苦労をしとるんです。ちょっと食べぎすぎたから、胃酸をよけい出して早くこなようなんて考えて食べている人は誰もいないでしょう。けれども、ちゃーんとこなしてくれるんです。生かされているんです。そんな便利な胃袋はわれわれが作ったんじゃない。

 私はいつも不思議に思うておるので調べてみた。それは、骨のような硬いものまで胃袋に入れたらこなしてくれる。それには強烈な胃酸が出てくれているのです。強烈な胃酸は硬いものを溶かしてくれるが、どうして胃袋の皮は溶かさんのか、私は不思議に思った。調べてみたらやっぱり溶かしておる。三日くらいに一ぺん、胃袋の内壁の細胞は全部死に代わります。一分間に約三万六千個の胃袋の皮を形成している細胞が生まれ代わっているんだそうです、次から次へと。強烈な酸のために犠牲になって。そのことご存知ですか? 
ノホホーンとして、夕飯すんでテレビ見ていると、また口がさびしくなった。ボリボリ食べて、”ああ眠たくなった。十時になったし、おもしろいテレビも終わったし、さて寝ましょうか”と、ゴロッと寝る。その間も胃袋はコットン、コットン、コットン、やっとるんです。ようやく片づいた、ヤレヤレひとねむりしようかと思ったら、朝飯だ。朝飯がちょこっと片ずいたと思ったら、おやつ。お昼。それも本当にお腹がすいて食べるのならいいけども、「腹はすかんけど、食べんと落ち着かんさかい」と言うてる。おもしろいネ、これ。なんちゅうドクショウ(毒性)なもんやろネ、これ。そしてまた三時のおやつ、夕飯。いったい胃袋はいつ休ますのか。私はお百姓さんによく言う。

「一年に一週間ほどしか使わん耕うん機すら、五年か十年経てば買い換えるでしょう。あんた七十年、八十年胃袋換えた覚えあるの? 毎日毎日はたらいてもらっておって、ただの一度も換えた覚えないわな。少しは胃袋の苦労も察しなけりゃいけませんナ」
と。と言いますのは、今から十数年前、WHO(世界保健機構)が発表した各国の死亡者の統計表を、偶然手に入れて読んだんです。日本人はその年に九十五万人ほど亡くなられたのですが、その内の三十四万人ほど、約三分の一は食い過ぎて死んでおる。飢え死にした者は、ただの一人もおりません。アフリカやインドや東南アジアには、飢え死にした人がたくさん統計にのっておる。ところが日本では、食い過ぎて死んだ者は三十四万人もおるけれど、飢えで死ぬのは一人もいないのです。日本人は「食べすぎ」なんです。だから、あるお方がおっしゃっている。

 「自分の腹へ、朝起きてもすぐご飯を入れるナ。起きて一時間ほど動きまって腹がグーッと来て、腹すいたナと思って、その時にはまだ食べるナ。それからしばらくすると、ギューギューとまたさして来る。痛いほどさしてもまだ我慢する。そして三回目にはとても腹が空いてやりきれん。その時に食べる」

 すると、すべてはきれいに、自然のうちにこなしてくれる。薬をのむ必要もない。そして食べたものが一番きれいな素直な血になるんだということです。あるお方が書いています。日本人は食べすぎる。食べすぎるために病気になったり、肥えて時間と金をかけてやせようとしています、と。これ何をやっているの、日本人は。これ賢いの? 賢いつもりでいるのでしょうね。

 この間もテレビを見ていると、やせるためにワザワザ金とひまをかけて、一生懸命運動をしていらっしゃる。ランニングマシンの上にのって、走りもせんのに一人でこうやっていると走るんだそうですね。あんな物の上にのってやせようとする。あんなことするくらいなら公園の草でもむしるほうがもっといい。自分の家のことはきれいにするけれど、公共のものには一向に手を出さない。お互いのものこそ一番大事なんだけれど、なかなかネ。そしてタラフク食べてやせるのに苦心していらっしゃる。これどうなっているんでしょう。
世界の片方で、特にアフリカはいま餓死寸前といわれる人が二千万人といわれている。飢えに苦しみ泣いている人がいるんです。それなのに、われわれはノホホーンとして腹をはいるだけ詰め込んで、胃袋の苦労もわからんとノホホーンと生きている。まるで、それで立派な人生を送っているような気でいる。”かかるあさましき我ら”、そのことを教えのもとで気づかせてもらうということが大事なんではありませんか。

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三 業のつなを握りしめて
イ) 人間になる
 次に、われわれはお互い”心”を持って生きている。その”心”の世界も、生かされて生きているのが本当です。「腹の立つのも立てさせてもらわにゃ立たんがや」と、私は言うんです。私の腹を立てさせた人を手を合わせて拝めるようになる−−ということが<人間になる>ということなんでしょうが、難しいことです。<拝める>には「自分にかけられた願いがあった」「如来さまのハタラキがあった」ということに、どこかで気づかなかったら、わたし達は拝めません。

 そういう話を新潟県へ行ってしておりましたら、六十五、六歳のおばあちゃんが座談会になった時に、

「先生、そんなことおっしゃるけども、私はきょう午前中、一人でコタツに入っておったけども、腹が立って腹が立ってたまらなんだ」
という。
「そりゃ一人でおったに違いないけど、腹の立った時には前になにかブラサゲタでしょう? オヤッさん(主人)のしたことか、言ったことか。それも今日か、三日前か知らんけども思い出してブラサゲル。あるいは子どものことか、嫁さんのことか・・・。何もブラサゲないで、腹が立つといことはないんやがネエ・・・」
そう言うたら、
「そのことはそうです」
「なんやったいネ」
「嫁さん・・・」
 そこには嫁に来て三年たつ嫁さんがいる。市役所に勤めているんやけど、朝ごはんを食べて箸をはなすとすぐ仕度をして、お姑さんが片づけているうしろを通って市役所に出かけるんだそうです。ところが三年間、ただの一度も、
「それじゃあお姑(かあ)さん行ってまいりますから、後お願いします」
と、言うたことがないんやて。私はすばらしい嫁さんもいるもんやと思うて、感心しましたネ。これは、嫁と姑の間柄を持ちながら、自分の意識で間柄を裁ち切っている。だから間柄がない。間柄がないということは、人間であることを失うてしまっているんです。だから平気で通れるんです、自分が後始末してもらっておりながら。犬や猫がだまって通るのと同じなんです。もうこうなると、犬や猫といっしょなんです。ところが、人間ておもしろいもんです。三年間も毎日やり続けられると、何も心が動かないんです。その日も黙って自分のうしろを通った。ところがその朝に限って、その嫁さんは内玄関の外にある犬小屋の犬に向こうて、「ポチ、行ってくるよ!」と、言ったというんです。とたんにカーッと腹立って。

 この話をすると、たいていみなさんお笑いになるけどねえ、私は理屈こきなんです。

「自分に言ったのが気に入らんと腹立てるのはわかるけど、ポチに言ったのが聞こえたくらいでなんで腹立てにゃならんのや」
だけど腹立つわネ。
「なんじゃあ、ポチ行ってくる? そんなこと言う前に、まず挨拶せんならん者がここにおるんじゃあないか!」
というものを、われわれみな握っています。
「いったいお前さんが時間に遅れんと市役所に行けるのは誰のおかげや。私がちゃんと後始末しているおかげじゃ!」
それから
「あんたの大事なムコさんを誰が産んで、誰が育てたと思うのや」(大笑)。
嫁さんに渡して三年たっても、私がいうように”ヒモ”が付いておる、”業繋(ごうけ)”業のヒモです。
清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ
と、みなさんが六首引であげなさる「弥陀成仏のこのかたは」のうちの五首目にこのご和讃があります。親鸞聖人は”業のつな”だとおっしゃる。”業”というのはお互いわたし達の生活していく事実を、”業”といいます。わたし達はいろんなことをして生活している、生きていく。ところがそれに”オレ様がした”というヒモが付く。そして、そのヒモを何年間でもしっかり握りしめて離さん、人間は。面倒なもんや。

ロ) どちらがヨクやら・・・
 これは中日新聞のともしび欄に書きましたから、お読みになった方があるかもしれませんが、能登教務所にある幼稚園の有志の母親と保母さんたちとで月一回の聞法会を、二十一年もなりますが続けています。その会からの帰り、午後一時前の汽車に乗ったんです。その一両目といのは、いろいろなものを頼まれて金沢で買って、また頼まれた家に配る「仲使いさん」が乗っている車両なんです。いつもは二両目だったが、一両目行きましたら一人の仲使いさんが横になってねとる。その前側は席二つあいてましたから、そこへ腰かけて、その日送ってもらったある先生の本を読んでいた。本の入っていた、所書きの書いた封筒は横においてたんです。すると、横になっていた仲使いさんが二駅ほど行ったころムックリ起き上がって、盛んに私の顔を見たり、その封筒を見とるんです。何しとるんだなあと思うたんです。そしたらそのうちに、やおら口を開いて、
「あんたさん志雄町(しおまち)の人かいね」
「ウン、志雄町や」(封筒に志雄町敷波と書いたるから)
「あの、志雄町という所は、なんとヨクの深いご坊さまのいる所やネ」
こりゃあ、おれのことをご坊さまと思うとるのかいなあ、と思ったんです。
「なんやたいな?」
と聞いてみたら、もう十数年も前のことだそうです。
「十年ほど前にみてもらいたいことがあって、あのう、志雄町の橋のそばに女のご坊さま、おってやろ?」
 ご坊さまじゃないんです。八卦のことなんです。そういうばあちゃんがいつも白い着物と、こんな黒い衣を上に羽織っとるもんやから、ご坊さまに見えたんでしょう。そこへ八卦してもらおうと思って、七尾からバスに一時間乗って志雄町で降りて、これとこれとこれとと、三つか四つ並べてみてくれと言うたんだそうです。そうしたところが、その当時(昭和38年頃)の金で一万円出せと言われた。「それが高い欲心なご坊さまや」というんです。

 それで私、

「仏さまはねえ、他人が欲に見える時は、わが身の欲なしるしと思えとおっしゃってる」
「なんやネエ。おれがどうして欲やちゅうんやネ!」
と、つっかかって来た。
「そうか、じゃあ言うぞ。わしも今から七尾へ行くんやが、七尾のことは少しは知っとる。七尾にも八卦おいたり、みる人は五、六人いらっしゃる。三人まではわしも顔を合わすし、話もする人や(某宗の人)。そんな人が地元の七尾にいらっしゃるのに、わざわざバス賃使って金ヒマかけて、一時間もかかる志雄町までやって来たのは、この人でなけりゃならんと思うたんやろ。この人でなきゃならんと思うてみてもらうなら、、一万円出せと言われたならなんで出せんのや? 欲やさかいに出せんのやろ。取り方はった(少しでも多く自分取り入れる)だけが欲じゃないの。出し惜しみやがな。(出し惜しみも欲です)欲はネ、取り方はっただけが欲じゃないの。出し惜しみも欲でしょう。だから取り方はったも欲やけど、出し惜しみも欲や。

そしてもう一つ大事なことがあるぞ。そのことはもう十数年前に終()んどる。その”業”は十数年前にすんどるのに、それにヒモが付いて、やっかいなことにヒモが付いて、見も知らん私が、志雄町という封筒をここに置いただけで、お前さん一番先に何を言った。欲の深いご坊さまのいる所やあ!」

 みてもろたのは十数年前も前に終んでしもうとるがに、その業につながついておる。そのつなをギュッと引っぱっとるのや。

 われわれはみなそうなんですよ。子どもにも”つな”は付いてる。もう今では一人前になったさかいに、嫁さんにあずけたと言うとるけど、自分の都合の良いように向いた時は、「これ見てみい、ウチの息子は」と言ってデカイ顔してつなをゆるめて、鼻の下長くして、ホケホケッとしている。ところが、ヒモをギューッと引っぱるでしょ。そして、引っぱっている自分の姿は見えてないの。”無明の闇”その闇が晴れて、自分の姿が見えるということが”助かる”ということです。それが見えてない。そういう形で生きているでしょう。だから、いつでもわれわれは”業の繋”に生きている。”繋”に生きている。
仏さまは「業に生きるのが人間だ」とおっしゃるのです。十年前の業は、十年前に始末して、今は、いま与えられた業を力いっぱい生きる。それが助かった人間の生きざまだとおっしゃるのです。
ところが、人間はなかなかそうはいかないで、何年でも「おれが大層した」「おれがこうしてやった」というつなを引っぱっているのです。そして、誰が苦しむかというと、つな”業繋”を引っぱっている私が苦しむだけ。誰も他人は苦しまないのです。”自業自得の世界”で、自らのつな引き、”業繋”のゆえに、自ら苦しんで生きてゆく、思い煩ろうて生きていく。そういう日暮らしをしているのが、人間のいきざまです。そういうことを明らかにしていただけるのは、仏さまの教えを聞くということにおいて明らかになる事実だ、と申していいと思います。

 今の場合もやっぱり”繋”を握っておるから、だから犬に言うたことばすら、それが聞こえたというだけで腹が立ってくる。人間というのはあさましいものです。自分が言われて腹が立つのならまだ同情するけど、犬に言うたのを聞いたくらいで腹が立つ、立てずにはおれない。そこに人間のあさましさがある。そのあさましさに目覚めるとき、初めて人間は本当に安んじた世界を生きることができる。そしてお互いわたし達が”身心共に生かされて生きている身であった”と、教えの下(もと)でいただくことができるようになりますと、人生を生き切ることができる。生き切ることのできる人生がわたし達に恵まれるんだ、といっていいと思います。

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四 一人のひとの涙にぞ足る
 広島に原爆の落ちた昭和二十年に、女学校三年生であったお方がいらっしゃいます。女子挺身隊として工場で働いていらっしゃる間に原爆に出合うた。意識不明になっておったんでしょう。気がついてみたら病院のベットに寝かされておった。そこで病院の便所にいく時、廊下の壁にはめこまれた鏡を見ると、自分の顔は二度と見れないくらい焼けただれておりました。それでも戦争中は「お国のためにこうなったんだ」と自分にも言い聞かせることができたし、周りの人たちも「お気の毒な、お国のために・・・」と、同情してくださった。

 けれどもひとたび終戦になりますと、まわりの状況がガラリと変わります。少し用事があって外へ出ようとすると、

「なんじゃい。あんな不愉快な気持ちを与える顔をいて外へ出歩かにゃいいに」
というササヤキ声が聞こえるようになる。彼女は自分でしなけりゃならない用事の他は、他人さまに頼んで一室に閉じこもるようになりました。

 そんな彼女にも見合いの機会が三回あったと言います。けれども、見合い写真を撮るためにその顔をレンズの前にさらす気になれなかったから、「どうか直接見合いにしてください」ということで、直接見合いにしてもらった。最初の二回は男からなんの返事もなかった。三回目が彼女に大きなショックを与えました。遅れて来た男がふすまを開けて、彼女の顔を見るなり、ものも言わずにふすまを開けたままキビスを返して帰っていった。これが彼女に大きな衝撃を与えました。
そしてその晩、ひと言「戦争を憎む」と書いて、すいみん薬をのんで、幼いとき無心に遊んだ広島の郊外の林の中に身を横たえました。けれども、早いうちにハイカーに見つけ出されて、気がついたら病院のベッドに寝かされておりました。そのとき最初に発したことばは「なんで、なんで、私を死なせてくれなかったか!」という恨みの言葉であったといいます。
こうして生きることも許されない、死ぬことも許されない、いわゆる絶望のどん底に立って初めて、広島といえば安芸門徒、西本願寺のお台所といわれるほどお念仏の盛んなところですが、彼女はそれが縁でお寺に詣り、私も存知ております先生の教えを受けられ、九条武子夫人の和歌に出あいました。そのうたというのは、

百人(ももたり)のそしりは我に火と降るも
ただ一人(ひとたり)のなみだにぞ足る
<九条武子>
 「ももたり」は百人、まわりの人がよってたかって自分を非難、攻撃しようと、自分のことを心から見抜いて心から自分に同情し、自分に涙をそそいでくださる一人の人、それは如来さまです。如来の大悲の涙が私にそそがれてあったんだということに目覚めたら、わたし達はいかなる世間の人の批難、攻撃の中をも堂々と生き切ることのできる身になった、という喜びを九条武子夫人がうたわれた和歌でございます。

 九条武子夫人も京都の西本願寺のお嬢さんとして、蝶よ花よと育てられました。

三夜荘、父がいませしそのかみは
花もわが身も幸多かりき
というおうたが残されています。お姫さまお姫さまで育った武子夫人も、九条男爵家へお嫁にゆき、間もなく夫と別居せざるを得ない悲境の中にたたきこまれ、その絶望の中から仏の教えを聞いて、やがてそこから立ち上がる。そして今日もなお大きく栄えております東京のアソカ病院を建て、アソカ老人ホームを作って、不幸な一生を送る人たちのために身も心も捧げて四十三歳で亡くなられた、絶世の美人といわれた九条武子夫人ですが、その武子夫人が絶望についてこうおっしゃっています。
「絶望に徹してこそまことの道は開け、まことの力は萌え出てこよう。それはみ教えによるものである。み教えのままに生きるものこそ、いかなる運命のいたずらにも打ち克ものである」
ということばを残しています。”絶望に陥って”とはおっしゃらない。「絶望に徹してこそまことの道は開け、まことの心は萌え出てこよう。それはみ教えによるものである。み教えのままに生きる者こそ、いかなる運命のいたずらにも打ち克つものである」と。われわれが最も避けたいと思っている”絶望”が、私が本当に生きる人生を賜るためになくてはならないものであったと受け止めることができて、初めて”絶望”をも引き受け、生きることのできる世界が開かれるのです。そこにこういう言葉が生まれてくるのです。

イ) 絶望が本当の人生への転換の期(とき)
 ヨーロッパにヘルマンヘッセという詩人がいました。その詩人も若い時自殺を三回試みて三回失敗しました。その結果、彼の口から出てきた言葉は、
「神が人に絶望を与えるのは、その人を殺すためではなくて、新しい生命(いのち)をよびおこすためである」
という言葉を残しています。なんで私だけこんな目にあわねばならんのかと嘆くようなことが、今まで私が生きてきた人生を本当の人生へと転換させてくれるチャンスなのだと。そう受け取るところに、わたし達は絶望をも乗り越えて生きることのできる境界が恵まれるということを明らかにしています。

 先ほどの広島のご婦人も「ただ一人のなみだ」、如来さまという「ただ一人のなみだ」が私にそそがれてあるんだということに気づかせてもらったら、ジッとしておれなくて、立ち上がる人生が生まれてきたんです。もう死ぬ必要のない人生が開かれきた。

 京都大学の石井完一郎先生が二年ほど前に『青年の生と死の間』という本をお書きになりました。これは京大の学生で死を思い立った者が、死を克()えて生きることを選んだ者と、一途に進んでしまった者を十五例あげて、死を思い立った者が死をのりこえる道は、「私が死んだら心から泣いてくださる人があるということに気づいた人は絶対に死を思いとどまる」ということを実例をあげて書いています。<私が死んだら誰よりもまず、あの方が心より泣いてくださる。あの方を悲しませるようなことだけはしてはならない>と立ちあがる−−そういうところに自殺をのりこえて生きる道があるということを明らかにしています。そういう”一人の人”を見つけ出す。そういうことが人生にとって大事なんだというのです。親であってもいいし、兄弟・友達であっても、先生であってもいい、”一人の人”。自分が死んだら心から泣いてくださる”一人の人”が見るかるということが何より大事だということを言っています。

 今のご婦人も「ただ一人のなみだにぞ足る」、如来さまの大悲の涙、それさえあればもう何もいらない。それで満足して、いかなる人生の中をも乗り切っていける身になった・・・と、九条武子夫人の和歌を頂戴してよろこばれた。

ロ) いのちを尽くす場を得る
 それからその人の生活はガラリと変わりました。あんなに外に出るのを嫌がっていた彼女が午前一時間と午後一時間、広島では最も若い人の集まる繁華街へ、そのみにくい顔を堂々とさらして歩くようになったというんです。後年、彼女はこの先生に言っています。
「私がこんな目にあいながらもなお生きておるというのは、如来さまが私に”まだやらねばならない仕事があるぞ”と言われているのだと気づかせてもらった。ならば、いったい私はどんな仕事をやったらいいのか。そのために私はどんな勉強をしたらいいのか。お念仏の中で一心にそのことを考えた。・・・けれども、今さらどんな仕事もする必要なかった。また、そのために新しく勉強する必要もない。この顔をさらすだけでけっこう役に立つ場所があった。いや、この顔でなければならない場所があったと気づかせてもらった。
それから私はこの顔を、若い人達のむらがる所にさらすことによって、”どうか若い人たちよ。二度と戦争だけはしないでください。戦争をすれば、こんなみにくい顔の人間が生まれるんです。どうか戦争だけはしないで! 平和を念じてください”と。平和を訴えるには、この顔がけっこう役に立つと。立つんじゃない、この顔でなければならない場所があったと気づかせてもらった」
と。そして照っても降っても毎日毎日その顔を堂々とさらして、一昨年の五月三日満五十歳でこの世をしもうて行かれたそうです。その方が生きているとき、
「先生、私が生きている間は、私のことは本にしないでおいてください」
と、彼女が言っておったから書かなかったけどと、その先生がその秋に書かれた書物に著しております。

 ここに、わたし達は本当に自分を支えておるもの、”如来”に出遇うと、”ただ一人の涙”に出遇うと、私を生き切る人生を賜るんだと、こう申し上げていいと思います。そして、”生き切る人生”を賜るということは、ウラから申せば、死に切る人生を賜る、死に切る人生が開かれてくる、ということだと思います。
なぜならば”生死一如”、生と死は一つではないが一つの如し。切っても切れない間柄にあります。私は、これを”一枚の紙”だと言います。一枚の紙には必ずウラとオモテがある。表が”生”とすれば、裏が”死”。われわれは”生”だけほしいんで”死”はいらないんだと。しかし、裏をけずったら紙そのものが成り立たない−−というのが厳然たる事実です。
人間の人生も”生”だけを眺めて”死”を見つめない人生だけが”人生だ”というならば、それは動物の一生であって人間の人生だとは言えないんです。このことをわたし達に明らかにするのが、仏さまの教えでございます。だから常に死を見すえた上で、命を尽くすような、そういう生きざまが恵まれるということが何より大事なんだということを教えてくださいます。

 死の問題については、次の章で話をしようと思います。

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深く生きる(2)

一 死を見すえて限りなき前進(往生)をたまわる
 先ほどから、おかげさまの一生といただくことができる、目覚めることができるとは、”生き切ることができる”人生が開かれてくるのだと申してきました。
 九条武子夫人のうたに、
いだかれて ありとも知らで 愚かにも
われ反抗す おおいなるみ手に
というのがあります。どれだけ反抗してみても、しょせんわれわれは”如来のハタラキの手の中”におるのです。孫悟空がいくら暴れてみてもお釈迦さまの掌から出られなかった、という話があります。われわれはどれだけ自分の思いで振る舞っておるように駆け回っても、それもみんな生かされている世界の中のできごとであったということです。そういうことが開かれますと、
見ずや君 あすは散りなん 花だにも
力のかぎり ひとときを咲く
と武子夫人はうたってらっしゃいます。
いだかれて ありとも知らで 愚かにも
われ反抗す おおいなるみ手に

見ずや君 あすは散りなん 花だにも
力のかぎり ひとときを咲く
   <九条武子>

 あした散るんだから、きょうはどうでもいいと言うんじゃない。あした散るんだということが明らかになれば、生きてある今を大事に生きる、精一杯生きる、力のかぎり生きる、”ひとときを咲く”。それが人間存在の人生というものであるということをうたっていらっしゃいます。そしてそれは、生き切る人生が開かれますと同時に、死に切る人生がそこから開かれてくるんだということでしょう。

 ところが、お互いわたし達は、なかなか死の問題と取りくもうとしないで、避けて通ろうとしているのではないでしょうか。どれだけ避けて通ろうとしてもこの身は”死すべき身”です。いつでも”往死”の世界、つまりオギャーと生まれた瞬間から死の方向へと歩みを運んでいるのがわたし達の人間の一生です。どんなに拒んでみても”往死”の一生。その往死の一生に、”往死の一生を賜る、それが浄土の真宗の教えに出遇うということだと、親鸞聖人はおっしゃる。<死すべき身>が<死に得る身>になるということ、それが”往生の一生”というものだと教えてくださいます。ともかくわれわれは死すべき身であります。北陸の倶利伽藍の合戦で有名な、平維盛という方がいましたが、

生まれては ついに死ぬてう ことのみは
定めなき世の 定めなりけり
とうたっております。人生無常の中で、人生あてにならないものの中で、生まれた者がついに死んでいくということだけはただ一つの間違いないことだと、こう明らかにしています。ハイデッカーも、
にんげんは 死への 存在である
と”往死”の存在であると言うています。ところが、人間はそうは言いましても”生”に執着しますし、なかなか死にきれないものです。

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二 「ほやのう・・・せめて」覚悟のいらん所で助かる
 わたし達の先生が教えてくださったのに、こういうのがありました。岐阜県の方でしたが、先生のお友達のお父さんがいらして、六十三歳くらいになられるそのお父さんに、先生のお友達が、
「お父さんお父さん。お父さんのお父さん(おじいちゃん)は五十八歳でこの世をしもうて行かれた。それからみればお父さんは五年長生きしている。もういつ死んでもいいかねえ?」
と、聞いたんです。そうしたらそのお父さん、静かに念仏しながら、
「曇鸞さまは六十有七というて、六十七歳まで生きさっしゃた。で、わしも曇鸞さまにあやかって六十七まで生きたいもんだなあー」
と、言われた。そして・・・、六十七歳もとうに越えてしまって八十歳近くなったら、そのお友達、また茶目っ気を出して、
「お父さんお父さん。もう曇鸞さまも越して十年になるんやから、もう死んでもいいかい?」
「そうやのう。蓮如さまは八十五歳まで生きさっしゃたから、せめて八十五歳までは生きたいもんじゃナ」
と、言われる。その八十五歳も越したんや。
「さあもうどやネ。お父さん、いつ死んでもいいかいネ?」
「ほやのう。ご開山さま九十歳まで生きさっしゃた。せめてご開山さまにあやかりたいなあ」
と言うて、九十二歳まで生きて亡くなられたそうです。

 人間そんなもんです。人間はなかなか死にたくないのです。死ぬ覚悟をしようとしてもできない。覚悟のいらん所で助かるのです。いやいやでもいいんです。いやいやで死んでも、一たびおかげさまに目覚めた人間は間違いなく、いやいやであっても助かる世界があるんだ、ということを教えてくださるのが仏教の教えでしょう。わたし達の人生は、生きることだけが人生じゃないんです。死もまた人生なんです。だから清沢満之せんせいはこうおっしゃるんです。

生のみが我等にあらず。死もまた我等なり。
我等は生死を並有するものなり。
   <清沢満之>
 ”並有”、あわせ有する、生と死をあわせ持っている存在だと教えてくださいます。そのとおりです。わたし達の人生は生きているだけが人生じゃない。死もまた私の人生なんです。ならばわたし達は<死に得る身>になる。そこから始まる人生こそ本物だと仏法は教えます。

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三 人間の根元的平等とは
 小田実という「ベ平連運動」もやられた小説家がいます。あの小田実が、『宗教を現代に問う』(毎日新聞社刊)五冊中、三冊目の終わりの方で毎日新聞の記者と対談をなさってますが、こう言っています。「人間の根元的平等・・・」と。
人間は”平等と自由”を求めてさまようてます。けれども、どんなに自由を求め、どんなに平等を求めても、この世にいるかぎりは不平等に泣かねばならないのが、人間の世界、娑婆の世界です。
たとえば、最近も問題になってますのが、税の徴収です。法律では、税は平等でなければならないとうたっています。が、その下から特例法というものを作って、輸出産業はこれだけまけてやる、お医者さんはこれだけまけてやると、みんな特例法でもってもれております。
そして今、一番税を重く感じているのは月給取りでしょう。サラリーマンの階級は自分のもらう収入がはっきりしているために、どうしてもごまかせない。あとはごまかしが効くように形になっている。それが娑婆の世界です。ところがその娑婆でたった一つ、絶対にもれることのない平等、それを小田氏は”根元的平等”というたんでしょう。小田実は、
「人間の根元的平等とは死ぬということだ。私はこのことを仏教に学びました」
と、はっきり言うています。そしてすばらしく仏教の勉強をしています。私はこの方の本を数冊読んでいます。しかし左翼的な方だと思うてましたが、なかなか仏教も勉強なさっておられます。 「人間の根元的平等とは死ぬということだ。私はこのことを仏教に学びました」  そのとおりです。どんなに権力の最高の座に着いたからというて、総理大臣になっても死なんでもいいんじゃないんです。縁が尽きれば、大平総理大臣は現職のまま心筋梗塞が何かで亡くなった。ノーベル賞をもらうような学問上の功績をあげたからというても朝永振一郎先生は、やはり死んでいかれました。さらには億万長者になったからというて、死なんでもいいんじゃないんです。
どんなに位人臣を極めても、財産をためてみても、学的功績を上げてみても、やっぱりわたし達と同じで、生まれたということがあれば死んでいかねばならない。だが死の因はなんだと思っていらっしゃる? 「あの人はガンで亡くなった」と言うと「ガン」が死のだと思うとるんじゃないでしょうか、われわれは。「あの人は交通事故で亡くなった」というと、交通事故が死のだと思うとるんじゃないですか? われわれは。そうじゃありません。それらは死のです。ものごとは”因”と”縁”によって成り立ちます。死というも因と縁があって、死というが訪れるのです。そのを”因縁の道理”というて、如来さまが”大道”とおっしゃいます。

 『三帰依文』の「自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん」のこの”大道”、大きな道、誰でもがそれによってあらしてある道。その”大道”とは”因縁の道理”を大道というのです。因縁というのは、すべては因・縁・果の道理によって成り立っておる。こういうことを明らかにするのが仏さまのおっしゃる”大道”です。そして”因縁の道理”をはずれて存在するものは一つもない、誰もいないとおっしゃいます。
われわれが死という果を招くのも因縁の道理によるのです。われわれが死の因だと思うておる交通事故だとか、ガンとかいうのは縁にすぎない。因は何か。因は生まれたとうことが因です。生まれたという一つの因が、死の縁に無量の縁によって、死という果を得るのです。
縁は無量、ガンで死ぬ、交通事故で死ぬ、いろんな形で死にます。だから仏さまは「死の縁無量」とおっしゃってます。死のは無量だが、死の因は一つ。だから死ぬのがいやだったら”生まれんこっちゃ”ということになる。だけど、生まれてしまったらそんなわけにいかん。だから、いやでも死んでいかんならん。どんなに逃れようとしても逃げられん。だから因は一つ、生まれるという一つ。
その因から出てきている限りにおいては、みな死んでいかねばならない。それがお互いわたし達です。ならば、わたし達はその死を見つめる人生をどこで見開くかということが大事だとおっしゃいます。それは仏法を学ぶというところから、死を見つめる人生が開かれてくることなんだと、こうおしゃいます。

 ところが、われわれはなかなか死を見つめようとしません。
 ある特攻隊員で、二十六歳で亡くなられた陸軍兵曹のことばに、こういうのがあります。

「おれは今まで生きるということはむずかしいことだと考えていたが、どうあっても死なねばならないという一点に立たされて・・・」
 そうでしょう。同じ部屋におって一昨日は何人死んでいった。昨日は何人死んでいった。今日も何人死んでいった。あすは誰になるか知らんが、この部屋にいる限りはいずれは特攻隊員として死んでいかねばならない。そういうところに毎日おるんです。いやでも応でも死を見つめなければならない状態の中におかれている。だから、
「・・・この一点に立たされて、死ぬことの難しさが身にしみる。今の私にとって死を教える宗教こそ、たった一つの宝石だ」
ということばを残して三日後に、この地上から消えていったのです。その三日間の間に死を教える宗教に出おうたか出あわないかわ不明でございます。

 「生を究め、死を究めるのが仏者の一大因縁だ」と道元禅師は言いましたが、生きるということは死にきるということなんだ。そのことをはっきり見きわめるところに、仏教の教えに出遇うということがあるんだと道元禅師はおっしゃいます。さらに、蓮如上人はこれを「後生の一大事」ということばでもって、<真実なる人生の一大事>それは死を見すえて生きることだ−−という意味で「後生の一大事」ということばで私たちに警告してくださいます。

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四 今度のさよならは否応なしです
 ところが、お互いわたし達は”こんにちは”と生まれてきたからには、遅かれ早かれ”さようなら”しなければなりません。はたしてわれわれは、さようならできるでしょうか? きょう皆さんにあげた『人間成就』の中に「さようなら」という作文がございます。
   「さようなら」(作文)
「さようなら」「さようなら」
なんとふしぎな言葉でございましょう。私たちは学校がすんだら、
「花ちゃん さようなら」
「竹ちゃん さようなら」
と手を振り、ハンカチを振って別れますが、その時の「さようなら」は、またあした学校で遊びましょうね、という約束を持った別れであるから、ちっとも淋しくなんかありません。

 でもこの間、本当に淋しい「さようなら」をいたしました。それは明子花嫁姉ちゃんが花嫁入りの時でした。今日はすっかり花嫁姿に着飾った明子花嫁姉ちゃんが仏さまのまん真ん中に座り、お父さんが右、お母さんが左、妹の私はうしろに座ってていねいにお別れの挨拶をお内仏にいたしました。それがすんでお父さんが明子花嫁姉ちゃんに言いました。

 「明子。ご縁あって親子となって二十一年、今日はお前を手ばなすに当たって、お父さんは、ああも教育しておけばよかった、こうもしつけとけばよかったと心残りで胸が一ぱい。そのことを思うと明子、お父さんはお前に済まなく思う。でも明子、お前の今日の晴れの出発。この家を出たらもう私の娘でなくなるんだよ。先方に妻の座、嫁の座が与えられる。頼んだよ、この妻の座、嫁の座を立派に果たしておくれ。ねえ、明子頼んだよ。さようなら」

 やがて仲人の伯父さんに催促されて、私たちはいよいよ家を出ることになりました。妹の私は花嫁の明子姉ちゃんとの別れが辛くて、足が思うように前に進みません。その時、前を行っていた明子花嫁姉ちゃんがうしろを振り向いて、たった一言「さようなら」と言いました。その一言で私の足はもう一歩も進みません。私の涙の中を、明子花嫁姉ちゃんの白足袋ばかりが右左右左と別れて明子花嫁姉ちゃんは行ってしまいました。

 なんと淋しい不思議な「さよなら」でしょう。
 私たちはもう一度さよならをしなければなりません。今度のさよならはどこへ行くのかサッパリ分かりません。今度のさよならは一人でいかなければなりません。今度のさよならは否応なしです。なんと恐ろしい不思議なさよならでしょう。わたしは宗教の門を叩かずにはおられません。

 これは高校二年生、十六歳の女の子の作文でございます。すばらしい作文でございます。
 「私たちはもう一度さよならをしなければなりません。今度のさよならはどこへ行くのかサッパリ分かりません。今度のさよならは一人で行かなければなりません。今度のさよならは否応なしです。なんと恐ろしい不思議なさよならでしょう。私は宗教の門を叩かずにはおられません」

 その方は、もう幼い子三人のお母さんになっていらっしゃると武宮先生はおっしゃいます。こういうすばらしい死の見すえをすることのできる人生を歩んでいらっしゃる方もおられるわけです、けども・・・われわれは・・・、独り生まれてきたという事実があれば、独り死んでいかねばならない。「独生独死独去独来」です。
お互いわたし達独り生まれたら、独りで死んでいかねばならない。しかも、その死んでいく場所が広漠たる平野にただ一人いて死んでいくのじゃない。前には、「人、世間愛欲の中にあって」と書かれています。
”愛欲”というと今日では男女の仲を言いますが、現代の言葉で”愛欲”と言い直すと、”人間関係”ということです。人は無数の人間関係の中で、孫と婆ちゃんの関係、兄弟、友達、親子、夫婦、師弟の関係、いろいろな無数の人間関係にありながら、ここ一番いうことになれば、独りで生まれてきたからには独りで死んでいかねばならない。誰も代わってくれない。「身、自らこれを当()くるに、有(たれ)も代わる者なし」と『大無量寿経』が明らかにしていますが、わたし達はひとりでこの世をしもうていかねばなりません。

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五 なぜ旅が待ち遠しいの
 ところで、昔から人生は旅にたとえられます。人生の旅をこの年まで歩いてきました。いろんなことがあったけれども、どんなことがあろうがなかろうが、いずれはそのたびは終われねばならない。

 旅がなんで楽しいかをいやというほど知らされたことがありました。私の寺では毎月十八日午後、二時間ほど仏法を聞く時間を持っているんですが、ここ十年ばかりご和讃の講話をしています。その講話を終えて、集まったおじいちゃん、おばあちゃんとお茶を飲みながら、方々でもらってきたお菓子を配って雑談をするんです、一時間ほど。ある日

「ご院主さん、わたしゃ富山の温泉へ二晩泊まりで行くんやけどネ。ハヨ来んかと思うて待ち遠してならん」
と言う。そこで私は、
「こんな歳になってもやっぱり旅ってなあ、そんなに楽しいかね」
「うん、そりゃ。待ち遠してかなわん」
「そんなら聞くけど、なんでそんなに待ち遠しいほど楽しいかわかるがかい?」
そしたらみんなしばらく黙っておった。そのうち、キカン気のお婆さんが言うた。
「そんなむずかしいことはどうでも良いわいネ。とにかく楽しいこと間違いないわい」(笑)
と言うた。
「そりゃそうに違いない。そりゃそうに違いないけどナ、本当はそれがわからんと、本当の喜びが出て来んのやけどなあ。そいじゃあ、私が教えてやるか。

 ここに、お前さん達やけど、仲の悪い嫁と姑がおったとする。どんなに仲が悪うてもお婆さんが二日間も家をあけるとなりゃ、いやでも嫁さんに声をかけんわけにいくまい? ”ほんなら嫁(ねえ)さん、老人会で二晩泊まりで温泉に行ってくるぞー”と声をかけた。
そしたら、いつものキカン嫁さんが、何を思うたやらゴソゴソとやって出てきて、”お婆さん、老人会で二日間も温泉行って遊んで来るなら、ここに十万円あるさかい思い切って使ってらっしゃい”と言うて十万円くれたらどうや。
今が今まで、みんなに土産買ってきてもあのツラ憎い嫁にだけは買うてくるもんじゃあないと思うとったやろが。それが十万円もろうたとたんにホケホケとして、誰よりも一番良い土産買うて帰らにゃならんと思うやろが、それでも言う口はどうかと言えば”こんな婆さんになってお前、二晩で十万は使えんわいのう”といいながら五万円返すのかと思うたら十万円ふところにしまってしまう。そしてホケホケとして玄関またいで、”嫁さん、そんなら行ってくるぞう”と言うたら、うしろから声がした。”婆ちゃん、その十万円使うても、二度と家へ帰って来るんでないぞう”と言われたらどうや。その十万円もらって温泉で楽しめるか」

と言った。みんなにも聞きますが、
「十万円やる。二晩温泉へ行って楽しめ。ただし家へ帰ってならん。と言われたら楽しめますか。だあれも楽しめる人はありません。」
 旅行が楽しいのは帰る先が明らかになっているからです。帰る先が明らかになっているということが、旅行が楽しいということ。人生の旅が楽しいのは帰る所が明らかになっている時のみ、人生は楽しいのです。そして旅は必ず帰る場所がなければならない。帰る場所のない旅を放浪と言うんでしょ。放浪はいつどこで泊まる宿があるやら、いつどこで夕食にありつけるやら、不安と恐れしかない。戦々恐々として旅しなければならない。安心して、満足して生き切ることのできる旅は、行き先が明らかになっておるということです。

イ) 帰る旅
 以前亡くなった高見順というお方の『死の淵より』というすばらしい詩集の中で”帰る旅”という詩に出会いました。以前その詩集をサーッと読みましたけども、問題意識なしに読んでおる時には何もこたえんのです。一つ問題を持って読みますと、それがギクンと響いてっくる。

 『死の淵より』とは、高見さんは食道ガンで三回手術をした。三回目の手術の病床の中で死を見つめながら書いた詩が一冊の書物になったものです。だから死を見すえた中で、ついに食道ガンで命を落として行かれたんです。

   帰る旅 高見 順
(一)
帰れるから 旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつか戻れるからである
だから駅前のしょうからいラーメンがうまかったり
どこにでもあるコケシの店をのぞいて
おみやげをさがしたりする

(二)
この旅は 自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を

(三)
大地へ帰る死を悲しんではいけない
肉体とともに精神も
わが家へ帰れるのである
ともすれば悲しみがちだった精神も
おだやかに地下に眠れるのである
どきにセミの幼虫に眠りを破られても
地上のそのはかない生命を思えば許せるのである

(四)
古人は人生をうたかたのごとしと言った
川を行く舟がえがく水脈を
人生とみた昔の歌人もいた
はかなき彼らは悲しみながら
口に出して言う以上同時にそれを楽しんだに違いない
私もこういう詩を書いて
はかない旅を楽しみたいのである

 だから人生の旅が、帰り場所を見つけ出すことにおいて、最も不安と恐れを抱かすところの”死”をのりこえる道があるということを明らかに教えてくださったのが浄土教の教えでございます。

 特に親鸞聖人のみ教えは、その帰る場所を”浄土”に見つけます。”浄土”というわれわれの帰る場所、そこから生まれてきて、迷いの世界で煩悩にほだされて泣いたり笑ったりした人生もやがて終わりになれば、やがてまたそこへ帰らせていただく。そういう”浄土”という場所を明らかに見つけ出すことにおいて、もっとも人間にとって不安と恐れを与える”死”をのりこえる世界を明らかにしたのが、親鸞聖人の浄土真宗の教えであると言っていいと思います。

 なればこそ親鸞聖人は『末灯鈔』第十三章、これは信と行の問題を、重要な問題をお弟子さんに教えられる大事な手紙ですが、おそらく八十七歳頃のお手紙だと推定されます。七月十三日という日付は入っていますけれども、年号は入っていない。その手紙の最後の所にこうおっしゃってみえます。

いまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。
 だから、親鸞聖人には帰る場所としての”浄土”というものが、はっきりと明らかになっています。われわれにはたして帰る場所ありやなしや、と。
『歎異抄』の第九章を開けば、
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。
「かの土」とは彼岸です。お浄土。お浄土へ参るべきだとおっしゃっています。だから親鸞聖人には帰る場所が明らかになっておる。だが、わたし達には本当に帰る場所が明らかになっているのかどうかということが問われておるということです。しかも生きているものは必ず死なねばならない。そうすると、その問いは人間にとって根元的な問いであると言わねばならないと思います。
それは決して年齢がいった者だけに問われているんじゃないんです。オギャーと生まれたそのとたんから、人間誰にも投げかけられている問い、それは「帰る場所ありやいなや」ということだと言っていいと思います。そういう問いを背負うて生きているわたし達が、その問いに目覚めて帰る場所がはっきり見つかることが、教えに出遇うということでないでしょうか。

 今申しましたように、親鸞聖人には、明らかに浄土という帰り場所があった。しかも、その”浄土”は私が帰る場所であるにもかかわらず、私に先立って、如来さまによってすでに建立されておったんだ。如来さまによって用意された、与えられていた世界であったという了解が、親鸞聖人の信心の世界にあります。”浄土”も自分が作ったんじゃない、すでに用意された、大悲の世界のできごとであったという深い喜びが親鸞聖人にあるわけです。だから死ぬも生きるもおかげさまの世界でございましたと、いただける世界が、ここで開かれてくるのです。

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六 分限を知る
−−葬式は残されたものの仕事−−
 ところが、人間はそのことになかなか目覚めません。私の檀家の親父さんの妹が、今から六年前にこの世をしもうていかれた。その親父さんは口の汚い人で、私が報恩講つとめに行きゃあ、二十年も三十年も前から、
「ご院さん、生きとるうちは死なんがやし、死んだら生きとらんがや。なんじゃって、そんなに仏法聞けって言わんならんネ」
と、いつも私を茶化しておったんです。ところが六つ下のその妹は体の弱いこともあって、寺からは汽車で四十分かかる所に嫁入りしたんですが、寺でどんな行事をしても、話があると聞けばちっちゃい自分の子どもを背負って泊まりがけでも参って仏法を聞いてくれた。その妹さんが亡くなられた時は、さすがのやんちゃな親父さんも、六つも下の者に先立たれたら、やっぱりシューンとしたんでしょう。何を言うと思った「枕直し」の後、ごく近い者だけでお茶を飲んでおったら、しみじみとして親父さんは言うんです。
「ご院主さん、おらあ死んでいったら、ウチはあんなに小さい家やさかい、寺を借りて葬式出してくれんかいね」
と言うんです。
「おお、そんな時にわしも生きとったり、寺もなんの行事もないように空いておったら、いくらでも貸してやる。けれども葬式は残された者の仕事、お前さんの仕事でないんや。どんなにお前が寺を借りて葬式を出したいと思うても、死んでしもたら、どっこいそうはいかんがやぞ。
ここにいる息子が”ネーご院主さん、親父あんなこと言うとったけど、一生ボロクソ言うた親父や。あんな者寺借りて銭出してなんで葬式せんならん。オラ一人で棺かついで行って火葬場で燃やして、そのまま灰をほおってくるわいネ”となってほられても、お前さんなんにもできんの。死んでしまえば何にもできない。葬式は残された者の仕事。お前さん今”死んでいったら”と言うたがどこへゆくの。死んでいくこの身の仕事は行き先を明らかにするということが、死んでいく私の仕事やわいネ」
清沢満之先生はいつもおっしゃいました。
吾等の大迷は如来を知らざるにあり、如来を知れば己が分限あることを知る
   <清沢満之>
と、すばらしい言葉を残してくださいました。私は十八歳の時から一年に何回かこの言葉を口ずさまねばならない瀬戸際に立たされて、この言葉に導かれて今日まで参りました。
吾等の大迷(おおいなる迷い)は如来を知らざるにあり、如来を知れば己が分限あることを知る

「死んでいくこの身の分限は行き先を明らかにすること。
残された者の分限は、葬式を出すということやネ。”やんちゃな親父やったけど、ご院主さんに寺を借りてと頼んだようやけど、親父は一生ここで苦労したんやから、やっぱり狭うてもここから葬式出してやりたいわネ”と残った息子が言えば、葬式はお前の家から出るの。葬式は残された者の分限やから、とやかくいう必要はない。
あなたのやらねばならんことは、死んで行く先を明らかにする。ちゃあんとあんた死んで行く先がはっきりしとるか。そのことがお前さんに問われておるんや。ここの死んだ母ちゃんは、間違いなく浄土という帰る場所を持っていかれたが、お前さんに帰る所ありや否や。その答えをこの私に返事する必要はない。夜中にふと目がさめたら、自分自身に、はたして帰る場所ありやと自ら問うてみなさい。帰る場所ありとハッキリ言い切ることができたならば、これ(妹の死)を縁として、本気になって仏法を聞き、死んで帰る場所をはっきりさせてもらうことがなけりゃあ、亡くなった方につながりのある者として、死んだ方が”死”をもってのこした教えをいただいてこそ、妹さん(死んだ人)の”死”に本当に遇うたということにはならんのとちがうか」

と、その時も話したことでした。

 そして、親鸞聖人においては、自分が帰る場所であるにもかかわらず、自分に先立って如来さまがちゃんと用意をして、

「我に来たれ」
「どうか帰ってくれよ」
「南無阿弥陀仏、帰ってくれよ」
と、われわれに呼びかけておってくださる。そのよびかけの響きは、まちがいなくここまで届いておるんです。ただそれを自分の胸に、
「さようでございました」
と、落ちこむのか、落ちこまないのか。そのことが問われておるんです。
すると、「ただ信心を要とすとしるべし」。”めざめるということが肝要なんだ、聞きなさいよ”と『歎異抄』でおっしゃっておるんです。
救いは無条件である。条件なしの救いにめざめなさいよと、われわれに呼びかけておってくださる。
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。
と、親鸞聖人もおっしゃられてます。

 お互いわたし達が帰る場所を明らかにさせていただいて、帰らしていただく身になるとき初めて、生き切り、死に切ることのできる人生を賜ります。

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七 自分以外の一切のものを拝む
 愛知県一宮市のお方で、四十八歳の女盛りをしもうていかれた一人のご婦人がおられました。その方は死ぬ直前まで、ガンの病気でもう助からないとわかっておったけれども、仏教のブの字も知らなかったんです。だが、近くに米沢先生の教えを聞いていたご婦人がいらっしゃって、
「お前さんどうせ人間に生まれて人間で死んでいくんだから、人間に生まれてよかったという喜びをもって死んでいける身になってください。そのために真実なる教えに出遇うてください」
と、病床に通うたんです。ところがはじめはがんとして聞かない。
「今さら念仏の教えを聞いて、ガンが治るんなら聞いてもいいけれど、ガンも治らんのに、今さらそんな教え聞いたってどうなる」
と、かたくなになって聞かないのを、
「そんなこと言わずに、一度聞いてくださいよ」
と、通いも通うた二十八日間せっせと通うたそうです。その通うた根気にほだされて、
「そんなにあんたがおっしゃるなら、一度聞いてみようか」
と聞き始めたのがご縁で、ついにお念仏に出遇うて、お念仏しながらこの世をしもうていかれた。そして亡くなってから、枕直しをしておりましたところが、枕の下から一枚の便箋に書かれた詩(うた)が出てきた。その詩には、『人間になって死ねるすばらしさ』という題名が付いておる。その詩は、おそらく一週間ほどかかって、苦しい息の下から長いことかかって書きつづられたものだと思う。
「人間になって死ねるすばらしか」
いやでいやで一度聞いたことが縁となり
人間の道に出して下さったあの方が尊い
一日で一番楽しい時が来た
あの方が見える
あの方が来られる
絶望の病になったればこそ
あの方の声が聞かれた
あの方の心が聞かれた
この病を拝む
 今までガンという病を恨んで恨んで、恨んでおったんです。四十八歳これからという時に。姑さんも達者でいらっしゃる。これからラクをさせてもらうという時に、なんで先に死んでいかんならんか。なんと忌まわしいガンなんて、医学でもどうしようもない病気になったもんか、とガンを恨んでおった。
それが、そうでなかった。不幸の病があったればこそ、お念仏の教え、真実なる教えに出遇うことができた。あの方の声が聞かれ、心が聞かれ、生かされて生きている身であったと知らされた。帰り場所も如来さまが用意して待っておってくださったんだと気づかせてもらえたのも、忌まわしい病があればこそであったと、絶望の病を拝む。

 自分以外の一切のものを拝む身になるということが、人間になるということだと、私はいつもみなさんに申し上げております。自分にとって最も都合の悪い病気すら手を合わせて拝む身になって死ねるすばらしさ、と言わざるを得ない境地が開かれておると申し上げていいでしょう。それから、その詩にこうも書いてある。

朝が来た今日もいのちをいただく
恥ずかしい悲しい業が念仏の手を合わせる
お姑様が仏でありました
愚か者を今日もお世話して下さる後ろ姿を拝む
 今までお姑さまにお世話してもらいながら、お姑さまが拝めなかったんです。なぜかというと、自分より歳も上のお姑さまがあんなにかいがいしく働いていらっしゃるのに、なんでそれより若い私が先にいかんならんのやろと思うたんでしょう。だから拝めないんでしょう。

 私も十八歳の時、腎臓の病気をしまして、その時一番恨めしかったのは、元気な顔して友達が見舞いに来る、その友達が恨めしくてならんです。だから今でも、病院へ見舞いにいく人には、「あんまりなあ、達者な顔して行くなや。恨まれるだけやぞう」と言うんです。
元気な顔して見舞いに来てくれる。見舞いに来てくれるのはありがたいのやけれど、元気な顔を見ると「コンチクショウ。なんでおれだけこんな病気しとらんならん」と。だから「あんまり達者な顔して行くなや、罪造るぞ」と言うて笑うんです。
けども、病人というものは、周りの人がかいがいしく働いていらっしゃればいらっしゃるほど恨めしくてならんです。そこへ持ってきて、姑さまといえども、嫁である私が平生おせわしとったんだから、嫁が病気になった時ぐらいせわをするのは当たり前だという。そういう根性を持っていますと、なかなかお姑さまを拝めないです。
ところが、「お姑さまが仏でありました、おろか者をおせわしてくださる後ろ姿を拝む」、そこには何が生まれたんでしょう。私の病気は治らん病気。治る病気なら看病のしがいもあるけれど、治らん病気だと知りながら、なおかつセッセと看病できるのは赤の他人でできることじゃなかった。嫁と姑につながった姑なればこそできることであったと気づかせてもらったら、後ろ姿を拝まなきゃおれなかったのです。そして人間になって死ねるすばらしさを感じとったのでしょう。

形だけの人間でなく 本当の人間になって死ねる
こんなすばらしさを あの方は与えてくださった
心の音が いのちの音が とくとくと耳まで響く
真実の声だと あの方は教えて下さった
知らなかった 知らなかった
大きな苦しみの裏側には 念仏の幸せがありました
仏・仏・仏よ
このままで申訳なきままで
帰らせていただく身の幸せ
幸せ
私は幸せ
と、この長い詩は結んでいます。
仏・仏・仏よ
このままで申訳なきままで
帰らせていただく身の幸せ
幸せ
私は幸せ
 帰る場所というものを明らかにして、ご縁尽きたら帰らせてもらうんだという、そういう喜びの中で、人間にとって最も不安を抱かす死を、まちがいなく乗り越えて生きていける。死にうる身になった一人の女性の詩でございます。

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八 教えに出遇うてこそ
 いずれは、われわれは死んでいかねばならない。”往死”の人生の中で、”往生の人生”を賜る。それが帰る場所を明らかにしてくださった”念仏の教え”であると、親鸞聖人は明らかにしてくださいます。
教えを聞こうが聞くまいが、人間にとっては”往死の一生”なんです、事実としては。”往死の一生”のただ中に、帰る場所を明らかにしていただくことにおいて、”往生”という、価値ある人生を明らかにしてもらうことができる、そういう教えが浄土の真宗として、わたし達の前に開かれてあるんだということです。
そしてその教えに出遇うて初めて、生きるも死ぬもおかげさまのどまん中であったなあといただくことができる。さらに言えば、”智慧の光”をもって”往生という価値ある人生”へと転換してくれるはたらきが、如来であり、他力であり、仏力であり、南無阿弥陀仏というはたらきであった、といただかれていかれたのが親鸞聖人のみ教えです。そして、その南無阿弥陀仏のはたらきによって、わたし達はいのちの限りなき世界、無量寿のいのちの世界に運びこまれるんだと教えてくださっておられます。

 こう思いますときに、教えの下でおかげさまで生かされて生きており、やがてご縁尽きたれば、おかげさまで死に切らせてもらうことができる、帰る場所も与えられてあった身であったなあということが思われ、そして同時に、私を支えてくださるすべてのイノチ、すべてのハタラキをむだにしない一生を、いのちいっぱいせいっぱい送らせてもらわねば・・・、と立ち上がるところに、真実の人生ありと教えてくださるのが、浄土真宗・親鸞聖人のみ教えだと、こういただいていいんじゃなかろうかと思うことであります。

 その”報恩の行””報恩の生涯”こそただ一つの人間の真実なる人生であると、生涯を”報恩の行”として歩みつづけられた、その道を明らかにされた聖人が親鸞さまでございます。


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