1 ウマイ目にあうのが人生か | 2 金に追いついた覚えあるの? |
3 如何ガ安然トシテ驚懼セザランヤ | 4 五欲を追うても |
5 「けれども私は出家したのである」 | 6 「私が生きられなくなったのは・・・」 |
7 何時でもちょうどよい年頃においてくださる | 8 横にのびるイノチ「生命」とめざめるイノチ「寿命」 |
9 人々を揺さぶり続ける”イノチ” |
1 是非シラズ 邪正モワカヌ此ノ身ナリ | 2 「あんな奴とは思わなんだ」 |
3 照らされてこそ | 4 生かされている世界 |
5 摂取(えらばれずのハタラキ)がアミダさま | 6 不捨(待つことのできるハタラキ)がアミダさま |
こちらでも、こうした仏法聴聞の機会がございますが、私のところで年に四回、仏法聴聞の機会を持っております。六月・七月・八月の一日は仏教講座ということで、方々のご縁のある人に集まっていただいておるのでございます。二千枚ほどのビラを作り、あちこちの村のご縁のある方々のところに置いてまわると、その方々がその村の何人かに手渡して下さる。まあ、そういう形で毎回案内するんです。
そうして案内文を持って五月の終わりごろ回っておりましたら、私の町の役場の前で門徒の五十がらみの父ちゃんに会うたんです。
みなさんは、金に追いついた覚えあるの? せめて百万円と思って一生懸命働いて、百万円にたどり着いたら、いつの間にやら”もう少し・・・”と言うてるんでないでしょうか。”せめて二、三百万あったら”、そんならと。二、三百万に到達したら、”もう少し、せめて五百万あったら”と。そうでしょ。その次、五百万になったら、”もう少し、せめて一千万あったら”(一同笑)。なかなか追いつきませんなあ。そしたら最後はどうなるの? 墓場・・・。
それが仏法聴聞以前のわたし達の生き方でありませんか。追いついた試しがない。追っかけて、追っかけて、追っかけてはいるけれども、一向に「追いついた」「満足でございます」「これだけお金が手に入ったら、もう十分でございます」という場所を持たないんでしょ。そして最後は、墓場へ・・・。
そういうことを思いますと、私は学校を卒(おわ)った昭和十五年春から一年あまり、中国の非占領地に特別の任務で入りこみました。そして”中国の人はやっぱり知恵があるなあ”と思ったんです。中国の人は家に何匹か豚を飼っています。その豚をいよいよ売るというと、連れて行くのにすばらしい知恵を発揮するのです。
これは豚だけのことでしょうか。「おお忙しい、忙しい」でかけめぐって、金を追いかけて、追いついた覚えがない。とうとう追いつかずじまいで、墓場へ! これ、この豚と同じことじゃないんですか。同じ生きざまでないでしょうか。
”六道”というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界。次から次へと経めぐって、腹の立つ時は地獄のどん底に落ちるし、自分の気にいったものが手に入ると「まだ欲しい、まだ欲しい」、「まだ足らん」で、餓鬼の世界に落ちこむし、あるいは、「まあ、食うことにゃ心配いらんから、まあこんで楽なこっちゃあ」と彷徨っているのを畜生の世界といいます。
そういう生きざまをしているわたし達は「未だ解脱して苦海を出ずること得ず」。仏さまの教えを聞いて娑婆世間のおもい煩いをはなれて、ほんとうに安じて生き、満足をもって生きる−−そういう場所を知らない。
私もこの偈文に深い感動があります。故東昇先生、西元宗助先生やらを育てられ、今各界で活躍されている先生方にお念仏を伝えられたすぐれた先生、池山栄吉先生とう念仏者の先生に、昭和十二年から一年半ほどお会いして教えを聞きました。その池山先生の著書に『絶対他力の体験』を私は病床で読みました。この書物の最後に先生も「日没無常偈」を引いて、「ともしびの用意かしこし秋の暮れ」(いずれ人生は終わらねばならない、旅を終わる用意のために仏法を聞こうじゃないか)と、わたし達にお勧めくださっておられるのです。その本の最後に私の書きこみがある。「昭和十二年三月二十七日読了」と。
この十ヶ月ほど前から腎臓を患いまして、大学病院で大手術をした。それが縁で仏法の世界に入らせてもらいました。六歳で『正信偈』を習ったし、数えの七つの夏までに『阿弥陀経』をお祖父(じい)さんから習って読むことができた。けど、それは自分を育てさせるものとしていただいたのではなかったのです。ところが仏の教えというものは、それによって私を育てる。私を育てるものを教えというのです。だから、仏法を聞くというのは、そのことによって今の私がなんらかの意味において育つとうことがあって初めて”教え”ということが成り立つんだ、と申し上げていいと思います。
ところが、ことらはどうか知りませんが、私どものところでは五十歳ぐらいでも、「仏法聞かんか」と言うと、「ご院さん、わしゃまだまだ仏法聞く年齢(とし)でない」と言うんです。仏法を聞く年齢があると、自分の思いで決めてしまうんです。その自分の思いが実は迷いの世界を作っとるんです。にもかかわらず、われわれは自分の思いを握りしめて生きとるんじゃないでしょうか。
次は”色欲(しきよく)”色気。これもなかなか止みません。死ぬまで色気も止みません。その次は、「なんとかして金を貯めたい」”財欲”です。財産を貯めたい。所詮おいていくより他ないにもかかわらず、死ぬまで財産を貯めたい。どこのお婆(ヒト)でしたか、貧乏ぐらしの独り暮らしだと思ったら、死んだ後に何千万だとか残っておったそうです。そしたら、それを目当てにまた人がお互いイガミ合わんならん、罪を造るんです。にもかかわらず、やはり財欲に追われます。
最後は、”睡眠欲”。ねむるというのが欲の一つに入れてあります。一日のうち三分の一は眠ってこの年齢までなったんだけど、やっぱりネムリタイ。ちょっとでも床の中におりたい。そういう欲が起こるのだと。この五欲を求めて追い続けておるわたし達の日暮らし。それがウマイ目にあう人生でございます。ところが、それをどれだけ追い続けても、人間というものは、それだけで満足して生き切ることもできなければ死に切ることもできない存在、それが”人間存在”だということです。
例えば、愛知県出身で、日曜の大河ドラマで”女太閤記”をやっています、あの豊臣秀吉を思い出す。秀吉は”はだかの八兵衛”で、どこで生まれたかわからん出身でしょう。そしてわずか六十三歳の一生の間に、位人臣をきわめて、”大政大臣””関白””太閤様”にまでなった。ならば彼は、死ぬ時に、
お釈迦さまが、後にお覚りを開かれてからご説法なさった中に『出遊経』というのがあります。これは『南伝大蔵経』の中にあります。今わたし達が漢字でいただいているお経は”北伝”、北の方へ伝わってきたものです。今はやりのシルク・ロードから中国の北地に入って、それから日本に伝わってきた。だから『北伝大蔵経』です。
その南伝『出遊経』に、お釈迦さまがなぜ出家することになったかを書いてあります。その中で、こうおっしゃっておられます。
「私は食べる物ではカーシ国の最上の食物を食べておった」。当時のインドには、たくさんの国がございましたが、その中で一番豊かな国が”カーシ”という国です。日本列島のような小さな国でも、徳川時代は三百余候がひしめいておったんですから、インドは亜大陸と呼ばれるほど、大陸につぐ広大な地域ですから、そこに、たくさんの国があっても不思議でない。その、たくさんの中で最も富める国の”カーシ国の最上の食物”を食べておった。「けれども私は出家したのである」とおっしゃって、その理由を書いている。
そういう雨の時を過ごす御殿を持っていた。住まいも心地よく過ごしておった。「けれども私は出家したのである」とおっしゃいます。わたし達人間は、食うこと、着ること、住むことにかかりはてていますので、それを思いますと、一体人間は賢いのか、愚かなのかわからなくなります。毎日毎日、食べることにかかりはてているんでしょう。頭も使い、いろんなものを集めて食べている。だが、上手な食べ方ということになれば、犬や猫の方がもっと上手じゃないかと思います。人間が一生懸命こしらえて食べたあまりを、犬や猫はなんにも働かんとってゴミ箱から探して、それでやっぱり一生経っていく。人間はどんなに苦労して食物を作ったって、一生食べるだけで二生は食べられん。死んでいかんならんでしょう。ところが犬や猫は、やっぱり同じ一生食べていくのです。自分が作るのじゃなくて、ごちそうさん、です。
そうしますと、お互いわたし達が本当に安んじて生き、安んじて死にきれるためには、どれだけウマイ目にあうものを追い続けても、それだけでは人間は生きていけない。そういう代物が人間存在だということをわたし達に明らかにします。そのためには”常に教えに出遇う””今の私が教えによって育つ”ということがなければならない。だから、教えを聞かしてもらう。
”人生の底に裏切らない愛(慈悲)、私の心の底まで見通す智慧”、そういうものが見るかることなくして、人間は安んじて生きることもなければ、満足をもって死にきることもできない。それが人間存在だということを明かすのが仏教の教えだと思うのです。教えに出遇うことによって、そのことがはっきりしてくるのだと思います。
だから、お釈迦さまの『法句経』、今日のことばで「真理のことば」と訳されおりますお経の中に、
これにはさすがのご住職も、さすがというのは、その方は当時東本願寺においては一、二と言われた布教の大家として全国に知られているお方でございます。その、さすがのご住職も返す言葉がなかった、と。この後一年ほどしてこのご住職に京都で直接うけたまわったことです。そのご住職も十年ほど前に、この世をしまって往かれました。
いったい、ウマイ目にあう人生で”今がちょうどいい年頃だ”と言いきることができるのは、いくつくらいでしょう。おそらく三十代、四十代ぐらいでしょうな。四十代も半ば過ぎりゃ「ご院さん、足が突っ張ってきた」とか、「目がカスンデかた」とか、会えば必ず一つや二つ、言うことが出ます。五十過ぎますと、二つどころか三つも四つも、「あっちもこうだ。こっちもこうだ」と言います。
数年前まで、この二つは同じ立場で表す言葉だと思っていましたが、やはり字が違うだけあって立場が違うんだということを最近しみじみと感じるのです。”生命”のイノチは、オギャーと生まれて十年、二十年・・・五十年と横に長く延ばして行くイノチ。寝て食うて食うて寝て、それを横に延ばして行くイノチだと申し上げていいと思います。これは単に人間だけが持つものでなく、犬や猫も、そこらに生えている木や草もみんな生命を持っている。そういう生命を少しでも長くしたいという人間の願いが息災延命という形で表れます。息災延命の延命するイノチは生命を延ばす。皆さんが元旦にお宮に詣って祈願なさる、その時、長生きしますように祈られるのは、横に少しでも長く延ばしたいという、生命(いのち)。人間の思いから出てきたものだと言うていいと思います。そういう生命を抱えているのは人間だけではない、犬や猫や名もない草一本に至るまで、みんな”延命”を願いながら生きておるわけです。
ところが、人間はその生命のただ中のどこかで、”親を失うた”、”子どもに先立たれた”、”仕事に失敗してニッチもサッチも動かんようになった”、”大きな病気で死ぬ目にあう”等々と、どこかの一点に立って、こんな苦しい目にあいながらも生きていかねばならない。そんな人間とは一体なんなのかと、自分の生命を縦に深く掘り下げるイノチがあります。そういうイノチを”寿命”という言葉で経典はわれわれに明らかにされていると思うのです。経典には”寿命”という言葉がたくさん出てきますが、それを拾っていく時、”寿命”とは自分の生命を縦に深く堀り下げるイノチだと感じます。だから”寿命”というイノチはめざめることができるイノチであります。その、めざめることのできる寿命は、人間だけが持っているイノチなんです。
わたし達は、人間だけに与えられたこの「めざめるイノチ」(寿命)を、寝て食うて、寝て食うてのイノチどこかで教えに出遇うて、その”寿命”にめざめるということが大事なんだ。それがなかったら、先ほどのおじいちゃんのように、「住むに家がないわけではない。着るに着物がないわけではない。食べるに食物がないわけではない。にもかかわらず、生きられなくなった・・・」と行き詰まらねばならない人生を抱えておるのが人間という存在だと思います。「生命」と「寿命」によって人間の一生は成り立っておる。その「生命」と「寿命」をかみあわせたところに、わたし達一人ひとりの生涯があるんだと申していいと思います。
さらに、この愛知県からお出ましになった明治の清沢満之先生。この先生は、ご存知のように明治三十六年六月六日、数え四十一歳でこの世をしまっていかれました。あの清沢先生の遺されたことばが、それから百年もなる今日のわたし達の魂を、まちがいなく揺さぶり続けています。私は十八歳の時に大病をした。その時、一番最初に接したのは『歎異抄』と『清沢満之全集』でした。昭和十一年秋でしたけれど、まだその時分は清沢先生、清沢先生と騒がれなかった時代。先生の六冊の本を丸暗記するほど、くり返しくり返し読んだものでした。その人のはたらきが今日の私を揺さぶり続けています。そして、東本願寺が今騒動の最中でございますが、そのどちら側からも、良いにつけ悪いにつけ引合に出されるのが清沢先生の教えでございましょう。そういうことを思います時、四十一歳は短命でありますが、その方の残された言葉がわたし達を揺さぶり続ける生涯は、やはり短命で長寿の生涯と言っていいでしょう。
けれども、なにもそういう偉い人たちだけが短命長寿の生涯を送ったのではなかった、ということをある日知らされました。それは、いま毎日新聞論説委員をなさっておる高瀬義夫という方がおられますが、この高瀬さんのお嬢さんは十四歳でこの世をしまっていかれた。その方は八歳(小学三年生)のとき腎臓病にかかられて、学校は三年生までしか行かれず、それから六年間は、病院へ入ったり自宅療養をしたりで、腎臓の病気のあらゆる病気を患って、最後には五十数人の人々から輸血しつづけられながら、なおかつ血を吐いて死ぬという悲惨な一生を終わられた。亡くなった後、お嬢さんの残されたノートと日記を開いた高瀬さんはこうおっしゃるんです。
次Bは、長命であるが、短寿と言わねばならない一生があると思います。”長命で短寿の一生”。「あの人もあれだけ長生きしたら、言うことなかろうがね」のひと言でかたづくような生涯。これは長命ではあっても短寿の一生であると言うてもいいのじゃないかと思います。
そして最後は、C長命で長寿の一生。これはわたし達に仏教の教えを、この地上に歴史上に初めて教えてくださったお釈迦さま。お釈迦さまは満八十歳まで長生きなさいました。今日でもインド人の平均寿命は満三十七歳だと言われてますが、その当時は世界推定人口統計表を見ますと、十六歳でございます。平均寿命十六歳のとき、満八十歳まで生きるということは大変なことです。疫病はあるし、食物のない飢饉があったり、いろんなことをかいくぐって八十歳まで長生きする、これは容易なことではありません。けれども、わたし達が「お釈迦さまお釈迦さま」と言うて釈尊を尊ぶのは、なにも平均寿命十六歳の時代に八十まで生きられたからじゃないのです。八十年の生涯をかけて「人間とはなにか」ということを、とことんまで掘り下げて、わたし達に明らかにしてくださったからです。
このことを、二十世紀の哲学者の双璧(ヤスパースとハイデッカー、共に西ドイツの人)の一人ハイデッカーは、
そして、わたし達の戴いています親鸞聖人。この方も、鎌倉時代に満九十歳まで生きられました。鎌倉時代の平均寿命は三十六歳だと日本の人口統計研究所の推計はいっています。三十六歳が平均寿命の時代に九十歳まで生きる。これは容易なことでありえません。特に、鎌倉時代は、前半源氏と平家の戦に明け暮れ、戦によって命を失うていったのは侍だけではございません。巻き添えをくうて、たくさんの名もなき民衆も死んでいっているんです。その戦で巻き添えをくうことなくして、戦をかいくぐって九十歳まで生きる。これは大変なことです。そして、後半は二、三年連続の飢饉が、一年おきに日本をおそうておるのが鎌倉時代です。その飢饉に飢え死にすることなくして九十歳まで生きる。これも大変なことでございます。
その飢饉の状態を、親鸞聖人は八十八歳のお歳にお書きになったお手紙(消息)、文応元年十一月十三日の日付けの冒頭にこう書かれています。
けれども、わたし達は、聖人が長生きされたから聖人を尊ぶのじゃないでしょう。その長い九十年の生涯をかけて、人間の性根というものをとことんまで掘り下げて、わたし達に明らかにしてくださった。その明らかにしてくださった教えが、今日のような、物が豊かで便利で快適な時代に住むわたし達の人間の性根も、まさにそれであるということを明らかに知らされる−−そういう世界を持っておられるところに、親鸞聖人の生涯は”長命で長寿”の一生であると言わねばならない。また、そのゆえにこそ、わたし達は親鸞聖人を尊ぶのだと申し上げていいんだと思います。
「是非シラズ、邪正モワカヌ此ノ身ナリ」。何はそれでいい、何はいけない、間違っている、何は正しいということもまったくわからない。八十七歳になってもわからないこの身だとおっしゃるのです。親鸞聖人はよく”この身”ということばをお使いになりますけれど、これは”煩悩具足の身””凡夫の身”といわれる”身”でごさいます。”凡夫”といわれるこの私の身は、「それはそれでいい」「それが間違ってる」、どちらが正しいか、どちらが邪がということも、サッパリわからん。この年齢まで生きてきたが、わからんとおっしゃいます。それはお互いわたし達もそうでしょう。私も数えで六十三歳になりますけど、戦争中には正しいとされ、是とされたことが、戦争後には邪といわれ、非といわれました。それも三十五年も経ちますと、またぞろ戦争中の是であり、正であるものが頭をもたげてくる。そういうところにいま立たされいます。だから、何が是であり、何が非であり、何が邪であり、何が正であるか一向にあてにならない−−そういうところに生きています。
よく高光一也先生が自坊(うち)へ来られるとおっしゃる。冬になると、お寺の周りの、自分の孫と同じ位の小さな子が、遊ぶ所がないもんやから本堂へ遊びにくる。あそこの本堂もこれ位の大きさです。遊んでいる子どもを見ると、寒いもんやからみなゴット鼻たらしている。そしたら先生、自分の孫のをきれいに拭いた。「なんや鼻たらして! 見苦しい、ちゃんとかんどこ!」と言うて。そのついでに、隣の子も拭いてやればいいのを、それをどう言うたかと思ったら、「お前うちへ行って、鼻をかんでもろうて来うぞ」と言うた・・・。(笑)かわいそうに、この寒いのにそんなとこ行ってかまんかて、一緒にかんでやればいいのを、何か隣の子の鼻水が付くと汚いような感じがする。わが孫の鼻水ならなにも汚くない。そんなら金沢大学へ行って「うちの孫の鼻水と、隣の子のとどっちが汚いか調べてくれ」と言うたって、「鼻水は、鼻水じゃわい」と、(笑)おっしゃるだろう、高光先生が言われます。ところが、人間は、自分のかわいいもんの洟(はなじる)やったら付いてもなんでもないし、隣の子はきたない。そういう愛情を、有縁の愛情というんです。
有縁を私は二つに分けるんです。一つは血がつながっているところからわいてくる愛情。”血縁の愛情”−−親と子、じいさんと孫、兄弟、そういうつながりがあるから放っておけない愛情を”血縁の愛情”。もう一つは、同じ場所に住んでおる、同じ村落に住み、同じ町に住み、同じ市に住み、同じ国に住んでおるということで起こる愛情、”地縁の愛情”。その二つの縁がある、有縁の愛情です。どんなにカンボジアの人がひもじい思いをしても、自分は腹一ぱい食べておって平気でおれる。それが有縁の愛情です。そういうところにしか立っていない、そういう愛情。
ところが、親鸞聖人はそういう愛情すらないこの身だと、「小慈小悲モナケレドモ」とおっしゃる。八十七歳になっても、そういう有縁の愛情すら持たないのがこの私であった、と呼びかけてくださいます。さあ、わたし達はどうでしょう。そんなこと親鸞聖人がおっしゃってもやっぱり孫はかわいいし、子どもはかわいいし、やっぱり隣の人が泣いとりゃ放っとけん。いくらご開山さまがおっしゃっても・・・「われわれは愛情はある!」と思うているんです。ところが親鸞聖人は、われわれが愛情だと思っているのは”愛情ならざる愛情”を愛情だと思うているんだとおっしゃいます。
今東光という人がいらっしゃいました。毒舌家として知られ、小説家であり天台宗の大僧正。参議院議員もされた。その今東光に、ある新聞記者が対談で質問した。
”かわいさあまって、憎さが百倍”と昔から言いますが、愛情ならざる愛情だから、自分の思いにかのうておる時は愛するけれども、自分の思いに違うたらコンチクショウになる。亀井勝一郎は、「人間の愛は、愛の無常」と表現しました。その『愛の無常』という書物がありました。あん時に約束したというて、十年前に約束したことをチャンと握りしめて、変わる相手を責めておる。変わるんです、無常なんです。愛といえども無常。そのことをはっきり胸におくことが大事だと亀井勝一郎さんはおっしゃいます。
だから、小慈小悲もない身であるにもかかわらず、「名利ニ人師ヲコノムナリ」。何が是やら非やら、何が正やら邪やら。そして本当の愛情の一かけらもないクセしておって”名利”名を得たい、利を得たい、うまい目を見たいという根性と、”人師”、人の上に立ちたいという根性だけは八十七歳のこの歳になってもやまない。「カカルアサマッシキ我ヲ」と、親鸞聖人はおっしゃいます。そこに七百年昔の聖人の言葉ですけれども、その残された言葉は、今日のわたしを間違いなくうなずかせるところの用(はたら)きを持っておるのじゃないでしょうか。そのゆえにこそ、人間の性根をとことんまで掘り下げて明らかにしてっくださった親鸞なればこそ、聖人として尊ぶゆえんがあるんだと思います。
そして、”教えに遇う”ということは、”真実なるものに目を見開く”ということだと教えてくださいます。真実なるものに目を見開く、そのことがなかったらわたし達は満足をもって自分の生涯を生ききる、安じて生ききる、そういう境界を賜ることができないんだと教えてくださいます。その”真実を見る目”を”智慧の眼(まなこ)”と仏教はいっております。智慧の眼を見開くということが、教えに遇うたいうことなんです。智慧の眼が開けて真実を見と、ることができるようになれば、「おかげさま、生かされて生きておる身であったなあ」と、しみじみと頂戴できる、めざめることがでいきる。そこに初めて、安心のいく人生が開かれてくる。
褌一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持たないために、”あたりまえだ”と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互いわたし達の今の生きざまでありませんか。ところが、六十年間にたった一ぺんだけばあさんの腰巻きを洗うて、それで拝んでもらった。六十年間一ぺんも礼を言わず、あたりまえにしていた、この私のあさましさが、その”たった一ぺんのお礼”によって明らかに照らし出され、映し出されて、”なんとあさましい身であったなあ”と、知らされた。
この話を聞いたお年より仲間は帰り際に、異口同音に、
私は、”これも目が見えんなあ”と思うた。そこで、このことを私は話しの中に入れたんです。
しかも、このわれわれの体は、その七十%近くは水分でできておる。だから一日に一升二、三合の水を何らかの形で補給しなかったら、この体はもたないんです。それほど大事な水、お湯をのむ。”あなた方も一泊三食で集まられた。ならば三食のごはんが済んだ後には、少なくともお茶を飲まねばならない。人間の体にとって大事なお茶を飲むための茶わんを持って来た人は、手を挙げなさい”。誰もおらん。誰も茶わんを持って来ていないということをすでに見抜いておるから、このセンターではちゃーんとあなた方がここへ来るに先立って、すでに茶わんを用意して待っておってくださる。そのおかげで皆さんお湯が飲めるんじゃないか。そして、そのおかげで水分を補給することができるのじゃないか。にもかかわらず、われわれは、たった一晩しか泊まらない、それがなくたって命にかかわることのない品や、お化粧道具やらをハンドバックの中に入れて来たんやろ?」
だから盂蘭盆(普通”おぼん”)という十五日は、逆さまになって生きておった人間が、真実に生きるようにと自分をふり返って反省し、懺悔する日なんです。それがいつの間にか、”お盆”といえば先祖供養ということに変わってしまいましたけれども・・・。先祖の供養というのも本来は、自分をふり返って、先祖あればこそ自分が今ここにあったんだと、反省から生まれてきたものなのです。それを、自分を抜きにして先祖の供養に走ってしまったところに、今日の”お盆”のまちがいがあります。そのように、本当は”お盆”は”自恣の日””反省する日”として選ばれたんです。われわれは教えに出遇うて、「おや、また逆さまごとをやっておったなあ」「だから苦しみ煩ろうて生きておったんだなあ」「安心と満足が得られなかったんだ」という具合に反省させてもらう日、懺悔させてもらう日がウランバナ(お盆)です。そういうことをお互いが心得ておかねばならないと思うのです。
ざしきに上がればざしきが
そればかりではない
ああそればかりじゃない
酸素は一日に一キロ要るんです。しかも、それがただで与えられているんです。そこで生かされて生きているんです。その酸素を今日工業技術社会をつくった文明が無駄使いしているのが現代というものでしょう。冷房も暖房も酸素の無駄使いです。酸素がなければ、高度工業技術社会はつくられないのです。そして年々酸素が減っていく。酸素を供給してくれるのは植物でしょう。植物が光合成して酸素をふやし、それが地球上に空気中の21〜22%ためられたところへ、酸素を吸う動物というものが生まれてきたのです。だから酸素を吸う動物が生まれるには、吸うて生きていける準備がすでに用意されているのです。用意する期間として学問上の推計では十億年かかっとるんです。植物が生まれてから、動物が生まれるまでに、十億年。十億年かかってたくわえた酸素が22%近くなって初めて、吸う動物が生まれてきたのです。すでに酸素が与えられてあって初めて、わたし達はここに存在するのです。
その酸素を、人間は無駄使いする。工場で無駄使いする。またできたものを消費するという形でわれわれが無駄使いする。そうして炭酸ガスが増える。酸素が18%を割ったら、人類は終わりだと言われています。なぜか。火が燃えないんだそうです。われわれは自動車を持っておって、ガソリンの心配はしますけれども、酸素の心配はしないでしょう。ガソリンは満タンであっても空気中の酸素が18%を割れば、ガソリンは発火しないんです。したがってエンジンは動がんのです。それほど大事な酸素のことは心配せずに、「ガソリンが高くなった」とか、「ガソリンがない」とかばっかり心配して、それを発火させる大事な酸素のことを一向に気づかない状態で生きているのが、われわれの姿じゃないんでしょうか。
その酸素は、地上と海上から供給されるのですが、水中が三分の一という説と、水中が半分ほどともいわれています。いずれにせよ海中と地上の植物が供給するのです。ところが地上の木はどんどん伐り、草がはえるのは面倒くさいとアスファルトを敷いてしまう。その名もない雑草が酸素を供給してくれているにもかかわらず、われわれは面倒だというて、アスファルトやコンクリートで敷きつめて、草の生えんのをいばっている。そのために、自分の息の根が止まるということもご存知ないという”無知”の中に生きているんじゃないですか。私はそういう方面をずい分前から調べはじめて、今も続けています。すると、わたし達が今ここに生きているのは、ちゃんと生きられるようにして、すでに用意された世界で生きておるんだナ、と思わされます。
自分はご縁ある人々(有縁)の方によって生きておるように思いますけど、無縁と思われるような人々のお力によってわたし達は生きとるのです。私は昨日ここへ来ますのに、十二時五十六分の汽車に乗りまして、金沢では二時一分の「しらさぎ」に乗って、そして米原で十六時十一分の新幹線に乗って豊橋へ十七時三十分にまちがいなく到着しました。汽車やバスが、その時刻に間違いなく停留所に行けばやって来るというのは、不特定多数の人間が乗るという前提があればこそ、汽車もバスも定期的に動いているのです。
なぜ阿弥陀さまというかといえば、摂取して捨てないからいうんだと。だから如来さま、阿弥陀さまというハタラキは、摂取不捨のハタラキなんだと教えて下さいます。親鸞聖人は「摂ハ、モノノ逃グルヲ追ワエトルナリ」、生きとし生きるものの逃げていくのを追っかけて捉えてくださるのが、”摂”という字だと読まれました。
戦争で主人を亡くしたカアちゃんが、ある日息子の結婚式という日に道で会うたら、
「不捨」というのは「待つことのできるハタラキ」だと申し上げていいと思います。たとえばエラバレズのはたらきが如来さまのはたらきであっても、これが待つことができない、末代の今日まで待てない、「弥陀成仏ノコノカタハ イマニ十劫ヲヘタマエリ」と。「今」とは、私が如来さまに出遇うた時、その一点。「劫ヲヘタマエリ」出遇ってみたら待つも待った、「十劫」という長い間待ってくださった。「えらばれずハタラキはあるけれど、私は一劫しか待たんぞ! あとは知らんぞ!」と言われたら、末代の今日の私の助かる場所はなかったという大きな驚きが、親鸞聖人の信心の世界にはまちがいなくございます。となりますと、<えらばれずのハタラキ>がお慈悲の広さを表すとすれば、<待つことのできるハタラキ>はお慈悲の深さを表しているのだ、といただくことができたのです。
そのことを教えたのは、東井義雄先生の書物の中にある小学生の作文に出会うた時です。この子の父親は飲んべえで自分の儲けた金はもちろんのこと、その連れ合いのカアちゃんは自分と二人の子どもの生活費を稼いでいるのですが、そのカアちゃんの稼ぎまで飲んでしまう。そして金のある間は一年でも二年でも寄りつかん。どうしても金がなくなると金を取りに家に帰るという。そういう生活をしているんです。たまたま家に金を取りに来て、「金がありません」と言うとえらいことをする。カアちゃんの髪の毛を持って引きずりまわす。カアちゃんが「こらえて、こらえて」と言うても引きずりまわす。そこで子どもは思いあまって、ある日、
すると、それまで泣き伏しておったカアちゃんが、ムクッと起きて、「お前はなんちゅうこと言うんだ!」と、坊やのほっぺたをぶん殴った。カアちゃんの味方をしているつもりで言ったのに、カアちゃんになぐられた。子どもはわけがわからなかったのです。それでワァッーと泣いて家をとび出して行った。気がついたら近くのお宮の森の杉の木の下で泣いておった。そこへ姉ちゃんも来て、二人でしばらく泣いて家に帰ったら、もう父ちゃんはどこへ行ったかさっぱりわからない。それから半年経つけど父ちゃんは帰って来ない。
少年はこう書いています。
その作文に担任の先生が添え手紙をして、東井先生の所に送った。その添え手紙にはこう書かれてあります。
「あれから何年経ったでしょうか。A君のお父さんは今なお帰って来ていません。風の便りに、神戸の方にいるという話です。姉さんが働いて、A君を大学へやるんだと言ってます。これ以上悲惨な生活はないと思えるようなドン底の中で、子どもたちはたくましく育っていきつつあります。いったいそれは何がさせているのでしょうか。A君たちもえらいが、このお母さんはそれ以上にえらいと思わずにはいられません。筋金の入ったお母さんの生き方が、二人の子どもの生き方をカッチリ支えているように思われてなりません・・・」
この添え文を付けて、東井先生にこの作文を紹介され、それが『根を養えば樹は自ら育つ』という一冊の書物の中に載せられております。
「今はあんなに極道だけれども、今に誰も相手にしなくなったら必ず帰って来ると思います。私はその日を待ちます」。こんな深い愛情があるでしょうか。われわれ夫婦の愛情がどんなに深かっても、誰も相手にせんようになってから帰って来るくらいなら、もう帰らん方がマシや! というのが関の山じゃないでしょうか。ところがこの人は、”どんなに極道でも、誰も相手にせんようになったら帰って来る。私はその日を待ちます”と。
そういう「摂取」と「不捨」というハタラキを同時にもったはたらきが「如来の本願」と言われ「阿弥陀」といわれ「他力」といわれるところの”願いのハタラキであった”と、親鸞聖人は教えてくださるのです。そういう願いがあればこそ、選びとおして待つことができない、そむきどおしの私の助かる場所があったのだという驚きが、親鸞聖人の信心の世界だと申し上げていいと思います。すでにそういうハタラキが働いておってくださった。そういうハタラキに支えられて、私が今ここに存在するのだということに目覚めて、そこから始まる人生こそ、人間としての本当の人生というものだ---と教えてくださるのが親鸞聖人のみ教えだと申し上げていいとおもいます。
「ところでお前さん。そのお金に追いついた覚えあるのかい?」
豚というのは、あっちへチョロチョロこっちへチョロチョロと、なかなか言うことを聞いてくれません。それでどうするかと言うと、首に縄をしばりつけて豚の大好物のにんじんを竹の先に糸でぶら下げて、ちょうど鼻の先へ。豚はそのにんじんほしさに傍見(わきみ)をしません。ブーブーと言いながら前に進んで行く。そんな豚を五、六匹にして、中国のお百姓さんは悠々とたばこをふかしながら、チャーンと行くんです。どこへ行くんですか、屠殺場。
私はそのことを思いますと、善導大師の『往生礼讃』にある「日没無常偈」を思いだします。ご存じでしょうが、法然さまが浄土宗を開かれてから、そのお弟子さんたちが朝晩あげられるおつとめ(勤行)は『往生礼讃』です。だから、親鸞聖人も『往生礼讃』をあげられた。それが、親鸞聖人が『正信偈』をお作りになってからのちは、聖人のご門徒と言われる人たちが『正信偈』をあげられるようになった。そして蓮如上人のときに、朝晩のおつとめは『正信偈』だと決まりましたけれど、それまでは『往生礼讃』をあげたんです。「善導独明仏正意」と『正信偈』の中に出てきます、あの善導さまが作られた偈文(げもん)です。こう書いてあります。
”**(そうそう)”というのは、あくせくということ。”衆務”とは、いろんな務め。子どもも育てにゃならん、金も儲けにゃならん、付き合いもしなきゃならん・・・と、いろんなことをやって、人間はあくせくして衆務を営み「年命の日夜に去ることを覚えず」。
未だ解脱して苦海を出ずること得ず。如何が安然として驚懼せざらんや。各(おのおの)聞け、強く健やかにして力ある時、自策自励して常住を求めよ。
<善導大師・「日没無常偈」>
自分の命が日に夜をついで一日一日消えていくことに目覚めようとしない。それはちょうど「燈の風中にありて滅する期しがたきが如し」。
ろうそくの灯が、風の中にゆらいでおって、いつ何時に吹かれて消えるやらわからん。そういう状態のあやうい命を抱えながら、そうそうとして、衆務を営む。そして年命の日夜に去ることを覚ろうとしない。目覚めようとしない。「忙忙たる六道定趣なし」。ここで”忙しい”という字が出てきます。「こここそ、私の住んでいる場所でございます」と定まった場所がない。
いがみ合うのが修羅、たまに相手の身になることができるのが人間。しかし、身になりきることができない。子どもの身になったかと思うと、いつの間にか”コンチクショウ”と子どもを恨んだりしなきゃならない。そういう世界が人間界。
天上界とは、”自分の思いどおりに行って・・・”有頂天になっているんです。しかし「天上にも五衰のあるものを・・・」で、いつまでも天上界にはおれない、転落してしまう。この六道を”忙しい忙しい”と言って六道を経めぐって、こここそ、私のいる場所でしたという、立脚地を持たない。
「如何が安然として驚懼せざらんや」、どうして安閑(のんびり)として驚き懼れずにおれようか。どうしてこんなアヤフヤな娑婆世界におって、おそれおののかずにおれるものではない。「もうチョット、もうチョット・・・」と言いながら、行き先が墓場。こんな所でおそれおののかずにおれようか。「各(おのおの)聞け、強く健やかにして力ある時、自策自励して常住を求めよ」。強健で力のある時に聞いて、自らを励まして、常住の世界である仏さまの境界を求めようではないか、と誘ってくださるのが善導さまの「日没無常偈」でございます。
そういうところに、人間の生きざま、そして、そのことに気づかない闇。”闇を抱えて生きているのがわたし達の生きざま”でないかと思います。わたし達はウマイ目にあう人生を追い求めておる−−これを仏教の専門のことばでいえば「五欲追求の世界」と申します。五欲を追い続ける日暮らし、それが仏法を聞く以前のわたし達の生きざまだと思います。
”五欲”というのは、まず第一に食べる欲”食欲”、食い気です。われわれは食っても食っても食べたくて、食べさせりゃそれでいいかと思うと「あれをまだ食べるとらん」「これを、食べとらん」と、漁ってるんです。食い気は死ぬまで止まん。
四番目に”名欲(みょうよく)”。名を得たい。町長になりたい、議長になりたい、課長になりたい。チョウ(長)を求めてわれわれ右住左住するんでしょう。だから私、ときどき冗談に言う。「そんなにチョウがほしいんなら、盲腸、脱腸もチョウやから、ほしいがか?」(笑)・・・笑いますけどネ、どうもそれはほしくないらしいです。現在(いま)は係長までできたでしょ、なんでも長が付くのが好まれますから。
と、満足し切って死んだのでしょうか。彼がのこした辞世の和歌が、
です。”浪花のことも夢のまた夢”と、夢を二つ重ねています。夢というのは醒めば、空しいもの。”いよいよ死んでいかねばならない”という一点に立たされてみれば、天下の象徴である大阪城のできごとも”夢のまた夢”であったと。しかも、自分が死んだ後、天下は家康のものとなると、すでにその当時、心ある人々によって認められておる。その敵にまわる家康の手を取って、幼い一子、秀頼の将来を託さねば、死んでも死にきれない状態で死んでいった人でしょう。
なにわのことも ゆめのまたゆめ
本当に死にたくなかったけれども、自分の思いで生きているのでもなければ、自分の思いで死んでいけるものでもない。ご縁が尽きれば死んでゆかねばならないのが、お互いわたし達人間です。だから”もうせめて十年生きたい”と思っておった秀吉ですけれど、ドッコイそうはいかない。後ろ髪を引かれるような思いで、死にきれない状態で一生をしまっていった。決して、安心と満足をもって死んでいったのではございません。そこに、どれだけウマイ目にあう人生を追い求めても、満足をもって生き切ることもなければ、死に切ることもできないのが人間存在だ、ということを明らかにしていると思います。
そしてわたし達がいただいておる仏さまの教えの、この”仏さま”というのは、みんな初めから仏さまではありませんでした。何者かが仏さまになられた。何者かというが、ほとんど王族の出身でございます。仏の前身はほとんど王族です。と申しますのは、お釈迦さま自身が太子という王族の一員でございました。阿弥陀さまも一国王であり、それが世自在王仏の説法を聞いて、王位をすてて一沙門となり、名づけて”法蔵比丘”と名告った・・・と『大無量寿経』に書いてあります。
仏さまの前身が王族であったということは、王族というのはこの世で一番ウマイ目にあっていられる人たちでしょう。そのウマイ目にあいながら、それで一生を終わることができない、道を求めて仏道修行に入られた。ウマイ目にあうだけでは人間は一生生ききることも、安んじて死に切ることもできない存在が”人間存在だ”ということをわれわれに明らかにしているのでしょう。
それに対して『南伝大蔵経』というのは昔のセイロン(現・スリランカ)からビルマ・タイに入って、インドネシアの方に伝わった仏教が持っている経典をいうのです。その”南伝”の経典は、西本願寺(本願寺派)の故高楠順次郎先生(東大教授)によって、大正末から昭和にかけ、七十冊の本にして今のわたし達の読めることばに訳されて出版されたんです。それでわたし達は見ることができるんです。
その次に「私はカーシ国の最上の絹の着物を着ておった」とおっしゃいます。「にもかかわらず、私は出家したのである。私は三時の御殿を持って日々を心地良くすごした」。住まいについて、三時の御殿というのは暑さをしのぐ御殿、寒さをしのぐ御殿、雨季をすごす御殿です。雨季は、日本の梅雨ぐらいのことじゃありません。東南アジアの雨季は三ヶ月間つづきますが、それこそ土砂降りです。
そのことがよく知れたのは、大東亜戦争の最後に日本軍がむちゃな作戦でビルマからインドのインパールに攻め入りました。けれども反撃に合うて、さんざんな状態で逃げ帰りました。行く時には幅二十メートルほどの川が、帰る時は雨季になったために川幅が二百五十メートルから三百メートルの河になっておったというんです。そのため、その川までは逃げて来たけれど川が広くて渡れない。わずか二、三隻のはしけのようなもので、次から次へと渡るけれども、何万、何十万の大軍はそこでクギヅケになった。それに向かって、イギリスのグラマン戦闘機が、機銃掃射をして日本の兵隊は殺されました。行く時二十五万から三十万人といわれた大軍が、ビルマに帰った時は五万人そこそこだったという敗戦でした。そんな犠牲をはらった渡河は、そんなすごい雨が向こうの雨だということを知らなかったでしょ。だから雨季には、出家者であれ誰であれ、なるべく外へ出ないんです。
着る物といえば、人間は一生の間に、一年に一ぺん着るか着ん物までタンスの中に一ぱい貯めています。犬や猫は生まれた時の毛皮一枚で、一生足っています。どっちが着ることで賢いのでしょう。そういうことを時々思います。住まいといえばどうです。人間は一度は自分の家を建ててみたいと思うて着々と貯めています。犬や猫は、その軒下を借りて、なんにも自分で建てんといて、「ごちそうさん」で済んでいる。どっちが住まいの点で賢いのでしょう。だから衣・食・住にかかりはてていますけれど、この三つにおいては、犬や猫の方がわれわれよりはるかに賢い一生を送っているのじゃないかと思います。人間は着ること、住むこと、食うことだけで充足しても、それだけでは満足できない存在、それが”人間存在”でございます。
この間、ある自殺なさった老人の手記を読みました。
その老人が生きられなくなったのは、衣・食・住の不足からじゃないんです。
こういう手記を書いて亡くなった老人がございます。
こういう言葉を遺してます。
という言葉があります。寝て食うて寝て食うという命を百年生きるよりは、「いったいなんのために人間に生まれたのか」「人間に生まれたというのは、いったいどういうことなのか」と問う。その人生の意味をはっきりいただいて生きる生涯が、たとい一日であっても、その一日の生涯が、寝て食うての百年の生涯よりはまさっておる。人間の生涯としてはまさっておるんでしょう。犬や猫の生涯でない、人間の生涯としてまさっておるとおっしゃるんでしょう。
今から十数年前、福井に孫兵衛というおじいちゃんがおられました。当時九十二歳。目も見えず、耳も聴こえない。手足の不自由な姿で毎日日暮らしをなさっておる。外から見ますと、片足どころか、首まで棺桶につっこんだ、死んだような明け暮れなんでございましょう。いつもあまりお客のない店先で、小さな火鉢を抱えてチョコナンと留守番をいておるのが孫兵衛じいちゃんの日課でございました。たまたまその店の前の通りをお手次のご住職がお通りになった。この孫兵衛老も三十、四十代の時には家の財産の傾いたのを建て直した。四十、五十、六十には仏法聴聞も熱心にやって、また寺の世話もしてくれた。けど、八十過ぎて、目も見えず耳も聴こえない。手足の不自由なあのざまになったあ、誰もよりつかんし、自分も外に出られんし、今はさぞかし淋しいこっちゃろ。ちょうど出会うたのを幸い、一つ慰めてやろうかということで、ツカツカと店先に入られて、聴こえない耳に口やりつけて、
と言うた。
ところがじいちゃん、見えない目を見はるようにして、そのご住職を見上げた。
と言うて、さらにこう付け加えた。
と、お念仏したという。
そうしますと、ウマイ目にあう人生で”今がちょうどいい年頃”だと言えるのは三十代で、せいぜい四十五、六まででしょう。ところが目も見えず、耳も聴こえない、手足も不自由な九十二歳になって、「今がちょうどいい年頃でございます」と、言い切ることができる世界が、真実なる教えに出遇うた人間の中に、まちがいなくあるという、この厳然たる事実をわたし達は見失ってはならないと思います。だから、教えにで遇うという大切さをわたしはしみじみと思うわけでございます。
ところで先ほどから、ウマイ目の人生でなく、深く生きる人生を賜らねばならないと言うてますが、「生きる」というのは”イノチ”です。”イノチ”、漢字で拾ってみますとたくさんありますけれども、大きく分けると”生命”と”寿命”という二つで表すことができると思います。
私は人間の生涯をパターン化して、四つに分けるんです。
@”短命で短寿の一生”−−まあこれは、「彼奴もえらく早ういったもんじゃなあ」という一言で片づくような生涯。
Aところが短命であっても長寿という一生もあるんだと言える思います。”短命で長寿の一生”−−このことをはっきり教えてくれますのが、一昨年十月一日、滝廉太郎という作曲家の生誕(うまれてから)百年の特集番組がNHKでありました。私は月例の聞法会(三十歳〜六十歳までのカアちゃんの集まり)があって見られませんでしたが、番組紹介のスポットで知っておりました。
”荒城の月””箱根の山”などの名曲を残した滝廉太郎のこの世の生命は二十三歳です。非常に短命。けれども、彼の残した作曲は百年後のわたし達が聞いても、わたし達の魂を揺さぶるだけのはたらきを持っています。まさにこういう生涯を、短命であっても長寿の生涯だと言っていいんじゃないかと思います。
とおっしゃっています。そのことを、
と、『沈黙は雷の如し』という一文で書いていらっしゃいます。
「沈黙は雷の如し」というのは『維摩経』の中に出てくることばですが、それを引いて亡くなった子どものことを”沈黙”とおっしゃる。亡くなった子どもの遺したことばが、雷のように自分を揺さぶり続けておるということで、こういう題を付けられたのでしょう。わずか十四歳、小学校三年しか出ない、病床で苦しんだ子どものことばが、大学を出て一流新聞の論説委員をやっておる父親の魂を揺さぶっておる。そこにも短命であっても長寿の一生と呼ばれるにふさわしい生涯がまちがいなくあると思います。
と、おっしゃっております。それほどに、人間というものを明らかにして教えてくださった。その教えが経典となって二千五百後の今日になっても、わたし達を揺さぶり続けるはたらきを持っています。そういう生涯こそ、まさに長命であると同時に長寿の一生であったと言わねばならないのじゃないかと思います。
去年も今年も飢饉で老少男女の人がたくさん、バタバタと死んでいかれたと書いています。だから、八十八歳の歳になっても飢饉に脅かされながら生きていかねばならんのが鎌倉時代の人々の姿でございます。そのことの詳しいのは鴨長明の『方丈記』で、これをお読みになれば、いやというほどわかります。京の都においてすら、飢饉のために十数万の人間が路頭に骸を並べておったと書いてあります。そういう飢饉をかいくぐって九十歳まで生きるということは容易なことではない。
なぜ仏法を聞くのか(2)
先ほど人間の生涯を四つのパターンに分けまして、最後に”長命で長寿の一生”その代表に親鸞聖人をあげ、人間の性根をとことん掘り下げて明らかにしてくださったお方だということを申し上げました。聖人はいろいろ書物を残されましたが、その中で皆さんが一番親しんでくださっているのが『和讃』でしょう。あの『和讃』も蓮如上人によって三冊の書物になっております。その三冊目が『正像末和讃』といって、大体聖人が八十六、七歳の頃筆を入れていらっしゃいます。
「是非シラズ邪正モワカヌ此ノ身ナリ 小慈小悲モナケレドモ」”小慈”は小慈悲。”小”というのは小さいということではなくて、限りがあるということです。どんな限りがあるかというと、お互い人間の慈悲というものは、”有縁の慈悲”、つまり”縁のある人にだけ”かけられる慈悲なんです。そうでしょ、子どもがかわいいと言ってもわが子がかわいいのであって、隣の子が泣いておっても知らん顔しているのがわたし達の姿でしょう。
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
『正像末和讃』
そのことを、同じ『正像末和讃』の中に、「愛憎違順スルコトハ 高峯岳山ニコトナラス」とおっしゃいます。われわれの愛情は、愛憎違順する愛情だとおっしゃるのです。どういうことかといえば、自分の思いにしたがっている間は、「かわいい奴だ、かわいい奴だ」と、かわいがるけれども、自分の思うたどおり動かんと、「コンチクショウ! こんなヤツ死んだほうがましや! おらん方がましや!」と。こういう愛情ならざるものを愛情だと思うて、しっかり握りしめておるのがお互いわたし達の性根だということを、親鸞聖人はわれわれに明らかにします。
だから「小慈小悲モナケレドモ」とおっしゃるのだが、われわれはそれを小慈小悲だ、愛情だと思うておる。そうでしょ、夫と言えども、自分の思いどおり動いている間は、「私はしあわせや、いい人と結婚して」と言うて、ホケホケッとしている。それが三年も経って外に女でもつくれば、「なんとしたことや! あんな奴と思わなんだ」と。(笑)子どもでもそうです、自分が一生懸命育てて・・・。自家(うち)の子どもがまだ小さい時や。あるお婆ちゃんが言うた。
と、言うたことがあります。われわれの愛情というものは、みんなそういうものです。自分の思いにはまると、ホケホケとしとるし、はまらんとこん畜生と言うて、恨んでみたり泣いてみたりせんならん。そうして波風を立てながら生きておる。そういう愛情ならざるものを愛情だと思いこんでおるのが、わたし達の愛情の世界じゃありませんか。
「ホウ! ”おるか?”と言うてもらいとって育てるんやったら、なあんも子どものために苦労しているんじゃなくて、わがために苦労しとるんやナ。なあんも子どものためじゃないがや」
と、言った。まさにわれわれの愛情の世界を的確に表現してくれたと思うて、私は読みました。殺しても飽きんのやと。違順したら、たごう(違う)たら殺しても飽きたらんのが女房やと。
「女房か。女房ちゅうもんはなあ、わしの思うたとおりに動いている時にゃあ、三十四億の人間が地球におるこっちゃが、三十四億みんな死んでも。おれと女房さえ残ればいいちゅうほどかわいいもんじゃ。ところが一たびおれの言うことをきかんと、こん畜生、殺しても飽きんちゅうのが女房ちゅうもんじゃ」
だから、わたし達「小慈小悲モナイ」、そういう限られた愛情すら持たん、いつでもわが身を真ん中において、自分の都合だけで生きておる、相手の身になることができない−−−そういうあさましい身であったと。「カカルアサマシキ我ヲ」という親鸞聖人のお言葉があります。
真実なる光に照らされてみて初めて、自分の性根がいかに自分中心の思いと行動によって振り回されておるかと気づく。そのことに気づかず、思いを握りしめている自分を問題にしないで、いつも自分の外のものに問題があるかのごとくに、親がこうしてくれたら、子どもがこうなってくれたら自分がしあわせになるんだと思う。そういうはかない夢をえがいている生きざまだと知らされるのです。外なるものに責任を問おうとしている私に、「そうじゃないんだ。自分すら変わることができない。どうして相手を変えることができるのか」と、親鸞聖人は問いかけられます。変わらねばならんとするならば、自分が真実なるものに目を見開くように変わることだ−−−ということは、”教えに遇う”ということだと教えて下さいます。
親鸞聖人の「見真」という大師号、あれは『大経』の中に「慧眼見真(えげんけんしん)」、智慧の眼を開いて、真実を見る−−−ということで、親鸞聖人は真実を見る、見真大師という大師号を、明治九年十一月二十八日明治天皇から賜ったものです。”智慧の眼を開いて真実のものを見る”。それが親鸞聖人の教えです。ところが、われわれはなかなか眼を開かれないために、真実が見えないのです。
これは、東井義雄先生が、九州の日田市にお出かけになって、その時に聞かれた話しだそうですが、それを私の自坊(うち)へいらっしゃった折りに聞かせてくださったことです。当寺九十歳を過ぎた老夫婦がおられた。老夫婦はいつも「おかげさま」「ありがとう」という日暮らしをされておった。ところが、片方のおばあちゃんが、中風で突然寝込んでしまわれた。そしたら、「あの夫婦もふたり達者なときは、おかげさまでと喜んでおったけど、片方がああいう具合に寝込んだら、さぞかし片一方は悔やんどるやろ。一つ慰めに行って来ようか」と、七、八人のおじいちゃんおばあちゃんグループが、その家を訪ねられたというのです。
と、語られたそうです。
といいながら帰った、ということを聞かされたとおっしゃいました。真実なるものに眼を見開くと、お互いわたし達は褌一枚すら洗ってもらわにゃならん、生かされて生きているのに、なかなかそのことに気がつかないんです。
ちょうどそのお話のあった一昨年七月二日、自坊の近くに「のと」という保養センターがあります。そこへ能登の農協婦人部の幹部の方が、二回に分かれて一泊二日の研修をされました。一回が八十人ほど集まられ、私は頼まれて二回共にそれぞれ二時間ずつお話に出かけました。二日の午後は天気も良かったし、自転車で五分ほどの近さですから、昼食をすませてかけつけたんです。そしたらもう皆さんがちゃんと会場で並んで待っていらっしゃる。こりゃあすぐ話してもいいんだナと思い、演壇に立ったんです。そうしたら係りの女(ひと)が、
どこやナと思って見たら、壇の前に私の分の座布団が一枚空けてあるんです。
ということで座った。しばらくすると職員の方が番茶を持ってこられた。それで私は合掌して、「いや、ありがとう」と言うた。合掌して、いただいて飲んだんです。そしたら壇から、三間ほど離れた窓際にいた五十がらみの母ちゃんが、両脇の同年配の人をふり返りながら、
「お茶を一ぱい飲んでください」
「ああ、お茶ですか。お茶は今飲んできたから、済んでからでいいわネ」
「でも、今いれとるから・・・」
「そんなら」
と、笑うた。
と、そういう逆さまごとをやるのを”ウランバナ”(倒懸)と言うんです。
”盂蘭盆”と言うでしょう。”ウランバナ”というインドの言葉をウラボン(盂蘭盆)というむずかしい漢字をあてて、中国の発音に直したのです。だから、”ウランバナ”といい、真実にそむいて、逆さまごとをやりながら生きている人間の生きざまをいうのです。そういう生きざまをしているものが、七月十五日(これをインドでは”自恣の日”という)、一年に一ぺん雨季が明けた日、”私はこの一年間逆さま、真実に背いた生き方していなかったか”を反省する日であります。しかも、自分で自分を反省するだけじゃない、自分のまわりの人に、「私はこの一年間真実に背いた生きざまをしなかったか教えてください」と、自分が真実に背いたことを指摘してもらうのです。それがお釈迦さまのご在世の時代から行われていたのです。仏教者の反省の日が、”自恣の日”です。
人間は逆さまごとをやりながら、”みんながやっているから”と言うて、みんながやっておればそこに身がおける。身をおいていいんだとする生きざまが、わたし達日本人にあります。みんながやれば誤魔化してもコワクナイという考えが。この頃こういう言葉がはやっているでしょう? ”赤信号みんなで渡ればこわくない”と。そういうところには、みんながやれば、真実だろうが不真実だろうが、「みんながやっているのだから」というところでアグラをかいている生きざま。そこには本当の満足はありません。本当の安心な人生もありません。<真実に生きる>ただそのことにおいてのみ、人間は喜びと満足をもって生きることが許されるのだと申さねばならんと思います。智慧の眼を見開いて、「また逆さまの中に生きておったなあ」と知らされることが大事なんだ。お互いわたし達は、「本当は支えられ、生かされ生きておる身なんだなあ」と知らされ、気づかされることが大事なんだ、と教えてくださいます。
ここに、東井義雄先生の作られた『支えられてわたしが』という、すばらしい詩があります。
こういうこと、考えてみたことありますか。廊下を歩いたり、座敷に上がったり、便所に行って一日一回はかがむのも、便所の床に支えられておればこそできるのです。そのこと考えたことありますか。この年齢になるまで・・・。そういうところに目をすえないことに問題あるんでしょう。そういうことが見えてくる。便所の床や廊下、どこへ行っても私を支えてくれるものがあればこそ、私はここに存在することを許されておる。それは厳然たる事実です。”真実”です。にもかかわらず、われわれはそのことに気づかない。だから便所に入ってしゃがんでも「おかげさまで」と手を合わせて拝んだことがないでしょう。
ろうかに出ればろうかが
便所に行けば便所のゆかが
どこへ行ってもどこへ行っても
わたしを支えてくれているものがある
妻も子どもも孫も
有縁無縁の人々も
生きとし生けるもののいのちたちも
石も土も火も空気も
わたしを支えておってくださる
忘れづめのわたしを支えづめに
久遠の願いがわたしを
支えていてくださる
私は気づくかされて、「ようこそ出てくださいました」「ご苦労さまでした」とお礼申すことにしています。自分の命となってくださるものには「いただきます」「ごくろうさま」と言うているのに、入ってくださったものが私の中でこなれて、完全に死に切ってイノチとなって外に出てくださる。ならば「ご苦労さま」と拝むのは当然でしょう。手を合わせないというなら、本当のものが見えていないということです。
だから、便所へ行ってしゃがみ、出たら「ようこそ出てくれたなあ」(笑)本当や。出なんだらどうなる? 出てくださるから、毎日入れられる。しかも完全に死に切って。誰だって死ぬのはイヤなんでしょ。ところが完全に死に切って、私のイノチとなってくださるんです。「おかげさまでございました」はあたりまえじゃないですか。そのあたりまえがなかなか見えてこない。だから、毎日毎日グチってみたり、泣いてみたり、笑ってみたり、悩んでみたりして生きていかねばならない日々しか賜らないんです。自業自得の世界です。他人さまがそうするんじゃございません、みんな自業自得の世界です。
「生きとし生けるもののいのち・・・詩の二節目・・・を支えておってくださる」そうでしょ、空気の中の酸素をいただいて生きとるんです。この年齢まで酸素をだまって盗んで生きてきたんです、盗んでおることすら気づかずに。一日どれほど酸素を賜らなきゃ生きておれんのか、知らんまま、気づかんまま、いたずらに明け暮れたまことにお粗末な人生。”これで死んでいけるか!”と、もう一人の私が、ボケートした私を”汝”と呼んで、”汝それで死んで行けるのか”と問いかけているんですよ。
”人間”ならば、必ずいつかどこかの時点でボケートとしている私に、”汝それでいいのか”と問いかける、もう一人の人がいらっしゃいます。その”もう一人の人”に呼びさまされ、その呼び声にしたがって生きる人生を恵まれなかったら、人間は本当に生き切ることができないんだ、とこうおさえてくださいます。”汝それでいいのか””汝”とささやく、そのささやき声を聞きとることが大事だと思います。
すでに用意された世界を”大悲の世界”とおっしゃいます。だからわたし達は、「大悲にはたらかされて、今ここに生きておるんだ」といわねばならない。今ここに、教えをとおして目が覚めるということがなければ駄目だと思います。
それから水。先でも水を申しましたが、水がなかったら人間の生命は生まれてこなかった。その水が、今日あまり工業技術社会が盛んになって、どんどんどんどん汲んでは使うために、この間の国土庁の発表ではあと何年かすると、世界で最も水に恵まれた日本ですが、三百億トンから四百億トンも不足する時代がやって来ると言われます。この水も人間が作ったんじゃないんです。水が”お与え”のところに人間が生まれてきたんです。人間が作ったんじゃないものを、自分のものだと思いこんで勝手に使う。そういう所に問題があるんでないでしょうか。
地面・大地も人間が作ったんじゃない。大地があるところに人間が生まれてきた。その大地も、人間が支配するようになると、「これだけわが物」「これだけはうちの国のもの「これだけはどこそこの国のもの」と言うて、自分が作ったものでないものを所有して、お互いに垣根を争うて、やがては地面を投機の対象にまでしているのが、今日の日本の状態なんでしょう。
ここまで人間が思い上がっておる。その驕慢さがやがて人間自らを亡ぼすあろうと、心ある学者は警告しています。大地は誰のものでもないのです。すべての存在するものの共有物なんです。これこを公のものなんです。その公のものを私するところに、今日の文明の歪んできた大きな根源があるんだということを、真実なるものに目を見開いて、ハッキリと見すえて、もう一ぺん人間の生きる社会を正しく真実なるものに立って構成し直すということが、現代わたし達の問われていることじゃないかと思うわけです。
その不特定多数の人間は、自分は知らん人たちです。そんな人が乗ってくれるということがあればこそ、定期的にバスも汽車も動き、みなさんが停留所に行けばまちがいなくバスが来る、乗れるのです。ところが、きょうも明日も絶対一人も乗らんということになれば、動かないでしょう。不特定多数の人が乗ってくれるから、自分の都合のよい時に行けばチャーンとバスに乗れる。”無縁”の人も私を支えとってくれるんです。そのことにわたし達は目が覚めているでしょうか。
そして最後に、「ああそればかりじゃない/忘れづめのわたくしを支えづめに/久遠の願いがわたくしを/支えていてくださる」と、こういう具合におっしゃって、われわれを支えてくださるその根源に、久遠の願いがわたし達を支えておってくださるのだと教えていてくださいます。
その”久遠の願い”というのが、親鸞聖人の明らかにした”如来の本願”と言われる願いでございます。”如来の本願”つまり、如来という本願、如来というハタラキが「本願」という願いとなって私の上にかけられておる。この願いによって支えられ、生かされて生きておるのが真実であるということを明らかにしてくださったのが親鸞聖人の「浄土真宗」という教えでございます。その如来の願い、かけられている願いがどういう願いであるかというと「摂取不捨」とう願いだと、親鸞聖人はわれわれに明らかにされます。
”摂取不捨”の如来を阿弥陀さまといいます。「小経和讃」に、
と、うたってあります。
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
また、「摂ハオサメトルナリ」という具合に懇切丁寧に教えていられます。「取ハ迎エトル」とおっしゃいます。だから、逃げてゆく者は追わえて捉えてくださるし、自分の所へ来る者も「よう来た」と迎えてくださる。逃げる者も、来る者もえらばれずにみんなおさめとってくださるハタラキを”摂取”というハアラキだとおっしゃいます。
この如来のハタラキ、本願のハタラキとは、”えらばれずのハタラキ”だと言ってもいいと思います。『歎異抄』の第一章には「弥陀ノ本願ニハ老少善悪ヲエラバレズ」とおっしゃっておられます。「老少」というのは老いも若きも、病気でねていようが、片足がなかろうが、片手がなかろうが、エラバレズに等しく摂めとってくださる。「老少」とは身の事実、どんな身体を抱えた者も、とおっしゃいます。
ところが、人間というのはトコトンまでえらびます。選んで選んで選ぶ。
と、よく聞かされます。
長生きも、達者で長生きしたいと、われわれは選びます、そうでしょ。人間というのは自分の身も選ぶんです。ところが如来さまは、どんな体を抱えた者もお見捨てにならない。選ばれない。そういうハタラキ。”善悪”というのは心の問題、心の事実です。どんな根性を抱えたものもエラバレない。ところが、人間は根性も選びます。よく道で出会うと、
と、よう聞いてみたら、自分の家に都合のいいのがいいと。いくら使うても体をこわさんので、器量が良うて、働きもんで、頭の良いのを選びます。自分の根性の悪いのは棚に上げて、他人さんにはやさしいのが、言うことを聞くのがいいと言う。そんなことじゃから、嫁さん探すのに金のワラジ三足はかにゃならんでしょ。三足もはかんでも、その辺にいっぱいころがっとる。けども、選ぶからそれでなかなか当たらんのでしょう。そして選んで選んで大層して・・・。
「イイ嫁さんて何じゃい?」
と言う。それで私は、
と言うた。そうしたら腹立てて、プーとふくれて家へ帰った。結婚式すんで三日後に、また道で会うた。私は、向こうからいやな奴が来るナ。この間腹立ててプーとふくれたけど、どう言うて挨拶したらいいかなあ、と思うていた。今さら避けるわけにもいかんし。そしたら近くなったら向こうから、
何も私がエライんじゃないんです。仏さまがえらいんです、ちゃんと教えてくださるんだから。私はそれを口うつししているだけなんです。なるほど、われわれはもらうにはもらうでかかりはてて思い煩うが、もろうてしもたらもろうてしもたで、もろうてしもたことに思い煩って生きているんが人間の一生です。われわれの一生なんてそんなものです。もらうためにも苦労するが、もろうてしもたばっかりにまた苦労する。それが人間の一生です。
「何だい」
「ヤアご院さん、この間はなんちゅうヒドイこと言う人やと思うたけど、本当にご院さんの言われたとおりじゃわ」
「まだ三日しか経っとらん、一週間経っとらんぞ」
「イヤイヤ一週間どころか。息子と二人きりで二十年間暮らしとる中で、ただの一度も思わなかったことが、一人外から入ったばかりに次から次へと湧いてきたがいね」
「それみろ」
そういうアヤウイ所に立って生きとる。だから、人間はトコトンまで根性も選びます。だけど仏さまはどんな根性も選ばれない。その選びどうしの私に、如来のエラバレナイハタラキ(摂取)がはたらいておってくださればこそ、選びどおしの私の助かる場所があったのだと、明らかに目覚められたのが親鸞聖人の信心の世界だと申し上げていいと思います。
私は長い間”摂取”を裏返しにしたものが”不捨”だと思うておりましたが、名古屋の花田正夫先生の『歎異抄−私の身読記−』という、端的にして深いお味わいを書いてくださった書物を読んで、「不捨」というのは「摂取」と別のハタラキであると気づかせていただきました。その二つの違ったハタラキを同時に備えているところに、「如来の大悲」といわれ、「本願」といわれるハタラキがあったんだといただけました。
と、言うたんです。そしたら、
と、子どもに茶わんやはし箱投げつけた。思わず子どもはカッとなって、
と言うたんです。
そして、その少年は言います。「あんな一人だけ食っていくのなら、犬やねこでも食ってゆく。もう父ちゃんなんか要らんと思います・・・」と。それがある日、クラス担任の先生が家庭訪問にいらっしゃった。その少年の家は二間しかないために、カアちゃんと担任の先生の話を聞くともなしに聞いておると、カアちゃんが、
と。そのひと言が、少年の生きざまを変えました。
と、気が付くわけです。そして、
「父ちゃんなんて死んでまえ!! と言った時になぐられたのは、カアちゃんはどんな父ちゃんであろうが、わたし達を父親なしの子にしたくなかったからこそ、私をなぐったんだなぁ」
と、作文は終わっています。
”阿弥陀”というハタラキもそういうハタラキです。今はあんなに極道で、あちらの神さまこちらの神さま、あちらの方へこちらの方へとわたり歩いているが、今に誰も相手にせんようになったら・・・。煩悩にホダされて、どうしたら儲かるやら、どうしたらウマイ目にあえるやらと、あちらの神さまこちらの仏さまと、わたり歩いておるが、今に誰も相手にせんようになったら・・・それはいつでしょう。いよいよ死なねばならんという一点に立されれば、拝んでいる神さま仏様も間に合わんときがくる。その時に、必ず私のところに帰ってくるにちがいない。「私はその日を待ちます」と、アミダという如来さまは、待って、待って、待っておってくださる。十劫という長いあいだ待っておってくださったのが阿弥陀如来さまでございました。「待たせる」ということはなんでもないけど、待つ身になるのはどんなにツライことか・・・。
私もしばしば友だちと約束して待ち合わせをする。こちらが十分前に行きましても、時間までに向こうが来ない。とうとう遅れて十分過ぎて、ようやく来る。待たせた方は、「ヤア、すまんすまん。十分遅れて」と、それで済んでしまいます。ところがたった十分ではあるが、待つこの身は何回となく、「まだ来ない、まだ来ない」と、腕時計を見なけりゃじっとしておれないのが私でしょう。ところが如来さまは待つも待つ「十劫を経たまえり」。十劫という長いあいだ待って待って待っておってくださった。「今はあんなに極道だが、今に誰も相手にせんようになったら、必ず私のところに帰って来る・・・」、そうわたし達を信じて待っておってくださる。その待つハタラキがあればこそ、末代の今日に私の助かる場所があったという驚きが親鸞聖人の信心の世界にあります。そして、待つことができるということほど深い愛情はないんだということを親鸞聖人はわたし達に教えてくださいます。それが「不捨」というハタラキでございます。
だから、曾我先生はこういう言葉を残していらっしゃいます。
われわれが如来さまを信ずることができるのは、私が信ずるに先立って、すでに如来さまが私を信じておってくださる、私に愛をかけておってくださる、私を敬うておってくださる。なればこそ、私は如来を信ぜざるを得ずして信ずる清沢先生は『わが信念』の中でこうおっしゃいました。
如来に愛せらる
かくて我らは 如来を信ずるを得
<曾我 量深>
と。われわれは信ぜざるを得ずして信ずることのできる、そういうハタラキはすでに私に愛をかけ、私を信じ、私を敬うておってくださる、その如来さまのはたらきから生まれてくるのだと、おっしゃるのです。そういう如来さまのハタラキがすでにはたらいておってくださったいう、深い驚きが親鸞聖人の信心の中心にあります。