ご開山さま(親鸞聖人)は、はじめ「ありがたい阿弥陀さまのお心にかなう人間になって救われよう」となさっておったんです。
ところが仲々、阿弥陀さまのお心にかなうお同行になられんというのが悩みでした。
そして法然上人を尋ねると、そりゃまるっきり違います。我々が阿弥陀さまに合わせるのじゃなくて、阿弥陀さまが私に合わせて下さったのであります。
阿弥陀さまが永久不変であって、私どもが変ってそれに合わせるのでなくて、私どもが永久不変。
そうですね、曠劫已来、常没常流転の浅ましい凡夫ということに於いて変化のできない我々。
それに対して阿弥陀さまの方が変化して、変って合わせて下さったのであります。
三尺の身の丈の子供が六尺近い父親と話をする。
そしたら父ちゃんが、
「そんな低いところから、ものを言うても聞こえません」ちゅうから、三尺の子供が足つぎを持ってきて、父ちゃんの六尺の高さになって、
「これならええか」
「よし、言うてみい」
「おもちゃが壊れたから、修繕してくれ」
「よし、よし」
そんな親はいない。三尺の子供の身長は、そのままにしておいて、六尺のお父さんの方が、六尺の身を折り曲げて三尺になって、「なにかね」と聞く。
親の側が変る。既製品の阿弥陀さまに、私を合わせるのではない。既製品の私に、阿弥陀さまが合わせて下さった。誂え(オーダーメイド)のご法義。 選択本願のご法義です。
知恵が慈悲となって動いている相が仏さま。
子供が可愛い、可愛いとコタツに入っているのは愛ではない。動かねばならん。 慈悲は精神で形ではない。繕いをする。掃除をする。朝から晩までコマねずみのように動きまわる、そこに母の愛が存在しておる。
可愛いと百万遍言うても座っておるのが愛ではない。動く仏、立った仏、法蔵から弥陀へ、称名へと動く。
今現在説法。
法蔵から弥陀へというおすがたで凡夫を救う。法蔵覩見から凡夫を救うおすがた。
お父ちゃんとお母ちゃんが肥担桶を担ぐ。お母ちゃんが前を行く。お父ちゃんが後を行く。
お母ちゃん、背が低いから、あの臭い肥担桶がだんだんお母ちゃんの方へ寄っていく。
「お父ちゃん、だんだん私の方が重うなって、臭うなるじゃあないですか」
「そりゃお前の方が低いから、そっちに寄るに決っちょる。もっと天秤棒をさし上げろ」と言うお父ちゃんは、愛なきお父ちゃん。
愛あるお父ちゃんは、「そうか」ちゅうて、自分の肩から天秤棒を降して、お母ちゃんの高さまでさげていくのが愛あるお父ちゃん。
「あたり前のこっちゃ」、あたり前じゃからええじゃあないか。ごく単純な。
「変われ」というのは、愛なき言葉である。「そのままでいい、私が変りましょう」というのが愛ある言葉。
そういう点では教育というのは、愛なき所作であります。
頭の悪い子供に、勉強して賢うなれというのは、愛なき言葉であります。
這えば立て、立てば歩め、というのはやはり教育。愛の鞭とかなんとか言いますが、所詮ほんとうはつめたい言葉です。
そこで我々の世俗で持っている考え方は、たいてい教育の理屈です。「頑張りなさい」「説教中に眠ったらいけん」ちゅう説教は、非常に愛なき説教です。
眠っておるものは眠っとってよし、起きとるものは起きとってよし、どうせ起きとっても、眠ったようなのが参っとるのじゃから。
我々は頭がええと威張っております。この頭は教育の理屈を知って、その理屈を適用し、考えて威張っておる。
宗教に育つということは、人格が変るということです。宗教に育つということは、自分の持っている概念、考え方がひっくり返るということです。
したがって解る説教ちゅうのは、ええことない訳です。私の頭、世俗の頭、仏さまの話とは違った頭に、解る話は仏さまの話じゃあありません。
それをなんぼ磨きたてて行っても、仏さまの話にはなりません。だから「よく順序だててお話し下さったら、よく解るはずじゃ」という人があるが、ありゃあいかん。
衆生の頭を磨きたてても、仏法には至らん。この頭にはわけの解らん話を聞く。訳の解る話じゃあつまらんのです。
この頭が生きとるから、つまらん。この頭を殺さにゃあならん。殺すためには訳が解って行くんじゃあない。解らん話。ならどうする。「さようでございますか」「如是我聞」と聴聞する
反応がなくても平然としてやれる人間にならなくてはなりません。そしてそれは、阿弥陀さまがお待ちになっている人格です。それが宗教のすばらしいところです。
我々の頭というのは、何かをやれば、返事が返って来て事が終る。
「バカ」というたら、たたかれる。「バカ」といわれて笑っていると、「あいつは、ほんとうにバカだ」とこうなる。行って返って賢いんです。
「私の言う事が筋がとおっておる」というところで平然としておるが、親さまは、お前を救うというだけの片道の仏さま。
信じたら救うでもない、称えたら救うでもない、「必ずお前を救うぞよ」の仰せ。
それを我々が往復の理屈の頭でお慈悲を聞くからわからんのです。片道なんです。親さまは「そのまま救う。」
自力の人にはそれがわからん。「修行したら証りが開ける。」それは往復です。取り引です。
阿弥陀さまは、片道の親さまになって私をお救いくださると同時に、私どもをこの世滞在の間に片道の人格にしてやろうというお意がある。
ところが賢そうなのがいっぱいおりまして、自分では取り引きの理屈を批判できない。反省できない。
熱心な信者の方々ですが、この取り引きの理屈を基礎としているところに間違いがあります。
昔、某という人があった。この人も熱心な人ではあったが、この間違い、取り引きであることに気づいておられない。
「これ程広大なお慈悲を聞きながら、わかったとも、わからんとも知れんなど言うことがあるものか」
この広大なお慈悲を聞いたら、何か反応がなければならぬという論理でしょ。いつ親さまがそんな事をおっしゃった。
「お前さんに曠劫より已来、私は目をかけているんだよ。目にかけてるのに知らん顔をして。この度というこの度はつかまえたぞ」とおっしゃるのに、まだ逃げようとしている。
摂取不捨というのは「逃ぐる者をおわえとるなり」(親鸞聖人『浄土和讃』)。
ご開山さまは「私は逃げとる」と。「愛欲の広海に沈没して真証の証に近づくことを快ま」(親鸞聖人『教行信証』)んというのを、追いかけ追いつき、追い越し、迎えとってくださるお方です。
片道。片道の親さまになっておたすけくださるのです。
同時に我々を片道の人格にしようとなさる。片道の人格になってゆきますと、寝たきりの反応のない病人にも、たくさん語りかけることのできる人間になるでしょうね。
「今日は暑いよ、ばあちゃん暑いよ。隣りにゃあこの暑いのに鍬を担いで行ったよ。そろそろ畑も打っとかにゃ。雨降ったら大根蒔かにゃあならんちゅうて行きよったよ」
反応のない人にも聞こえておる。我々は反応がないとすぐ「甲斐がない」という。甲斐がないというなら、阿弥陀さまがお喚びたもうた今日まで、どれ程甲斐がなかったでしょうかね。片道という程、すばらしい事はないですよ。
さて親さまの片道は今からも聞かせて頂くが、聞かせて頂いた上からは、御恩報謝といたしまして、片道の人格になる稽古をしなければなりません。
信心とご報謝は、理屈が違う。信心からご報謝がはじまります。
それで大切なのは信心ですから、「信心をもて本とせられ侯」(『御文章』)。
そうすると、報謝を末とする。ですから、いつも信心のお話があるわけです。
信心は何の話かというと、如来さまのお話。ご報謝は私どもの努力。私どもの努力を、ご信心のところでごっちゃに考えるのを自力という。
今、『入出二門偈』のお勤めをしましたが、中に「当知今将談仏力」とありました。
今、仏力を談ずる。「これは仏さまのお話なんですよ。」ご法義は私達の話ではないんでありまして、仏さまのお話なんです。
だから説教中に眠っとるとか、起きとるというのは、私どもの話。眠っとろうが起きちょろうが、必ず救うというのが如来さまのお話。
仏さまのお話ばかり聞いとけばいいのです。
「仲々わからん」。それは我々の話。
「よくわかった」。これも我々の話。そんな話ではない、必ず救うという仏さまのお話。「当知今将談仏力」。ええですね。
ご信心は如来さまのお話。ここへ我々の話を持ち込んではならん。我々の話も、如来さまのお考えの中に、出てくることは出てくる。
「汝は地獄行きの、思うこともつまらん、することもつまらんから、汝の思う心も使いはせん。言うことも、することも使いはせん。全部私が用意をした、それが機法一体の南無阿弥陀仏」というお話。それが信心。
さてその上から、そのことを聴聞いたしますと、私どものご報謝が起るようになっている。
「他力催促の大行」、他力催促というお意。お称名はご報謝です。
我々がお称名しますのにテレーッとしとってもつまらん。「お説教はテレーッと聞け」というのは、信心の側のお話ですよ。
ご報謝は私の努力。「お説教中に眠るちゅうことがあるものか」ご報謝はこうなんだと、言うて聞かせられるものではない。
ご信心から出るものだから、ご報謝のおすすめはありません。すすめても例えばこのくらい。
「死ぬるのが嫌だ嫌だといい続けても、なんにもなりませんよ。死ぬるのは、うまい事をさせてもらうんだ、喜びが近づくんだと思うように心がけた方がいいですよ」という程度にしか私は言わん。
何故かって、それは凡夫である他人から催促されるものではなくて、親さまのお慈悲から催促されるものなんです。一人ひとりに起ってくるものなのです。
しかし自分の身の内では自策自励、自分で鞭打って努力するものであります。だからお称名というものは、自分で努力せねばならんのです。
これは私が言うのではない。努力してお称名なさいというお説教はしません。しませんがご自分の心の中では
「こういう事では申し訳けないぞ。あんたはあの人のお称名を聞いて、よくお称名する人じゃなあと思っただろう。思ったならお称名しなさいよ」と、我を打ちたたいて努力するのであります。
なかには、この努力はしないものだと思ってる人があります。真宗には全く努力はないと思ってる人がある。お称名が、テレーッとしとるとひとりで出てくるものかと思うちょる。
そりゃ「屁」じゃ。お称名は屁とは違いますよ。称えようと思うのです。称えようと思って称えるのです。そりゃあ癖になってからは、お称名がひとりでに出ますよ。
「蠅を打ちて南無阿弥陀仏口の癖」。口ぐせ、いちいち思いませんが、癖になるほどに思ったことがあったから、癖になったんでしょ。
年をとっても癖になっておらん人があるというのは、気の毒であります。
間違える人があるから言わにゃあならんが、称えにゃ救われんというのではない。今はご信心の話しではない。お称名はご報謝の話。
称えん者は、称えるように気をつけてこなかったから。気をつけるのが、努力であります。その気をつける、私ども、気をつけるんです。その気をつける心が起るのも、親さまのご催促。心のもとまで催促してくださる。
ご当流の言いかたには、私共の側の言いかたと、仏様の側の言いかたというものがあるわけです。
覚如上人も蓮如上人も、これはお師匠さまであります。教の位の人であります。お釈迦様の後継者であります。ご開山(親鸞聖人)も我々にとってはそうです。
ご開山ご自身は、
「私は師匠ではない。私は、阿弥陀さまのまん前に座って、振り向きもせずお喚び声を聞いていく、一人の愚か者」
という立場を通された。通されたけれども、我々後の世のものからすると、ご開山様は私共のお師匠であります。
お師匠というものは、教の位に立つわけであります。教の位に立つ人は、言いかたが違います。先生の言いかたは違う。先生は、私共を導いてくださるのでありますから、主として私共の態度でおっしゃいます。
けれども、私共としましては、なるべく私共の態度の側からの言いかたはしない方がいいわけです。そうせんと間違います。
『歎異抄』の落ち度は、私は落ち度と思うが、最初から、終いまで私共の側の言いかた。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて」、そこまでは仏様の言いかた。
「往生をばとぐるなりと信じ」は、こっちの側の言いかた。
「念仏申さんと」こっちの言いかた、
「思い立つ心のおこるとき」もこっちの言いかた。
こっちの言いかたをすると間違う。
仏さまの側からいう。「私のところに来てくださって、私をおたすけくださる。」と言えばいいわけです。
「本願を信じ念仏申さば、仏に成る」は、こっちの側の言いかた。
「親さまは、信じさせ、称えさせて迎えとる親さまじゃ」というたら、親様の側の言いかた。
親様の側のいいかたで言うようにせんと、とうとう地獄ですよ、そりゃあもう。間違いとは申しませんが、おそらく間違いに流されていく。自力地獄に落ちていく端緒は、約生地獄です。
仏様の側からいうのを約仏という。
私共の側からいうのを約生という。
あるいは、約法といい、あるいは、約機という。約機、約生の私の側から言う癖をつけとくと、いつまで経っても駄目です。
私共の側を捨てるのがご法義、他力のご法義なんだから、心掛けて私共の側から言わんようにするのがよいですよ。
「ちょっとお尋ねしますが」と尋ねられたとします。
「あなたのお領解をいうてみなさい」
「はい、私は間違いない親さまじゃと、いただいております」と言うと、そりゃあ私の側の言いかた。
「はい、必ず救うの親様でございます」と言うたら仏様の側。
「あんたのお領解を言うてみなさいと言うたじゃありませんか」
「はい、必ず救うの親様であります」
「あんたのお領解を尋ねているのです」
「私が言うておるのだから、それでいいじゃないですか。」
あのねえ、自分を語らなくても自分を言うことはできるんです。
あるお寺で面白いことがありましたよ。九月三十日のこと。
坊守さんが「晩にお説教がありますから、夕飯にはお酒は出しますまい。お説教がすんでから、出しましょう」といわれる。
なあに一合二合の酒で狂うかよと思うたが、お客様じゃから、そんなことを言うてはいかん。
そして、晩の説教で「ビールちゅうもんは、うまいものですよ」とお話ししておった。なんでそんな事言うたかちゅうと、おたとえや。
「それ、八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とする。たとひ、一文不知の尼入道といえども、後世を知るを智者とすといへり。」というたとえに
「ビールちゅうもんは喉をキュウッと刺戟してうまい、あれをにがいと言うて飲まんバカがおる」
ちゅうたらね、後ろに坊守さんとお手伝いのおばさんが並んで聴聞しとったが、二人がコソコソとしゃべって、おばさんが立って外に出ていった。私は、はっと思った。なにせもう九月三十日やから。そこで
「秋も彼岸を過ぎると、酒がええですな」と言うた。
「白玉の歯にしみとおる秋の夜の、酒は静かに飲むべかりけり」ちゅうたら、奥さんがスーと立ちあがって行った。
そしてしばらくして、二人がニヤニヤして入ってきた。解るでしょ。
私は、一つも約生で言うていない。私は、酒が好きとも言うてない。ビールはうまい。秋は酒がうまい。約仏で言うた。
しかし、聞いた人は、言うた人の事だと聞いたから立って行った。
ね、「私」を説明しなくても、「私」の説明は行われるわけです。
「酒はうまいですな」と言えば、「ああこの人は酒の好きな人や」と、とる。
それを、「私は酒が好きです」と言うのは、酒の話でなくて私の話。
私の話はせんがええ。
聞くのは、全部阿弥陀様の話。これも心掛けるがいいです。せめては、五年心掛けますとね、自分を抜きにして親様を喜べる心が育って来ます。
そういう内々の努力はご恩報謝です。
ご開山(親鸞聖人)の『教行信証』には、全くとはいわないが、ほとんどご自分のお味わいは言うておられない。
そうすると、すぐ、六字釈ではご開山は約生でもおっしゃると言う。六字の御釈、南無阿弥陀仏のご説明をしてくださるのに、約生と約仏があるわけです。
約仏というのは、仏様の側から。『教行信証』の行の巻の御解釈がそれです。この南無阿弥陀仏は本願召喚の勅命である。「お喚び声」だ。
それから「如来すでに衆生の行を回施したまふの心なり」。
あんたの用意はすんだぞよ、というお言葉であります。それから「即是其行」というのは「選択本願是也」。どういうことかちゅうと、称名となって出る仏様ですよということ。全部仏様の側。
ところが同じご開山様が『尊号真像名文』には、どう言われるかというと、「南無というは帰命、帰命というは、釈迦、弥陀二尊のめしに従い、おおせにかなうことである」と。
「釈迦弥陀二尊という仏様のめし」とそこまでは仏様の話だが、「従う」というのはこっちのこと。「おおせ」というのは仏様じゃが、「かなう」というのはこっちの話。そこの六字釈は約機、約生の言いかたや。
或るお方が
「深川君、君は約仏約仏と言うけれども、『銘文』には約生の釈もあるんだから、僕は約生が大切だと思うよ」
とおっしゃるから、そりゃあ、先輩のお方だから、しょうがない。
「はい、さようでござんす」とは言ったけれども、知ってます、と私は思うちょる。
けっこうですよ、約生がまちがいだとは言わないが、他力のご法義は唯のおたすけではなくて、そのおたすけを告げながら、私共の人格を今生において他力的人格に変えようという下心があるんだ。
それならば、どういうのが他力的であるか。己を語らざる人間。
宗祖の『教行信証』は、難しい相手に対して「どんと来い」とやった、ちゃんとした書物でありまして、その主著たる『教行信証』では約仏なのであります。ですから、なるべく約仏がええ。
教の位にある人はいろいろ言う。お師匠様の言葉を、聞位にあるものがそのまま持って回れば、そりゃあおかしいですよ。
親父が息子に、「人に親切にしなさいよ」と言ったとき、息子が「人に親切にしなさいよ」と言うたとする。
いらんことを言うな。現実に人に親切にするのが、言われた方の子供の立場である。
『御文章』、『口伝鈔』、御門跡さまのお書物は、用心しなければなりません。教の位の言葉でありますから。
そして私共は、その教の位の方の教えの前に座る、唯の一人の、実践するものという立場におらねばならんのです。
信仰生活の規準
真宗のご法義においては、信心のお説教とご報謝の理屈とは違う。
信心の側は如来さまのお話でありまして、ご報謝は私の努力。
如来さまはどう言われるかというと、五逆も謗法も「摂せざるにはあらず」、ということは救うということ。
しかしご報謝としては、「小罪も造らず」という努力をしなさいということです。
それは「おまえようやったぞよ、よくおやじを殺したぞよ」と誉めて救うんではない。「おまえは自分の地獄の業に引き回されて父を殺したか、母を殺したか。この弥陀しか救う親はおらん。おまえを落しはせんぞ」というお慈悲を告げて下さるのがご信心の話。
それを誉めてるんじゃあないんだから、そこのところから、ご報謝としては、小罪も造らずと努力していく。
ご本願というものの中へ、私どもの信仰生活の規準を求めるわけですが、私は、このご報謝が信仰生活だと思います。
ご信心は信仰そのものです。信仰生活の、ご本願に於ける規準は何かちゅうと、一つはここであります。
重罪を告げて、未造を抑止したもう。摂ぜざるにはあらざれども、救わんわけではないけれども、悪いことはするなよというのが阿弥陀さまなんです。
悪いことはするなよというのは抑止であって、私どもの信仰生活を指示している。
慎しみの生活である。しかしそれはマイナスの言い方。
悪いことはするなと言うんですから、ええことはしなさいというのは、ここからは出てこんのであります。
ええこと、悪いことの規準はいろいろあるけれども、又、それは別に申さねばなりませんが、悪いことをするなという規準が、この「唯除五逆誹謗正法」です。
「あんたあ、何故悪いことをせんように、心掛けてるんですか」
「そりゃああんたあ、悪いことをしちゃあ、いけませんわあね」というのはただの人。
「親さまが泣きなさるから、親さまにご心配をおかけするから」。
心配をかけても救わんわけではない、というのがここ。
もう一つ、もっと積極的にどんどんやろうという根拠はどこか、「乃至十念」の「乃至」であります。
多念をはげむ、一声でよろしいというのにたくさん称えるというのは、これはもっともっとご報謝を致しましょうというプラスでいうとる。
ご本願に於ける信仰生活の規準は、マイナス・慎しみの側からいうと「唯除五逆誹謗正法」。
プラスの側からいうたら「乃至十念」。そこは文如上人のご法語に、「信は大悲の仏智にすがり、報謝は行者の厚念に励むべし」とあります。