当知今将談仏力まさにしるべし、いままさにぶつりきをだんぜんとす




科学の頭をのける


ご法義は科学の考え方ではないのです。科学の考えを持ち込んでいったら解りません。
そして私どもが生きているのは科学の考え方ではないのです。「こうしたらああなる、ああしたらこうなる」と科学はいいますが、私どもの心を変える事はできません。
「あれは憎い奴だ、いつかみとれ!」というて、青白い怒りの炎をあげて恨みの心を持っておる。それを変えてくれる科学の機械があるか、科学の方法があるか。
そして我々は科学でない心で生きておる。

「私しゃあ茄子の味噌汁が食べとうてならんのに、嫁が絶対『あれはアクがあるから好かん』いうて炊かん」と、ばあちゃんが言う。

「そしたら何の間違いか、あの憎たらしい嫁が茄子の味噌汁を炊いた。食べとうてならんけど、絶対に食べちゃあやらん。」

この心を、科学はどう始末してくれるか。嫁憎いあの心、食べたい茄子を食べん心、科学が始末してくれるか。

そういう心に関与してくださるのは、ご法義だけです。ですから、どうぞご法義聴聞につきましては、科学の頭をけて、ご常教、ご法義の頭で聞いて頂きたい。





原初の人


私達は当事者の生き方で生きておるという事を間違ってはなりません。
ご法義というものは、生(なま)の愚かな我々人間が相手であります。文字は後からついてきた知恵です。科学は後からついてきた知恵です。

近頃私はどういう言葉を使うかというと、浄土真宗のご法義は私どもを「原初の人」にする、人間としての一番最初に還(かえ)っていただく、科学でもなければ文字でもない、もろもろの後からくっついてきた知恵でもない。

原初の人とは何か、そりゃあ欲っぱりで人が憎くて、俺だけよければいいという煩悩具足の凡夫である。

例えば高速道路が通る。
「あんたの田もだいぶ潰してもらわにゃならんから売ってくれ」と言って来る。
それはよそから天下国家を考える役人が言う。
しかしそこに住んでいる農家の大将は自分の考えでいけばよい。

「いやなこっちゃ、あの向うの田はなあ、死んだじいさんが頼母子で買った田だぞ。こっちのあんた達が削るという山はなあ、やっとこの間、わしが手に入れた山だぞ、先祖伝来の山であり田である。この家だってひいじいさんが建てた家だよ、やるもんか。」

こういうのが、住んでいる人の思いでしょ。

「いや、天下国家のためには、経済のためには高速自動車道が是非必要。色々考えてみれば、俺かたの上を通るのも無理はない。じゃあ売ろう。」そんなバカな。
「売らん」というのが住んでおる人の思い。当事者の考え。
すると役人がもう一つうまい事を知っている。どうするかちゅうとねえ、一万円札を重ねて

「これいらんか」と言う。

そうすると亭主が
「それも欲しい」というのも当事者、原初の人なんだ。札束も少しじゃあない。

「こりゃあ、いらんか」と言うから

「それも欲しい」

「あの田を売れ」

「それも欲しい」亭主の心が揺らぐ事になる。

そして役人は知らん顔をしている。それから札束も欲しいが、祖父じいが頼母子で手に入れた地面も売っちゃあならんと、二つの心が自分の中で大騒動をする。

そしてまあ、まわりからだいぶ責められて、ちょっと計算をして、「売ろうか」という事になる。それが凡夫であります。
洒落た事は言わんのであります。まあですからそのような凡夫が皆、浄土真宗になりました。
天下国家を考える人は人の世話をする考え方ばっかりで、自分の考えはあまり大切にしないから、あの人達はあまり真宗にはならんのです。

浄土真宗のものは、原初の人になってゆきます。

科学はろくなことをしません。我々は地獄行きの凡夫でございますが、これはすばらしい事です。その原初の罪深い知恵なき私。知恵があるとろくなことはしない。女房をもらったら

「この女房を俺が生命がけで護ってゆかねばならん」のだと、それが知恵なき男の所作だ。

知恵ある男は
「力を合わせて」という。

知恵なき女は
「この男につかえていく。」

山口県のあるところに手足の不自由な女の人がいますが、この人は千葉県の大工さんと恋愛をして結婚した。千葉県まで行ったそうですよ。手足が不自由なのに四日間、飲まず食わずで行って結婚した。そして「あなた好みの女になります」と言うた。

「なれるか」

「必ずなります」

それが知恵なき女のいい方ではないのか。

知恵あるのは
「私ども夫婦は五分五分、力を合わせてよき家庭を築きます」と言う。

だから大方もめた時に、
「私は五分も努力したのに、あんたが二分しかやらんから」と言う。

「浄土宗の者は愚者になって往生す」(『親鸞聖人御消息』西本願寺聖典第16通)、愚か者になって参らせていただく。原初の人になるのです。
科学の知恵をふり捨てて、生のただの欲っぱりの、腹立ちの凡夫になって参らせていただく。そういうのが目当てだから、阿弥陀さまは法蔵菩薩になってくださったのです。






カプセル


我々は人さまとおつき合いをして「この人はいい人だ」と思われようと精一杯じゃあありませんかね。こりゃあね、あまり誉めたことではないですよ。

仏法というものは、人間の交際を軽くしておる。人間の交際というのは、私と人々との交際であって「あれからよう言われたい、これからよう言われたい」と、こうなる。

その人間の交際、やめられはしませんが、人間の交際を軽くして、私と阿弥陀さまの交際世界を重くするのが仏法、お念仏であります。

「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」というやり方が仏法のやり方です。

「こうしたら人が悪う言やあすまいか、こうしたらあの人からよう思わりゃあすまいか」ちゅうのが、人と人との交際であります。

ねえ、途方もなく誉められた人間がおったところで、それはその人を誉めた人の功徳ではあっても、誉められた人の功徳ではありませんからね。
人に誉められて肥えたちゅうのは聞いたことがない。
人が悪口を言うたら、タラタラと血が流れた。そんなことは聞いたことがない。
人を誉める人がおったら、誉める人の心が肥えていく。人を悪く言えば、言う人の心から血が流れておるんだ。

誉められてもどうもない。貶されてもどうもないはずなのに、そのはずなのに一生懸命になって、誉められたい、悪う言われとうない、ということに心を使っておる。
これは除(の)かんかも知らんけれども、仏法に心を志すということは、なるべくそういうところに気を配る心を遠ざけて、私と仏さまとの交際を重くするのが仏法であります。

これも一つのご報謝でありますから、ご自由でありますが、心がけてまいりますというと、そう難しいことではありません。

そのかわり人から「あの人はつんつんしている」と言われるかも知れません。
「あの人はつっけんどん」と言われるかも知れません。
言われたってどうせ、その人とつき合いをやめる日がくる。どんな仲のよい人ともおつき合いをやめる日がくるんです。

たった一人の旅立ちであります。旅立ちだけが一人ではない。今生きておるときから、だいたいはたった一人なんですね。

私の心を覗き込んだ人は一人もいない。又、私の心を断ち割って見せてもいい人も、一人もいないし、それはできません。私どもは自分の心を抱いて、自分が人生を渡るだけです。

この間、私はお医者さまにかかりましてね。大きな薬をもらいましたよ。カプセルといいます。外から中へ湿気が入りません。薬がこぼれません。便利です。

そうですね、私達はまっ黒なカプセルの中に心を納めて生きておるわけです。湿気が入らないように、誰も覗き込みは致しません。
薬がこぼれないように、何から何まで外にあらわすことはできません。

そしてそのような心、人の心を見たことは一度もありません。自分は、人には見えないカプセルの中に心を納めて、トボトボと歩いておるだけです。
淋しいですね。淋しすぎるから、おたがい見せ合いたい。見せ合いたいけど、めったな者には見せられんですよ。

ところでおたがい、いい友達が一人か二人はいるものです。いい友達というのは、たいてい、ろくでもない奴ですな。悪い人間がいい友達。

それから、ええ人間とはねえ、あまりつき合わんですよ。あんた方、つき合わんと思う。修身の教科書みたいな人とつき合うのはいやですな。

それよりは、昔なら、一緒に女を買いに行くようなのがええですな。何故かというと、私の心のカプセルの中を、相当程度さらけ出して見せても、「おまえもかあ」ちゅうて終りなんです。

ところが修身の教科書みたいなお方に、カプセルの中をあんまり見せてるちゅうとね。「何ちゅうことを考えなさるか」、こうくるからね。こりゃあたいへんです。
ですから心おきないよき友というのはね、大方、悪いことを見せ合える仲間であります。

この中には誰も入ってこん。この中へ入ってきて下さったのが、親さまであります。
「覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪」(親鸞聖人『正信偈』)と、一切衆生の奥の奥までご覧くださって、何とおっしゃったか。
善導大師のお言葉で言えば、「ただ愁歎の声を聞く」。ため息ばかりが聞こえてくる。

カプセル、心の中はくしゃくしゃ。おおもめ。くしゃくしゃ、おおもめを、悪い友達に、ややこしいね、いい友達は悪い奴ですから、悪い奴、その親友なら聞いてくれるちゅうから、

「私はつらい、こんなにつらい」

千万言ついやして喋っても、その通りには知ってはくれません。

「誰か私の苦しみを知ってくれないか」

と言っても、その通りには知ってはくれない。みんな言う。その証拠に、私が泣き歎くほどに、人の心の苦しみを受けもったことがないじゃあないですか。

ただここへ、「衆生の苦悩はわが苦悩、衆生の安楽わが安楽」、人に言えない私のカプセルの中へ、住み込んで下さったが南無阿弥陀仏の親さまであります。
だから人には言えんような心が動いた時、「ナマンダブツ、ナマンダブツ」、称仏六字即懺悔。「又、品の悪いことを、なんぼ人が見んというても思うわい」と、懺悔の心で「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」

「ああ、以前はあんな心もちじゃったが、近頃はご恩報謝、内々、心に努力をしたところが、少しゃあ如来さまのお好きな方向に育てて頂いたわい」

「よかったなあ、こうして喜ばして頂く、これもお育てかい。」

称仏六字即嘆仏。仏をほめ奉ることになる。

すべて、このカプセルの中であります。人が見るのは外ばっかり。
ですから私ども、内側ではわきの方を向いておる気持ちでも、友達には反対を向いてる思いですと言えばええんですからね。
友達はそれを聞いて「そうか」ちゅうて、うまいことそこを済ますことができる。人生はごまかしだらけやな。ごまかして、ごまかしてねえ、又ごまかさにゃあならんのが世の中です。騙さにゃあならんのが世の中です。

しかし「私は騙して騙し通しての人生であった」と思える身までになったのは、親さまに見て頂いたから。
親さまは、内も外も見て下さった。「なんと内も外もおかしな奴じゃのう。だけどもそのまま救うぞ」であります。それを聞き聞きしますうちに「その通り、その通り。私は人を騙してばかり暮してきました」と、又「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と懺悔であります。

今、騙して生きており、これからも騙し続けて生きてゆくであろうというのが、念仏の上の悪人なんです。

虚偽で固めた私であるという自覚が出てくるのが、ご恩報謝であります。

「そんならやめたらええ」、やめられるか。この国は嘘で固めた国であります。

それを恰好のええことばっかり言うて、「騙しおおせたわい」とほくそ笑む時、その人は内に如来を住まわせていない人であります。

我々は如来さまに見て頂いた。人に隠しおおせるカプセルも、中をお見抜きの親さまを持つ。

ならどうするか。中でのできごとではあるが、「浅ましい私でございます。嘘だらけの私でございます」ということになる訳です。その為には、あんまり外を飾るのはやめた方がええわけです。

独生独死
人間に生まれたのは、たいへん立派な功徳くどくがあったから生れた。めずらしいことでありますが、せっかく生れても、ここで地獄のごうを積みますから又、地獄へまいります。これが仏教の世界観。

ところがこれは科学の世界観と違うから、いわゆる現代の人達、いわゆる科学が余程りっぱなものだと思っておるような人達が、そのような六道輪廻の世界観を笑うのです。

それなら科学で生きておるかというとそうではない。

私どもは科学で生きてゆくわけにはいかんのです。科学で生きてゆくならそれこそ、人が死んで泣く事はありません。犬も死ねば馬も死ぬ。車にひかれる犬もおれば猫もおる。

おまえのところのお母さんが車にはねられた。そりゃあること。あることだから泣くな。おまえは科学が好きじゃないか。相手は千キログラムの自動車、それが時速六十キロで走ってきたんだよ。
おまえのお母さんがなんぼ六十キロと大きかったからといっても、はねられて死ぬるのがあたりまえ。運動力学の法則からいうて正しい。

まだ肉が残っておりゃあ、焼くのは惜しいぞ。そりゃあビフテキにした方がええぞ。タンパクもビタミンもある。脂肪分もあるよ。これ程、りっぱな栄養のあるものはないよ。

親類中で食いきれなければ、冷凍庫ちゅうものがあるから凍らせとけよ。科学じゃあありませんか。だんだん科学がそういいますよ。

「誰がお寺へ寄付するか」「法事して何になるか」

まあそりゃ若気のいたり。私しゃやかましく言やあしませんがね。えらそうなこと言うとくと、年とってつらかろうと思うですね。

我々は科学ではないのです。やはり妻子眷属の愛別離苦には涙が出るのであります。考えてみれば解っておる。「娑婆の住みはつべからざる」(覚如上人『口伝鈔』)ことも知ってるけれども、お母さん年とって八十歳で死んだといっても、涙が出るのが子供の情であります。私どもは科学でなく情で生きている。

私はタバコをよく吸います。一日に三十本から四十本吸います。そしたら賢そうなのが、「そりゃあ、たいへん身体に悪いからおやめなさい」と言います。それが科学ちゅうやつじゃ。

科学がいばる。知ってますよ私だって、タバコが身体に悪いちゅうことぐらい。ところがやっとすりゃあ、俵山のことばで、やっとすりゃあといいますが、すぐに火をつけますよ。科学が「いけません」という。いらんこと。「これが吸わずにおられるかい」ちゅうて吸う。「これが吸わずにおられるかい」というのが、私に於いて厳然たる事実であります。

厳然たる事実。あんたがたでもそれ、「俵山の夏安居へ参って、ご法礼ようけ包んで、眠ってたまるか」と思う。けど「これが眠らずにおられるかあ」ちゅうのが厳然たる事実であります。

そうして好きじゃあ、嫌いじゃあ、苦しいのお、つらいのお、うれしいのお、と自分の情に流されていくのが、私どもであって、科学じゃあない。

この情に流されておる私どもが、阿弥陀さまの相手。そこが宗教の世界なのであります。

そんなら科学は嘘か。嘘かどうか解らんけど、都合のいいように使っていけばええんです。

人間が月に行ったのは科学。ようやった。ようやったが、行った人は科学ではないですよ。帰ってきてから、「おれがお月さんに行っとる間に、女房が浮気をしなかったろうか」

科学の粋を集めたあの宇宙船に乗って、あの月まで行った。しかし中に乗っておるのは、できそこないの、情に流される凡夫が乗っとるわけです。

そういう情を去ることのできない私であるから、どうしてもこの宗教というものがある。道徳でもどうもこうもならんのです。

「あんたあなあ、あんたあ三年前、三々九度の盃して、百何十人の客を迎えて披露宴をして、なんでほかの女とつき合うか」公民館へ出しても、小学校の古い先生に聞いても、どなたさまに聞いても反道徳であります。反道徳です。そういうことも、その若いのが「私しゃああの娘を好いちょる」と言うたらそれでおしまい。

それだから、私どもの一人一人の中味は反道徳、反社会のかたまりであります。
近頃、お医者さんに行くと、細長い枕みたいな薬をいっぱいくれます。カプセルといいます。

私も、私というカプセルの中におるわけです。世間は道徳とか社会正義というものがひしめいておりますので、私は自分のカプセルの中に入っております。
中まで道徳に湿ったら、そりゃあ困る。私という人間は、カプセルの中で絶対、道徳がしみ込まんようになっておる。その中の私は反道徳、反社会であります。
中は私しか知りません。ここに手を伸ばしてくれるものは誰もいません。親子といえども、夫婦(つれあい)といえども、手は伸ばされません。
たいがい仲良くするけれども、どれ程抱き合うても、カプセルをこすり合わせるだけで、中には入れません。そして自分のカプセルの中味はいかなるものかと、絶対、人には言いませんが、静かにとり出してみれば、反道徳、反社会のかたまりです。それを見んように、言わんようにしておるのが、道徳社会であります。

今頃は、このカプセルにわざわざガラがつけてある。上半分は黄色、下半分は赤色とか、斜線が画いてあるのもある。
深川と名のるのがおるかと思えば、浅川と名のるのがおる。色々なカプセルのガラが違うのがおるけれども、中はあらかた同じの地獄行きの業、反社会、反道徳であります。そこに手を伸ばしてくるものはないのです。

そして又、いると思うとどうなるかというと、私どもが人のカプセルの中へ手をつっこもうといたします。透き通っているから、薬でいえば見えるようだが、しかし人間のカプセルは透き通ってもいないし、手をつっこむこともできないんです。たった一人で、その中味を抱えて生きて行かねばなりません。

お釈迦さまは、『大経』に阿弥陀さまのことを告げられたのち、ご自分のお説教をなさいます。
「人在世間愛欲之中、独生独死独去独来」(『大無量寿経』)

人は世間の愛と欲の関係の中に生きています。愛の関係というのは、すなわち親類の関係、欲の関係というのは、すなわち経済関係であり、社会関係であります。親類の関係と社会の関係で、私どもはおおぜいとつき合っております。その中でベラベラしゃべって楽しそうに暮らしておりますが、人は一人で生れて、一人で死ぬのです。
独生独死どくしょう独去独来どっこどくらい」、ほんとうですね。

人は世間愛欲の中にあって、一人生じ、一人で去るのである。

このカプセルを虚しく抱いて、トボトボと歩く絶対孤独の淋しい旅人であります。

夫婦つれあいといえども、調停委員であろうとも、この中には入ってきません。その中に入って下さるのが、阿弥陀さまただ一仏であります。阿弥陀さま一仏あって、「淋しかろう。淋しかろうけれども、ここに親がおるぞよ」というのが親さまであります。これは大切なこと。
普通は、この一人が死んでいくというのを直視するのが嫌だから、賑やかな方へ逃げるわけです。いけませんね。なんぼ逃げても、逃げおおせるものではありません。仏法は真実(ほんとう)のことを言います。
淋しいけれども、嫌じゃけれども、真実(ほんとう)のことを言うと、我々は絶対、人と心を交えることのできない孤独な生きものでしかないのであります。

テレーッと聞いて忘れて帰る「必ず救う」という仏さま。「参らなければ救わん」という親さまではない。

曠劫こうごうよりこのかた追いかけてきたぞ。お前は一ぺんだって参ってきたことはなかったけど俺は追いかけてきたぞ、参らんお前を救うぞよ」というのが信心のはなし。

それなら何しに参るか。ある所でこういう事がありましたよ。

「今度のご講師はとぼけちょる。説教に参らんでも救うげな、参ってもテレーッと聞いて忘れて帰りゃあええげな。とぼけちょる。」

「そんなら参らんでも救われるか。『あたり前のこと、参らんでも救われるぞよ』ちゅう説教じゃったから、私しゃ参らん」と言うて三日目の朝、三つ電話があったそうです。

ちょっと頭を整理しないとわからんですよ。ある人が葉書を出した。

「福岡市西区〇〇  ☆ ☆ ☆さま

残暑お見舞い申し上げます。

近頃西区は三つに別れたそうですから、以前は西区でありましたが、今は貴方の所は西区ではないかも知れません。
そうすると、この葉書は着かないかも知れません。着かない時は折り返し、正しい住所をお知らせ下さい。」

おかしいでしょ。何がおかしいか。着いた時しかこの葉書は読まれないんです。

「参らん者をも救うぞよ」というお慈悲を、参って聴聞するのであります。何しに参るかといえば、ご恩報謝であります。

この間、質問があった。

孫が「ばあちゃんの趣味は寺参り」と言うた。どうもしっくりせんというお尋ね。

お寺参りが趣味というのはどうもしっくりせん。やっぱりちょっとしっくりせんですね。

しかしやっぱりそりゃあいけません。やっぱり趣味ですよ。みなさんがお説教を聞いていて、

「お説教ちゅうものは命がけで聞いておたすけに預かるものじゃ」と思うてはおりませんか。それじゃあ一人もたすかりゃあせん。
命がけで聞いた事はない。座布団の上に座って、時々眠っとるのを命がけとは言わん。説教というものは命がけで聞くものではない。
テレーッと聞いておけばきこえてくる。親さまの命がけがきこえてくる。親さまの命がけで救われるのに、どうしてこっちが命がけにならにゃあならんのか。

たすかりぶりのお話ではありません。おたすけぶりのお話です。たすけてもらう方はそのままなんです。







阿弥陀さま、阿弥陀さま

近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。

阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。これが私どもの信仰なののです。

「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。
大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。
親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。
勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではありませんよ。

何故、親鸞・親鸞と言うのかといえば、結局阿弥陀さまを持たない。極楽を持たない。そして人間であり凡夫でありましたところの親鸞聖人のことならわかりますから、だから人間親鸞を大事にする。
人間親鸞を大事にするのなら、乃木大将や東郷元帥を大事にするのと全く変わりません。あるいは「あそこの先生は立派な人だ」というのと同じです。

私どもにはいろいろな趣味があります。説教中に眠るのを趣味にしておるのもおる。
絵を画く趣味、盆栽の趣味、剣道、柔道、水泳、奇妙きてれつな趣味もある。巾着きんちゃく掏摸するのが趣味の人もある。株をやるのが趣味の人もある。株ってそう儲かるものじゃないけど、日にち毎日電話とラジオを聞いて売買をして、そう儲かるものではないが楽しい。緊張してますからね。
ところが一つもないという人もあるかも知らんが、どなたにも共通した趣味が、人間の評判であります。

面白いですよ。趣味にはまあ、書道ならそれぞれ流儀があってグループを作りまして、そして景気づけや激励のために品評会がある。そしてあれがええ、これがええとやる。

人間の品評会がある。これだけは、どなたもするところの趣味であります。
「あの人は若いのに禿ちょるのお」
「ありゃ、おやじが禿ちょったから」
「ありゃ、禿ちゃあおらんが三十代で真っ白や」
「ありゃ、ばあちゃんがそうじゃった」
それくらいならまあええが、
「あそこのばあさんは、たいがいにゃ根性が悪い」などと、すぐ品評会がはじまる。

その一類として親鸞聖人という、人間親鸞の品評会をするならば少しも信仰ではない。

信仰というのは、阿弥陀さまを信じ、極楽を信じ、眼をつむったら西方のお浄土へ参るというのです。だから私どもは阿弥陀さまを持たねばなりません。極楽がなければなりません。

「あるような気がせん」

お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて待っていて下さるちゅうたら、「はあ、そうでございますか」と聞いておけばいいんです。






我田引水

宗教というものは我田引水をするのです。我田引水とは我が田に水を引くということ、理屈はなるべく我が田につれてくる、我がご法義へ。
それが宗教と言うものなんだ。公平にというが、そううまいこといかん。我々原初の人は、えこひいきのかたまり。ひいきというのは、どうしてもあるものです。

我田引水とは、同じ水路に甲の田と乙の田が二つ並んでいる。水が多い時は両方の田の水口から水が入る。
しかし水争いの時はどうするかというと、甲なら甲が夜なかに自分の田だけに水が入るように堰をする。
すると一方はよく入るが堰の下の乙の田には全く水が入らない。朝、乙が水回りをしていてそれをみつける。
「これは何ちゅうことか」と、甲の田の水口を閉じて、自分の水口の下に堰を作って我が田に水を引く。
そうすると、今度は甲が「お前、何ちゅうことをするか、公平に水を取らにゃあ」という。
その時乙が言う。「何を言うか。お前の田には、稲はできておらんじゃあないか。おれの田には稲がふさふさと出来ておる。お前の方は稗がふさふさ、一坪に二株くらい稲があって、他はみな稗。そんな怠け者の田に、立派な田と同じ水をなんでならねばならんのか。おれの田は大変上等だから水を取る。お前のような怠け者の田に水をやることはないぞ。」これが我田引水。

大無量寿経は立派な田だ。究極の目的を果たすことのできない、おさとりに至ることのできない宗教に理屈の水をやることはいらん。そういう信念。
お三部経の宗教は第一等の宗教であるという信念のもとに、ありとあらゆる理屈をもってくる。だから我田引水をするのです。
それを「公平にみたら、我田引水をしている」と、宗教学ではよく言わない。宗教学というのは色々な宗教の教義を勉強して較べていろいろ言う。
私達のはそうではない。これ一つ。「誓願一仏乗」(親鸞聖人『教行信証』)。本願の道唯一つ、他は皆まちがい。そういうお師匠さんの見開いた三部経の宗教。
そうして聞かせて頂けば、三部経の宗教が、一つの教えとしてあるのではなくて、それが世界の事実なんだ。阿弥陀さまのご法義がこの世の事実なんだ。だから我田引水をする。
法華経が出世本懐というけれども、「霊山りょうぜん法華の会座えざを没して王宮に降臨したもう」て説かれた阿弥陀さまご法義。事は急を要したご法義、法華経は二の次でよかった教えだと、出世本懐の理屈はこっちへもってくる。こっちが出世本懐なんです。







柿羊羹の中身は皆柿羊羹

私の子供が、「お父ちゃんバカでよ」というんですよ。

「なしてや」

「お父ちゃん、お説教の時『柿羊羹の中身は皆柿羊羹』ちゅうよね」

「おお、言うよ」

「あたりまえじゃないか」

「あたりまえじゃから、いいじゃあないか」

「そんなら柿羊羹でなくてもいいじゃあないか」

「何ならいい」

「蒲鉾でもいいじゃないか。蒲鉾の中身は皆蒲鉾ちゅうて説教しても同じじゃあないか」

「違いますよ。蒲鉾買ったら板がついてきますよ」

柿羊羹の中身は皆柿羊羹。阿弥陀さまの中身は皆私。
阿弥陀さまの一部が私で、他は何かというのではない。五劫兆載永劫ごこうちょうさいようごうのご苦労も、「四十八願の一々の願にのたわく、若我成仏十方衆生」(善導大師『観経疏』)、阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯です。







破邪と顕正

破邪というのは「いけません」という言葉。顕正というのは「こうです」という言葉。破邪がマイナスなら顕正はプラスのいい方です。
これは人格に係わることですが、私どもはなるべく「いけません」という言い方をしないように心掛けた方がいいですよ。


お坊さん方が、
「あなたがた、こういうお聴聞しておりゃしませんか、間違いですよ」と、たびたび言います。これはあまり誉めたことではありません。

「阿弥陀さまのご法義は、お念仏はこうですよ、こうですよ」と、お説教を終って知らん顔しとけばいいんです。聞き違おうが、違うまいが聞く者の勝手です。

それをお坊さんが、
「ひょっとすると間違うとりはすまいか、聞き間違うた者がおるだろう」
「いけません」と、こう言うんです。ちょっと過ぎたことです。ことに私どものような田舎のお坊さんは、こんな破邪はやらんがええと、近頃、お坊さんの勉強会なんぞで言うております。

ところが次第相承(しだいそうじょう)善知識ぜんぢしきさまは、教の位にいなさる。教える位にいらっしゃるから、「いけません」というお言葉もあります。

あのね、私どもみんな心もちが教の位であります。子供育てたからね。子供を育てる、みな育てる。子供を育てるちゅうとねえ、

「左手で食べちゃあ、いけません」
「あぐらをくんでは、いけません」
「こぼしちゃあ、いけません」と、どれ程「いけません」を言うてきたでしょうかね。

「座っておたべ」、「丁寧にお持ち」と言えばプラスなんです。

「いけません」というのがマイナスの意味なんです。しかし、どうしてもそう言わなければならんことありましてね。
障子を破ったら、「障子を貼りましょう」とは言われません。「障子を破るな」と言わにゃ、しようがないから、次第に頭がそうなった。教えの頭になってしまった。だからお説教も、教えの頭になりがちになります。

私どもは三部経の中、ことに阿弥陀さまのことをお釈迦さまが説いてくださった、仏願の生起本末しょうきほんまつの一段を拝読しますと、一ヶ所も「これはいけません」という処はないんです。

「あのなあ、法蔵菩薩さまがなあ、ご苦労なさって四十八願建ててくださって、お浄土こさえて待っていてくださると、聞く一つで参らせていただくんだよ」とね。 それも生れて初めて聞いたんでしょ。お釈迦さまがお浄土からおいでて、はじめて阿弥陀さまのお説教なさったんですから、阿難その他も初めて聞いたんですよ。
全部「阿弥陀さまはなあ」とプラス、顕正。「こうです。こうです。」という言い方。

後でだんだん慣れてきたら、教でおっしゃる。お釈迦さまは、まず阿弥陀さまのことをお話しになる。それが終ってご自分のお説教を少しなさるときには、教の位であります。だから、「お説教はしっかり聞かねばなりません。忘れちゃいけません」と、「謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法」「聞法能不忘」とお戒めになるのは、教の位のお話しです。

だいたいこの世の中は、教のいい方です。というのが一番よくわかるのは教育。教育と熟しますね。
だからお父さん、お母さん、学校の先生が「いけません」が多いのです。

私ども時々、のみ屋に行くけれども、のみ屋のママさんはあまり「いけません」とは言いませんよ。あまり「いけません。いけません」と言ってると客がこなくなると知っておるんです。
客ちゅうものは、「いけません」と、うるさい処には行きたくないんです。阿弥陀さまの客、凡夫も「いけません」とうるさい処には近づかんということをご存知だから、おっしゃらん。

それだけではすまないと思われて、お釈迦さまが教の位としてお出ましなされ、ちょびっとご意見をくらわされるわけです。

阿弥陀さまのご法義は、決して教育の論理ではない。違うんです。お救いの論理です。叱らないで救うのであります。

今月号の『大乗』誌(昭和五十七年八月号)に載った私の短い文章は、あれは顕正の文章で、一ヶ所も破邪がありません。心がけて書きました。近頃なるべくマイナスは言わんように心がけております。

阿弥陀さまはそんな仏さまです。だからご法義には一ヶ所も、「いけません」とないのがほんとうです。

しかし善知識さまは教の位にいらっしゃるから、教の位の言葉使いをなさる。教育の言葉使いをなさる。その教の位の人の言葉使いをそのままは用いません。







鍬の柄のすげかえ

唐鍬とうぐわが折れたら、柄の部分がまだ金の中に折れ込んでおりますから、あれをたたき出さねばなりません。そして折れ残った柄をまた使う時。

柄の大きさに合わせて金の穴を拡げる。鍛冶屋に持って行って拡げてくれと頼む。

ふいごで吹いて、金槌でたたいて拡げてくれる。それに残った柄をさし込むと、スポッと入る。

しかし、そんなアホな事はしません。なら、どうするかというと、鍬(金)はそのままにしておいて、柄の側を削る。

何回削るかちゅうと、四十八遍くらい削らにゃあならん。「かかる機を本として」私を救う。

それがね、「しっかりせえ」ちゅうて、しっかりするんならええんですが、あんたあ唐鍬の《みみ》ならふいごで吹いて、たたきゃあ拡がりもしようが、この泥凡夫はどうにも、こうにもならんから、これはそのままにしておいて、向う(仏)が私に身を削って合わせてくださった。それが命がけの兆載永劫のご苦労であります。

だからお内仏にお礼をするとき、いいこころになることはないですよ。なりゃあせんのですから。
私のことが地団太ふんで大問題だというお姿だ。今日も、きょうとて地団太ふんで私のためというお姿。
しかもあそこから私に、立派になれとおっしゃるのではない。「お前はつまらんから私が大丈夫になったよ」と言うていらっしゃる。

私の事が大問題の親さまであります。







通り抜け無用

我々は三部経のご法義の実践者です。このご法義の実践者として、曇鸞大師のご解釈を参考として、ご本願をみられた善導大師は、「唯除五逆誹謗正法」(『大無量寿経』)の八字、逆謗除取ぎゃくほうじょしゅの問題に関しまして深々とお考えくださってある。
逆謗除取、逆謗(五逆罪と謗法罪)を救うか、救わんか、これこそ阿弥陀さまのお慈悲をいよいよ顕わすところであるとご覧になってある。

「已造を摂せざるにはあらざれども、重罪を告げて未造を抑止おくししたもう」おこころだと解釈される。
五逆謗法というのは重罪です。人間のいろんな罪の中で一番重い罪です。

世間でもそうです。法律でも子を殺すのと、親を殺すのと罪が違いますね。尊属殺人。自分より先輩であるところの親族、尊属を殺した罪は、尊属殺人というて少し罪が重い。ありゃだんだんこの時勢でとって行きゃあせんかと思う。

え、もうなくなったか。父を殺しても、隣りのおじさん殺しても同じになった。しかしそういう思想はあったわけです。そして我々の人情においては、自分の親を殺すのと、隣りのおじさん殺すのとでは、やはり自分の親を殺す方が罪が深いですよ、そりゃあ。
ということで世俗でも罪が深いとしたものであります。

そこで善導大師はこの逆謗除取を釈せられるに、この重罪を告げて未造を抑止なさったのだとされる。

刺身を食べて「うまいのう」ちゅうて、罪の深い事も知らん。そういう愚かな者だから罪を告げて、まだ造らん人、未造には、まだ五逆謗法をやっていない人には「これだけはやるなよ」と、抑え止めたもう。阿弥陀さまが抑止なさった。

「已造」とは何か。すでに造った人。已に父を殺し、母を殺した人を救わないというのではない。そう解釈なさったのが善導大師です。

しかし逆謗を除くとあるのに何故、逆謗を已に造った者を救わないわけではないと釈されるのか。
それがお慈悲。お慈悲の至極。悪人正機である。

「父を殺すような重罪を犯したお前を捨てはせんぞ」と、わざわざおっしゃったんだとなさる。わざわざおっしゃるのなら、「除」という字を書かなくてもええじゃあないか。

誉めたことではないんです。罪の深い私を救うというても、「ようやった、まだやれ」と誉めて救うんじゃない。
好かんけれども、阿弥陀さまはこの私どもの日々(ひにち)毎日の罪は好かんけれども、それしかないから仕方なしにゆるしておたすけくださる。

父を殺した人に、「なんちゅう重い罪を犯したか、けれどもお前を救う親じゃぞよ。」という仏さまです。
そういう仏さまだけれども、誉めておるんじゃあないぞということを顕わすために、まだやらん者には「やっても救うぞよ、やっても救うけどやらんうちに言うとくが、こんなことはするなよ」と抑え止めなさるのである。

しかし「除」。五逆謗法を除くというお言葉の中から、善導大師は何故、救うという意味をお取りになったか。

あのねえ、大阪造幣局という所がある。お金を造る所。百円玉や五百円玉など硬貨を造る所です。
ですからめったに、私どもを中に入れてはくれません。この中にたくさんの桜並木がありまして、私は行った事がないので知りませんが、今では桜の名所だそうです。
その桜が咲いた時、ほんの何日間ではあるが、みんな見に来てもいいという日がある。工場内の決められた道順をぐるっと回って外へ出る。「通りぬけ」という。

まあ造幣局ですから一年に一回、特別な時だけですけど、普通のちょっとした工場なんぞは、通り抜けるのにそれほど厳重ではない。
ですから事情を知っている者は、近道のために工場内を通り抜ける。通り抜けられても大した事はないが、やはり工場内に部外者が入るのは困るというので、門の所に札がある。
どういう札かというと「通り抜け無用」という札。そうすると、みんなが通らんようになる。ところが私らみたいに行ったことのない者は、ここにそう書いてあると、「ああ、ここは通り抜けられる。なら私しゃここを行こう。」

「通り抜けるなよ」と書いてあるから、通り抜けられることが解る。なんにも書いてなかったら、他人の工場の中に、わざわざ入りゃあしません。通り抜けられるものだから、「通り抜け無用」と書いてある。

江戸時代の川柳にこういうのがあるそうです。

  通り抜け無用で、通り抜けが知れ。

もう少し印象深く言いますとね、私が初めて俵山温泉に入ったのは昭和二十七年。
今の風呂はきれいなと言っても、建て変ってだいぶ経つので古いが、前の風呂はうす暗い風呂でした。その風呂にはじめて入った時はびっくりしました。
まあヒゲなっと剃ろうと思いまして、カミソリを持って、タオルと石鹸もって行きました。入ろうと思うたら注意書がありますから、読んでみますと、こう書いてある。

       注 意

「湯に入るまえに、からだを(とくにしも)洗うこと。」

「湯のなかにて、入れ歯あらい、ひげそり、歯みがきなどせぬこと。」

これだけ書いてあった。今はいっぱい書いてあるですよ、道徳的なことが。
まあこれも道徳的ではありますがね。私はせっかくカミソリ持って来たのに、ヒゲソリはしてはならんとあるので、入れ歯はしておらん、歯みがきも朝やったからええが、まあそう書いてあるから、ヒゲは剃らんまま帰ってきた。しかし前が解らん。

「湯に入るまえに、からだを(とくにしも)洗うこと。」

私は「必ずしも」という言葉は知っておるけれども、「とくにしも」というのは聞いたことがない。
そうして何度か湯に通っておりますうちにね、もう亡くなったが、ある宿屋のおじいさんが二号湯の流れ口で、ですからきれいでない水ですよ。そこでからだは湯の中に入ったまま、入れ歯をはずして湯につけて、シャパ、シャバと洗って、シャッと湯を切って口にパクッと戻したですよ。きたない、ありゃあやっぱりせんがええ。

そしたら今度、ある時、「川の湯」へ出かけた時、先客が一人でした。その一人が、湯の流れ口からからだを湯に流して、アゴの下に洗面器を裏返して置いて、ヒゲを剃っておる。こりゃあええわい。

だから「そるな」というのは湯槽の中で剃るなということ。あたりまえのこと。だから洗い場では剃ってもええわけ。私は剃っちゃあいけんかと思うて、以来カミソリは持って行かなかったのに。湯槽の中でヒゲ剃るバカがおるか。しかしおる。湯の中で入れ歯を洗うのもおる。それは解ったが第一条がわからん。「とくにしも」がわからん。

湯の中に入っておりますと、肩まで湯につかって皆、頭だけ出しておる。人の顔を、ジロジロ見るわけにゃあいかんから、あっち見たり、こっち見たり。そうすると人が入ってくる。唯一の変化は人が入ってくる時だけ。どこの人か知らんが、まあ入ってくるなら、「ガラガラ」、「ガラガラ」と戸が開いて閉る。湯槽までの石段を「トントントン」と降りてきて、しゃがんで「シャバシャバ」と前を洗って、立ち上って「トボントボン」と湯に入ってくる。リズムですからどうもない。又、一人、入ってくる。

「ガラガラ、ガラガラ」
「トントントン」
「シャバシャバ」
「トボントボン」

そうしたらリズムの違うのが一人おった。

「ガラガラ、ガラガラ」
「トントントン」
「トボントボン」

ありゃあ!「シャバシャバ」がない。

まあ入湯にゅうとうじゃからね、朝から何回も湯に入っておるからきれいとは申せ、ありゃあやっぱり洗うたがええ。

「しも」というのは下のこと。「特に下」と書いてあればすぐ解る。何故、解らなかったかというと、「からだを」と「を」が入っているから解らん。「からだ(とくにしも)をあらうこと」とあれば、下ということだと解るが「を」が入っておるので解らん。

俵山という温泉はおもしろい湯だよ。入る前に下を洗って入れと書いてある湯なんてほかにはないぞ。私はその頃、帝国ホテルとよく言ってた。帝国ホテルの風呂には書いてなかろうと思う。帝国ホテルの風呂には、えらいすまんけど俵山の湯に入湯なさるお方々の、一般的教養よりもずいぶん高い教養の人が入ってくるから書いちゃあない。俵山には時々、洗わんのが来るから書いてある。

この「特に下を洗え」と書いてあるによって、俵山には時々、洗わんようなのがおいでなさるちゅうことです。

「唯除五逆誹謗正法」という。「五逆謗法の者を除く」とあるのは、本願という温泉には、五逆謗法の者も来るところぞということになる。

「通り抜けはいけません」とあるから、通り抜けられる。

「五逆謗法は救わん」とあるから、五逆謗法を救うんだよということになる。しかし、ほいほい「お前が一番さき」と救うんじゃあないぞ。重罪を告げて、未だ造らない者は慎んで行けよと、告げてある。