読売ファミリーサークル「福井リポート」掲載された住職(高務哲量さん)のインタビューです。


尊厳死を考える

いかに死すべきかは、いかに生きるべきかの問い

 死を前にした延命治療をめぐって、その行き過ぎた医療が人の尊厳を著しく損なっているのではないかと「安楽死」を容認する人がいる一方、最後まで延命治療をはずすことを拒否し「安楽死」を否認する人がいる。タブー視されてきたことが今、論義をよんでいる。死に方を巡るそれぞれの思いをシリーズで紹介しよう。第1回は浄土真宗・千福寺住職でビハーラ活動を推進している高務哲量さんを取材。

 医療現場では死は医療の敗北という考えが根本にあり、一分一秒でも死を先送りし、延命を図ることがよしとされてきた。その結果、行き過ぎた延命治療が行われることになり、そのことに患者の家族からも医療者側からも疑問・反省が生まれ、人の死に方が問題とされるようになった。ところで安楽死といい、あるいは尊厳死といういい方があるが、言葉の内容を押さえておかないと、論義はかみ合わない。
 尊厳死とは、死に臨む人の人格の尊厳性を最後まで保って死を迎える、あるいは迎えさせることと理解するなら、助かる見込みのない病人に苦痛の少ない方法で人為的に、死を迎えさせることを目的をする安楽死とは区別して考えなければならない。私は人の死は尊厳あるものでなければならないと考える一人である。同時に無批判に安楽死を認めるわけにはいかない。安楽死とはその言葉通り、患者が、苦しまず楽に死にたい、家族は楽に死なせてやりたいという願望をそのまま医療者が引き受けることであろう。しかし医療者といえども、人の命に終止符を打つ権利はないはずである。死にたくないも欲望(=煩悩)、死ぬなら楽に死にたいというのも欲望(=煩悩)。どっちも自己の煩悩に振り回され生きているような私どものような凡夫の思いはからいを超えて、死は必ず訪れるもので、自分のいのちが自分の思いのままになるというのは、人間の思い上がりであろう。
 本来生と死は分けられるものではなく、いかに死すべきかの問いはそのままいかに生きるべきかの問いに他ならない。
 生と死に限らず、老若・美醜・善悪・賢愚などの対立概念は、いずれも表裏一体ともいうべきもので、仏の真実の智慧(=無分別智・むふんべっち)は人間の分別(ふんべつ)を超え、いずれにもかたよらず同じ価値と意味を見いだしてくださるものである。故に死を虚しい滅びとは見なさない。私にとっての死は、煩悩に狂わされた凡夫としての生にけじめをつけて、お浄土で懐かしい人々に会い、また愛憎を超えて、いきとしいけるものに等しく慈悲をそそいでゆける存在(=仏)として、この私が仕上げられてゆく一つの大きな契機である。こう聞かせていただくならば、死も無意味な滅びではない。
 自分にとって安楽死が願わしい死に方か、尊厳死を善しとするか、それとも一分一秒さえも延命を望むのか、大いに悩もうではないか。その苦悩こそが人間を人間たらしめてくれるといえないか。ただし、死について思いを巡らすことが、そのまま今の生を問うことでなければ、単なる死に方論(技術論)に終わってしまうのであろう。念のため。

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