さるでも解る浄土真宗


本当に、疑いなく、私の国に生まれる事ができると思って、僅か十声でも私の名を称えながら生きていく者を、もし浄土に生まれさせる事ができないならば、私は正しく目覚めた者、仏にはなりません。(ご本意の願)


昔々、それはそれは気の遠くなるような昔。未だこの私達の住む宇宙も存在していなかった頃にふっと大いなる願いが動き出しました。願いが願いとして動き出したのです
それはあらゆるいのちにかけられた、無量の不可思議な願いだったのです。


この願いは、やがて法蔵という菩薩の人格となって顕れ四十八の願いに集約されました。
生と死を繰り返さなければならない、あらゆるいのちの苦悩をひき受ける法蔵菩薩の誓いとなり実現されたのです。

願いが、名号(願いと誓いの本体)としてすべてのいのちに充満し、完成されないかぎり仏にはならないとの法蔵菩薩の誓いでした。
このことを、説いて教えて下さったのがお釈迦さまだったのです。
お釈迦さまの説かれた法蔵菩薩の不可思議な願いと誓いは(如来)といって全ての存在の根拠となるものでした。


しかし、生命誕生以来、強い者が勝ち、優れた者が他のいのちを犠牲にして生きる事を繰り返してきた人間にだけは、お釈迦さまが説かれた(阿弥陀如来)の意味がなかなか解かりませんでした。

ありとあらゆる生きとし生けるものの、一つひとつのいのちは、仏様の願いと誓いのなかにある、輝きにみちた等しいいのちだということが解るには、多くの宗教的天才のいのちへの深い洞察が必要だったのです。


知恵もいらなければ、修行もいらない、信ずる心も必要ではなく、名号(なんまんだぶつ)となって称えられ、聞こえて下さるままが、智慧であり修行であり信心であるという仏様の根本の誓願を顕らかにして下さったのです。

自力(自己の執着心)の介在する余地のない、による根いに生きることを、浄土真宗と先達は示して下さったのです。
いのちのすべき所を浄土として、いのちのって立つべき所を名号として帰依し、ただ仏様の願いと誓いの中に身も心も投げ入れて、なんまんだぶつの名号を讃歎しながらいのちの意味を聞いていく阿弥陀様のご法義が顕らかになったのでした。




時間と空間の存在する以前からの大いなる願いに遇(あ)えた喜びを、あらゆるいのちが次のように讃歎しています。


如来大悲の恩徳は

 身を粉にしても報ずべし

 師主知識の恩徳も

 ほねをくだきても謝すべし

永遠の誓いと願いはむこう側が成就し、かぎりない報謝讃歎はこちら側に属する浄土真宗の御法(みのり)でした。