そこで今日のお話は、
寛正年無数死人 輪廻万劫旧精神
涅槃堂裏無懺悔 猶祝長生不老春(寛正の年、無数の死人、万劫に輪廻す旧精神、涅槃堂裏に懺悔なし、なお長生不老の春をいのる。)
極苦飢寒迫一身 目前餓鬼目前人
三界火宅五尺体 是百億須弥苦辛(極苦飢寒、一身に迫る。目前の餓鬼、目前の人、三界火宅、五尺の体、これ百億須弥の苦辛。)
尽十方乾坤衆生 驕慢情識劫空情
仏魔人畜総混雑 天然業果始須驚(尽十方乾坤の衆生、驕慢の情識、劫空の情、仏魔人畜、総て混雑す。天然の業果、始めて驚くべし。)
一休禅師の漢詩の第一首の内容は、寛正の年の大飢饉で無数の死人が出た。彼らの精神(たましい)は万劫にわたる永いあいだ迷いの世界を流転することだろう。一方、これに対処すべき仏教の僧侶たちは、涅槃堂に横たわって死を待つばかりの者も、懺悔をしないのみか、なお長生不老の春をいのるという有り様だということです。
第二首の内容は、このたびの大飢饉によって、人々は極苦飢寒にさいなまれている。眼前をさまよう者が、餓鬼かと思えば、人間であった。三界火宅のこの世に生きる五尺の体は、百億の須弥山ほどの重い辛苦を背負っているようなものだということです。
第三首めの内容は、天地十方世界に生きとし生きる者は、すべて傲慢な情識(こころ)をそなえている。仏性も魔性も人間も畜生も、すべていりまじって存在している。彼らは自身が天然の業果をうけて、はじめて驚き、おのれのあやまちに気がつくのである。おおよそこのような意味をうたったものと思われます。
一休禅師は寛正の飢饉に対応する仏教教団、特に一休禅師自身が所属する臨済宗の実状をみて、大いに失望感をいだき、ついに禅教団との決別を宣言します。
さきの三首の漢詩を読んだ同じ年、「寛正二年六月十六日、大燈国師の頂相を本寺へかへして念仏宗となる」という記事が『自戒集』にみえます。一休禅師が六十八歳の時のことです。そして、次の漢詩を作っています。
離却禅門最上乗 更衣浄土一宗僧
妄成如意霊山衆 嘆息多年晦大燈(禅門の最上乗を離却し、衣をあらたむ、浄土の一宗僧。みだりに如意・霊山の衆となる。嘆息す、多年、大燈をくらませしことを。)
この漢詩の意味は、私は仏教の中で最も優れているといわれる禅門を離れて、浄土教の僧となることにしました。いままで私は如意庵や徳禅寺で禅を説いたのはあやまりでした。私は長い間大徳寺の開山大燈国師の法灯をみだしていましたということのようです。
こうして一休禅師は禅から浄土教への転向を表明します。
ところで一休禅師が浄土教への帰依を明らかにした寛正二年は親鸞聖人の二百回忌にあたっています。最近の一休禅師に関する著書の中に、この二百回忌法会に本願寺へ参詣して蓮如上人と語り合ったとしるすものがあります。
例えば、西田正好著『一休−風狂の精神−』講談社現代新書の中に次のように書いています。
「寛正二年(1461)は、一休六十八歳に相当している。この年、かねて道交のあった蓮如上人が、本願寺において浄土真宗の宗祖親鸞聖人の二百回忌の法要を盛大に営んだ機会に、一休はその法要の席に親しく参列している。このとき一休が「末世相応のこころ」とことわって、
襟巻きのあたたかそうな黒坊主
こいつが法は天下一なり
という一首を席上で詠んだという話は有名だ。そういうところから見ると、一休の浄土真宗への転宗は、決してふざけたものではなかったように思える。」
右のような内容のお話は江戸時代に作られた『一休ばなし』にしるされています。しかし、本願寺関係の文献には、蓮如上人と一休禅師の交流についてしるしたものは、現在のところ全く見あたりません。
蓮如上人は一休禅師より二十一歳ほど年少で、寛正二年は蓮如上人四十七歳、本願寺第八代を継いで五年目、一休禅師は先ほど申しましたように六十八歳でした。文献には見あたりませんが、同じ時代、同じ場所に生きておられてので、お二人は全く無関係ではなく、何らかの交渉があっただろうということも否定できません。
長禄・寛正の災害を克服し、かろうじて生き延びた人達は、自らの手によって村の再建に取りかかります。これが先ほど申しました惣村づくりであります。しかも、その新しい村づくり運動は荘園領主や大名たちの圧力をはねのけて一揆という積極的な行動へと移っていきます。一揆もまた人々の命をかけた運動でした。
飢饉・一揆という命をおびやかす事態に、人々はどのように対応したのでしょうか。この死の不安というか、恐怖というか、死の問題に対面し、それを克服した心境につきまして、私の知人で宗教社会学者の森岡清美先生は、『決死の世代と遺書−太平洋戦争末期の若者の生と死−』(吉川弘文館刊行)という本を出版され、おおよそ次のような趣旨をしるしておられます。
半世紀前に終結した十五年にわたる長い戦争の時代、特に太平洋戦争と呼ばれる戦いの末期には、皆さんと同じような二十歳前後の若い世代の人達が、戦場にかりたてられ、特効隊員として死に追いやられ、また戦後には戦犯として死んでいかなくてはならなくなります。そうした強いられた死に、いかに対応したかという事を、森岡先生は、若い学徒兵の遺書から、死をどのように受け止めていったのかという、その心境を分析しています。
特攻隊に編入され、間もなく敵艦に体当たりしなければなりません。死ぬことを考えますと、それは大変不安であり、かつ恐ろしいことでした。死にたくはありませんでした。しかし、特攻隊に加わったからには、死ななくてはいけませんでした。
また戦争終結後、戦犯で死刑を宣告された人達がいます。死刑に価するような罪を犯していないのに死に追いやられる。死ぬことを考えると、不安で恐ろしい。しかしどうしても死をのがれることはできません。
学徒兵の日記や遺書には、そうした死への恐怖がしるされています。そして、たいていの人達が、お母さんのため、お父さんのため、そして家族のために戦い死ぬのだという事が書いてあるということです。
死ぬのは恐ろしくて、いやなんだが、しかし、死ななくてはならない。そういう現実に、どのような覚悟でもって、死にのぞんだのか、ということについて、森岡先生は「死のコンボイ」という表現をしておられます。
このコンボイという言葉は、始めアメリカの文化人類学者のダビット・プラースという人が「コンボイとは、ある人の人生の特定の時期を通して、ずっとその人と一緒に旅を続ける親密な人達のユニークな群である。」という意味の言葉として用いたということです。
森岡先生は、プラースがいうように人生行路のある時期に行動をともにするということだけでなく、人生行路の果ては死への旅であるので、「死のコンボイ」「死への道づれ」という意味にこの言葉を使って、特効隊員の心境を理解しようとしたのでした。
例えば、特効隊員として明日飛行機に乗って、いよいよ敵艦につきこんで行かなくてはいけない。死ぬことを考えると恐ろしくてたまらない。しかし、どうしても死ななくてはいけない。そこで、どういうふうに自分を納得させたかといいますと、自分に先立って飛び立ち死んでいった仲間がいる。そしてまた後から続いて死ぬ友達もいる。だから自分一人だけが死ぬのではなく、一緒に死ぬ道づれがいる。これを「死のコンボイ」というのですね。こうした死への道づれ、一緒に死んでくれる戦友がいるのだということを心の支えとして飛び立っていったというのです。戦争犯罪人として死刑を宣告された人も、同じように、自分と同じく戦犯で死刑に処せられる仲間がいる。自分一人だけではないのだとの思いを抱き、死刑台に立ったのだという事です。
その当時の軍隊で流行していました歌に、「貴様と俺とは同期の桜、同じ航空隊の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」というのがあります。同期の桜で一緒に死ぬ仲間がおるのだという事です。つまり死への道づれがあるのだということです。
真宗教団では蓮如上人の頃から門徒の人達が一揆に加わります。いわゆる一向一揆と称せられる真宗門徒を中心とする一揆が発生します。一揆に参加した人達は、もちろん命をかけての争いになることを承知していました。彼らの心の支えとなったのは、お念仏でありますとともに、「死へのコンボイ」、ともにお浄土へ旅立つ念仏仲間がということだったのでしょう。
森岡先生は一向一揆や赤穂義士を団結させたのは、死への道づれという意識があったのであろうということを指摘しておられますが、その「死へのコンボイ」という意識が、一向一揆に加わった人達を支えた心理的要因の一つになっていたことは確かでしょう。
一向一揆が加賀国におきまして「百姓の持ちたる国」を作り上げたことは、大名たちに一大ショックを与えました。このころ大名は領内の一円知行(隅々まで一手に支配すること)をめざして懸命になっていました。百姓が自主自立的な運動を展開することは、当然大名たちの利害と相反することになります。
しかも、百姓の自主自立の動き、つまり惣村形成に本願寺が強いかかわりを持っていましたので、大名たちの本願寺に対する関心は非常に強いものがありました。そして二つの傾向がありました。
第一の傾向としましては、領内に本願寺門徒が増加すると、加賀と同じ状況になるおそれがあるということで、領内の本願寺門徒を禁圧し、真宗の教えを閉め出すというやり方です。
第二の傾向としては、領内における真宗の伝道を許し、本願寺と仲良くしていこうとする大名たちです。
大名の対応はこのような二つの傾向に色分けされます。しかし、それは必ずしも固定的・継続的であるということでもなく、時と場合によって、大名たちの政策は変化します。
例えば、越後国(新潟県)に上杉謙信という有名な大名がいます。謙信の父は本願寺門徒と争って戦死しました。それいらい越後領内の本願寺門徒は弾圧され、根絶やしにされました。こうした厳重な禁教が三十年間ほど続きました。やがて謙信が越後や周辺の国々を制圧し、京都に上って天下を取ろうという大望をいだきます。ところが越後から京都への途中にある加賀・越前などは本願寺門徒がおさえていました。そこで謙信は本願寺と和解し、領国内の真宗禁制を解除いたしました。
また相模国(神奈川県)でもおなじような状況がありました。この国は北条氏が支配していました。やはり一揆の発生を恐れたためと思われますが、本願寺門徒を領内から閉め出し、厳しい禁制を実施しました。この北条氏と甲斐国(山梨県)の武田氏は敵対関係にあり、一方本願寺と武田氏は同盟関係にありました。やがて北条氏と武田信玄とが和解しますと、本願寺と北条氏の関係も好転し、五十年ぶりに北条領内の真宗禁制も解除されました。
さらに三河国(愛知県)でも徳川家康が本願寺門徒と抗争します。家康の家臣団も二つに分裂して本願寺門徒に加担するものもおり、激しい戦いが交えられました。その結果、本願寺門徒は国外に退去し、三河領内に禁制が実施されました。二十年後、家康は本願寺と和解して領国内の禁教を解きました。
真宗禁制が最も長く続きましたのは、薩摩(鹿児島県)の島津氏と肥後(熊本県)の相良氏の領内で、戦国時代から明治維新に至るまで三百年間も禁教しました。
この九州南部の大名たちの禁教も、他大名と同じく一向一揆の発生を恐れたためでした。島津氏が禁教した理由につきまして、「諸処に一向宗起こって、父母を軽んじ、仏神をうとんずる者、人間の作法にあらず。これらの徒党成敗に根を絶ち葉を枯らす」といっています。
また相良氏の禁教理由につきましては、相良晴広が制定しました法令の式目二十箇条の中に「一向宗のこと、いよいよ法度たるべく候、すでに加賀の白山もえ候事」といっています。これはどういうことかと申しますと、加賀が百姓の持ちたる国となりまして、しばらく経ちまして、白山が噴火しました。山麓の村々に被害を与えるような大噴火ではなくて、頂上の白山宮が壊れるなど、小規模なものでしたが、白山麓の人々は戦々恐々としました。相良晴広はこのことを取り上げて、白山の噴火は加賀が一向一揆に制圧されたのを怒った白山神の仕業であるとし、もし肥後国人吉も加賀と同じように真宗門徒が支配する国になれば神様の罰を受けるのだと言って、領内の真宗門徒を禁圧しました。
九州の相良氏や島津氏の真宗弾圧に領国内の門徒の人達は地下に潜行して、ひそかに教えを伝えました。これを「かくれ念仏」と称します。
「かくれ念仏」は政治権力者の弾圧によって、ひそかにお念仏を相続することです。したがって、そこに伝えられるお念仏は真宗の正しい教えにもとづくものでした。
一方「かくし念仏」といいますのは、これも人にかくしてお念仏を相続しますが、教えそれ自体が秘密性を帯びており、正当な真宗信仰ではなく異端に属するものです。
親鸞聖人のご子息に善鸞さまという方がおられます。この善鸞さまは、親鸞聖人から人にかくして、ひそかに法文を伝授されたといっています。しかし、親鸞聖人はそのような事実はないと強く否定され、善鸞さまを正しい教えにそむくとして義絶されましたことは、すでにご承知のことと思います。この善鸞さまを始祖とする「かくし念仏」の一派がいました。
「かくし念仏」の人たちは仏法の伝達を夜中にしますので夜中秘事、あるいは土蔵の中でひそかに伝法しますので、土蔵秘事ともいいます。覚如上人は『改邪抄』の中に、「夜中の法文と号す」る人たちのことと、ひそかに法門伝授を行う人たちがいたことを挙げています。
蓮如上人の時代にも秘事法門が「国々にこれ多し」「在々所々にこれ多し」という文言がみえますが、文明六年七月五日付の『御文章』に「夫、越前国に広まるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものは、ながく無間地獄にしづむべき業にていたづらごとなり。この秘事をなおも熱心して、肝要と思ひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随遂すべらかず」としるされ、また一ヶ月後の文明六年八月六日の『御文章』にも「この方、河尻性光門徒の面々にをいて、仏法の信心のこころえは、いかやうなるらん。まことにもてここともとなし。……このほかに、わずらはしき秘事といひてえほとけをもおがまぬものは、いたずらものなりとおもうべし」と諭され、蓮如上人が吉崎に滞在しておられる頃、越前国に秘事法門が盛行し、心をいためられたことがわかります。
同じころに、三河・伊勢地方でも秘事法門が盛んであったようでして、文明九年正月の『御文章』に「文明七・八年之比、参河国野寺同宿に誓珍備前、伊勢国香取浄賢子安田主計助に秘事法門さずけたる趣は、吉崎にてひそかにつたえ申すなりとて、其詞にいはく、仏性と我心をおもはぬ間は、沈輪(倫)し、又仏性と我身のおもひ候へば、すなわち如来なりと心得候へ、とさづけたり。これをもて、正理と思ふべし。如此伝へ候者をさして、越後の如来とも信ずべきなり。而間、安田、此趣を相伝して、真実当流一大事と心中におもふ間、此趣を又安田方より人に相伝る人数は、中島の等善、また新兵衛両人につたえたり」とあります。
さらに文明十二年六月十八日の『御文章』にも。「抑、三河の国にをいて、当流安心の次第は、佐々木坊主死去以後は、国の面々等も、安心の一途さだめて不同なるべしとおぼへはんべり。そのゆへは、いかんというに、当流の実義をうつくしく讃嘆せしむる仁体、あるべからざるゆへなり。たとひまた、その沙汰ありといふとも、ただ人のうへに難破ばかりをいひて、我身の不足をばさしをきて、我慢偏執の義をもてこれを先とすべし。かくのごとくの心中なるがゆへに、当流にその沙汰なき秘事法門といふことを手策にして、諸人をまよはしむる条、言語道断の次第なり。この秘事を人にさづけたる仁体にをいては、ながく悪道にしずむべきものなり。しかればすなはち、自今以後にをいては、以前の悪心をすてて、当流の安心を聞きて、今度の報土往生を決定せしめんと思うべし」と述べられえています。
三河国の誓珍が伊勢国の安田主計助に伝えた秘事は、誓珍が吉崎において蓮如上人からひそかに伝授されたものだと称しているということです。
江戸時代の盛んに行われた鍵屋秘事も蓮如上人から相伝したといっています。京都の寺町今出川の鍵屋は近江国朽木谷の出身で、祖先の宇兵衛は蓮如上人の弟子金森の道西から法門をうけつぎ五兵衛(法名善休)のとき鍵屋流の秘事(かくし念仏)を組織したといっています。
此の鍵屋秘事は十八世紀の中頃宝暦年間(1751〜64)に奥州の水沢地方(岩手県)に伝えられました。それは水沢の金物屋五郎八という人が江戸の商人仁兵衛から伝授されたのがはじまりといわれています。やがて水沢地方の信者は、京都の上って、鍵屋から直接教えを受けるようになり、急速にひろがっていったということです。
宝暦四年(1754)に水沢の「かくし念仏」の信者は仙台藩によって、一斉に摘発されまして、リーダーの山崎杢左衛門等多数の信者が死罪などの処罰を受けました。しかし、弾圧後も信者は根強くその信仰を保ちつづけ現在に及んでいます。
(2)道場と毛坊主
次は(2)の道場と毛坊主それから門徒組織と檀家制とあと若干結びを申し上げたいと思います。
蓮如上人が文明三年(1471)七月十六日に書いた『御文章』の冒頭に「文明第三初秋仲旬之比、加州或山中辺において、人あまた会合して申様、近比仏法讃嘆事外わろき由をまうしあへり。そのなかに俗の一人ありけるか申様、去比南北の念仏の大坊主もちたる人に対して、法文問答したるよしまうして、かくこそかたり侍へりけり」と、加賀の山中辺で仏法の集いがあったとき、ある俗人が大坊主との間で交わした問答をしるしています。
大坊主とは門徒を多くもった僧のことですが、その大坊主に俗人がそのような心構えで門徒の教化に当たっているのかと質問しました。
それに対し大坊主は、「我等も大坊主一分にては候へとも、巨細はよくも存知せす候。乍去凡先師なとの申おき候趣は、ただ念仏だに申せ、たすかり候とはかり承り置候か、近比はやうかましく、信心とやらんを具せすは往生は不可と若輩の申され候か不審にこそ候へ」と、私は師匠から、ただ念仏さえとなえれば、仏さまはたすけてくださると教えてもらったが、最近の若い人たちは信心がなければ、浄土往生はできないなどといっているそうであるが、私には理解できないと答えました。
俗人の、あなたは信心ということをどう思うのか、との問いに、大坊主は、阿弥陀如来に帰依して、朝夕念仏して、仏御たすけ候へと申すと、浄土往生が定まると心得ています。そして、師匠に対し、たびたびご機嫌をうかがい、品物などを差し上げると、信心あるものだといって下さると答えました。
そこで俗人は、自分が聴聞した信心のおもむきを、ねんごろに語り聞かせました。これを聞いた大坊主は、「殊勝のおもいをなし、解脱の衣をしほり、歓喜のなみだをながし、改悔のいろふかくして」つぎのようにいった。「向後は我等か散在の小門徒の候をも、貴方へ進しおくへき由申侍へりけり」と大坊主は俗人に門徒を譲ったといいます。この俗人は「奉公の身」ということですから、主家に仕える身で、京都に出張したときに、東山大谷の本願寺で仏法を聴聞したのだということです。
この『御文章』にしるす俗人が参加した会合は、文明三年七月中旬のことです。そして、蓮如上人が近江から越前国吉崎に移ったのは文明三年四月上旬、同年七月二七日に吉崎御坊が建っていますので、俗人が参加した会合が開かれたのは、その十日ほど前ということになります。
従って、『御文章』に登場する俗人の活躍は、蓮如上人が吉崎に来る以前からなされていたようであります。
こうした俗人がリードする聞法活動を蓮如上人は大いに活用されました。蓮如上人の熱烈な支持者であった近江の法住・道西もそのような人でした。堅田の法住は次郎三郎と称し、紺屋を家業としていました。彼が研屋道円・麹屋太郎衛門と本願寺に帰依して以来、堅田の商工業・運送業者などで構成される全人衆を土台に本願寺門徒の組織化が進み、隣郷の衣川・真野・仰木・和邇・雄琴から大津あるいは海津あたりまでさらには堅田の商業ルートに乗って奥州・北陸・山陰にまで進出しました。
湖西の堅田門徒とともに湖南金森の本願寺門徒の中心人物が道西です。彼は川那辺氏の一族で俗名を弥七といった。「天正三年記」に「近江の金森の道西と申せし人は、後には善従と申し候。此人、細々大谷殿へまひられ、仏法者にてさふらいつるか、有時存如上人の御前に、此善従伺公せられ侍る時、蓮如上人御招きさふらひて、召寄られ御物語ともさふらひつる。善従有難く存せられ、常に金森へ御方様を申入られ聴聞さふらひつるに、在所の人々驚かれ、仏法も此時よりいよいよ弘まり申さふらひき」とあります。道西とその一族を核とする真宗門徒はやがては隣接の地域へとその影響を及ぼしていきました。
以上のように商工業あるいは農耕などを家業とし、それにいそしみながら僧侶としてのつとめを果たす人を毛坊主と称します。毛坊主とは、坊主の頭に毛髪を有するということです。元来、坊主頭といわれるように、僧侶はインド以来のしきたりとして、頭の毛髪を剃り落としています。この剃髪の風儀は僧侶を俗人と区別するために起こったといわれます。僧侶はまた出家とも称され、家庭を出て一般社会から離れた別個の世界(僧集団)において道を求めました。この在家(俗人)と出家(僧侶)の形態上の区別が剃髪によって示されたといえます。ところで毛坊主とは、こうしたインド以来の僧侶の風儀に反して、頭に蓄髪するとともに、家庭や社会を捨てることなく、世俗の生活を営みつつ仏道に生きる人たちでした。
江戸時代における飛騨の毛坊主について百井塘雨の『笈埃随筆』に次のように述べています。
当国にて毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。訳知らぬ者は、常の百姓よりは一階劣りて縁組みなどせずと云へるは、僻事なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長百姓として田畑の高を持ち、俗人とは云へども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし経文をも読み、形状・物体・筆算までも備らざれば人も帰伏せず勤まり難し。百井塘雨はこの随筆の中で、飛騨の毛坊主と同種のものが遠江・三河・美濃・河内にもあるようだ、としるしていますが、中部地方の山村には、今もなお中世以来の伝統をうけつぎ毛坊主が多く残っています。地域社会のリーダーが毛坊主となることは、蓮如上人の方針ですが、しかし、毛坊主の源流は浄土真宗の開祖親鸞聖人までさかのぼります。親鸞聖人の教えは、他の仏教教団のように、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入り、常に身も心も清らかにする戒律に固執しなくてもよかったのです。農民・漁師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われた。つまり在家の生活を保ちながら、仏になることができたのでした。
(中略)亡者の弔ひ、祖先の斎・非時をつとむ。居住の様子、門の構、寺院に変わることなし。葬礼・斎・非時には麻上下を着して導師の勤を為し、平僧に准じて野郎頭にて亡者を取置するは、辺鄙ながらいと珍らし。是れ深山幽谷にして六七里の間に寺院無く、道義高徳の出家なれば、往古より此の如く至りしと覚ゆ。若し兄弟あれば、総領は名主問屋を勤役して、弟は同居しながら寺役を為せり。
(3)の門徒組織と檀家制
(3)の門徒組織と檀家制というところを説明させていただきます。
浄土真宗は村のリーダーがお坊さんの役目を勤めまして、政治的にも宗教的にも村民から尊敬を受ける、そういう方が中心になって門徒組織を育てあげてきました。ご門徒と毛坊主乃至お寺の住職とのつながりはお念仏を絆に組織が保たれてきました。ところが天正年間に豊臣秀吉がキリシタンの禁制をします。これにはいろいろ理由があるようです。西洋が侵略するときに、まず宣教師を送り込んで、土地の人たちを手なずけてやがて政治的に侵略をするというやり方をしたので、秀吉はそれを察知してキリシタン禁制をしたのであるとか、あるいは秀吉の側近に施薬院全宗という僧がおりますが、キリスト教の進出を恐れまして、キリシタン禁制を秀吉に進言したなど、いろいろな理由が挙げられております。とにかくキリシタン禁制をします。その政策を後の江戸幕府も受け継ぎまして、キリシタン禁制をします。
慶長十八年(1613)幕府が全国的にキリシタン禁制を発布したとき、京都所司代板倉勝重が宣教師を追放し信徒に改宗を命じたが、その改宗が真実であることを証明するため、旦那寺から寺請けを呈出させたのが、その初例であるといわれます。しかしこの場合は、転びキリシタンに対してのみ実施されたもので、全住民に及ぶものではありませんでした。その後、寛永十二年(1635)九月にもキリシタン禁制についての政令が発せられ、同十四年から十五年へかけての島原の乱以後は、特に厳重にこれを行い、領内の全住民を対象とする宗門改が実施されました。その際、庄屋・町年寄の証印する俗請よりも、寺請が宗門改の有効な手段として諸国で採用されるようになりました。
元来、幕府における宗門改の役は、大目付および作事奉行が兼ねていましたが、延宝・天和・貞享の頃はキリシタン御支配またはキリシタン奉行と称します。宝永以後は宗門改役といいました。各藩においても、それぞれ宗門改役を置いてこれに当たらせましたが、その実施の時期は、藩によって遅速があり、全国的に普及徹底するのは寛文年間に入ってのことです。すなわち、寛文四年(1664)宗門改の専任職員を置き、翌五年法度書を全国に発布し、十一年(1671)宗門改の方法を訓令しました。それによると、全住民は一軒ずつ人別に年齢・宗旨を書き、一家の戸主が捺印し、僧侶がこれを証明します。そして一村または一群ごとに男女の統計を出し、生・死・縁付・奉公等の出入り増減を記載させました。これを宗門改帳または宗旨人別帳と称し、定期的に調査が行われました。この僧侶の証印を要するという、いわゆる寺請けが全住民に適用され、ここに檀家制度が成立します。
宗門改は、住民の信仰調査ではなく、非キリシタン信仰調査でした。後には日蓮宗の一派である不受不施派・三鳥派・悲田宗も禁制の対象となり、また薩摩藩ではこれに浄土真宗も加えられて禁圧されました。ともかく寺請はキリシタン宗徒ではないことを証するもので、かならずしも仏教信者でなくとも、形式上檀家として寺に所属すればよいわけでした。従ってこの制度の実施は、真宗の門徒組織のあり方とは本質的に相違する点があります。
従来の真宗門徒の性格は、時代や地域によって若干の差異はあります。しかし、そこに一貫する特性は、真宗門徒は宗祖親鸞聖人の教説と人格を中心に集まった人々で、信心の沙汰をすることが中心課題となっていました。従って、時代が下がっても、信心を得た門徒は、「このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをいたすべきものなり。これすなわち、当流の義をよくこころへたる信心の人とはまふすべきものなり」(『御文章』)というところに門徒と手次坊主(檀家)との関係がありました。
これに対し、檀家制における門徒(檀家)と手次坊主(檀那寺)の関係はどうであったか、それは前代におけるような念仏による結合から葬儀年回へと重心が移っています。しかもこれは檀家制の普及とともに一層明確となり、江戸中期に慶長十八年(1613)に仮託して作った幕府法度には、
一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授る事。是は宗門寺之住持、死相を見届て邪宗にてこれなき段、慥に受合の上にて引導致すべき事。
一、相果候時は、一切宗門寺之差図を蒙り修行の事。
とあって、明確に葬儀年回を中心とする関係へと移行しています。
この門徒組織から檀家制度への移行を示すものに、また「過去帳」の作成があります。真宗寺院に現存する「門徒過去帳」は、明暦・万治・寛文年間に起筆されたものが多く、その早い例としては、石見国粕淵浄土寺のもので、寛永元年(1624)から記帳しています。
この浄土寺の過去帳は、後に一般に見られるような、死没した人の氏名・法名・没年をかきしるした様式のものではなく、ある人が死亡したなら、没年・俗名・法名等をしるすとともに、家族の系図略歴などを記載しています。
しかし、寛永十一年(1634)以後は普通の過去帳形式になっています。その過去帳の氏名を点検すると、寛永十二年頃までは、記載数が少なく、姓をもったものが大半を占めています。
寛永十三年以後になると、姓をもたない庶民階層の名が多くなり、記載数も年を追って増加しています。これによって、最初の頃は、武士・名主層の地方の有力者が葬儀を執り行っていましたが、やがて農民・商人等庶民階級の間でも葬儀を行い法名を付し、そして過去帳にしるすようになったものと思われます。とともに、これは門徒組織から檀家制度への移行の一過程をも示すものでしょう。
すなわち、寺が過去帳を備えたという事は、宗門改にともなって生じた新しい寺と門徒との関係が、葬儀・年回中心に移りつつあることを物語るものです。そして、門徒は寺を維持すべき義務を負わされ、寺の建立や営繕の費用を出さねばならず、こうした寄付とか年忌法事等を怠ると邪宗門として弾圧を受ける場合も生ずるようになります。
そこで(3)のところで江戸時代の檀家制度の成立によりまして、一つ大きく真宗が転換をする大きな契機になってきたのであるということをご理解いただけたと思います。現在仏教教団に対しまして、葬式仏教とかあるいは観光仏教というような批判の声が投げかけられております。江戸時代の檀家制の成立を契機にしまして、仏教教団が葬式仏教化してきたのをひきついでいるということです。
そこで最後の総まとめとして申し上げたいことですが、日本の歴史をご覧いただきまして、例えば飛鳥時代の日本文化を代表するものは何かと申しますと、誰もためらわずに法隆寺をあげるわけです。飛鳥時代の日本文化を代表するのはやはり奈良の法隆寺である。奈良時代の日本の文化を代表するものは何かと申しますと、奈良の大仏、東大寺をあげるわけです。また平安時代の日本文化を代表するものは何かといいますと、例えば宇治の平等院鳳凰堂をあげます。鎌倉文化を代表するものは何かと言いますと、快慶作の仏像と、こういうふうな具合に日本の歴史をずっと眺めて参りまして、それぞれの時代を代表する文化遺産をあげなさいと言いますと、必ず仏教に関わっているものがあげられるわけです。これは結局はそれぞれの時代におきまして仏教が時代の最先端を行っていたということです。さらに申しますと、平安時代という新しい時代が展開する、また鎌倉時代という新しい時代が生まれる。そういった新しい時代が生まれる思想的な原動力としての役目を仏教が果たしてきたということも考えられます。
仏教が社会変革の原動力としての役割を果たすのは、蓮如上人が出られた室町・戦国時代あたりまででして、どうも江戸時代に入りますと、仏教は次第に社会のリーダーとしての役割を失ってきます。これは例えば西洋の歴史と比較しても日本の宗教は、鎌倉時代に法然上人とか親鸞聖人とかあるいは道元禅師、日蓮上人によりまして、新しい仏教が開かれました。これを日本の宗教改革と申しております。これは13世紀の頃です。ところが、西洋の宗教改革と申しますのは、だいたい15世紀から16世紀にかけまして、マルチン・ルターとかカルビンによりまして改革が行われました。
現代社会に於きまして、キリスト教の改革が仏教の改革よりも高い評価を受けています。これは何故かと申しますと、キリスト教の宗教改革は13世紀頃のルネッサンス文芸復興運動が起こり、人間性の目覚めが始まり、いわゆる市民社会の時代がスタートしたのちに、宗教改革が行われています。つまり中世の封建制の暗黒時代というものが終わりを告げ、人間性に目覚めた新しい社会が展開し、その時点で宗教改革が行われるのです。
ところが日本の場合は反対でして、宗教改革が行われてつまり法然上人とか親鸞聖人等によりまして新しい宗教、人間性に目覚めた新しい宗教が誕生します。ところがこれ以後の日本の社会は鎌倉・南北朝・室町・江戸というふうに封建制がますます強固になって、つまり人間の尊厳性がそこなわれる差別の社会が展開するわけです。そこで法然上人、親鸞聖人、道元禅師等によりまして人間性に目覚めた宗教が誕生しながら、その後の社会情勢の中で、そういった考え方が曲げられます。そこに仏教が近代社会に於いてよい評価を得ない大きな原因があるのではなかろうかと考えられるのです。
そこで明治維新になりまして、浄土真宗におきましても日蓮宗におきましても、「祖師に帰れ」、「親鸞聖人に帰れ」、といった運動が展開されます。それは封建制の流れの中で祖師の考えが曲げられてきた。そこで祖師に立ち帰ってもう一度見直していこうではないかという運動が展開されるわけです。
そこで最初私がお断り申し上げましたように、明治以後の仏教の流れを遺制教団と見る立場と近代化教団と見る立場と二つあるということを申し上げ、私は残念ながら遺制教団というふうな、つまり封建制の遺風を多分に残存しているといった教団体制ではなかろうかという観点に立って捉えているわけでございます。これについてはそうではない、明治維新以後祖師の精神に立ち帰って新しい息吹のもとに教団が展開しているのであるという考え方にお立ちになるお方は近代教団であると名称をとっていただいて結構でございます。現代教団をどういうふうに把握をするかということで名称の付け方が自ずから違ってくるのではないかと思います。私自身はそういった点、現代教団は真宗教団を含めて、葬式仏教であるという批判を免れないのではなかろうか、そう眺めますと遺制教団であるという時代区分をなさざるを得ないのではないかと存じます。
親鸞聖人から八百年近い時代を、わずか7時間くらいで申し上げたので全くこれは新幹線以上の超スピードでお話を申し上げたわけでございますのでいろいろな点で脱漏が多々ございましたけれども、一応今回のお話を終わらせていただきたいと思います。三日間大変お暑い中こうして聞き取りにくいお話をお聞きいただきまして大変ありがとうございました。厚く御礼申し上げます。