第三章としまして蓮如上人の北陸教化ついてお話しいたしますす。まず蓮如上人以前の北陸の真宗の教線はどうであったかということについて述べさせていただきます。
存覚上人のメモ「袖日記」というのがあります。この「袖日記」の中に水橋門徒の御本尊の事が書いてあります。水橋門徒というのは越中(富山)の水橋門徒の事でありまして、水橋門徒の御本尊の中に、列祖像あるいは先徳連座像と申しまして、歴代の御影像を描いたものです。この先徳像に、親鸞・如信・覚如という三人の方の御影像が描かれているということが書かれてあります。
これは大変珍しいものであります。この時代には本願寺以外にはこうした連座像はありません。親鸞・如信・覚如の三上人の像が描かれていたことから、越中の水橋門徒は本願寺系の門徒であったと考えられます。本願寺の第四代が、善如上人、五代が綽如上人であります。この綽如上人の時代に同じ越中に瑞泉寺が建てられました。水橋門徒と瑞泉寺とどういう関わりがあるかということははっきり判っておりません。直接関係があったのかもしれませんし、あるいはなかったのかもしれません。その後第六代の巧如上人も井波に訪れておられます。そうすると越中に参りますには越前が通路に当たりますので、当然綽如上人あるいは巧如上人の教化が、この地に及んだと考えられます。
このことはすでに申しました、讃門徒の浄一の時に秘事が発生したということで、これは「中野物語」と申します本の中に浄一が秘事を唱えて、本願寺の巧如上人から破門をされたという記事が見えます。巧如上人も越中井波に赴かれる途中、この越前をお通りになって、御教化をされたということが推測されます。こうしたわけで、蓮如上人はこの地においでになりますまで、まったく本願寺系の教線がこの地に及んでいなかったとは申せません。しかしやはり蓮如上人をこの越前にお迎えを致しまして、それを契機に一挙に本願寺の教線が大展開をしたということはこれは争えないはっきりした事実であると考えられます。
そこで(1)の、蓮如上人以前の北陸教線はこの程度にさせていただきまして、(2)の蓮如上人の北陸教化というところに、重点をおいてお話させていただきたいと思います。
(2)蓮如上人の北陸教化
蓮如上人がこの北陸においでになりました直接のきっかけは、寛正年間に比叡山衆徒の本願寺破却です。なぜ比叡山が本願寺を攻撃したかと申しますと、寛正六年(1465)正月八日に衆徒は次のような趣旨の本願寺破却の決議をしています。
「そのむかし法然や親鸞は一向専修を説き他衆を誹謗したので、専修念仏停止の処分を受けた。ところがいま蓮如は無碍光という一宗をたて、愚かな男女にすすめたので、村々では群をなして大勢の人々が集まり党を結んでいる。そして蓮如とその一派は、仏像経巻を焼失し、神明を軽蔑するという邪道の振舞、放逸の悪行は、ひろく人々の見聞するところで、仏法のため、また国のために、許すわけにはゆかない。ここに戒めのために寺舎を撤却する」
決議文の中で、本願寺の蓮如上人は無碍光流の邪義をたてたということをいうわけです。これは蓮如上人が本願寺の第八代をお継ぎになりましてからは御本尊の統一を心がけられまして、いままでいろいろありました御本尊の整理をしながら、俗に無碍光本尊と称しますところの十字名号をお下げになるわけです。その整理をするときに仏像を焼却するという思い切った手段をとられました。そして蓮如上人がお授けになりました十字名号を各地の門徒が競って安置をするわけです。ことに比叡山のお膝元の滋賀県の村々には、この無碍光本尊を安置し人々が群れ集まったというところから比叡山は、蓮如が無碍光流の邪義をたてたということを言いがかりにいたしまして、本願寺の破却をするわけです。
蓮如上人がこういう形で十字名号の御本尊をお下げになるということですが、これはすでにお話いたしましたように、本願寺系の門徒は十字名号、仏光寺は八字ないし十字名号というように各門徒によって安置する名号が若干違ってきているということです。そこでまず蓮如上人が御本尊の統一を心がけられたことの背景を申し上げたいと思います。
蓮如上人は、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と名号を本尊とすべきであるといわれています。このことは親鸞聖人の意志に則り、さらにそれを徹底したものでした。
名号を本尊として礼拝の対象としたのは、親鸞聖人独自の発想によるもので、それ以前の浄土教徒は絵像・木像の阿弥陀仏を本尊としていました。
日本に阿弥陀仏信仰が伝わるのは七世紀の半ばといわれ、同じ頃に阿弥陀仏像を将来されたと考えられます。やがて日本でも阿弥陀仏像が造られることになりますが、初期の仏像は椅子に腰掛けた椅像か、または座像が多く造られました。
平安時代に入り、密教が盛行するにつれて、阿弥陀仏は大日如来の眷属として位置づけられ、禅定思惟の印をむすぶ座像が造られました。
平安時代の中期に浄土教の隆盛にともなって、阿弥陀仏像は大日如来の配下から離れて独立した形で造られます。それは宇治平等院・日野法界寺・法金剛院の阿弥陀仏像に見られるように、印相は密教的な弥陀定印をむすんでいるが、独立した主尊として本堂に安置されます。
源信和尚は『往生要集』に、念仏者は命終わるときに阿弥陀仏の迎えをうけ、西方浄土に導かれるという、阿弥陀仏の来迎を説きました。それ以来、来迎思想が盛んになり、阿弥陀仏像の形姿も、いわゆる来迎印をむすび念仏者を迎えとろうとする来迎像が多く造られました。
来迎印とは、右手を上に上げ、その第一指と第二指とを捻じて輪をつくり、余の三指をのばし、掌を外にむけ屈臂します。左手は右手と同様の指の形をするが、手は下に垂れるか、あるいは膝頭の上に置いています。
来迎印という名称は、後生の学者が名付けたもので、迎接印とか摂取不捨印と称することもあります。
源信和尚の来迎思想の影響を受けて造像造寺された代表例として、藤原道長の阿弥陀堂を挙げることが出来ます。これについて『栄華物語』に次のようにしるしています。
阿弥陀堂にまいりたれば、御せんぼう(懺法)のおりなりけり。あなうれしと思ひ、みはしにのぼりて、み仏をみたてまつれば、無数の光明かがやきて、十方界に遍しためへらんとみえ給。かの往生要集の文を思いづ。七宝の階にひざまづきて、万徳の尊容をまほり、一実の道をききて、普賢の願海にいる。歓喜のなみだをながし、渇仰ほねをとほすなど、づしてきけば、六根懺悔のわたりなりけり。いみじうたうとし。
道長は臨終には、この阿弥陀堂において、仏の手と自分の手をむすび、目には仏の姿より外のものを見ず、耳には仏法の声より外の声を聞かず、心にはもっぱら極楽浄土を念じつつ、息をひきとったということです。
道長の建てた阿弥陀堂の扉には、雲に乗った阿弥陀仏が聖衆をひきつれて、念仏の行者をむかえる有様を表現した聖衆来迎図が描かれていたということです。
この時代には阿弥陀仏の彫像だけでなく、こうした聖衆来迎(二十五菩薩来迎)の画像が浄土教徒の礼拝対象として多く造られました。
阿弥陀仏聖衆来迎を実際に示現する儀式である迎講(迎接会)も盛んに行われました。道長も寛仁三年(1019)ごろ雲林院などの迎講に行ったようです。源信和尚の弟子寛印が丹波の天橋立で迎講を修したといわれ、京都ばかりでなく、地方でも催され、浄土信仰は広く民衆の中に普及しました。
迎講の儀式は、阿弥陀仏と観音・勢至の両菩薩を輿に乗せ、その輿を菩薩の姿をした二十五人の僧がとり囲み、講堂から本堂まで練り歩く。本堂で梵唱・奏楽・誦経・念仏ののち十方衆生と書いた位牌を蓮台にのせて再び講堂に帰ってきます。その儀式の荘厳な状況は見る人々に極楽浄土に往生する思いをいだかせたということです。
このように源信和尚は、阿弥陀仏をば、臨終にはみずから念仏者を出迎え、手をひいて浄土にみちびくという、民衆に身近な存在として強く印象づけました。
民衆浄土信仰への高まりに呼応して、阿弥陀仏の形姿も座像から立像へと移行し、仏の積極的な救済の姿を現示するようになります。そして、来迎の表現もゆったりとしたものから迅速なものへと変わってきます。
親鸞聖人が浄土教の先達として尊敬した源信和尚や法然上人が本尊としたのは、絵画や彫刻の阿弥陀仏の来迎像でした。ところが親鸞聖人が礼拝の対象としたのは、南無阿弥陀仏・南無不可思議光仏(南無不可思議光如来)・帰命尽十方無碍光如来の六字・八字(九字)・十字の名号でした。このことは親鸞聖人の来迎否定(不来迎)の考えに基づくものです。
阿弥陀仏の救いは、源信和尚の場合には、道長の臨終に見られるよう仏への依頼を身口意の三業によって表明する必要がありました。法然上人はもっぱら念仏をとなえることによって、親鸞聖人はただ信心によって、仏の救済が可能でした。
このように親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏の本願のいわれを聞信して念仏するところに、その救いが成就して弥勒と等しい位につくことができますので、臨終にあたって仏の来迎を待つ必要はありませんでした。このことについて親鸞聖人は、建長三年(1251)のお手紙の中で次のような意味のことをいっておられます。
来迎ということは、もっぱら念仏をとなえて往生を志す専修念仏者のいうことではなく、念仏に自力の行を加えて往生を願う諸行往生の考えから起こっている。臨終ということも、諸行往生の人についていうことである。というのは、命が終わろうとするときに、仏の来臨を請い、たすけをたのむということは、それまでに、ほんとうに仏の救いの本願がわかっておらないからである。真実の信心を得ていないからである。真実の信心を得た人は、浄土に往生することが確定しているから、命が終わろうとするときに、仏の来臨をのぞむ必要はない。信心が定まったとき、浄土への往生が決定するからである。
親鸞聖人は以上のようにいって、来迎を否定し、不来迎、平生業成を説かれました。
親鸞聖人の不来迎思想は、来迎像の礼拝の否定をも意味するが、さらに形像の阿弥陀仏の礼拝にも否定的でした。形像を礼拝することは、仏像をみて浄土往生を願う観仏という自力の行につながるものであり、観仏は要門の行者のすることで、絶対他力の弘願の行者のするべきことではない、との考えにもとづくものでした。すなわち形や色にとらわれることなく、芸術的美の世界にとどまることなく、宗教の本質(阿弥陀仏の本願)そのものを認識することが肝要であるとの立場をとるものです。その阿弥陀仏の本願を信知するには、名号そのものを礼拝の対象とするのが最上策であるとしたためと推察されます。
さきにものべましたように、それまで浄土教の僧たちは、人々が仏像・堂塔の造形美を通して、宗教的真実の世界に到達するよう配慮してきました。しかし、人々の多くは仏像の造形美に目を奪われ、美的感覚の中に心の慰安を得て、それを宗教的境地と誤認していました。藤原貴族の造寺造像は多くこれに類するものでした。また迎講に感泣する人々も、その荘厳な儀式から受ける美的感動を、宗教的感激であると誤信するばあいが多かったと考えられます。
親鸞聖人は造形の阿弥陀仏が、ややもすれば芸術的美の世界に念仏者をとどめ、宗教的真実の門に到達させ得ない点があるのをかえりみて、美を媒介とする宗教ではなく、宗教の本質そのものを人々に示そうとして、ここに名号を本尊として用いたと思われます。
親鸞聖人が用いた名号本尊は、紙の中央に六字・八字(九字)・十字のいずれかの仏名を書き、上下に別の紙を貼り付け、それにはその名号の意義を明らかにした経・論・釈の文をしるしています。この上下の添文を、賛銘または銘文といいます。
名号にその内容を説明した賛銘を付したのは、名号を単に呪文としてとらえることを否定する意味をも込めていました。
当時、世間では、百万遍念仏とか融通念仏が広く行われていました。念仏を多くとなえるその功徳によって浄土に生まれることを願うのが多念=百万遍念仏です。法然上人も一日に数万遍の念仏をとなえる多念を実行しています。また融通念仏とは、となえた念仏はたがいに融通できるのであるとの考えに立脚して、念仏を多くとなえ、互いに交換しあってその量を加算し、その功徳によって浄土に往生しようという考え方でした。
こうした百万遍念仏・融通念仏の盛行は、人々に念仏を呪術性を含んだものとして理解させました。そのような風潮に対して、親鸞聖人は人々に、念仏の正しい意味を理解させ、その呪術性を除去しようとして、名号に賛銘を加えたものと推察されます。
さらに親鸞聖人は、著書などの中で南無阿弥陀仏の六字名号について説くとき、六字名号だけ単独で語らないで、九字あるいは十字の名号を引いて、六字の名号を明らかにするかたちをとっています。このことは「ナモアミダブ」の六字は、もともと梵語(インドの言葉)であって、その意味を漢文で示せば、九字・十字の名号になるのだと、六字名号を単なる呪術としてとなえないようにとの配慮から出たものと考えられます。
親鸞聖人のこのような考え方は、同心の門弟たちにもよく理解されたようである。それは門弟の覚信が関東から状況の途次、病気で倒れました。同行の人達は故郷に帰って療養するようすすめましたが、覚信はいずれ死ぬ身であれば、親鸞聖人のもとで死ねれば本望であるといって、強いて上京しました。そして覚信が臨終のとき、「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなえられて、てをくみすずかにをわられてて候しなり」と、六字・七字・九字の名号をとなえつつ往生したということが親鸞聖人のお手紙にしるされています。
この覚信と同様に六字と十字名号をまじえてとなえる門弟がいました。別の念仏者がこれを聞いて、「南無阿弥陀仏ととなえてのうえに、くゐみょう尽十方無碍光如来と、となえまいらせ候ことは、おそれあることにてこそあれ」といい、またなにかわざとらしいのでは、といったので、このことを親鸞聖人に質問しました。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏をとなえてのうへに、無碍光仏と申さむは、あしき事なりと候なるこそ、きわまれる御ひがごとときこえ候へ」と、六字と同様に七字・九字の名号などをとなえても、少しもかまわないと答えられました。
このことは、名号を呪文としてとなえるのではなくして、念仏する衆生を摂取して捨てないという、仏の本眼力の名号として理解すべきことを示すものといえます。
仏の名を礼拝の対象にしたのは親鸞聖人独自の発想です。この名号本尊をいつから用いるようになったか、明らかではありません。
蓮如上人が採用した十字名号の体裁は、紺色の絹布に金泥でもって帰命尽十方無碍光如来と十字名号をしるし、それに四十八条の光明と蓮台をそえ、名号の上下にはその意義を説明した賛銘をしるす色紙を張り付けたカラフルで豪華な本尊でした。
ところが親鸞聖人自筆の名号本尊は、白紙に名号と賛文を墨書した簡素で枯淡な体裁のものが多く残っています。
蓮如上人の本尊は斬新な体裁でありますが、親鸞聖人の名号本尊から全くかけはなれたものでもありません。高田派本山専修寺に紺地十字と称する十字名号があります。やや淡い群生地に金泥でもって名号を描き、その下に極彩色の蓮台を配し、名号には八十五条の波状の光明を墨書して添え、上下には親鸞聖人自筆の賛文を付けています。蓮如上人の本尊との相違は、光明が金色ではなく墨色、賛文が色紙ではなくて白紙である点で、他は共通しています。
蓮如上人が独自の本尊を創出するにあたって、こうして親鸞聖人の名号本尊の伝統を継承しつつ、その当時の真宗門徒に好評であった光明本尊をも強く意識したようであります。
光明本尊は親鸞聖人なきあと初期教団において異常な勢いでもって普及しました。
それは東は奥州(岩手県)から西は備後(広島県)にいたる広い地域にわたっています。この光明本尊は、畳一枚ほどの紺色の絹布に、中央に金泥でもって南無不可思議光如来と九字名号を大書し、名号から放射状の光明を出し、左右の下部に六字・十字の名号と釈迦・弥陀二尊の絵像、上部に印度・中国・日本の浄土教の祖師先徳、聖徳太子などの像を描き、さらに上下に賛文を加えた、きわめてきらびやかで豪華な本尊であります。
蓮如上人が本願寺を継いだときには、仏光寺は近畿から中国・四国にかけて強大な教団を形成していました。その仏光寺は光明本尊と絵系図を用いることによって教線を伸張したということです。
近江地方における蓮如上人の有力な支援者である堅田の法住は、はじめ京都東山の大谷本願寺に参詣しようと、友人を誘って出かけました。本願寺に来てみると、境内はさびさびとして人の気もない有様、ところが渋谷の仏光寺には沢山の参詣人がおしかけているとの評判なので、さっそく行ってみました。仏光寺へ参ると、西坊という僧が出てきて、法住らに応対し、『弁述名体抄』の話を聞かせました。それがいかにも尊くありがたく思われたので、続いて両三年の間仏光寺へ参詣したということです。西坊が法住らに説いた『弁述名体抄』は本願寺の覚如上人の長男存覚上人が書いた光明本尊の解説書です。つまり法住は光明本尊に興味を持ち、それにひかれて仏光寺へ参ったのでした。
蓮如上人はこのような真宗門徒が光明本尊に寄せる思いをも斟酌しながら、親鸞聖人の名号本尊を基礎として、独自の本尊を考案したのでした。この蓮如上人の本尊は無碍光本尊といわれたことはすでに申しました。
その無碍光本尊は、蓮如上人が本願寺を継いだ翌年、長禄二年(1458)閏正月に近江の栗太郡山田村の善可に授けたのを初めとして、翌年には同国の野洲郡の善崇・西願・性善等へ、翌々年には南郡金森の妙道、山家の道乗、荒見の性妙、滋賀郡堅田の法住、栗太郡野地の円実等へ、それぞれ授けた。以後その授与数は年を追って多くなっています。当初は近江地方に圧倒的に多く見られますが、やがて大和(奈良県)・三河・尾張(愛知県)等の近畿・東海地方にかけて広がっていきました。
十字名号の急速な分布は、本願寺教団の活況を物語るものであります。それは、無碍光本尊のもとに、もっぱら信心にもよおされる報恩の念仏をすすめる蓮如上人の教えが、ひろく人々の共感を得た証左でした。それとともに、無碍光本尊普及の背後には、蓮如上人の手による異相本尊の焼却と、蓮如上人に帰依したひとびとによる無碍光本尊以外を排除する気運がありました。このことが、比叡山衆徒の非難の的になったことはすでに申し上げたとおりであります。
比叡の圧迫を避けて、蓮如上人は文明三年(1471)近江を去って越前吉崎に移ります。これからのちは、比叡山衆徒の弾圧の口実となった紺字金泥の十字名号「無碍光本尊」の授与は取りやめました。そして白紙に墨書した六字・九字・十字などの名号本尊を授けました。それは親鸞聖人が門弟に授けた墨書の名号本尊によく似た体裁でした。親鸞聖人の名号本尊には、上下に賛銘がありましたが、このたびの蓮如上人の本尊には上賛だけで下賛は付せられていません。
蓮如上人が吉崎に移り住むと、北国各地からの参詣人次第に多くなり、これらの人々の宿泊聞法の施設である多屋が百戸以上も建てられたということです。この地における蓮如上人のご教化は、名号本尊とともに『御文章』の授与が挙げられます。『御文章』はすでに寛正二年(1461)に近江金森の道西に授けた「お筆始の御文章」があります。以後吉崎に移るまでの十余年間には、わずか数通にすぎません。しかし、吉崎居住の後は、その述作は特に数多くなりご往生の前年、明応七年(1498)末に至るまで、門徒に授けた『御文章』の総数は三百通に達します。
『御文章』の述作も親鸞聖人を受け継ぐものです。親鸞聖人は東国二十年のご教化を終わって帰京ののち、門弟たちに手紙を通じて教えを伝達しました。蓮如上人も手紙の形でもって、平易で簡潔な文章に浄土真宗の要点をしるして門徒に与え、彼らが参集する席においてこれを読ませました。
この『御文章』の発給が吉崎時代を境に急速に増加するのに比例して、これにもまして多量になるのが名号本尊の授与であります。
こうして名号本尊の需要が高まると、賛文を伏した名号を作成することでは、対応しきれなくなります。昼夜をわかたぬ門徒への教化応接の合間に、『御文章』も「お名号」も書かねばならぬとすると、なみなみならぬご苦労がありました。しかも、時を追って名号需要を願う門徒が増え、ついには一日に数百枚もということになります。そこで必然的に簡素な草書体の六字名号を書き与えることが多くなったようで、現存する蓮如上人のお名号にはこの種のものが最も多く見られます。
蓮如上人が門徒に授けたご本尊には、原則として裏書を付していました。それは、名号の場合には「方便法身尊号」、阿弥陀仏の絵像は「方便法身尊像」、宗祖絵像には「大谷本願寺親鸞聖人御影」というように、それぞれ本尊の種別をしるし、ついでにこの本尊の授与を求める願主の名前と所属門徒・住所・授与した年月日および授ける者の名と花押を、これらを蓮如上人は自ら書き、その紙を授与する本尊の裏に張り付けました。無碍光本尊にもすべてこの裏書を付けました。ところが、六字名号の授与数が激増すると、この裏書を添付することも不可能となり、この種の本尊に裏書は見られません。
蓮如上人が名号本尊を多く授けたことについて、次のようなお話があります。
蓮如上人がご往生され、しばらく経ったときのことです。大坂御坊において、ある女性が夢を見ました。それは御坊の中いっぱいに、南無阿弥陀仏の六字名号を幾千万幅とも知れず掛けてある情景でした。夢さめて、上人の内室蓮能尼にこの話をした。すると尼は、「その夢は本当のことですよ」といい、「蓮如さまが生きておられるとき、私はこのようなお話を聞きました。それは、この大坂の御坊は、ほかの御坊とは違っている。ほかの御坊はみなご門徒の志によって造られた。しかし、大坂の御坊は、わたしがご門徒衆にお名号を書き、その御礼をいただいたのを、ためておいたお金で建てたのだよ、といわれたことを聞いている」語り、「したがって、その夢は本当ですよ」といったということです。これは蓮如上人の子実悟上人が書いた『拾塵記』にみえる話です。
実際に蓮如上人ほどたくさん名号を書いた人はまれです。蓮如上人ご自身も「自分ほど名号を多く書いた人は日本にはいないであろう」といわれた。すると侍僧の慶聞坊が「いや日本はもとより、中国・印度にもございませんでしょう」というと、上人も「なるほど、そうかも知れないね」と答えたといわれます。
蓮如上人は「木像よりは絵像、絵像よりは名号」の趣旨にもとづき、当初は十字名号(無碍光本尊)を、ついで六字名号を門徒に授け、名号を本尊とする姿勢を堅持していたが、後半期には絵像(方便法身尊像)を門徒の要請に応じて多く授けるようになります。
しかし、前半期に絵像の授与が全くなかったというのではありません。表(一)の「蓮如上人の授与した十字名号と絵像授与した十字名号と絵像」にあるよう、仏像焼却十字絵像という過激な手段をとっていた時にも絵像を授けています。比叡山衆徒の本願寺破却から吉崎時代にかけて授与した十字名号は上人が亡くなる前年に三幅授けただけでそれ以外は全く見られません。それに比べ文明年間以降は絵像の授与が非常に多くなっています。
表(一) 蓮如上人の授与した十字名号と絵像
長禄元(1457)〜寛正 6(1465)→十字21・絵像 5
寛正7(1466)〜文明 7(1475)→十字 1・絵像 5
文明8(1476)〜文明18(1486)→十字 0・絵像19
長享元(1487)〜明応 8(1499)→十字 3・絵像16
この表(一)に掲げた本尊の数は、現存する裏書の中で年時の明らかなものだけです。従って蓮如上人の授与した本尊の一部にしかすぎません。しかし、この数字からおおよその動向を察知することはできましょう。
蓮如上人が絵像を授けた状況について『鷺森旧事記』に次のようにしるしています。
「冷水道場に九字・十字の尊号と二尊像と、是れを安置し奉る。御門葉、次第次第に栄えければ、阿弥陀如来の画像をも安置し奉るべしとて、願を達しければ、早速、免じ給い」とあります。
紀伊の冷水道場(鷺森別院)には上人が文明八年(1476)に九字と十字の名号および親鸞聖人と蓮如上人の二尊連座像をそれぞれ授与し、二十年後の明応元年(1492)には絵像本尊を免許しています。
冷水道場に絵像を授与した理由は、前記のように、「御門葉、次第次第に栄えければ」というのです。白紙にただ「南無阿弥陀仏」とだけ仏名を墨書した本尊は、田舎の人達には、何か物足りなさを感じさせ、荘重な様相の絵像本尊がありがたく思われたのかも知れません。
そうした門徒の希望に対し、蓮如上人はすでに浄土真宗の教えは地域社会に広くかつ深く浸透し、他力念仏の意味を充分に理解するようになっており、絵像を本尊として仰いでも、人々は来迎思想や呪術的念仏におちいるおそれはない、との判断に立って、絵像の授与に踏み切ったものと推測されます。
蓮如上人にとって、もともと木像も絵像も、また名号も、すべて方便にすぎませんでした。したがって、特定の本尊をたてて正とし、他を否として焼却することは、ナンセンスな行為です。蓮如上人があえて焼却というショック療法を採用したのは、それほどまでに当時の教団が重傷に陥っていたという事です。ところが、今やその重傷から脱したとの診断に基づいて、絵像の授与がなされたのでした。
所詮は名号・絵像をみる者の姿勢の問題です。先にも申しましたが、親鸞聖人の門弟覚信は、師匠のもとで死ねば本望であるといって、病身をおして関東から京都に上がり、仏名をとなえつつ往生したといいます。覚信の目には、阿弥陀仏と親鸞聖人の姿がオーバーラップして見えたことでありましょう。
親鸞聖人と師法然上人の関係もまた同様でした。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然)のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり。……弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもってむなしかるべからずそうろうか」と歎異抄に見えます。
これは、蓮如上人においても同様に、蓮如上人の教えをうけつぐ者にとっては、蓮如上人も親鸞聖人も、法然上人・善導大師・釈尊も、また名号も絵像も、渾然一体となって、しかもそれらは方便ではなく真実=阿弥陀仏そのものとして映じたのでした。