博多弁の妙好人(みょうこうにん)



 温泉場にある小さな庵寺(あんでら)に、小柄な老人が参りました。やせた、精悍な顔で、金ブチの眼鏡をかけていました。昭和三十四年の夏、山口県俵山(たわらやま)温泉でのことです。
 庵寺では、毎朝八時半からお朝事(あさじ)があります。讃仏偈(さんぶつげ)・正信偈(しょうしんげ)・和讃(わさん)繰り読みのあと、三十分ほどのお説教がありました。この温泉は神経痛特効の湯なので、西日本一帯から、お年寄りの入湯(にゅうとう)が多いのです。入湯の人びとは十日〜十五日と長逗留ですから、庵寺のお朝事を楽しみにしています。三十歳代の主管とも親しくなってまいります。
 ――その老人は、口をぽかんと開けて聴聞するのがくせでした。
 「おじいさん、何処(どこ)からご入湯ですか」
 「あたきゃクサ 博多からたい」
 「おじいさん、この参詣帳に名前を書いて下さいよ」
 と乞われて、その人は、
  福岡市簑島・藤野与曽吉 七十七歳
 と書きました。
 「あたきゃクサ 若()っか時からどぎゃんこつでんして来たつばい。そりばってんクサ 十年前からこん道ィ入ったたい。こん道のよかばい」
 それから一週間ほど入湯した与曽吉さんは、毎朝庵寺にお参りして『こん道』を楽しみました。お寺のお朝事では、お互いに仲よしになるものです。
 「お住(じゅ)っつぁん、ながかこつお世話になりました。入湯のおかげでクサ よかご縁に遇()いましたたい。来年もまた来まっしゅうたい」
 と言って帰ってゆきました。
 翌年の盆すぎのある朝、ひょっこり与曽吉さんがお朝事に姿を見せました。
 「お住っつぁん、久しぶりたい。またお世話になります」
 「おじいさん、ちょうどよかったですよ。明々後日(しあさって)から桐渓(きりたに)和上(わじょう)さまがおいでになりまして、三日間お説教があるんですよ」
 「ほう、そりゃよかったたい。桐渓和上さまはクサ 博多ん方でん何返でん聴聞ばしとるたい。ありがたか和上さんばい」


 与曽吉さんは、翌年の俵山夏安居(げあんご)には、十人のお同行(どうぎょう)を連れて参りました。大勢が庵寺に泊りこんでのお聴聞です。
 お説教のあいまには、若い主管に、与曽吉さんは自分の極道(ごくどう)の道のりを語りました。あるときは師匠に対するごとく、またあるときは我が子に向かうごとく語ったものです。
 長崎・大牟田・佐賀などと、博打(ばくち)を打って回り、妻や子を省みることのなかった人生です。その妻は既にありません。博打往来の間に下の娘も亡くなりました。上海廟江鎮の飛行場を造ったのは、博打仲間の、長崎の親方でした。
 魚屋もしました、映画館にも手を出しました。その間にも、けんかもせねばなりません。
 「あン頃はクサ 面白かごつ儲かったばい」
というのです。――ある時には、憎い奴の所へ庖丁を持って押しかけました。
 「そん奴がクサ 二階に逃ぎゅうてちクサ 階段ば上がりかけたけんで『きさま逃ぐっとか!』ちゅうてクサ 丹前の裾ば下からあたっが引っぱったったい。そん奴の丹前ばぞろっと脱いで逃げたつばい。おかしかのなんのちゅうてクサ。逃ぐる者な追わんがよかばい」
 魚屋「天神」こと与曽吉さんは、そんな男でした。
 そんな風だった与曽吉さんが、毎年お同行を沢山連れて、俵山に参るようになったのです。あるときには三十何人連れて参ったこともありました。


 主管は、旅の往復には、福岡の与曽吉さん方に泊るようになりました。
 「お住っつぁん、うちにゃクサ 文子(娘さんのこと)に兄(あん)ちゃんばもろうたばい」
 「そりゃよかったい。目出度かこったい」
 主管もいつの間にか、博多弁が上手になってきていました。
 「あたっげにゃクサ 文子一人しかおるめえが。そっでよか兄(あん)ちゃんばもらわにゃならんち思いよったたい。親類先によか兄ちゃんのおるちゅうけんでクサ 製材所で働きよるとばクサ チョクともろて来たたい。よか兄ちゃんばい。今は出光ちゅう油屋に出よるたい」
 この与曽吉さん、お酒はまったくイケませんでした。せいぜい「お住っつぁん、あんた大体酒の過ぎるばい、あたきにチョクとやってんない」と、主管から少し貰ってなめる程度でした。
 「お住っつぁんな特別こらえとこたい。あたきゃ若()っか者(もん)の酒ば飲むとの好かんたい。こないだクサ うちの兄(あん)ちゃんの酒に酔うて帰っとるたい。明くる朝あたきゃ言うたたい。『兄ちゃん、お前ゃゆんべ酒に酔うとるごたったばってんクサ 酒ば飲むごたるなら、往()なにゃならんたい』ちクサ」と。


 昭和四十年頃の秋、与曽吉さんは、我が家の法供養(ほうくよう)をすることにしました。主管と打ち合わせて、翌年の四月十二日・十三日の二日間ということが決まりました。
 与曽吉さんにとって、それはそれは待ち遠しいことでした。前日に到着した主管にむかって、与曽吉さんは報告しました。
 「お住っつぁん。あたきゃクサ 去年の秋お住っつぁんの『来てやる』ち言いなさってからクサ 一日でん忘れたことのなかったつばい。四月になってからクサ 束子(たわし)に石鹸ばつけて便所の天井まで洗(あろ)うたつばい。高座も作ったつばい。昔の魚屋の仲間方に行ってクサ 『じいさんに魚箱ば五つ六つやんない』ちゅうて取って来たつばい。その魚箱ばこわしてクサ 高座ば作ったつばい。二階の屋根ば見てんない、干しちゃろうが。魚臭(くそ)うちゃ仏さまに勿体(もったい)なかけんでクサ 石鹸でようと洗うて十日ぐらい日に干しちゃるとたい」
 その言葉のとおり、なるほど、高さ四十センチ位の立派なお手製の高座ができておりました……。


 さて、翌朝早くから、文子さんを叱咤しながらお精進(しょうじん)のお斎(とき)を準備しました。
 与曽吉さんの仕事は料理です。旬の筍(たけのこ)を大きいまま、濃い醤油で味つけするのが、ことに上手でした。
 昼ごろともなると、三十人ぐらいのお同行が次々に集まってきます。お仏間は八畳、それに縁側ですから、ギュウギュウ詰めです。皆、与曽吉さんの寺参り友だちです。
 みんな、この老人が道楽の生涯を渡ってきたことを知っています。それが今、ご仏前に膝まづいてお説教に聞きほれている姿が、尊く思われるのでした。けれどもまた、けんか早い与曽吉さんが、少し恐ろしくもありました。それは、誘われて寺参りしないと、叱るからでした。「いい加減年ば取ってクサ 何の忙しかな。仏さまにしか用事ゃなかろうもん」と言われるからでした。
 午後二時から、師匠寺(ししょうでら)のご院家(いんげ)さまがお勤めをなさいました。与曽吉さんが挨拶をしています。
 「みんな、今日はよう参ってやんなさったたい。今日はクサ あたっげの両親の法供養たい。赤飯(あかめし)ば用意してあるけんで帰りがけに持って帰ってやんない。今から俵山のお住っつぁんのお説教のあります。俵山から若()っか坊()んさんの来なさったつと違います。ご開山(かいさん)さまの来なさったとです。ようと聞いちゃんない」
 一同の称名(しょうみょう)が高まります……。


 与曽吉さんと主管とは、仏間に床を並べて休むのが常でした。
 「ほんに今日はよかったたい。有難かばい」
 横になって夕刊を見ている主管の枕もとで、与曽吉さんは、今日のお志の勘定をしておりました。鋏で封を切っては、
 「おお、こん奴が千円も入れとるばい。銭の無かくせクサ」「こりも千円たい。ばかじゃなかろうか、手ぶらで参りゃよかとにクサ」
 などと独り言を言っております。これは与曽吉さんの感謝の表現なのです。
 総計が終わりますと、
 「お住っつぁん、ちょいと聞いてんない。皆でこがしこあったばい。こりゃクサ お住っつぁんに全部は上げられはせんとばい。今日赤飯(あかめし)ば配ったろうが、明日もばい。安うなかとばい。お志は無かでんよかったったい。ほんに勿体なかばい」と。
 それから暫くして 『そんならあたきも寝ようかい』と申して、ご仏前に称名をします。終わりには、
 「如来(にょらい)さまお休みなさい、ご開山さまお休みなさい、お父さんお母さんお休みなさい」
 と申すのです。極道でけんか早かった与曽吉さん、八十三歳の就寝前の、決まった礼拝でありました。
 また、主管を風呂に入れて、その焚口で、こんなことも語りました。
 「お住っつぁん、風呂ほどよかもんな無かたい。風呂に入る時ゃ誰でん何も持たんばい。どぎゃん殿さんでん裸ばい。そりばってん、あたっどんなクサ ナマンダブツさまば持って入るとばい、ほんに有難かたい。俵山に行こうてちゃクサ 荷物ば持って汽車ば待っとろうが。荷物なら盗()らるるちゅうて、心配の要()るばって、お念仏だけは盗らるる心配の要らんたい」
 「こないだ、まだ博打ば打ちよる友だち方に行ったったい。そりが『天神、きさまは博打ば止めて寺参りばするげなが、俺ゃこげん儲けたぞ』ちゅうて、貯金通帳を一尺ぐらい積み上げて見せたたい。ばってん、あたきゃ一遍に言うてやったたい。『俺ゃそげんなものな、いっちょん欲しゅうなかばい。俺ゃ仏さまから比べもんにならんほどの宝もんば貰うとるけんで、いっちょん欲しゅうなかたい』ちゅうたたい」と。


 与曽吉さんの法供養は、その後毎年つとまるようになりました。
 四回めぐらいの頃でしたか、主管は、こんなことを言われたものです。
 「お住っつぁん、今日んごたる説教はつまらんばい。明日はよかとこばやんない」
 「おじいさん、いらんこったい。黙って聞いときゃよかたい。お説教にいらんこつば言うもんじゃなかばい」
 「いんにゃ。今日んごたるとはつまらんばい。あたっどんな、お住っつぁんよりウンと年のいっとるとばい。あげなこた、ようと知っとるとばい。お住っつぁんの説教はクサ 如来さまのお慈悲か、ご開山さまのご苦労ば話しときゃよかと。明日そりばやんない。それで今日、あたきがお終(しま)いに言うたったい。『明日はお住っつぁんの十八番(おはこ)ばやんなさるけんで、参ってやんない』ちの。今日でんクサ 参って来た者(もん)な、あたきがごたる馬鹿ばっかりばい。理屈は解らんとばい。皆忘れて往()ぬるとばい。忘れてんよかろうもん、親さまの忘れなさらんとじゃけん。ただ往()にがけに(今日のお説教の有難かったのうー)ち思やよかとたい。そりだけばい」
 与曽吉さんにとっては、主管がご開山さまのように思われたのでありました。また主管の方も、与曽吉さんが師のごとくに思われておりました。


 昭和四十六年の夏、どうしたことか、与曽吉さんは俵山に参ってきませんでした。そして、博多からのお同行が、与曽吉さんが倒れて寝ついていることを知らせてくれました。「俵山のお住っつぁんに、暇になったら見舞いに来てやんないと言うてんか」との言伝(ことづ)てもありました。
 八月二十六日、主管が見舞いに行ったとき、冷房のとりつけられた仏間に休んでいる与曽吉さんは、嬉しげに語りかけました。
 「お住っつぁん、来なさったたい。あたきゃ今度がお終(しま)いばい。お終いでんよかたい、親さまのおんなさるけんで。ご開山さまのクサ 法然上人に遇()いなさって嬉しかったろうばって、あたきゃクサ お住っつぁんに遇うて嬉しかったたい。あたきゃクサ お住っつぁんの顔も字も知らんじゃったつばい。俵山に入湯したおかげで、お住っつぁんば知ったとたい。あたきゃ、仕合せもんばい」
 「よかったねェ」
 「よかったクサ。あたきゃ息子のおらんけんでクサ 息子のおったらなんぼよかろうかち思いよったばって、こげんして寝てみると、娘でよかったたい。文子の良うしてくるるばい。見てんない、あそこに暖房(らんぼう)の入っとろうが。お住っつぁんも涼しかろう。ありゃ文子の付けてくれたつばい。高かったつばい、十四万円もしたつばい。あたきゃ娘でよかったたい。あたきゃクサ 調べもせんと兄(あん)ちゃんばチョクと貰うて来たばってんが、よか兄(あん)ちゃんばい。ちっと酒ば飲むばって。朝はお仏飯(ぶっぱん)ば上げてお礼ばしてから、油屋に出るとばい。まだ若()っかけんで、お寺にゃ参らんばって、年とりゃあたっどんがごつ参ろうたい。あたきゃ仕合せもんばい」
 「よかったねェ。道楽もしたばってんね。如来さまのご縁に遇うた、これより仕合せはなかったたい」
 「そうたい、こりが一番の仕合せたい」


 次の年の昭和四十七年七月二十五日、与曽吉さんの訃がありました。妙好人藤野与曽吉は親さまの許(もと)に往ったのです。
 ――広告チラシの裏を使って書かれていた手紙のうち、次のような文面が残されています。
 「先日はかた万行寺にてえいたいきようつとまりました。きりたに和上さまれありました。わたくしありがたいありがたいというておりますなれろ、あれはみなうそれあります。あれは、水の上にかいたゑのようなものれあります。なれろ、おやさまのすくうてやるとおっしゃるれ、ありがとうございます」
 ご当流の安心(あんじん)は、お喚()び声一つでございます。博多弁のお領解(りょうげ)、見事でございます。