第六席(一月十五日)

 一月九日お逮夜から相営まれます報恩講であります。ご開山聖人様ご影向の御前に、今日は早くも大逮夜でございます。

 人多き中にご本山の大逮夜(おたいや)に参詣いたし、しかも改悔批判を聴聞できますこと、誠に仕合わせ者でございます。来年の報恩講も期し難いことなれば、一期一会の法悦の中で過ごされておいでであろうと察します。

 曠劫以来、迷いの境涯に流転をして窮まりない衆生を、覚りの涅槃界に引導しようと、如来さまは、平等の大慈悲の願行を満足なされました。即ち一切衆生、老若男女、貴賎貧富の差別なく、善人も悪人も衆生は一切平等であると名告らせ給うたが南無阿弥陀仏であります。

 一願建てるも衆生の為、一行積むも衆生の功徳、「令諸衆生 功徳成就」と私共の所に南無阿弥陀仏を成就して下さいました。それよりこの方、第十七願成就の諸仏は、逃ぐる私を追いかけて、大悲無倦のご勧化でありましたが、この度というこの度は、多生を経ても生まれ難い人界に生まれて、あろうことか煩悩に汚れたこの口に、如来の名号を称え奉ることに相成りました。ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナマンダブ。

 今晩聞いて今晩助かるご法義に、若い時から今日まで、永い苦心をしたとすれば、何ゆえかというと、それは自力心が捨たらなかったからであります。

 如来様は「汝の煩悩は古来性得の罪で、どうすることも出来ないのが汝である」とご覧になって、私の罪業を責めることなく「たのむ心も念ずる心も南無の二文字に用意はしたぞ、助くる力は阿弥陀仏の四文字に成就をしたぞ、この弥陀に助けさせてくれよ、任せてくれよ、弥陀の名号を高らかに称えてくれよ、他人事ではないぞ、汝一人の後生の一大事であるぞ」と、呼びかけて下されました。

 お育て頂いた甲斐あって、「納得がいかん、分からん、はっきりせん」という私の愚かな分別は大きな誤りでありました。それこそ自力の骨頂でありました。何もかも弥陀お手許で、弥陀のお手許が納得できております。己を空しくして弥陀如来のお呼び声、釈迦如来のご教化、二尊の仏語を如是我聞と信受するばかりでございます。

 ご信心は己を用かせてはなりません。名号でお助け、南無阿弥陀仏ただ一つ。信心拝領のその上は、今度は私の努力、ご恩報謝は紛骨砕身の努力であります。ご報謝というのは努力をしても努力をしてもご報謝であって無限であります。

 「信は大悲の仏智にすがり、報謝は行者の厚念に励むべし」とは、法如上人様のお言葉であります。

 信心の本体は南無阿弥陀仏、これが我がものと頂戴されているのが信心であります。ご影向のご開山聖人が、殊に念入りにお勧め下さったのは、南無阿弥陀仏はその声わずかに六字であるけれども、これは如来さまが全徳を持って私に宿って下さってあるのだから、これからの私共の将来、今生・来世のことはすべて南無阿弥陀仏の功徳が、身の上に顕れはたらいて下さるのであるとお示し下さったのであります。

 即ち名号を如是我聞と信受いたしました時に、法蔵菩薩、五劫兆載のご苦労は目的を達した、実を結んだわけです。これからは名号一つの力用が私の上に華開いて相発して下さるのであります。

 「聞其名号 信心歓喜」の初一念に、永い迷いの緒は切れた、信受本願、前念命終、迷いの私は死んだのだということです。「即得往生 往不退転」とあるのは、新しい念仏の命が恵まれたぞ、「即得往生 後念即生」とお示し下さいました。ご信心の人はもう自力の命が死んで、他力の命が始まったのだということであります。

 もう、ひと度、如来さまのお慈悲の中に身を任せて死んだのだから、今度の往生は死ぬのではなくて、お浄土へ移住するのであります。「臨終待つことなし、来迎たのむことなし」、人様が「亡くなる」というけれども、亡くなるのではなくて、西方浄土へ移住されるのであります。

 家族の者で既に亡くなった人を想う時、それは西方浄土で、出門の菩薩となっていらっしゃると想うべきであります。私共もそこへ間もなく参ります。『阿弥陀経』には倶会一処、一生補処の菩薩として一つ処に会うぞとお示し下さいました。また合い集う西方をご用意下されたとは、何と行き届いたお慈悲でありましょうか。

 大悲の願船に乗って、如来の光明の海に浮かびぬれば、
 無上功徳の風静に吹くなり、衆禍の波転ず。
 即ち無明の闇は破られ、無量光明のお浄土に住すれば、
 極速に大涅槃を証り、普賢の徳に遊ぶなり。

 さて、ご開山聖人がご化導下されたこのご法義を信受せられたお領解を異口同音に出言せられよ。

領解出言

 確かに、出言の領解聴き取りました。只今の出言には、次第に、安心、報謝、師徳、法度と含まれていました。

 はじめに安心。雑行・雑種とは、自力の心をもって、「我が善を行う」と思いつつ、さまざまな善を為すことであります。善を為すのが何故よくないか、善を為してはいけないとは言わないが、己の功、己の善根と執じ誇って行い、これを仏前に供えようとするのが自力、ご報謝の意味で行えば、他力報恩の営みで有ります。

 如来さまは「仏願の生起本末」といわれる「生起」の所で、衆生には仏意にかなう善は出来ない、たとい真剣になって勤めても、煩悩という毒の雑った善であるとご覧になりましたので、私共の善根は成仏への邪魔になっても足しには成りません。

 『阿弥陀経』に不可以少善根とありまして、少善根では不可であると仰せであります。少善根とは凡夫の行う善根はすべて少善根であります。どれほど真心込めて行っても、浄土に参るのには不可であるということであります。「お前の真心が役に立つと思うなよ」という仰せに従うのが、「自力の心をふり捨てる」と言う言葉であります。

 「後生おたすけ候へ」とは、「汝の後生、無量寿の未来まで、今生に届いた南無阿弥陀仏の中に用意はすんだぞ」という如来の呼び声に随順したのが「おたすけ下さると、先手をかけてのお呼びかけでありますので、助けて頂きましょう」と任せたという意味であります。

 それを更に「たのみ申して候」と重ねました。「たすくるぞ」という如来に「それではたのみ申す」という所には、既に大恩であるという含みがありますので、信心のことを広大難思の慶心とも申します。

 「たのむ一念」とは、曠劫流転の私共の永い歴史の中で、この度、名号を信受した初めの時ということで、「往生一定」とは、念仏称名して年月経ってからではない、臨終に及んでからではない。平生の折、自力を捨てて名号が頂かれた時、往生は決定するということであります。

 「おたすけ」とは、この迷界から浄土に迎え覚りを開かしめるのが如来の眼目であります。信心の初一念に決定しているから信心正因と申します。

 次に「この上の称名」とは、称名は報恩であって、往生成仏の因ではないことを明らかにしました。称名の「称」、称える私の仕事がご報謝であります。古来、信行不離と申しますことは、信心と称えられている名号を別のものと考えてはならないということであります。

 弥陀の名号を称えつつ憶念の信心が相続して生きて参りました。私共の側には仏恩報ずる思いがあります。なぜ称えるかという私共の称える思いは、

 一、ご恩でございますと思うとき。
 二、浅ましゅうございますという慚愧(ざんき)のとき。
 三、お呼び声としての名号を聞いてみたいとき。
 四、如来さまが称名を持ってござると思うとき。
   親縁・近縁・増上縁、よう称えたのう、「仏言広大勝解者」、
   仏は広大勝解の人と言えり。
   聞いて下さるから称えるのであります。
 五、ご開山聖人や蓮如上人、ご門主さまが行住座臥に称えられますから、
   師命に随順します。
 六、称えて称えて、称えるのが癖になっているから、いつも称える。
   癖になる程に、称えて来たことが有り難い。

 さて、明日は御正忌報恩講がご満座に相成る。「ご開山様、ご開山様」というて過ごした一七日(いちひちにち)でありました。これ即ち次ぎの師徳、間もなく蓮如上人の五百回ご遠忌が参ります。もうお待ち受けの最中です。これ「次第相承のご恩」であります。
 ご開山さま、ご苦労でございました。
 当門さま、ご化導有り難うございました。
 次第相承の善知識の浅からざるご観化のご恩でございます。
 最後に「定めおかせらるる御掟」というのは、時代によって変わることと、変わらないことがございます。ご当流は毎朝お仏壇にお礼をせよ。お正信偈を拝読せよ。お領解文を称えよというのも掟であります。

 法縁果てて帰郷の上は、何はともあれ家庭の仏壇の前を賑わすことでございます。お仏壇に礼拝する姿ほど尊いものはございません。これもすべてご報謝の営みであります。

 さて連々六日にわたり、改悔批判のお座に連なられたこと、尊いことでございます。宿に下がってはご開山聖人の御恩を語って夜を明かし、明朝ご満座のお晨朝には早々参詣せられよ。