第五席(一月十四日)

 本日はご本山のご正忌報恩講に参詣なされ尊いことでございます。そのうえ改悔批判のお座にも連なることが出来ました。来年の報恩講も期し難いことを思えば、お参り出来たことは何にも替え難い幸せであります。

 私共のご法義は御開山聖人のご化導によって『浄土三部経』を頂いてゆくものであります。阿弥陀様のお救いであります。わが弥陀は名をもって、ものを摂し給う、南無阿弥陀仏でお救い、名号摂化の法と申します。如来様は衆生に届いて下さるには南無阿弥陀仏としておいで下さってあるということであります。

 ご開山聖人は名号、六字を招喚の勅命である、お呼び声であるとお示し下さいました。名号は私に称えられつつあるのが本来の相であります。如来さまは私の口をかって私を喚び給うのであります。また仏名という点から申しますと、如来さまはわたしの口をかって、お名告りを上げ給うのであります。即ち南無阿弥陀仏という称名の名号は「汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん、衆べて水火の難に堕せんことを畏れざれ」という意味であります。
平たく言えば、「必ず救う、任せてくれよ、そのまま来いよ」ということであります。また「我が名を称えよ、親じゃよぞ」というお名告りであります。南無阿弥陀仏は、称えられる名号でありますが、単に声の相であるだけではありません。如来さまは兆載永劫の修行の功徳を私共の上に成就して下さいました。それを『大経』には「令諸衆生 功徳成就」と説示されてあります。法蔵菩薩、兆載修行の功徳の総体が、私の処に南無阿弥陀仏と出来上がったのであります。即ち南無阿弥陀仏は、不可称不可説不可思議の功徳であります。

 信を獲るということは、この私に届いている南無阿弥陀仏を我がこととして信受する、即ち南無阿弥陀仏が私のものとなることであります。南無阿弥陀仏の功徳が私のものとなっている、それが信心ということであります。信心の本体は南無阿弥陀仏であります。

 信心正因というのは、この名号の功徳が私の功徳となった時、その功徳を因徳として、命終後の往生が決定するということであります。往生即時に無上涅槃を証する、往生即時成仏でありますから、往生決定はまた成仏決定であります。信心の初めの時、往生が決定することを『大経』には即得往生と説かれてあります。ご開山聖人が「報土の真因」と仰せられるのは、往生の正因のこと、「涅槃の真因」と仰せられるのは、成仏の正因であって、どちらも信心正因のことであります。「正信偈」に正定之因唯信心とありますのは、正決定の因は唯信心であるぞということ、本願名号正定業とあります正定業は、正決定の業作であるぞと、いうことであります。

 成仏が決定しているということは菩薩の階位で申しますと、等正覚の位、一生補処の菩薩と申します。「正信偈」には「等覚を成り大涅槃を証す」としてあります。譬えていえば、咲かんばかりになった花の蕾、仏さまの蕾であります。只今が一生補処、等正覚。成長しきった蕾が中々咲かない、何故だろうか、ここ五六日寒いからだろうかというので、温室に入れますと、その日のうちに開きます。温室は温かいからであります。仏の功徳は私に満ち満ちて、私は仏の蕾でありますが、現実には煩悩の凡夫であって、仏の花と開きません。娑婆が寒いからです。迷いの国であるからです。遠からず生と死の界の幕、向こうの見える、蚊帳ほどの幕が、病床の私の体の上を静に通り過ぎて行くでしょう。その時、はやお浄土であります。正覚の花より化生して、無上極果の仏の花と開くのであります。

 お浄土は無為涅槃界、覚りの刹であります。ついで出門の菩薩の姿となる、還相の菩薩としてお浄土の聖衆であります。仏法のお味わいの中で、衆生済度を楽しみとする、普賢の徳に遊ぶという未来が、洋々と広がっている私共であります。それらのことが全部、既に予定として備わっているのが南無阿弥陀仏であります。今や私は、総ては名号という形で得ているわけであります。他力回向、如来さまから下さるものは、何もかも頂いてしまっているのが、私共の只今であります。私の只今は何と尊く大切な存在でしょうか。しかも私だけではありません。友同行すべて、これ一生補処の功徳に満ちたる方々でありますので、大切に尊敬してゆかねばなりません。

 ご開山聖人のこのようなご化導、そのお領解を異口同音に出言せられよ

領解出言

 只今出言のお領解、心口各異ならずば誠に麗しいお領解であります。このお領解は初めから安心、報謝、師徳、法度と区別することが出来ます。

 安心の段は初めから「治定と存じ」までであります。「雑行・雑種」雑行とは、宗門のお勤めでないものを読んだり、如来、聖人など、決まったもの以外のものを拝んだり、祭ったり、願をかけたり、祈ったりすることであります。お経を読むとか、お供えをする、法事をするなどは、御恩報謝の営みでありますが、此のような事が功徳になると思っていることを雑種と申します。雑行も雑種も自力の心でしているものであります。

 「自力の心をふりすてて」とは、以上のように、雑行・雑種を真心を込めて、大真面目でする心のことを、自力の心と申します。諸善万行を真心を込めてやって、お浄土参りの足しにしようという自力の心を「ふり捨て」捨て去りました。私共の真心という、そのものが雑毒の心、煩悩の毒の雑った心であります。

 「後生の一大事」とは、後生とは死んだ後の境涯、折角生まれ難い人界に生まれながら、また流転の境涯に還るか、お覚りの浄土に往生するか、ここは一大事であります。
 「御たすけ候へ」とは、如来様の「たすけさせてくれよ」とある呼び声に身を委ねて、仏智不思議のお計らいに、お任せいたしますということであります。

 「たのみ申して候」とは、この「御たすけ候へ」と言ったことがたのんでいる相であります。従って「たのませて、たのまれ給う弥陀なれば、たのむ心は我とおこらず」などと申します。「たのむ」と申しましても、我が方から願い、祈るものではありません。

 以上の出言は、南無阿弥陀仏の心を言ったものであります。南無の二文字は衆生の側の「あすけたまえとたのむ」の機の分。阿弥陀仏の四文字は「汝の後生は引き受けた、かならずたすくる」の法の分。即ち機法一体の南無阿弥陀仏のお心を顕したのであります。これを如来様の側で言えば南無は「たのめ」阿弥陀仏は「たすくる」であって、「たのめたすくる」というお心の南無阿弥陀仏、お喚び声であります。私共の方から南無とたのばねばならぬものを、如来のお手許にたのむ心を成就して、「たのんでくれ」との賜り物、機法一体の回向であります。 自力を捨ててお任せした時が、平生業成、信心正因。私の成仏の因徳は成就したのであります。これを「たのむ一念の時、往生は一定、御たすけ治定と存じ」と出言しました。

 出言の領解には「この」という語が三度あります。初めの「この」は報謝の段であります。「称名はご恩報謝」と申しましたが、称名がご報謝というのであって、名号がご恩報謝とは申しません。名号は意味からいえば「そのまま来いよ」のお喚び声、用きからいえば正定業であって、これがご報謝「有り難うございます」であります。古来、称名報恩は行者の心持ちと申します。但し、称える度ごとにご恩を思えというのではありません。称えるという私の仕事の意義、分薺が報恩であるということであります。

 ◎お喚び声を聞いて見ようと、称える事もある
 ◎わが心、醜いにつけ南無阿弥陀仏
 ◎この世の惨めなこと、悲しいことを、聞くにつけては南無阿弥陀仏
 ◎有り難いにつけ南無阿弥陀仏
 ◎嬉しいにつけ南無阿弥陀仏
 ◎ご文章を聞いては南無阿弥陀仏
 ◎亡き人を思うては南無阿弥陀仏

 それらを総じてご報謝の称名と申します。お浄土参りに役立てようと思ってはなりません。信仰生活は総てご報謝でありますが、称名は信仰生活の第一であります。
 次の「この」は師徳の段であります。「この御ことわり」とは上来の信心称名の理屈という意、広くは第十八願のご法義を、これ程にお聴聞出来ました根本は、ご開山聖人がこの世にお出ましになって、お『三部経』のご法義を、

 「他力信心であるぞ、
  信心正因であるぞ、
  名号摂化であるぞ、
  平生業成であるぞ。」

などと、お聞かせ下さったご恩であります。ご開山聖人は誠に只人にましまさず、仏のお使い、仏の生まれ代わりでありました。

 「一人いて慶ば二人と思え。二人いて慶ば三人と思え。その一人は親鸞であるぞ」

 ハイ何時も左様に仰ぎ参らせております。人間親鸞などということは軽薄なことであります。今やご開山聖人のお真影の御前に、ご影向の仏様であると額ずき奉る幸せ者でございます。このお聖人さまと私の間を受け持って下さったのが、次第相承の善知識、歴代のご門主様方であります。私共は「親鸞に帰れ」という主張に与する者ではありません。ご門主様方の伝持のご努力と、それを八百年に亙ってお支えした、何千万門信徒の人々、名もなき念仏行者たちの実践に、頭を垂れる者であります。我が家の先祖が、阿弥陀様のお仏壇を伝持して呉れたご恩も、この出言の言葉の中に思うものであります。

 最後の「この」は法度の段であります。「この上は」とは信仰生活についてであります。称名、師徳がご報謝の大切なことであるが、これ以外の信仰生活もご報謝として出言したのであります。

 「定め置かせらるる御掟」とは、宗門の決まりという程のこと。宗門は時代時代の人々の形造るもの、俗世間に存在するものでありますから、他力の信心は内心に深く蓄えて微動だもしませんが、決まりは俗世間に処して変遷して参ります。
 「守護地頭を粗略にするな」とは、役所は信仰を持ち出すべき処ではないので、世俗の用が足りればすむものであります。
 「大道大路にて仏法を語る勿れ」とは、信仰の味わいは、個人個人の秘めたものであって、無関係の人々に顕露に語るべきではないということで、今でも意味は同じであります。お仏壇のお給仕、仏事の作法、僧侶、門徒の心掛けなども掟と考えて然るべきであります。

 以上、報恩、師徳、法度の三度は合わせて報謝と言うべく、領解の出言は信心と報謝に亙っているということであります。

 引き続き非時及び日没の勤行に参り、宿に下がっては、祖師聖人のご恩を語って夜を明かし、明朝は早々にお晨朝に参詣せられよ。