第四席(一月十二日)

 本日は平成七年ご正忌報恩講の第四日でございます。幸せに健康でありまして、ご真影様の御前に参詣出来ましたこと、何とも幸せなことでございます。

 私共は御開山聖人のご化導によって『浄土三部経』のご法義を領解いたします。このご法義、即ち第十八願の法、弘願の法とは南無阿弥陀仏、名号法であります。第十八願に乃至十念衆生に称えられると誓われ、その成就の文には「其の名号を聞いて信心歓喜する」と説かれてあります。第十七願に我が名とあります。これらわすべて南無阿弥陀仏であります。

 「重誓偈」には名声超十法とありますので、名号は声の相をしているということであります。ご本願の乃至十念は下至十声とも顕します。南無阿弥陀仏とは声であります。即ち、称えられている南無阿弥陀仏こそが、名号の本来本然の相であります。そういう概念で説かれているのが南無阿弥陀仏であると領解して置かねばなりません。

 第十七願の成就文では「威神功徳 不可思議」とされてありますので、南無阿弥陀仏とは声の名号であるだけでなく、その内容は不可説不可思議の功徳であります。そう教えて下さったのがご開山聖人であります。

 これらの教説から総合して伺いまして、善導大師、ご開山聖人は、南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の呼び声であり、お名乗りであると教えて下さいました。阿弥陀仏の本国は西方浄土であります。この仏様は「我々を喚んで下さってあって、その声が南無阿弥陀仏であると頂くのだよ」と、教えて下さいました。

 お喚び声の意味から申しますと「汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん、衆(す)べて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と、いうことであります。それは如来招喚の勅命であるとも申します。そのお喚び声は、声であるから、我々としては「聞く」ものであります。現に私共の耳に南無阿弥陀仏と聞くことの出来る名号の声は、私共の口に称え奉る名号という声、即ち名声であります。如来様の喚び声は私に届いて、私の口をかって、喚び給うのであります。私共は我が口からの喚び声を、すぐ隣の耳で聞くということであります。自分が称える念仏の声を、自分で聞く、これはこの上もなく大切な行信であります。

 われ称えわれ聞くという自分の行為の中に、既に私は居ません。私は自分を問題にせず、喚び給う声に聞き惚れています。これを「至心信楽己れを忘れて無行不成の願海に帰す」と申します。中身から言えば大善大功徳の南無阿弥陀仏、用き(はたらき)から言えば本願名号正定業、聞こえて来たのは私の口からであります。我が声は我が声ながら尊かりける南無阿弥陀仏。曠劫流転の私に、とうの昔から届いておって、諸仏のご勧化を受けながら、頑としてこの口に掛けなかった永い過去、永い迷妄の歴史でありましたが、この度は何という不思議なことか、やすやす、ころころと、お六字様を称え奉る。勿体なくも有り難いことであります。
 南無阿弥陀仏と称えることは、弥陀にたのませられて、たのんでいる相であります。如来様のお計らいは「南無阿弥陀仏とたのませ給いてむかえんと、計らわせ給う」たものであります。

 この喚び声の中身に「衆べて水火二河の難に堕せんことを畏れざれ」というお言葉は、「お前は煩悩罪業の凡夫の暮らしであろうけれども、障りにはならないぞ、弥陀は無碍光の如来なるぞ」というお名告りであります。平たく言えば「そのまま来いよ」ということであります。なぜ煩悩具足のままの凡夫が、往生出来るかといえば、信受・称名された南無阿弥陀仏。頂いた南無阿弥陀仏が不可思議の功徳を宿している、正定業であるからであります。我々は煩悩罪業の凡夫でありますが、称える名号は清浄真実の功徳であります。幸せなるかな「このたび覚りをひらくべし」。

 私共はこの人生が終わり次第、西方浄土に往生して、無上の覚りに至る。還相の菩薩として普賢の徳に従い、悠々とした衆生救済の楽しみに入る。私共には無量寿の未来が用意されてあります。

 さてこのご法義について参詣の大衆、異口同音に領解出言せられよ。

領解出言

 確かにご出言のお領解を承りました。心中と出言と相違はあるまじく、誠に麗しいお領解であります。

 只今の出言のご領解はその中を、安心、報謝、師徳、法度の四項に分けることが出来ます。はじめの安心の「雑行・雑種自力の心」とは身口意の三業をわが智恵の力で、目出度く整えて往生しようと思うことを自力と申します。雑行・雑種とは念仏以外の雑多な善根を修めて、それを仏前に回向して往生しようとするのが自力の行と心であります。

 自分のすること、思うことに価値ありとする心が、自力の心で有ります。然るに自分の考える事を、総て誤りであるとして振り捨てる為には、かわりのものがなければなりません。それが「汝の後生は引き受けた」という弥陀のお名告りであります。「汝をたすくる」という如来の呼び声に、身を任せる処を「恩たすけ候えとたのみ申す」と出言しました。仏様の側から言えばお呼び声、即ち南無阿弥陀仏、平たく言えば「たのめ、たすくる」であります。

 南無の二文字は「たのめ」阿弥陀仏の四文字が「たすくる」。「たのめ」は機の方、「たすくる」は法の方、即ち機法一体に仕上がった南無阿弥陀仏であります。たのまねばならない私の仕事は、如来のお手許に成就して、「たのめ」と、ご回向であります。それを私の信受の側で申しますと「たのみもうして候」、「たすくる」という弥陀の呼び声に、身を任せますと「たすけ候え」。少しも私の方からのお願いは雑ざっておりません。雑ざえてはなりません。唯々「たのめ、たすくる」のお呼び声に身を当てて、「たすけなされ」と「たのみもうす」というのであります。

 「今度の後生の一大事」とは、今の世が現世であって、これから後の行く先が後生です。次にどんな境涯に生まれるかは大問題であるから「一大事」であります。私の業からいえば地獄は一定でありますから、自力ではどうにもなりません。ここに名号、信受の端的、即ち自力を捨てた処、臨終を待つ事無く、来迎たのむ事無く、弥陀たのむ一念に、往生成仏決定であります。これを「たのむ一念の時、往生一定御たすけ治定」と出言したのであります。これを信心正因・平生業成と申します。既に未来は決まっております。これから先は何が起ころうとも少しも案ずることはありません。臨終すんで葬式すんで、今は浄土を待つばかりであります。

 以上は安心の一段であります。次に「このうえの称名は」からは報謝の段であります。我々のご法義は、信仰の核心を信心といい、信仰生活を報謝と申します。即ち報謝・師徳・法度の三項は総じて報謝生活のことです。

 我々のご法義は、己を空しくして唯信仏語、如来の招喚を信受する、信心をもって本と致しまして、報謝は末であります。信心の智恵に入ってこそ、仏恩報ずる身となるのであります。ご恩報謝の称名と言いましても、称えられるのは、お六字。称えるのは私の仕事、私の仕事がご恩報謝であります。称えようと思う心は私の思い。舌を動かし声を出すのは私の仕事でありまして、これがご恩報謝であります。ご報謝は努力であります。信は仏智の大悲にすがり、報謝は行者の厚念に励むべしとあります。信心は如来さまのお仕事、ご報謝は私の努力であります。

「この御ことわり」以下、まず師徳。ご開山聖人と「次第相承の善知識」と申し上げた歴代のご門主様方のご恩を出言しました。ご開山様のご恩と申しますと、九十年のご生涯のことを言いがちですが、何といっても、私が「この御理聴聞申し分け候」たることであります。ご正忌御影向の御前に御真影様を拝み奉って、何よりのご報謝は、信心報謝のお育てを、御礼申すことであります。ご開山聖人はご自分に対する非難を予測しておいでました。「どんな非難があろうとも、それは他力の分からぬ人々であるから意に介さない。私は唯仏恩を深々と慶ぶばかりである」と仰しゃいました。仰せの通り、他力本願、悪人正機のご法義は歴史を通じて誤解、弾圧に耐えた八百年でありましたが、ご真影様は黙ってお座りでございます。

 このお苦心の他力義を、誤らずお化導下さったのは、歴代のご門主様方「次第相承の善知識」でありました。二十四代に亙って、一基の瓶の水を一基の瓶に写すように、一滴もこぼさず一滴も加えずに、一基写瓶の相承でありました。ご門主様方ご苦労様でございました。以上が「この御ことわり」と言うところからの師徳の段意であります。

 「この」という語が三度出ましたが、三度目の「この上の」以下は、法度の段であります。「定め置かせらるる御掟」とは宗門の時代時代の決まり、規則のことを意味します。宗門も時代によって、決まりは変わります。昔は六ヵ条、八ヵ条等の掟が示されていました。もっと小さい事で、お仏壇はこう整える、打敷はこう敷く、年忌はこう勤める、僧侶はどうする、総代は何をする、などということも掟です。折りをみて良く学ばねば成りません。此のようなことは、総てご門主様のお指図と心得て几帳面に勤めますことも御恩報謝であります。

 師徳を報謝するのも、掟、決まりを護るのも総じて言えば御恩報謝であります。ご報謝の努力と自力とを取り違えては成りません。如来のお助けについては、すべて仏力他力であって自力無用、ご恩報謝は私の努力であります。身を粉にし骨を砕いて、報謝に勤めるのであります。

 引き続き非時及び日没のお勤めに連らなった後は、帰る道中も称名相続、明朝は早々にお晨朝に参詣せられよ。