第三席(一月十一日)

 一昨九日よりご修行相成っておりまするご開山聖人の御正忌報恩講に参詣なされ、この改悔批判のお座に連なられますこと、尊いことでございます。ご開山聖人のご恩の前にご報謝の参詣が出来ましたこと、お互いに誠に仕合わせ者であります。

 私共は「浄土三部経」のご法義を、ご開山聖人のご化導でお領解して参ります。殊に『無量寿経』には法蔵菩薩の願行、弥陀成仏の因果が説かれてありまして、これがご法義の根幹であります。

 これをご開山聖人は「仏願の生起本末」と仰せられました。而してこの「仏願の生起本末」は、お六字「南無阿弥陀仏」と仕上がっております。従って名号のお謂われを聞くということは、「仏願の生起本末」を聞くことであります。

 その法蔵菩薩は、衆生の虚妄の相を見そなわして、この衆生を一人残らず助けて仏にするために四十八願を建て、兆載永劫の修行をして功徳を成就し、阿弥陀如来と成仏し、西方浄土を成就なさいました。この修行が説かれる一段に「令諸衆生 功徳成就」という仏語でもって説かれてあることが、他力回向が説示される源泉であります。

 ご開山聖人は、如来の真実心と不可思議の功徳が、衆生に回施されたと論示される処に、この「令諸衆生 功徳成就」のある経文を引用されてあります。
 蓮如上人は「信心獲得」の『御文章』において、

 これすなわち弥陀如来の凡夫に回向しますこころなり。
 これを『大経』には「令諸衆生 功徳成就」と説けり。

と、仰せられてあります。
 如来の回向ということは、法蔵菩薩の願行の事の始めから回向でありまして、回向を首とし給うというのであります。ご回向の総体は「南無阿弥陀仏」と成就してございますので、法蔵菩薩の願行も、始めから私の処に積集されて「南無阿弥陀仏」と成就されたのであります。

 「衆生往生せずば、われも正覚を取らじ」と誓い給うた本願が成就したということは、「弥陀は正覚を成じたぞ、衆生往生のいわれは成就したぞ」ということであります。弥陀成仏の因徳のすべては「南無阿弥陀仏」と私の処に回向成就しておりました。即ち総てのいわれは成就しておりましたのですが、ただ一つ、わたしの信受領解が待たれたのであります。

 そのことを第十七願成就の諸仏、砂の数ほどの仏方が入れ替わり立ち代わっては、私共に告げて下さいました。「人ごとではないぞよ、汝自身の出離解脱のための南無阿弥陀仏を信受せよ、称念せよ」と、慈悲倦きことなくお勧め下さいましたが、今日ただ今、漸く私の口に「南無阿弥陀仏」と仏名を称える日が来たのであります。十劫以来お待ちかねの如来さまは、いかばかりかおよろこびでありましょうか。「よう称えた、よう称えた。仏言広大勝解者、汝は華の中の華なるぞ、是人名分陀梨華」とお讃め下さいます。

 『観無量寿経』では、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と仰せです。親縁・近縁・増上縁、拝む姿は見ておるぞ、喜ぶ心は知っておるぞ、称える声は聞いておるぞ、「南無阿弥陀仏」を不足に思うなよ、汝に余った他力の功徳は届いておるぞと味わう次第であります。

 法蔵菩薩が成仏なさった功徳がみな、お六字と仕上がって我がものとなったのが、この度の信心であります。「ご信心をいただく」というけども、この「ご信心」という品物があるのではありません。如来さまから回向されてある品物は、お六字「南無阿弥陀仏」であります。 曠劫以来も徒らに人ごととばかりにうわのそらで聞いて来た、空しくこそは過ぎて来たが、この度はご開山聖人ご出世のご恩、人ごとではなかった、私自身の後生の一大事であると頂くことが出来ました。

 「信心」というのは、お名号が私に、私のことじゃど頂かれているところで「信心」と申します。信心の中身は南無阿弥陀仏であります。従って「信を得れば南無阿弥陀仏の主になる」と仰せられます。

 弥陀成仏の因徳は、そのまま私の功徳になっている。不可称不可説不可思議の功徳がわれら行者の身に満ちております。従って、身は煩悩具足の凡夫であるままお覚りの直前の位にあります。菩薩の最上階の位、等正覚という位にあるぞと、ご開山はお慶びであります。
 一生捕処の菩薩、もうすぐ仏になる菩薩、弥勒菩薩に同じであるぞと告げて下さいます。「等覚を成り大涅槃を証する、成等覚証大涅槃、このたび悟りをひらくなり」という尊い身の上であると申します。
 ひるがえって、わが身この身を尊ばねばなりません。わが身にひそかに言うて聞かせたい。「私はこの度はでかしたぞ。私は只人ではないぞ。仏の功徳を宿しておるぞ。あだやおろそかではないぞよ」と慶びたいものであります。

 さて以上のご法義についての領解、異口同音に出言せられよ。

領解出言

 ただ今の出言、口と心と差異ある筈もなくまことに目出度いお領解であります。

 出言のお領解は、はじめから順に安心、報謝、師徳、法度でありました。最初の一段の中、「雑行・雑修」とは、もろもろの善根を自力の心で努力することであります。「自力の心をふりすてる」ということは、このご法義の眼目であって、逆から言えば全文他力、他力の御たすけにまる任せ申しますということであります。

 「自力の心をすてる」とは、自分の知恵を捨てる、自分の功をすてるということであります。私共の苦悩は、「私は賢い」「私の考えることは間違っていない」ということからはじまっています。実は私の価値判断も感覚もみな誤っている、用いるべきものではないとするのが「自力の心をふりすてて」ということであります。

 「御たすけ候へ」とは、如来の方から何も知らない私共に、先手をかけて「助けさせてくれよ」とあるお呼び声に、「どうぞお心のままになされ給へ」という意味であります。ですから「たすけたまへ」とは「たすけて下さい」というお願いではなくて、「助けたいなら助けなされませ」と身を投げ出しての応諾であります。

 このことを次には「たのみ申して候」と出言しました。これも上をすぐに受けた語ですから、申しましたとおり身を投げ出してのお任せきりの意味でありました。
 さらに「たのむ一念」とは、大善大功徳の名号を領受したところですから、信受の一念であって、その時に往生成仏の因が決定するのであります。これを「往生一定」といい、「御たすけ治定」と言い、そのようにお領解いたします。すなわち名号を体とする信心の始めの際に、往生成仏が決定するという信心正因の義を口に出したわけであります。

 「この上は」から数えて以下に「この」という語を三度出言しましたが、はじめの「この上は」とは「信心の上からは」ということで、一生相続する信心とは、口に名号が称えられる行相続であります。私共の称え心からいえば、御恩報謝の想いであります。しかしこれを一声一声の称名にご恩報謝の想いがなければならぬととってはなりません。私共の称名の意義、称名の分斉をいったものであります。即ち私共の「称える」という仕事は、ご恩報謝であると意義づけます。「称える」ことに功はない、称えることを価値あることと考えてはならないということであります。称名は報恩です。

 次に「この御ことはり」とは、信心正因にして称名報恩であるというおいわれのことをいいます。これは本日報恩講のご開山聖人の教判ご化導に従うものであり、ご恩であります。

 「次第相承の善知識」とは、ご開山以来二十四代にわたる歴代のご門主さま方のことであります。今、誤りなきご安心が聴聞できますのは、法門伝持のご苦労が重ねられてあることであります。
 蓮如上人は、御真影さまのお伴をして、あそここことご苦労下され、顕如上人は信長方と斗わねばなりませんでした。天明の大火の折りにも、この度の戦争の時も、ご真影さまのご避難をなさねばなりませんでした。

 悪人正機のご法義は、いつの時代も為政者から疎まれ難ぜられました。二十四代のご門主さまは、ひと方として安閑の日をお過ごし下さった方はありません。心安く「宗祖に返れ」などという前に、一基写瓶に伝持くだされた浅からぬご苦心に頭を垂れねばなりません。

 ついで「この上は」の掟につい。「掟」とは宗門の各種の決まりのことと伺うべきであります。お勤めの節まわしも稽古しましょう。お作法も習いましょう。朝夕の礼拝も怠らぬように、法座聴聞も欠かさぬように等ということであります。宗門における僧侶門徒の勤めのことと心得て然るべきであります。

 さて引き続き非時のお勤め日没の勤行にも連らなって聴聞なされ、宿に下がっては称名相続の中に、ご開山聖人のご恩、事績を語り明朝は早々にお晨朝に参詣せられよ。