第二席(一月十日)

 昨日から修行相成るご開山聖人のご正忌報恩講に、ようこそご参詣なされました。これが最後でお暇乞いかも知れません。ご開山聖人のご恩しみじみと思われます。

 私共の正依の『無量寿経』は、釈迦牟尼仏の出世本懐の経であります。頼みもしないのに、このご法義に出会いました。何という幸せでございましょうか。お称名の内に遠く宿縁を慶びましょう。

 釈尊は法蔵菩薩の五劫兆載永劫の願行をお説き下さいました。流転止むことなき私共を仏にするために、法蔵菩薩は五劫思惟してご本願をお立て下されました。「南無阿弥陀仏と称えられる仏になって、汝ら衆生を仏になさずば正覚を取らじ」とお誓い下されました。

 この菩薩の第十七願に、「我成仏した暁には、恒沙の諸仏を遣わして、汝らが如何なる境涯に苦しんで居ろうとも、わが名号を讃嘆して聞かせるぞ」とお誓いになりました。 それよりこの方私共は、曠劫流転してまだ迷いの世界におります。永の流転の間、第十七願の諸仏は私共に、名号の讃嘆を聞かせて下さった筈であります。然るに私共は、それをまともに聞くことをしませんでした。即ち諸仏は逃げる私共を追い掛け追い掛け、入れ替わり立ち替わり名号法を聞かせて下さいました。「汝がこれから行くべき路は西方である」と指差し下さいました。

 けれども、私共はじぶんの智恵を善きものと誇って参りました。自障障他して、他人様の邪魔まで致しました。折角諸仏のご縁がありながら、空しく過ぎて来たのであります。
 然るに遅ればせながら億劫を経ても、生まれ難き人界に生まれました。多生を経ても、遇い難き仏法に遇いました。その仏法は釈尊出世本懐の法でありました。何とも嬉しく有り難いことでございます。

 父よ母よ、ご先祖さまよ、有り難うございました。ようこそ念仏に遇わせて下さいました。本を言えば八百年の昔、ご開山聖人ご出世のご恩でございます。ご開山様今日はご正忌でございます。お有り難うございました。ご苦労様でございました。

 さて阿弥陀如来のご本願は、衆生を招き入れて成仏せしめる浄土を建立し、そこに衆生を往生させようというのであります。五劫思惟の後、師世自在王仏に申しあげました。

 「世尊よ、私は一切衆生を救い入れる浄土を建立する、清浄の行を選択いたしました」

師仏の言わく、

 「汝、法蔵比丘よ、いまそれを述べよ、人々はそれを聞いて大いに悦ぶであろう」

 そこで、法蔵菩薩は四十八の大願を切々と申し上げました。私共はこれを菩薩の後ろでお聞きします。よく聞いて参ります中に、

 「待てよ、これは大変なことだよ。四十八願はすべて私一人のことであるぞ」

と思われて参ります。
 ついで法蔵菩薩は、兆載永劫の修行をなさいました。菩薩が成仏するための因の功徳が積まれました。その功徳に世って、阿弥陀仏となられました。
 『大経』のここの一段には「令諸衆生 功徳成就」という一文がございます。この文は「諸々の衆生の功徳を成就せしめ給う」ということであります。法蔵菩薩が自らの成仏のための修行の時に、同時に私の功徳も成就して下さった。即ち菩薩の成仏のための功徳は同時に南無阿弥陀仏と仕上がったということであります。

 全部のお徳を南無阿弥陀仏に篭めて仕上げられたのであります。即ちお六字の功徳を不可称不可説不可思議の功徳と申します。五劫思惟の時に選択されたのは、浄土建立の行でありましたが、それはそのまま衆生の功徳として回施される行になりました。即ち五劫思惟の選択は名号「南無阿弥陀仏」」でありました。

 このお六字を頂くというご法義について、参詣の諸人、異口同音領解を出言せられよ。

領解出言

 ただ今は自分の領解を出言せられましたが、心中の味わいの通りならば誠に目出度いお領解であります。

 この領解はその中を安心、報謝、師徳、法度と分けることが出来ます。一番大切なのは安心であります。信心を本とすると申します。信心とは名号が本体であって、名号が私の功徳として宿っていることであります。

 安心の安は、「安置する」「据える」という程の義、即ち安心とは、こころの据え振り心の座り様という意味であります。従って「安心が違う」とは言います。信心は如来他力のご回向でありますから、「信心が違う」とは言いません。

 安心の中で肝要は「御たすけ候へとたのむ」と言う言葉であります。ご開山聖人は「如来の信楽」ということを教えて下さいました。五劫兆載の願行は、一願誓うも衆生のため、一行励むも衆生のゆへ、この積功累徳の願行を、衆生の処に南無阿弥陀仏と成就して、摂取不捨、如来様ご自身が、救いについて疑いがない、「わが願行に落ち度はない」と、如来のお手許が金剛の信楽であるというのであります。この如来の信楽の心を言い換えますと、「われをたのめ」如来さまが「我をたのめ」と仰せ下さるお心が声になった。

 南無阿弥陀仏、南無の二文字は「たのめ」の言葉。如来様の側では南無の二文字は「たのめ。」これが衆生に渡った側でいえば「たのみ申して候」。然らば「阿弥陀仏」の四文字はいずれの語に当たるか、それは「御たすけ候へ」であります。如来の願行の側でいえば南無阿弥陀仏は「たのめ、たすくる」というお名告りであり「汝、一心に正念して直ちに来たれ、われよく汝を護らん」と言う喚び声であります。

 ご開山様は「召喚の勅命」とお示し下さいました。これを私共の側のお領解でいえば、「たすけたまへとたのむ」ということになります。「たのめたすくる」が曠劫以来の先手をかけた如来の信楽でありますので、それが私一人の信受の側では「たすけたまへとたのむ」ことになります。

 「たのむ」とは、お助けを請うもの、祈るものではありません。もしそれ如来の先手をかけた「御たすけ」に不足を思うならば、それが疑いであり、自力諸善の雑行や凡夫自力の心を用いることになります。その自力を拒否するというお領解が、「もろもろの雑行・雑修、自力の心を振り捨てる」という語であります。

 「たのむ一念の時、往生は一定」とは、平生に往生成仏の業事が成弁・決定するということ。信心正因、平生業成ということであります。

 さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え且つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の称、即ち称えるということが報謝であるということであります。

 称えるのは私、称えられるのが名号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のするで、これはご恩報謝。称えられる名号は、如来回向の正定業であります。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません。本願に「乃至十念」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。

 師徳とは、ご開山聖人ご出世のご恩、歴代善知識さまのご恩と出言しました。更に出言は法度、掟に及びました。

 「このうえの称名」から最後まで、総じてご報謝であります。今日はご正忌、思いますことは、ご開山聖人がこの世においで下さいましたので、他力念仏の法にお遇い出来ました。私共にとっては、遠く八百年昔のお方ではございません。今日も生きてご影向のご開山さまであります。「一人居て喜ばば二人と思え、二人居て喜ばば三人と思え、その一人は親鸞なるぞ」と私の隣に居て下さるかけがえのないお方であります。ご恩でございます。

 ご安心を誤りなく相承下された歴代のご門主さま方は、矢玉の下、火の粉の下をくぐってのご苦労でございました。

 「定めおかせらるる御掟」とは『御文章』には三ヶ条、八ヶ条の掟などとありますが、宗門の決まりは時代と共に少し変わりますから、法度の一段は宗門の決まりと心得て、これを守って行くということであります。

 或いはご法座の作法、或いは総代役員の勤め、その他の規則、僧侶・門徒の心掛けをも含んで「守ります」と出言いたしました。総てご恩尊やの思いで生きて行くご報謝の生活であります。

 引き続き非時および日没の勤行に連なり我が宿に帰っては、ご開山のご恩を語り明朝は早々と参詣せられよ。