第一席(一月九日)

 お待ち申して居りました。ご開山聖人のご正忌報恩講でございます。今日からの一七日(いちひちにち)の間は、殊にお称名の声ほがらかに参詣致しましょう。

 ご門主さまには、不肖倫雄に改悔批判のお手代を仰せ出されましたこと、重大なお役目恐懼に存じます。瑕瑾(かきん)なきを期してお勤め申します。

 私共のご法義は『浄土三部経』のご法義であります。この『三部経』をご開山聖人のご化導に従って、お領解してゆくのが私共であります。この『経』は釈迦・弥陀二尊のご法義を説示するものでありますから、私共の大切な仏様はお釈迦様・阿弥陀様の二尊でございます。

 その釈尊が教えて下さるには、私共の歴史は大層古い相であります。曠劫という大昔、時間の果てから始まりました。私共は煩悩具足、罪業深重でありましたので、死んでは生まれ死んでは生まれして、六道という迷いの世界を流転輪廻して来たということであります。その中でも地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)を経巡って来たのであります。

 この流転の中で人間界に生を享ける事は大層珍しく、希有なことでありますので、この度は享け難い人界に生を享けて幸せであります。此処に於て釈尊の教えを聞くことが出来ました。その仏語によって曠劫流転の事情を聴聞しましたが、私共の智恵では分かりません。私共は両親に生まれて私が始まり、息が絶えて終わると考えていました。仏語を信受(しんじゅ)することによって、私共の過去を教えて貰ったわけであります。人間に生まれた事は希有に有り難い事、仏法に遇うことは更に幸せなことであります。

 釈尊は法蔵菩薩の事を説いて下さいました。法蔵菩薩は流転窮まりない私共を、この迷いの世界から解き放って下さろうと考えました。私共自身は迷いを迷いと知りませんので、別してこの世界から出離れて行きたいとも思いませんが、法蔵菩薩は、私共は迷いの中に満足しているべきでない、一人残らず覚りの仏になれるものと考えられました。
 法蔵菩薩は我ら衆生を、智目行足欠けたる者、何れの行も及び難き身と見抜かれました。即ち迷界を出離れる出離の小縁もない身であることを基礎とし、そのような衆生の成仏の法について、五劫という永い間、思惟を凝らされました。

 一体、覚りに進むには修行の功徳を積まねばなりません。積み集めた功徳を因徳として、それに相応する果報が得られるものであります我ら衆生には、蓄えた功徳はなく行を求めても何一つ出来ないのであります。
 その故に、菩薩は五劫思惟の答えは総ては弥陀仏力をもって救うという、救いの仏になろうということでありました。

 これが即ち第十八願であります。如来は南無阿弥陀仏となって、衆生に信受され称えられて、衆生を西方浄土に往生させ、無上の覚りに至らしめようというのであります。これを私共の側から申しますと、名号を信受し称名して、浄土に往生するということであります。

 このような信受について一同異口同音に領解出言せられよ。

領解出言

 只今各々出言せられましたが、口の出言、心の味わい異なりなくば、誠に麗しいお領解であります。

 出言の領解を案ずるに、安心、報謝、師徳、法度の四項目に分けて考えられます。このお座は改悔批判のお座でありますが、悔批と領解とは同じ事であります。領解に誤りがあると教えられたら、早速に改めるべきであります。

 初めに安心の段に「諸々の雑行・雑修」ということは、称名以外の雑多な諸善をつとめながら、これを自分の善根として仏に回向しようとする事であります。自力諸行をして、その功を仏さまに回向しようとする心が自力の心であります。

 これに対して他力信心の人の行業を正行・専修と申します。「自力の心をふり捨てて」とは、自分の思うこころ考える智恵は全く煩悩の中にあるものであって、価値のないもの、雑毒のものとして全く用いてはならないということであります。凡夫の考えることは総て用いないで、只々釈迦・弥陀二尊の仏語を信受いたします。

 弥陀如来の本願の仰せは、自己を全く用いずして「ただ弥陀の名号を信受せよ、如来の必ず救うというお計らいに任せよ」というものであります。如来の仰せに従って、己の総てを如来に任せることであります。これを「後生たすけたまえとたのみ申す」と出言したのであります。如来の方から先手をかけて、「助かる術のない汝を、この弥陀はたすけるぞ」と言われているのに対して、心身を挙げてお任せするということを「たのみ申して候」というのであります。「たすけさせてくれよ」「われをたのめ」とある仰せに「それではたすけなさいませ」という意味で「たすけたまえとたのむ」と出言したのであります。以上は安心の一段でありました。

 以下の報謝、師徳、法度は全部合わせてご報謝であります。即ち全体を報謝というところを分けて報謝、師徳、法度と申します。
 「この上の称名は、ご恩報謝」とは、「称名を往生の種になると思うなよ」という心持ちを含みます。
 称名が報謝であるとは、称名の称が報謝であるというのであります。称えるという私の仕事について報恩というのであって、称えられる名号は報恩ではありません。

 南無阿弥陀仏とは「ありがとうございます」という意味だと言ってはなりません。南無阿弥陀仏は、何時何処で聞いても称えても、「そのまま来いよ」のお喚び声であります。

 次に「この御ことわり」からは師徳、即ちご開山聖人のご恩を出言しました。「この御ことわり」とは、前に出言した信心称名の法義のことであります。

 ご開山さまは九十年に亙って、大層にご苦労でございましたから、何処を取り出してもご恩でないことは一つもありませんが、何と言ってもご法義そのもののご化導のご恩であります。ご開山さまご苦労様でございました。和歌の浦わの片尾波のように、日毎夜毎に御影向と存じ、お伴申す心持ちで仰ぎ参らせております。

 「次第相承の善知識」とは、歴代のお門主様方を指します。八百年、二十四代に亙る伝持のご苦心は大変な事でありました。一例を出せばご安心の正邪につきお心を悩まされ、心血を注いで賜ったご裁断の御書によって、末世の我々に誤りないご安心をお伝え下さいました。他のご門主様方も、法門を一基写瓶(いっきしゃびん)、大切にご化導下さいました。
 法度というのは「この上は定め置かせらるる」以下の段であります。昔、掟のことを法度と申しました。宗門の決まりを守って、信仰生活をしますという心持ちですから、ご恩報謝の心怠りなく一生を生きますというのであります。  「定め置かせらるる御掟」とは様々に有ります。勤式の作法、お給仕の仕方、年忌法事の事、学問研鑽など、僧侶門徒の決まり心掛けを守るということであります。総て大慈大悲の如来さまにお仕えをするということでありますから、皆ご報謝であります。お称名諸共、一生涯は何を致しましても、ご恩尊とやと生きて参るのであります。

 このお座に引き続き非時及び日没の勤行がありますので、これに連なり我が宿に帰る道中から、称名相続ご開山聖人のご苦労を物語っては夜を明かし、明朝は早々にお晨朝に参詣せられよ。