六十八 汝を捨てず 「九条 武子」

すてられて なお咲く花の あわれさに
またとりあげて 水あたえけり
             (九条 武子)

いのち
 キンセンカという花は、斜めにしておくと一晩の中に花の首をもたげて上に向いてしまう。さて仏前にそなえる時に形がわるい。しかし半日もするとちゃんと上向きになる。菜の花もそうなる。しばらく用いてすてる。菜の花などは、上の方のつぼみが残っていると、横にしてすてたあと、上を向きながら咲き続ける。あわれである。すてられてもなお咲く花のいのちがいじらしい。すてたのは人間である。人間の目にかなわぬと捨てられるのが衰えの花である。でも花自身、捨てられたくはない。まだいのちの火をとぼし続けていたい。花には花の想いがある。花の想いは、花自身にとってかけがえないものである。捨てられて喜ぶものは一人もいない。

不捨
 衰えたる者が捨てられてゆく。力なき者、弱き者が捨てられてゆく。悪人が捨てられる。捨てられた者にも想いはある。世にもてはやされないでも想いは一杯華やいで内にある。その秘めた想いに涙して取り上げ希望を与え力づけるのが、本当の愛である。摂取不捨の慈悲はこれである。五劫思惟の心である。私は忘れられていない。

(昭和四十一年五月)

六十九 おらあ とろいだで 「足利 源左」

竹や まあ いなあいや

竹はなあ この世の きりかけを すまして
参らしてもろうたわいの おらあ とろいだで
一番あとから 戸をたてて 参らして もらうだがよう

              (足利 源左)

随逐
 鳥取県山根の源左の次男は二十一才の時、気が狂った。長女を失い水害で田を失ったショックからである。松の木にのぼったりして、人をてこずらせた。狂ったまま歩けば、父源左は、その竹蔵に何もいわずに後について歩いた。日暮れになった時、竹や、もう往のうや・・・竹や、もう帰ろうよというのである。竹蔵は素直に帰る。親である。親子一緒に気狂といわれても親なのである。
 慈悲、随逐すること犢子(とくし)の如し。親牛のあとつく子牛の如く子のあとに随(したが)い逐(お)う、親である。その後、竹蔵はすぐなおって十一人の父になった。そして源左が八十才の時、竹蔵は四十九才で先立っていった。この年、大正九年一月には、長女ゆうも、嫁ぎ先で死んだ。五十八才。源左が悲しんだであろうか。


 悲しい。竹には竹の人生がある。竹は自分の分を早めにすまして、お浄土に参らしてもらった。長女のゆうも、参らせてもらった。妻くにも十三年前にいった。弟二人、妹一人、先立っていった。この源左は、のろいのでまだ残っている。最後に戸締まりをして、旅に出る身であろう。

(昭和四十一年六月)

七十 非常識 「臼杵 祖山」

除かるる 身にしあれども み仏の
救いたまへる めぐみ尊し

             (臼杵 祖山)

平均
 臼杵先生といわれて多くの人から慕われたこの方は、昭和二十三年七十六才で亡くなられました。この方を知っている方も現に多い。私の兄二人は、この師の許で、中学五年間をすごしている。大分県に生まれ、法隆寺の佐伯定胤師に学び、ある時は防府に住み、大分県中津で終わられた。一生、妻なし。数人の書生をおいてのくらしは、

汝は薪をとれ 吾は水をくまん (広瀬 淡窓)

という風であった、と私の兄はよく話した。
 かねて一団の人々とお経の稽古をしたことがある。たとえば、お経本の頂き方、頂く時なかなかうまく出来ない。一回目では、百人中、九十人がちがう。二回目で六十人がちがう。実際にやってもらうのである。三度目でも四十人がちがう。四度目でも二十人がちがう。八回目でまだ十人がちがう。もうこれで、その練習はやめる。するとその十人は、正しいのを覚えないままである。

以下
 世の中は、常識の人、平均的水準の人が主である。十方三世の諸仏は、平均以下を切捨て給う。平均以下、最後の一人を切捨てない、弥陀の本願。親をも殺しかねないこの身、お経本の頂き方、八回けいこしても覚えぬこの身。他力は常識とはちがう。

(昭和四十一年七月)

七十一 罪の沙汰無益 「法然上人」

一、 さけのむは つみてに候か
答  ま事には のむべくもなけれど この世のならい

一、 女の ものねたむことは つみにて候か
答  ただよくよく一心に 念仏申させ給え
               (法然上人)


 信仰の言葉はその人の心の置き場を考えて受けとらないと誤る。同じ言葉でも心がちがい言葉がちがっても心は同じということがある。ある人が、本願をきき念仏申しているが、ありがたくも、うれしくもないといった時、親鸞聖人は、わしもそうだ、こんな奴だから本願を立てられたのだと仰せられた。法然上人は、同じような問いに対して、まことによからぬことにて候と仰せられた。酒をのむのは罪か。勿論、罪である。いけません。しかしそんな私どもを救う本願である。本願のゆえに大きな顔で酒をのむかい。いけません。世のならい、凡夫のならい、つみ深きわざなれどこらえきれないで、またも酒に手を出す。この上は、人間のありさまにまかせて世をよごす。真宗凡夫の日常生活の心。

称名
 酒をのむのは、世のならいながら罪。女のねたみはいかがと問うと、法然上人はきびしい。われらの罪をあげつらってもきりがない。また罪の黙認を求めてはいないか。罪のせんさくを止めよ。むしろ向上に向って歩め。お念仏を申せ。懺悔(さんげ)に酔うな。懺悔に救いはない。向上の道を歩めと上人は仰せられる。

(昭和四十一年八月)

七十二 他力の信心 「憶念寺 良雄」

一、念仏は 申さねばならぬと はげむ人に
  自力あり 他力あり

一、報謝 つとむれば快く 怠れば心地あし という人に
  自力あり 他力あり
           (憶念寺 良雄和上)

信仰の深化
 良雄和上は、百三十年前に六十二才で亡くなられました。福井県のお東の御住職でした。人々の信仰の外と内とに、深く思いをめぐらした。御法義を弘通(ぐづう)することに細かく心を用いた。
 そして人の心は外にあらわれた言動でしかわからないことを、本としながら、また外にあらわれた言動は、全く同じであっても、心がちがうことも考えた。真宗念仏の人は、いかに生きるべきかを問題とした。
 考えれば信仰はお育てに身をまかせる。すなわち信仰は深化する。深化するに従って心がかわる。ある場合、外形の行いや言葉は見事な他力の姿であり、それだから名僧からほめられ、実は心の自力の人もある。だから人は、自分の言い方や行いの心は、他力の考え方を反省するがよい。
 功徳という語がある。自分の功徳にするか、功徳のまね事をまじまにさしてもらうか。
 他力の信仰は、その深化の進みに従ってはじめて自分の功徳と思い中途で一切の功徳をなげ出して、名号の独用(ひとりばたらき)とし、後にそれ故に、及ばずながら如来のよしと思し召すことをさせてもらうようになる。お聴聞の上は、仏恩(ぶっとん)の深重(じんじゅう)な事を思って人の批評に拘わらず念仏申せ。心よりも行いである。

(昭和四十一年九月)

七十三 割れた尺八 「報専坊 慧雲」

久しく妄心に向って 信心を問う
断絃を揆して 清音を責むるが如し
何ぞ知らん 妙微梵音のひびき
劉亮 物を悟らしむ 遠くかつ深し
            (深諦院 慧雲和上)

割れた尺八
 この八月、江津市(ごうつし)の小川さん方を訪ねた。昨年四月に訪ねたのが、四度目であった。小川市九郎さんは、一昨年五月、八十五才で亡くなった。
 いつもたくさんの話をしてくれた。私は尺八を吹きますでナ、ではじまる話。 ある時、愛用の尺八を縁からおとした。石にあたって割れたので、鳴らなくなった。シュロ縄でしめても鳴らぬ。ああもし、こうもする。鳴らないでおると、ニイさんが、おとうさん割れた尺八は鳴りません。私が浜田から買うて来ましょうと、いいましてナ。
 新しい尺八は、まことによく鳴った。目が見えず、歯のない者の吹く尺八は、なんぼ浜田でもなかろうと思ったが、ニイさんがいいのを買ってくれたのである。ニイさんとは、あとつぎの小川静雄さんである。
 ニイさんは、いいことを言うてごした。割れた尺八は鳴りませんてナ。鳴るかと思うて、ああもし、こうもしましたがナ。

梵音(ぼんのん)
 久しいこと、信心信心といって、わが心に計うたが、絃(つる)の切れた琴を揆(はじ)いて、いい音がせぬと腹立てたも同じ。必ず助くるの呼び声聞いてみりゃ用意の出来たる呼び声一つの尊さよ。

(昭和四十一年十月)

七十四 うその皮 「浅原 才市」

わがこころ みえもせず
りん十にみえるこころが をにとなる
あさまし あさまし
あさましいのも をそのかわよの
かわかわ をそのかわ をそのかわ をそのかわ
をそのかわ をそのかわ
あさまし あさまし あさましのも をそのかわ
             (浅原 才市)

 才市は自分の心にごまかしを許さなかった。罪の深い心だとか、あさましいと言っても、なかなか芯からではない。ただ臨終に、わが身をおいて考えると、ぬきさしならぬことがわかる。
 人生の最後、ごまかしの効かぬ時、生涯のごまかしの歴史、その生涯中かけて育った心が迫る。平生は、いい加減な心ですごして来た自分の心がわかる。身に従うものは、後悔の涙のみ。

虚仮
 実際あさましい心である。しかし、あさましいという時、なおいい加減な心である。あさましいというのも、うそですわね。やっぱり、うそですわね。
 ああ、われらには真実の心はないのであろうか。仏さまの光明に照らされて、わが身のあさましさを知らせてもらうというが、ほんとうかナ。
 真宗は、われわれに宗教的反省を要求しない。真宗には、常識的懺悔はない。懺悔も反省も所詮うそだ。うその皮だ。懺悔もうその人間を五劫思惟された真宗=他力を聞く一つ。

(昭和四十一年十一月)

七十五 心の豊満 「九条 武子」

栗鼠のごと 心の中を かけまわり
かけまわりゆく 師走の月日
              (九条 武子)


 来年は怠けようと思う。俺はことし何をしたのか。ことしのはじめ新年の朝、三百余日を所有していた。今三百余日は流れたか。
 私は高野豆腐を好きでない。いま師走、味のない高野豆腐をかむような、悔恨があるのみ。年のはじめの心から、年の終りの心、ただいま一向豊かになっていない。次から次へと雑用が駆けすぎて行って、呆然と師走の日がある。
 年のくぎりを決めたのは誰だ。季節という年の瀬というくぎりの前で、ただ心が空まわりをする。雑用の空まわりは、あわてたリスのように、リズムも法則もなくかけまわる。無駄に師走の日が過ぎようとする。
 心まずしき者の中では、仕事が通過するだけで、肥えてゆかない。心ゆたかな者の中では、静かに湛えた心が肥る。


 来年は怠けようと思う。仕事があわただしくて、心が呆然とするより、仕事がひまであって、心が豊満でありたい。お金がたくさんあるよりも、心が沢山ありたい。身が動いて心が怠けるよりも、体が静かであって、心が生きていたい。
 とは申せ、いま師走。急用と悔恨の心がかけまわる。悲しき凡夫の年の暮れ。諸行無常、命の残りは少いのに。

(昭和四十一年十二月)

七十六 中ぐらい 「小林 一茶」

我春も 上々吉ぞ 梅の花
                (小林 一茶 四十九才)

目出度さも ちゅう位也 おらが春
               (小林 一茶 五十七才)

上々吉
 明けましておめでとうございます。昨年まですっと会報を愛読されてありがとうございました。今年もお読み続けて下さい。
 新年は快いものでございます。年々に迎うるお正月で、することも変りはないが、年々に想いはちがう。ちがうのが本当でありましょう。
 人の心は進歩せねばならぬ。しょうもない正月もあれば、よしやるぞという正月もある。晴々と新年の気満つる年もあれば、晦日とどれ程のちがいがあると思う年もある。  意気ある男の若い時、一年の計は元旦にありというから、仕事は順調だぞ、今年の出足はいいぞ、何と目出たき正月かな、と張切るものである。
 一茶の四十九才も、そうであった。よりより魂のかびを洗い、つとめて心の古みを汲みほす鋭い精神であった。

中位
 一茶は五十才を越して、真宗を聞いた。そして育てられた。

吹けばとぶ 屑屋は 屑屋のあるべきように

門松も立てず あなた任せに むかえける

 あなた、すなわち如来様である。一茶は、上々吉と喜ぶ心から、中ぐらいをよしとする心に育ったのである。上等をよろうとすると、大抵失敗する。中ぐらいをやろうとするがよい。己を知るというものだ。

(昭和四十二年一月)

七十七 亡き子は知識 「高楠 順次郎」

愛児を慕うのは 人情である また同時に 獣情である
ただ 本能の命令によって 動いたまでである
           (高楠 順次郎)


 高楠順次郎先生は、高名な仏教学者でありました。明治四十一年二月、四才になる男児を亡くしました。この大学者も一週間の看病をしながら思う。
 病児の眉をしかめ、のどを鳴らすのは、まるで大将軍の号令のように感ぜられる。待ってくれない。一刻も待たせまいとする。百ケ日が過ぎ、墓に参るのが楽しい。同じ年頃の子供を見ても、わが子の残したおもちゃ、洋服を見ても思い出す。
 愛着はなかなかこの手では切れない。早く忘れる為に、記念の品を捨てても、忘れまいとして、写真を残しても、それが日が経つにつれ、次第に忘れてゆく。たまに思い出して泣くのがかえって楽しみになる。子を慕うも、忘れるも、所詮犬や猫の親とかわらない。
 生きている子を忘れる人もある。現代。亡き子を忘れた親は少ない。親を忘れた子はもっと多い。


 子供は可愛いい。思わず抱きあげ笑顔をたのしむのが親である。親、わたしは子供が可愛くなくても、育てるだろうか。心もとない。
 子は死に、子は忘れられる。が、子の死によって得た教訓は、永く家庭に生きる。愛児をして、死せざらしめる。子を、親を泣かせた子から、親を教えた知識の子として、生かすのは御法義である。高楠先生の愛であった。

(昭和四十二年二月)

七十八 愚痴の妙薬 「浅原 才市」

ぐちがをきたら ねんぶつ もをせ
ぐちの明やく なむあみだぶつ

はらがたうたら ねんぶつ もうせ
ぶつは ひのての みずとなる
なむあみだぶつ
          (浅原 才市)

言う
 才市の信境は、私にとって遥かに遠い。極く深い信仰の人々は遂に信仰あさき者と外観が似てくるのであろうか。他力の信心を内心深くたくわえて、外相にその色をみせずということは、芝居せよ、とうのではない。そうなる、ということである。
 愚痴の妙薬はお称名だ。腹立ちの火がもえたら、お称名の水で消せなどということを、中くらいの寺参りや、聞きかじりの老人が人に言うて聞かせるのをきく。
 言って聞かせる形で、真宗を手に持って、言うことが真宗だとしている。手に持って居、口に持って居る程度である。お説教でも刷りものでも、そのような生活指導の言い方が喜ばれる。才市の信境は、もっと法悦が深いようだ。

讃(ほ)める
 ぐちの妙薬だから、称えなさい、というのではなくて、称えると愚痴の心がはれるとは、お称名はすばらしい、と讃えているのである。怒りの火を消す水の役を果すお称名をほめている。
 生活態度の表面を正すのが、真宗ではない。聞く一つである。生活態度の心の本が育てられる。行いと言葉の背後に、世間があるか、如来があるかである。

(昭和四十二年三月)

七十九 恕しこそ救い 「聖徳太子」

心のいかりを 絶ち
おもてのいかりを 捨て
人のたごうを 怒らざれ
          (聖徳太子)

怒り
 おはなはんというテレビジョン放送劇は、ながいことたくさんの人々に見られた。劇中のおはなはんはまことに立派な人物として、画かれていた。この放送を喜んだ人の多くは、自分もこの人物のようにありたいと思って見たとのことである。
 私はそのことが、好かんのである。おはなはんの言行を支える精神が示されなかったことは、問題にされていない。おはなはんには、宗教がない。心に腹を立てず、顔にもしかめ面をせず、人を責めないというのは、おはなはんの態度でもあるが、聖徳太子憲法の心でもある。
 しかし、太子の憲法には、それを支える精神が示される。そしてその底は深い。我も彼も、ともに凡夫である。外なる言行が、心の努力で飾られているか、信仰の行動であるか。人を相手にするか、如来の中に、あるかで大違いである。

恕(ゆる)し
 それにしても近頃は、怒りがほめられすぎる。政治や社会について怒りが大手をふってまかり通る。新聞の投書にも記事にも、いかりがよきことのように述べられる。それが正義のつもりである。
 実は無責任な怒号である。最も大切で、だが難しいのは、恕しである。人を怒る資格はない。恕しこそが救いである。

(昭和四十二年四月)

八十 鑑真和上 「松尾 芭蕉」

若葉して おん眼のしずく ぬぐわばや
             (松尾 芭蕉)


 初夏のよさは新緑である。葉がやわらかいことを知っているので、緑までやさしい感じである。したたるような緑という。新緑のこの頃は、全体が何かやわらかくみずみずしい好季である。鑑真和上のお像(すがた)も、唐招提寺の若葉の中で、殊に生き生きと拝されたのであろうか。
 鑑真和上は支那の人である。約千二百年前、日本に招かれて海を渡りかけては嵐に遇って引き返し、五度失敗し、そのうちに眼、盲いて最初から十二年目に日本に来着し、日本仏教を指導した。日本に住すること九年にして、七十五才で寂された。いかにしても、海を渡ろうとしたこの方の意気に感じないものはない。盲目とは、この上もない不幸である。その不幸な盲いの和上は、遂に日本に上陸した。その時見えない目に涙をにじませて、この国の土を踏みしめ景色を想うたに違いない。


 鑑真和上をして、うまずたゆまず、日本へかり立てたものは何か。一個の仏者、鑑真の衆生に仏法をという深い慈悲ばかりであった。
 おん眼のしずくは、和上の慈悲の涙。盲目からにじみ出るのである。やわらかい若葉でぬぐってあげよう。お辛うございましたねエ、和上さま。

(昭和四十二年五月)

八十一 行動の人 「足利 源左」

念佛にや しいらはないけつど
人間が しいらだがのう
しいらでも 称えなんすりや 実がいつでのう

             (足利 源左)

称名
 源左さんは昭和五年二月二十日、八十九才で死んだ。身長五尺四寸、手は特に頑丈であった。源左の早起は有名であった。一時か二時におきお正信偈をあげ、御文章を一つ読んだ。彼の声は美しかったという。お念仏は柔らかく澄んだ声で、鈴のなるように響いたという。
 智頭(ちず)の小学校で正栄寺のご院家さまが、子供達にお話をなさったことがあった。聖人のお得度のお話で、あすありと思う心のあだ桜、という歌が話された。子供達と一緒にきいていた。源左は大きな声で、なまんだぶ、なまんだぶ、と称え出した。子供達はどっと笑った。
 田中國三郎校長とご院家さまは、子供達をきつく叱った。叱られる子供達はしゅんとした。その時また源左は、なまんだぶ、なまんだぶ、と称えた。生徒はまた笑った。先生は叱った。源左は称えた。止めなかった。生徒はますます笑った。ますます叱った。ますます称えた。そうして会はおわった。学校はお念仏がはやった。
 源左の師匠寺は山根寺の願正寺、現住職衣笠一省師が集めた源左の言行録がある。この本は何度も読むがいい。源左は行動の人であった。行動には他力の深信(じんしん)があった。真実の信心は、必ずお称名を伴う。

(昭和四十二年六月)

八十二 案ずるな 「浅原 才市」

わしのこころは くるくるまわる
ごをのくるまに まわされて
まわらばまわれ りん十まで
これからさきに くるまなし
とめてもろたよ なむあみだぶつ

           (浅原 才市)

業火
 お念佛の信仰とは、一体いかなるものか。どうあるべきか。そりゃあ難信の法であると言われるので、わたしごとき者は、そう簡単にはっきりはせぬだろう。お聴聞をかさねないわけではない。どうもならないではないか。しずごころになりもせず、ごく明朗にもならぬ。才市さんのうたにこんなのがある。

しゃばの宿も また暮れた 浄土の宿と なるぞ嬉しき

 今日の一日もあれこれと心はめまぐるしくまわりまわりおわった。煩悩の火車ではある。お称名したとてとまりはしない。所詮これ、もの想い狂う生涯であるか。お聴聞をかさねたらすこしはましになるはずじゃと考えるのはあやまりであろうか。   決定(けつじょう)  まかせるということは、これから先について、あれこれと案じないということである。もって来た業がおわらねば、浄土には参られぬ。その業は、悪業のみ。承ると如来はこのどうにもならぬ業の中に住み込み給うて、もう苦しみの待ちかまえたかなたへの縁を、断ち給うという。案ずること勿れ。

(昭和四十二年七月)

八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」

まことに 仏恩の 深重なることを 念じて
人倫の哢言(ろうげん)を 恥じず

              (親鸞聖人)

仏恩
 小さい時私は大分県の田舎の寺から久留米の明善校に入学して、その近くの明善寺に五年をすごしました。一年のうち夏休みに一週間ほどわが家へ帰ることを許された。父が死んだのは四年生になった春であった。久留米から豊後森まで汽車賃は二円たらずであったと思う。帰郷の日がみちて久留米に出発する日、父は五円くれるのが常でした。
私の前に一円札三枚、五十銭貨二つ、十銭八つ、五銭二つ、一銭貨十個をならべ用心して無駄遣いをするなと申しました。毎度でした。私はわが家は貧乏であり、父のくれたお金は小銭をさらえて出した貴重なものだと思い兄弟に対しても私がお金をたくさんもらうことをすまないと思い大切に使いました。父はそのことにふれずに死にました。今、自分が中学生である子をもって、小銭をやります。説明をしませんが、小銭を出すには、わが子に対していろいろのことを思っています。

人倫
 親は子に対して釈明しません。何と言ってもだまって子の非難に耐えています。父の態度を子に説明するのは、育児評論です。父はだまって耐え、子の成長を見守るだけです。

(昭和四十二年八月)

八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」

信心の人も 煩悩がやまぬ
以前より ひどいこともある
これは 大寒のあとの 余寒のような ものじゃ
やがて 次第に 暖かくなる

          (七里 恒順和上)

煩悩
 博多萬行寺に住した七里和上は新潟県の生まれ。明治二十六年、六十六才で亡くなられた。十一才得度。十四才、正念寺・僧郎和上門下に一年。光西寺・宣界和上門下に五年。大分県浄光寺・月珠和上、教順寺・宣正師の下に二年。長久寺・慶忍和上門下三年。満福寺・南渓和上門下二年。三十才、萬行寺に入寺された。寺はさびれていた。
私塾を開いて門弟を育て、各種の会を起こして、法義を引き立てられた。明治八年和上が本山の重役をしておられた七月萬行寺は焼けた。和上の電文に曰く、ヒトト ホウモツブジナレバ ヤケテモヨシ シンパイニオヨバズ ワタシモスグカエル それより和上は、博多の地をはなれないように心がけつつ、九州全体にわたって信仰をすすめられた。和上はお称名たえぬ行儀堅固な方であった。信仰とは、立派な人になるのだと思っている人が多い。しかし信仰に入っても煩悩がやみはしない。

懺悔(さんげ)
 今年は残暑がきびしい。きびしいと言ってもやっぱり涼しさがくわわってくる。
 秋になった。案ずる前に、お育てにまかせるがよい。起る煩悩の下から改悔さんげの涼しさが出る。触光柔軟(そっこうにゅうなん)、やさしい心が恵まれる。

(昭和四十二年九月)

八十五 おぼえている 「九条 武子」

片すみに 追いのけられて それのみか
忘られはてし われにやはあらめ

               (九条 武子)


 毎年九月になると新聞をはじめとして、世間さまざまに老人を思い出す。敬老の行事があり、年寄りにやさしい言葉がはやる。十月からあくる八月までは忘れられている。それでも九月に思い出してもらえるのは、敬老の日を決めてある政治のおかげであろうか。老いてゆくということは、世の片すみにおしやられてゆくということであろうか。老人はさびしいのである。
 片すみにおしのけられるということは、さびしいことである。それでもおぼえていてくれる、ということはうれしい。忘れられてしまう、ということほどおそろしく、つらいことはない。つまらぬ者でございます、とは申せ、あなたは誰でしたかね、といわれる程、悲しいことはない。


 おぼえているということは、最後の愛情である。単におぼえているだけでなく、真中においてちやほやしてもらいたい。ところが、ちやほやする人より、じっとおぼえている人の方が愛情は深く大きいのではないか。
 おぼえているということは、最も深い愛情であろう。おぼえているぞという呼び声がうれしい。

(昭和四十二年十月)

八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」

恒順よ
お前は 排仏論を 心配するが
日頃 親しむ 竜樹 天親の 大論があるのに
平田の学説に 恐るることはなかろう
それより 僧侶 同行の 道心なきを おそれよ

                  (南渓和上)

他宗
 楳渓南渓(うめたになんけい)和上は大分県萬福寺に住し、明治六年九十一才で亡くなられた。七里恒順(しちりごうじゅん)和上は福岡・満行寺に住し、明治三十三年六十六才で亡くなられた。南渓和上の弟子でありました。明治のはじめの排仏論は、平田篤胤の神道学説が依り所であった。恒順和上は、この学説をやっけようとした。南渓和上は、偉い立派な御当流のお聖教を頂きながら、外の学説に用があるのか、と叱る。他宗に用はない。念仏は無碍の一道ではないのか。
 新しい宗教が法華経を依り所としておこって来たので、真宗の人々が大急ぎで法華経を学びはじめた。お三部経に何の不足があるのか。大経は真実の教ではないのか。

自宗
 靖国神社を国のものとするという動きがある。日頃お聖教を読まない人々が、靖国神社を論ずる。どんなことになろうとも手に数珠はめて靖国に参って、お念仏称えて、おじぎをしようではないか。お念仏をさまたげる程の悪なきゆえに。勿論、衣を着て、正信偈をあげてもいい靖国にしてほしい。一番大切なのは、自宗である。

(昭和四十二年十二月)

八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」

目もみえず候 なにごともみな わすれて候
ひとなどに あきらかに まふすべき身にも あらず候

                 (親鸞聖人 八十五才)

お講
 あけましておめでとうございます。お東の句仏上人の句に、

歳旦の 目出たきものは 念仏かな

とあります。この新年は、お講の月であります。親鸞聖人の一生は、別に雪の中のみではなかったけれども、雪が降ると忘恩のわれも聖人を思います。お取越しを雪に降られて、モンペ長靴で家々をまわりながら、昨年十二月ありがたいことでした。その御開山さまも老いきわまって、目もうすく、もの忘れの方になられました。今、御老人をおもちの方は、老後の御開山さまのように思って、お仕えなさるがよいでしょう。この衰えの聖人は、親鸞は弟子一人ももたず候の生涯であった。すなわち人に明示、断言する程の権威者ではない、と言われるのである。それは世にある謙遜ではない。本当にそうなのである。

忘れる
 真宗のお説教は、ぼんやり聞いてすぐ忘れるのが上等である。これは本当であり、とても意味が深い。仏教の道の大切なことは、忘れることだ。忘れようとして、忘れられるものではないから、忘れることが、一番むつかしい。人を金を功績を失敗を憎しみを教義を忘れられずに苦しむ。
 聖人は忘れて救われていった。

(昭和四十三年一月)

八十八 おぼつかない足 「九条 武子」

おおいなる もののちからに ひかれゆく
吾が足あとの おぼつかなしや

                (九条 武子)

無優華
 二月七日は武子夫人の忌日である。世に如月忌という。昭和三年である。その昭和二年七月、無優華一巻が出版された。その巻頭の一首が、この歌である。その時、歌の師、佐々木信綱博士に三首の歌を送って、一首を選んでもらったのであった。
 人は信念をもって生きることは、よきことという。果たしてそうであろうか。信念とは何か。武子夫人は、大いなる力に引かれて歩むという。自分の自身足どりは、実はおぼつかない。しゃんとしろ、しゃんとしよう、と思うけれどねェ。しゃんとしているつもりではあります。しゃんとせねば、と思うています。大きい力に、実は引かれている。なさけないことながら、しゃんと出来ない。ああ引かれてゆく。業である。業力である。従って、わが全生活は、おぼつかない足どりの旅でしかない。

願力
 とても信念などというものではない。この迷酔の中に、弥陀の大願力を聞いた。弥陀を信じた。念仏は、無碍の一道と存じ、信は力なり、とも思った。だが、日頃何をしておるか。
 信仰を生活に生かす。嘘をいうな。申しわけない、おぼつかない足どりである。私はただ多いなる仏力に引かれ迷妄の歩みのまま往く。私を引く如来の力は大丈夫だ。

(昭和四十三年二月)

八十九 真の仏弟子 「善導大師」

仏ノ捨テシメ玉フヲバ 即チ捨テ
仏ノ行ゼシメ 玉フヲバ 即チ行ズ
仏ノ去ラシメ玉フ処ヲバ 即チ去ル
是ヲ 仏教ニ 随順シ 仏意ニ随順ス ト名ヅク
是ヲ 仏願ニ随順ス ト名ヅク
是を 真仏弟子 ト名ヅク

            (善導大師)

道徳
 道元禅師の和語のお書きものを読むと人の思いということが何度も出てくる。それほど人多く、人の思いを気にするのである。人の道、すなわち道徳が重さが大きいのである。高度の判断をもつ、すなわち頭がよいとか、現代風であるとかいわれる。何々らしくあれという人がある。らしくというのは、人が見たときの光景である。だから、らしくあれというのも、人の思いが気になるからである。非常に大きい重さで道徳が心を占める。それは、人に誇りたく、人に要求したくなる。道徳は、人に誇り人を責める信条である。私は嫌いである。修身の教科書が、洋服を着たようなお方は、気の毒なお方である。私は気まま八さん、気の早い熊さんでありたい。直情径行の者でありたい。

信仰
 信仰は、道徳の親類ではない。八万の法蔵を知っていても、信仰を知らない人は愚者である。
 その人が、信仰者であるか、否かは、その人の行動が仏中心に行われているか、否か、ということである。世の中の道徳律で生活せず、仏律で生活する。経を読み、仏恩を憶い、礼拝し、称名し、物を供えるを、浄土の正行とす。

(昭和四十三年三月)

九十 泥華一味 「浅原 才市」

あさましと ねんぶつは をないどしの
なむあみだぶつ
あさましのが まいらせてもらう
あさましのを どけりや こころなし
あさましのが まいらせてもらう

                (浅原 才市)


 浅原才市は昭和八年、八十三才で死んだ。才市のうたをたくさん読んでゆくと、よくもこんなになったと思う。教育はない、名声もない。実のところ、真宗はわかりにくい。それを歩み進んだのである。真宗が人生生活に役に立たねばならぬという前提があってはこうならぬ。浅ましいと念仏は同じ年令である。如来があって、私が救われるのではない。むしろ私があって如来がある。如来によって、あさましい、が知れるのではない。浅ましいを知って、如来となった。浅ましいと如来は、はなれない。
 如来はどこに在るか。如来は称名に出(い)でたもう。念仏である。浅ましい念仏は、同居せる友人である。同処に在る。


 才市の心は浅ましで一杯である。浅ましをのけて、才市はない。浅ましがなくなって目的をとげるのではない。浅ましは、業報であって、なくならぬ。今の業報は、次の業因である。どうあっても地獄はまぬがれぬ。だから救われねばならぬ。だから救わずばおかぬ、と本願が立てられた。浅ましいてよかった。浅ましくてよかった、と発言する才市が、最も浅ましさを知っている。

(昭和四十三年四月)

九十一 睡眠章 「蓮如上人」

いのちの あらんかぎりは
われらは 今の ごとくにて あるべく候
いのちのうちに 不審も とくとく はれられ候はでは
さだめて 後悔のみにて 候わんずるぞ

                  (蓮如上人)

 御文章はすべて八十通、それぞれにのちに呼び名をつけてあります。第一帖第六通は、睡眠章といわれる。今年の夏は殊に眠たいがどうしたことであろう、と始まる。
 われわれは一家を構えているにしろ、いないにしろ、火の用心をする。一生のあいだに、何千扁、火をもとを見直すだろうか。火の用心がうるさいと家族からいやがられる。

過(か)
 なぜ過ぎるという字をあやまちとも読むのであろうか。とが、と読むのであろうか。罪過と熟し、過失と熟し、過去とも使う。過去と過失と何が共通するのであろうか。
 家族にいやがられる程、火の用心をしても、一度火事になれば、すべては灰である。何遍用心したのも役には立たぬ。灰の中で泣いても家はもどらぬ。過ぎたことは、失ったことである。火事の前触れはない。
 われわれの罪は、わびて済むものではない。それは、いのちの終りに似ている。死の前触れはない。死の前日まで、今日のような日である。今日は確実、いのちのうちである。

(昭和四十三年五月)

九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」

よろこびすでに近づけり 存せん事 一瞬に迫る
刹那のあいだたりというとも 息の通わんほどは、
往生の大益をえたる仏恩を 報謝背ずんばあるべからず
と存ずるについて かくのごとく 報謝の称名つかまつるものなり

               (太郎入道 覚信)

正念
 覚如上人は、御開山さまの曾孫である。その『口伝鈔』につたえるところ。
 覚信房は、京都で重病になった。晩年の御開山聖人のお宅である。臨終の覚信房、お称名おこたりない。息は荒い。苦しげの中に、念仏強盛なるは神妙である。ただし、心持に不審あり。いかに、と聖人がおたずねになった。覚信房が答えたのである。もうすぐです。広大な御恩でございます。息引き取るまでお礼を称えます。このとき聖人、年来の友として、一緒にすごした甲斐があった、と御感のあまり、随喜の御落涙、千行万行なり。
 一般にどうしても抜きがたい考えは、臨終の正念である。死に際は静かであり、お称名したり、笑ったりすると、いい往生であったという。全然不可。

乱想
 当人も看病人も誤っている。死に際がよいと看取りの人が安心しているだけである。問題はその人の人生である。平生である。死に際、一瞬の乱想など、当然いろいろある。当人も看病人もそれぞれ人生、平生が問題だとせぬから、死に際をたのむ。一生乱想のみ。臨終の正念で帳消しにしようとは、浅ましい。

(昭和四十三年六月)

九十三 表現の背後 「蓮如上人」

さて 自然(じねん)の浄土に いたるなり
ながく生死(しょうじ)をへだてける
さてさて あら おもしろや おもしろやと
くれぐれ 御掟ありけり

                (蓮如上人)


 文書というものは、心持を伝える力に限界がある。手紙より電話の方が良い。信仰において殊にそうである。この会報も、私を知らない方には、ぴんと来まい。文書が万全でないことは、承知しておくがよい。蓮如上人を去ること五百年である。われらは御文章などで接する外ない。上人のお説教をじかに聞き見てはいない。
 お説教は顔と声に接して聞かねばならぬ。このぎこちない世界から自然(じねん)の世界にゆくのである。自然とは、無理なことをいう。朝から晩まで無理の連続である。それが生死の世界である。何もかも無理から無理のこの世である。この生死の世界から永遠に、へだたるのが信仰である。生死(まよい)のこの世にありながら、それをへだてて無理のない浄土へ至る道を歩む。それが念仏である。

化(け)
 蓮如上人は、大きく深く弥陀の救いを仰がれた。残されたお言葉は、信心をとれ、弥陀をたのめ、うかうかするな、というのが多い。われらに向けての教化である。しかし上人自身は、ほれぼれと弥陀を仰いだのである。下を化する後ろに上を仰ぐ態度があった。
 態度は残らない。問題は態度だ。

(昭和四十三年七月)

九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」

ある時 家族の誰かが死に臨むと
残る者と 別れを悲しみ 切に慕いあう
憂いに胸ふさぎ 恩愛の情で 心を痛めて恋慕する
年月がたっても心が開けず よしみが忘れられない
みな愛欲をむさぼり 道に惑うて 悟る者が少ない

                (無量寿経)

凡情
 お盆である。新盆のお宅では提灯が下げられていかにもお盆らしい景色である。さて、そこへ客が来る。盆にかぎらない。中陰法要、葬式などでも更にそうである。それらの時、しきりに亡き人を悼み悔むをもって、可(よし)とする空気がある。葬送において殊に然りである。重病の頃はやたらに死を恐れ、死を語ろうとしない。どうせ死ぬ病人と内心思いながら死をかくそうとする。死んだとなると泣くをもって孝とし、純情と心得ている。それが仕方のない凡夫の情である。しかし当人達は、仕方のない情どころか、故人を恋慕する事は美徳であり宗教的であるとおもっている。実は全く本能的であるのである。

信仰
 恩愛の情で涙することは、御院家さまの喜ぶ所ではない。凡夫の鍛えられざる精神の浅ましい姿である。仇討ちの精神の裏返しでしかない。
 念仏の心はそれとは違う。信仰に鍛えられない心ですなわち凡情で可とする事が必ずしも念仏の心で可とはしない。
 慈悲の心とは、肉親・知友にのみ涙する心ではない。一切衆生、悪人も涙する心である。

(昭和四十三年八月)

九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」

とかく 智慧才覚とか 学問など云うがらくたが
信仰に進むものの 障碍となることは 確かである。
妙好人には それがないと云うので
入信の好条件を具えて居るわけである

               (鈴木 大拙)


 愚かな者は仕合せである。教養のない者は仕合せである。紳士淑女は不幸である。べらんめえ野郎は仕合せである。近頃迄、事務職の女性をBGすなわちビジネスガールと云った。それがこの頃、OLすなわちオフィスレディーという。事務職の淑女ということになった。漫才師の語り口に教養が邪魔をして、というのがある。
 実は笑いごとではない。がらくたの如き教養にしばられて、物の言い方から、振舞いまで、ぎこちないとは情けないではないか。信仰も信者も説教も教養のある上品さが大切と考えることになる。がらくたをもって、自分の教養かと思って紳士然・淑女然としていることの気の毒なことよ。君はべらんめえなんだよ、実は。君のは本当の教養ではないよ。君は下司なのだ。ハイ。


 本当の教養とは、もっと終始一貫せるものである。用心しなくてもよいものである。  信仰とは、教養などを捨て去ったる、生地の凡夫が土台となるものだ。浄土宗の者は、愚者になって往生す。俺は阿呆なのだ。

(昭和四十三年九月)

九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」

親鸞は 父母(ぶも)の教養のためとて 一返にても
念仏まうしたること いまだそうらわず

                (親鸞聖人)

冥福を
 人が亡くなると追慕の情やむこと難いものである。泣けてくるのである。別れの悲しさである。非難すべき心ではない。殊に父母・兄弟・子孫・夫婦・親友を追慕する情、悪しとせず。ただし、それは俗情であり、凡夫の迷いである。
 死人を鞭うつのはよくないという。死人をうつとは、その生涯を悪評することだ。死後を悪しかれという話はまず少ない。それなのに冥福を祈るとためらいもなく言う。一体どうしようというのか。人の行先を案ずる人あり。それらの心を信仰である、と思っているようだ。死後、幸あれと思うのは、生者に幸あれという思いと同じだ。俗情の親切にすぎない。

祈らず
 念仏の信仰は、死者の冥福を問題にはしない。
 弔辞などで、もっと用心せねばならぬ。死者の仏事を念仏の中で行うのは、行う人の信仰そのものが大切である。その亡き人の残した人生から人間とは何かを学ばせてもらうのである。
 念仏は感謝だ。

(昭和四十三年十月)

九十七 冥から冥へ 「無量寿経」

善人は善を行いて 楽しみから 楽しみに入り
明るみから 明るみに入るのであり
善人業善 従楽入楽 従明(じゅうみょう)入明
悪人は悪を行いて 苦しみから 苦しみに入り
冥(くらやみ)から 冥に入るのである
悪人業悪 従苦入苦 従冥(じゅうみょう)入冥

                        (無量寿経)

 ある時、こんな話を聞いた。ある風呂屋に度々泥棒が入った。よく考えると毎週土曜日から日曜にかけてである。客の物をねらう、いわゆる板ノ間かせぎである。主任の人は、客に責められ通しである。春三月頃から秋も終りまで、まさに土曜日の男に苦労した。

板ノ間稼ぎ
 土曜日の男の発見と確認に努力した。その間も一万円、二万円と客はお金をとられる。主任は平身低頭である。ストーブ煙突の穴から刑事は終日見張った。十月後、客に化けた刑事が現場を押えて捕えた。数万円の稼ぎをしたとのことである。

冥に入る
 ある婦人が逮捕の報にかわいそうにと言ったら、何がかわいそうだ、こっちの心痛も考えずと叱られた。関係者は、夜もねぬ苦労でしょう。だが土曜日毎に通って来て、人の財布をねらわにゃならぬ業の人、捕えられねばならぬ業が、かわいそうだ。盗られる人は仕合せだ。盗る者は可哀相だ。

(昭和四十三年十二月)

九十八 今日の生 「九条 武子」

こし方も 行末も見ず たまゆらの
われと思ふに 生のたふとさ

              (九条 武子)

過去
 あけましてお目出度うございます。去年は過去であるのに、去年の思いでは面白い。何か過去を今も手の中に持っているような感じでおりますので、すかっとしません。写真を出して見、旧友と語り、日記を開き、あれこれ過去を眼前に取り出しては、なで回す感じであります。
 実は過去は刻々と無である。零である、0(ぜろ)である。空しき過去の栄光を誇ること勿れ。もし過去を大切にするなら、記憶以前をも大切にしなくてはならない。前生(ぜんしょう)があったのだ、という仏教を聞き入れねばならぬ。処が前生の記憶はありません。

未来
 これからの行末に希望をもちます。青年には夢があると申します。明日には夢があり未来には希望がある。そんなら、後生(ごしょう)があるという、仏教を聞き入れねばならぬ。処が後生は見たことがない。

現生(げんしょう)
 昨日は空しき過去であり、明日は淡き夢である。今日は私の手中にある。今日の生が大切である。人間は刹那の生き者であり、淡き空しき生き者であるか。
 私は父と母を恋う。記憶以前の私のことを、父にきいて見たい。赤ん坊の私を抱いた母に逢って聞きたい。

(昭和四十四年一月)

九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」

僕は この頃 僕の受けた 異常な環境を 貴いものと 感じて来た
絶対絶命の境地に 面と向って 立たされていることは
何と大きな問題を 与えられたことだろう

               (尾崎 秀実)


 尾崎秀実は、昭和十九年十月死刑になった。ゾルゲスパイ事件に連座された。死刑一月前の妻への便りであります。絶対絶命の苦悩は辛い。たとえば、手足など不自由な子を育てる親もたくさんある。
 小児マヒで寝たきりの息子二十七才。昭和四十二年八月二日、母は買物に出ていた。父森川宗男さんは医者である。寝ている息子に麻酔をかけ首にタオルを巻きつけ、許してくれ、と叫んで絞め殺した。自分も自殺を図って失敗した。手足も不自由で知能も低いマヒの子を、二十七年看病し、持病が悪化、医院も廃業した。昭和四十三年十二月裁判は心神喪失の故をもって無罪となった。裁判長はこのような事は、すべてが罪なきものと軽々しく決めるべきでない、と言い添えて安楽死をいましめた。


 二十七年の両親の悩みはどうであったろう。母は裁判で私も子を殺して自分もと何度思ったでしょう。私には主人を責めることは出来ません。と証言した。泣きもしたろう、心中も語ったろう、世をのろったろう、病気をうらんだろう。
 私共の想像を越えるこんな人の方が余程、尊い人生だ。

(昭和四十四年二月)

百 百代の過客 「松尾 芭蕉」

月日は 百代の 過客にして 行きかう年も また 旅人也
              (芭蕉)


 芭蕉は俳聖と呼ばれる。俳句に志して旅に住んだ。われら一処に住する者には理解しかねる芭蕉の心である。
 近頃はいろんな旅がはやる。旅行が好きという人も居る。実は旅はつらいものだ。年中旅を続けねばならなぬ職の人があるが、辛かろうと思う。
 芭蕉の旅は、招待されての旅ではない。放浪である。辛い旅に身を晒してその辛さに鍛えたのであろうか。旅は仮の宿である。旅人は遊子である。あてどなきさまよいである。彷徨である。徘徊である。
 旅は捨て歩きである。逢う人も、山川も捨て捨てて歩きゆくのである。振り返らないのである。情を重ねることは出来ない。一返きりである。わが心の情を知る者なき郷を孤(ひと)り、一返行くのである。


 旅は寂しいのである。どんな美人の愛情に触れても、親切に逢っても重ねることなき飄(さすら)いである。
 情を重ねたいもう一度というのは、下司なのだ。さらりと捨て別れるのである。人生は旅である。年月を捨て行く旅である。
 だからその時が、大切である。
 いつもその時、後生一大事である。

(昭和四十四年三月)

あとがき
 深川倫雄先生に、一般信者向けの文章がありません。お書きになりません。日頃、親近(しんごん)いたします私共の年来の話題となっていたことでございます。
 先生が毎月、山口・九州に継続される講義は、お三部経、ご本典など、骨格の大きなお聖教ばかりです。そのご講話を収録して出版しました。”仏力を談ず””報謝無尽”は、いずれも好評でございましたが、一般信者向きとは言えぬものでした。
 これは口伝鈔に”如来の大悲 短命の根機を本としたまえり”とあって、お慈悲の到りつくところは、教育の見込みも立たぬ極限の命の十方衆生に及ぶことから先生は力の総てを、専ら阿弥陀さまのご法義の顕正に振り向け費やされます。 このご法義の精神の上から、信者の指導・教育をする文章は、お書きにならないものとうかがい見ます。
 さらに”未知の衆生に如来を告げ、誤解の衆生に真正の如来を告げる”と示され、”私が重大ではない、私を大切にして下さる如来さまを大切に”ともおしゃるは、仏恩報謝の規矩、さしがねとも領解いたします。

 許されて書斎に出入りします。堆い書物のかげに色あせたプリントの一束。二つ折り四ページの先生には珍しい信者むけの”法話会報”がありました。
 昭和三十五年十月に始まり、八年四ケ月百号をもって閉じられています。当時ご在住の西念寺支坊”光摂坊”から、中国・九州から入湯された同行をも宛て、月々送り出されています。ただ十五号が散逸していて、惜しくも欠番となりました。
 法音のつぶてとも称せましょうか、一読して肯き、再読して感銘を深くします。若い時の雑文であるからと公刊を渋る先生にお願いいて出版することにしました。
 今の先生のお気持ちで添削を、とも考えました。しかし三十代後半から四十代なかばの先生が、豊潤な完成をもって思索をたたんで練られた文体が愛(お)しまれて、原文の加減はいたしておりません。
 現にご指南に接し、そして既往の文言にふれるときそこには漫々たる海流のごとき阿弥陀さまのご法義がうち寄せています。如来さまの思召しがその深みから汲み出される感があります。
 本書を味読の法友、あなたから広く知友にお奨めいただいて、喜びが拡がりゆくこと念願するところです。

昭和六十二年 春

山口聖典研究会 世話人一同に代り 藤岡 道夫