三十四 くるしみの壺 「九条 武子」

この胸に ひとの涙も うけよとや
われみずからが くるしみの壺

             (九条 武子)

人の涙
 私の苦しみにてござ候。私の一部分が苦しみではなく候。私が苦しみにてござ候。苦しみの充満にてござ候。私は壺にてござ候。壺には涙が一杯にてござ候。私の流した涙にてござ候。壺も涙が入らぬにてござ候。私自身の涙も壺からこぼれる程にてござ候。
 昔、この壺は空にてござ候。昔、この壺は仕合せで出来ていると思うたのに候。昔、この壺は仕合せの入れものと思うたのに候。昔、この壺は仕合せが一杯と思うたのに候。昔、人様の涙を毒薬のごと思うたのに候。今は涙が一杯にあふれてござ候。みな私の涙にてござ候。今少し、年をとりたのにござ候。今、み仏から苦しみをもらったのにござ候。
 この涙は、み仏のもの程のねうちがござ候。今、自ら涙一杯の壺に、人の涙もうけよと仰せられるにござ候。

同苦
 み仏は、無理を仰せられるにござ候。とは申せ、私の涙も、み仏に教えられたにござ候。
 私の一杯の壺に、人の涙と私の涙と、享け候。

(昭和三十八年七月)

三十五 この善太郎 「善太郎」

この善太郎は 父を殺し 母を殺し
そのうえ盗人をいたし 人の肉をきり
そのうえには ひとの家に火をさし
そのうえには 親に不幸のしづめ
人の女房をぬすみ この罪で
どうでもこうでも このたびというこのたびは
はりつけか 火あぶりか 打首か
三つに一つは どうでもこうでものがれられぬ

          (善太郎 七十才)

 善太郎は、島根県有福温泉の近くの人で、安政三年二月八日、七十五才で亡くなりました。百六年前になります。

御意見
 世間の人々がよく宗教的反省と申されます。なる程、いう人が、道徳的反省と少し区別をしていることはわかる。しかし私は、宗教的反省ということばを好かない。外のことは知りませんけれども、お念仏の者にとっては、宗教的反省ではない。
 人さまはそうおっしゃるかも知れませんが、お念仏する人には、仏の御意見である。ここのところが大切なことだ。
私の反省ならば、私が心がわりすれば、反省の方もかわるだろう。
 善太郎の告白は、人に告げるものでも、仏に申すものでもない。仏の御意見をひとり言するのである。われわれは、善太郎の心の内なるひとり言を、かいま見る次第となります。善太郎自身、自分のことばではない筈です。仏とは、五劫をかけて善太郎を反省した方、そして聞かせる方です。

(昭和三十八年八月)

三十六 提婆尊者 「梁塵秘抄」

釈迦のみ法をうけずして 背くと人には見せしかど
千歳の勤めを今日きけば 達多は仏の師なりける

              (梁塵秘抄)

ダイバダッタ
 お釈迦さまは、ずっと昔、王さまでありました。その王さまは、アシ仙人に仕えて教えをうけました。千年のあいだ、供養を怠らなかった。その仙人が、実は今のダイバダッタであり、王さまはお釈迦さまです。ダイバは、シャカのいとこに生まれました。ダイバは、シャカ出家のあと、その妃、ヤショーダラを誘惑しました。ダイバは、シャカのさとりをねたみました。私は決してシッダルターに、ひとり勝利者の日を、たのしませはせぬ。シッダルターとは、シャカの名。ダイバは、息をひきとるまで、シャカに対する呪いに生きました。
 ダイバは、まことに呪いそのものであろうか。シャカの生涯にまつわりついて、はなれないダイバとは、一体何であろうか。ダイバはまた、王舎城の宮廷に悲劇を生みました。

シャカ
 ダイバのいないシャカは考えられない。ダイバのいることによって、み法が実人生の生き者とならないか。昔、ダイバはシャカの師でありました。
 親鸞聖人は、ダイバを大聖という。仏の使いである。ダイバとは、極悪人である。ダイバは私の中にいる。仏言(のたま)わく、ダイバは無量劫の後、必ず成仏することを得。

(昭和三十八年九月)

三十七 職業すなわち仏道 「兼好 法師」

暗き人の 人をはかりて
その智を知れりと思はん
さらにあたるべからず 
おのれが境界に あらざるものをば 
争ふべからず 是非すべからず

            (兼好 法師)

愚者
 人にはそれぞれ職とする所がある。智慧のない人が、人をあれこれ評して、その知識の程度がわかったと思うのは、大体まちがっている。人のことを、あれこれ評するについて、自分の専門分野でないことに、発言するのはよくない。批判をして、優劣・善悪を判ずるべきではない。
 こう言うのは、兼好法師である。この人は、親鸞聖人の滅後二十年、一二八四年に生まれ、六十八才で亡くなった。朝廷に仕えたが、四十才に出家した。徒然草は、この人五十才頃の随筆である。この書は、神祇・釈教・恋無情・全き自由人の人生論である。この人の自由の本(もと)は、ひたぶるな世捨人の心である。世を捨ててこそ、曇りない機微の味がたのしめる。世の物識りの程、つまらぬ者はない。世の萬般(ばんぱん)に、知(ち)わたる事はよくない。

職業
 職業に優劣はない。職業とするか、渡世の業(ぎょう)とするかによって、人は定まる。わが職とすることにおいて、ひけを取る勿れ。プロに徹すべし。職分以外に、口はばったいことを言うな。どうしたら客がつくか、どうしたら見事なものが出来るか、徹底してゆけ。それが仏道である。

(昭和三十八年十月)

三十八 寂しさの秋 「三木 清」

あかつき光うすくして 寂しけれども魂の
さと求むれば川に沿い 道ゆき行きて 還るまじ

              (三木 清)

寂しさ
 昭和二十年、三木清は獄中で死んだ。高倉輝が脱走して来たのをかくまって、オーバーを与えたが、後にそのオーバーの名から、左翼の一人として捕らえられた。ある時は、龍谷大学に哲学を講じたこともある。若く惜しい人であった。三木清はかってヨーロッパに学んだ。ライン川の支流、ラーン川の畔を歩いた。遠く京の加茂川を思うたに違いない。歎異抄に深い影響をうけ、私にはこの平民的な浄土真宗がありがたい、恐らく私は、この信仰によって、死んでゆくと思うとかいている。また、真宗の盛んな西兵庫では、家庭の仏壇で、朝夕の礼拝が、人間の基礎教育の一つであったとも書いている。心の古里を求めて歩めば寂しい。寂しさに対面しないと、魂の里に行けない。川は流れて還らない。堤を歩くとそう思わずにいられない。川をさかのぼる。寂しさに対峙しつつ、あと還りのない道を行きゆきて歩く。寂しさの絶えぬ旅である。
 寂しさの秋である。若き命は束の間の、よろめきゆく老来(おいらく)へ、緑を誇った草は、霜にしかれ秋はほろびの光。私を傷つける刃は、欲望の猛りである。寂しさとは、火の様な欲望が、永遠の真実に帰入する相(すがた)である。

(昭和三十八年十一月)

三十九 寂しき悔 「九条 武子」

酔ざめの 寂しき悔は 知らざれど
似たる心と つげまほしけれ

             (九条 武子)


 武子夫人の歌の師は、佐々木信綱。九十一才で、この二日に亡くなりました。夫人のこの歌は、どうした時のであろうか。もてはやされたる後、威張り散らして自慢した後、人を悪く噂した後、人を疑い抜きたる朝、はげしく人を使いたる後、想う人に秘かに逢いたる後、長座をしたる帰り。
 夫人は酔いを知らない、うらやましいと思う。私は酒の酔いざめの寂しさが、いやさに酒をつつしむ。思えば酔いの最中の、あの思い上がりたるおごりの心よ。それに酒は、うましの味がするを、いかにせん。まさに悪魔にさそわれて酒量をすごす。どうぞ酒席にて、酒をすすめないで下さい。もういい、と一言いった時は、誰も、ここらでつつしもうと、思っている時。そんなら、そのつつしみの心を、満足させてあげるため、すすめることを、やめるがよい。それが本当の親切である。


 とは申せ、のみすぎはやはり本人の過(とが)である。だから悔がつよい。酒にかぎらない。自分の心の誘惑に負けたことが、残念なのである。悪魔の誘いである。節度を守ろうとする人を、そそのかすのも悪魔である。悲しくも心に弱い。どうぞ寂しき悔からまもりたまえ。

(昭和三十八年十二月)

四十 報恩講 「狐雲」

門徒宗 娘も光る 程みがき
            (狐雲)

お寄講 にて見合うのは 二度目なり
            (狐雲)

お講
 明けましておめでとうございます。身は、法の器と申します。何より健康を、期待します。
 報恩講の季節でございます。江戸時代の川柳は、当時のお講を皮肉っています。お講は交際の場でもありまして、見合いに利用されました。娘は、寺参りというのに、光る程みがき飾って出ました。中には去年のお講での見合いが成功せず、二度目の見合兼用参詣という、手合いもある次第です。
 正午までの食事を斎(とき)といい、午後の食事を、非時(ひじ)と申します。お講に斎や非時が出るようになったのは、蓮如上人からです。本願寺では、報恩講中、毎日午前の日中法要がすむと、お斎があり、午後の逮夜法要がすむと、非時がでます。秀吉が諸候に号令した鴻の間で、門主出座の上、ともどもに膳につきます。斎は、仏制定の法食(ほうじき)であり、善根を増長す、とあります。

お斎
 また毎日、よるの勤行に、斎・非時の勤行がある。殊に一月十四日の斎の勤行は、毎年九ケ村(くかむら)同行の人々が、音頭を取る。福井県の山奥、穴馬(あなま)の同行達、十数人です。ここの先祖が、石山合戦の時、米をかついで参り、丁度お講なので、門主が御開山の前で、勤行させたそうです。

(昭和三十九年一月)

四十一 舞台 「池山 栄吉」

半分 見物気分でいた私
これこれ 唯円房のうしろの方 ここへ出ておいで
われらのためなんですよ あなたのためなんですよ
と 聖人に呼びかけられ 
観覧席から 舞台に呼び上げられた
自分は今 唯円房と並んで
聖人の眼の前に 座っている
自分は今 聖人じきじきに
本願召喚の 勅命をきいている

           (池山 栄吉)

 池山さんは明治5年東京に生まれ、学習院教授を三十年つとめ、大谷大学教授もして、昭和十三年六十七才でなくなった、ドイツ文学者でした。

観覧席
 お寺まいりの心は、次第にかわるはずです。道心とか、求道とか申しますが、はじめは半分見物でしょう。何か特別の動機のある方でも、初めは真宗とはどんなものかと思い思い、半分または全部、見物の心でしょう。お寺の外陣は、観覧席でしょう。信仰は知識ではない。信仰は一般的な法則ではない。私一人のものである。  私の知っている方で、数年前、お講の説教とは毎年親鸞聖人の同じ伝記ばかりでしょう、と問うた人がある。その方がことしは、聖人のことがいいです。聖人の伝記が何よりお説教です、と言うのである。

舞台
 聖人は凡夫でありました。私共の先輩であって、親鸞一人の道を歩まれました。聖人を聞いている中に、見物の私が、知らずに当人になっている。舞台の本人である。呼び上げられてそこにいる。

(昭和三十九年二月)

四十二 信心の智慧 「善太郎」

   この善た郎か 五たいは
   一 つちと五を   二 すいと五を
   三 ひと五を    四 かせと五を
   よつのかりもの たま四がやどりてをる

   一 ちちの五を   一 ははの五を  一 をかみの五を
   一 □わ□まの五を          一 九にのとの三まの五を
   一 こめもほとけ三のもの五を     一 きりものもにょらい三の
   一 むきもにょらい三のもの      一 たいすも五を
   一 あつきも五を           一 あわも五を
   一 とみきも五を           一 なつまめも五を
   一 たとも五を            一 いもも五を
   一 たいこも五を  一 五ほも五を
   一 いたも五を   一 いさいのつかいと九も五を
              (善太郎)

一文不知
 善太郎は百八年前なくなりました。昨年、浜田の金蔵寺に参り、善太郎の書いたものを見ました。少し読み良くしてもこの通りです。一体、文字や知識が、どれほどの意味があるかと、考えさせられました。

智者
 信心の智慧に入りてこそ、仏恩報ずる憶いあり。信仰の智慧とは、何とすばらしいものであろうか。大根も牛蒡も、御恩であるというくらしである。智恵者の知ったかぶりではない。善太郎の文字もしらぬ述懐である。こういう人に私はなりたい。ほめられなくても、私は田舎者が好きだ。

(昭和三十九年三月)

四十三 無我・極楽への道 「中 勘助」

常に征服者となり 勝利者となることを
望んで生きていた 提婆達多の一生は
それだけに 高慢と嫉妬との 我に
悩まされなけらば ならない一生だった
            (中 勘助)


 中勘助は、大正九年小説「提婆達多」を発表した。提婆は釈尊のいとこである。解脱(さとり)への道を、わき目もふらず歩む釈尊に対し、呪いと憎しみの反抗をしたのが提婆である。
 征服しようとする心のうしろに高慢があり、勝利を得ようとする心は、嫉妬から生まれる。勝とうとする心は、高慢と嫉妬とのドレイである。提婆は呪いと憎しみ、傲慢と嫉妬とに引きずられて、心の自由を全く失った。最も愛に飢えた精神の餓狼(がろう)であった。心の餓(う)えたる狼であった。その底なる執着が、我(が)である。我(が)に引きずられ追い立てられて、一生を送った人物が提婆である。

無我
 さてわれらは、提婆とどれ程ちがうか。我(が)のゆえに勝とうとする心は捨てられない。勝とうとする心が生きてゆく力でもある。その心をやめるならば、社会の落伍者であろう。勝とうという生活意欲をもちながら、我(が)のドレイにならない道はないか。

 心の自由を得たい、無我でありたい、それは極楽への道にある。

(昭和三十九年四月)

四十四 独楽 「明顕寺住職」

こま まわって 処をえて しずかにまわって おわる
         (島根 明顕寺前住職)

コマ
 四月下旬、島根県・岡見の西蓮寺に参りました。年寄というものは、よいものです。火鉢の上に、紙張の助炭のある宅なら、必ず丁寧なお年寄のいらっしゃる家庭である。西蓮寺の客間の助炭に、こま まわって・・・と書いてあります。老僧・栗山義雄師のおじ、益田在の明顕寺前住職の作である。この方は、井泉水(せいせんすい)にならった人であるとのこと。
 力まかせにこまをまわした。腕白の頃、早く静止して、長くまわるように工夫したものだ。こまは初めに、工合(ぐあい)のいいまわり場をさがすようにうろつく。広々とした居り場ではない。ほんの足もとの広さでよいのだ。さがしあてると落着いてまわる。おわりには、おわりを告げるようなそぶりをしておわる。 若々しいいのち、はげしい意欲、人はまず三十、四十まであわてるな。上にまれ下にまれ、仕事が決まる。然しまだ居り場に安住しにくい。中老、静かにいのちが燃焼しておわりに至る。

獨楽(こま)
 朝から一日中、コマねずみのように働く。夕べそれぞれの座につき、一服してやすむ。一生も一日も、何れにしろたった一人のきりきりまい。居り場を得て、いのちを燃やして居たい。

(昭和三十九年五月)

四十五 聖人の妻 「恵信尼公」

こぞのけかちに・・・
おさなきものども 上下あまた候を
ころさじと し候(そうらい)しほどに
ものもきずなりて候うへ
しろきものを 一つもきず候

          (恵信尼公)

聖人の妻
 親鸞聖人の妻、恵信尼さまは九つ年下の妻である。聖人が八十才をすぎられた頃、恵信尼さまは越後に移られた。聖人が九十才でご往生の時は、便りの中に、上記の一節があります。その時恵信尼さまは、八十三才位、娘覚信尼さまは、四十才位です。七百年前は、住みにくい世でした。越後は毎年、飢渇(けかち)に見舞われました。寒い夏ででもあったのでしょう。便りに今年はうえじにするやもしれぬとさえあります。そのような世で、この聖人の老いたる妻は、ひとりどのようにして暮してゆかれたのであろうか。越後には、お子様達があちこちに住んでいましたが、亡くなった長女の子、数人。益方入道という、第四男の子達も育てていました。

聖人の孫
 何となく母になったような、と便りをかきながら、おばあちゃんは八十余才。着物もやぶれ、よごれ、孫の世話をしました。育ちざかりは、よく食べる。小さいのは手をとる。殺してはならぬ、ばばはうえても、死んでも、孫達は、あの良き人の孫だから、殺さじ、と。

(昭和三十九年六月)

四十六  名号成就 「一遍上人」」

主なき 弥陀の御名にぞ 生まれける
称えすてたる あとのひと声

               (一遍上人)

ねがい
 一遍上人は、親鸞聖人が六十七才の年に、道後で生まれました。亡くなった時、五十一才でした。一遍上人は、十才で念仏に入り、三十六才の頃、お念仏の本義を聞きひらいたと、いわれます。親鸞聖人のお味わいと、非常に近い信仰の方です。この人の門下の人を、時衆とよびましたが、その人々は、自分の名を、有阿弥陀仏とか、照阿弥陀仏とか、つけました。略して有阿、照阿などと申します。親鸞聖人は、このような名をもつ人々から、御法義のおたずねをうけて、交際していられます。時衆でありながら、聖人のお弟子でもあった人が、いたわけです。
 法蔵菩薩のねがいは、わが名を衆生に称えられねば仏にならずというのです。懈怠(けたい)なくせに、理屈を言いたがるわれわれが、お前ゆえに、お前ゆえにの仰せをきかずに来ました。いうなれば、受けるべき私が受けぬので、主なしであったことになる。如来様、聞かず、称えず、はかろうて、淋しい辛棒をさせました。

成就
 阿弥陀様という町長の所に、配給うけにゆくように思っていたのに、お前に称えられぬと、仏にならぬと仰せをきき、あれあれと思わず称えることになった。弥陀は、名号として、私を主に生まれ出たのである。

(昭和三十九年七月)

四十七 自力無効 「小川 チエ」

いきすぎ者が まよいでて いらぬやきもち やきました
やいたか やかんか 何十年 なべもめげたし 粉もみてた
注文なしだで みなそんだ そんと もうけを 一ときに
しらせてもろうた ありがたさ
何とも 何とも このごおん

              (小川 チエ)

計い
 小川チエさんは、島根県江津市(ごうつし)・小川仲蔵同行の妻である。昭和十一年九十二才で亡くなりました。その子が、この会報に何度か名の出ました市九郎さん(八十五才)です。市九郎さんが話をしてくれます。母がナァ、仲蔵さんは喜び手であんなさったが、おばあさんは、どがいうて喜んでいたかと、問う人があったら、こういうてくれと申しましてナ。それがこのうたであります。
 御当流は聞く一つである。そのままのお救いである。他力である。名号のひとりばたらきである。信心は、たまわりものである。と、いうことを何度もききます。しかし、それはいつもよくわかった人から話されまして、なかなかよくは、心がわかりません。だから、なかなか才市さんや、善太郎さんのようになれんといいます。こう思うのが信心じゃ、こうすることが真宗じゃと、いろいろ言っても見ます。

無功
 何年もお聴聞をしている中、ああそうか、というようなことに、なる時がある。理屈をこねたなべが、割れ、こねる粉もなくなったといっていい。永いこと、そんしたものだ。そんと知れたが大もうけ。

(昭和三十九年八月)

四十八 オコタルベカラズ 「浄泉寺 覆善」

朝夕ノ勤行 オコタルベカラズ
旅行ノトキモ 必ズ 朝ツトメシテ 後 発足スベシ
帰ラバ 必ズ 夕ヅトメシテ 後ニ臥スベシ

             (芳淑院 覆善和上)

師命
 お内仏に、どんなわけでおまいりしますか、ときかれたら何とこたえます。御恩報謝のため、それは御立派ですね。私はむしろ、おつとめと存じています。古来、僧侶としてそう命ぜられているからです。覆善和上は、岩見の方でした。この文章は、和上の家儀、すなわち家訓でありました。和上も、僧侶としての身のもち方を、先輩や師匠に聞いたのでしょう。師とは、いいお方である。たとい自分は、納得ゆかなくても、善知識のおことばに従うのが、信仰の態度である。
 お内仏に、朝夕お参りするのは、なぜですか、と聞かれたら、何とこたえます。御院家さまが、朝夕、お参りなさいとおしゃるので参ります。ありがたいことです。仲々こんなこたえはないものである。

挨拶
 御院家さまのおさしづで、お参りはしますが、その心持は、と問わるればどう申しましょう。私は、ごあいさつをしているつもりです。

阿弥陀仏と 十声となえて まどろまん
永き ねむりと なりもこそすれ

という、法然上人のお歌を、覆善和上はかいておいでます。夕方は、おやすみなさいませである。

(昭和三十九年九月)

四十九 夢の王 「後白河上皇

あかつき 静かに 寝ざめして 思えば涙ぞ 仰えあえぬ
はかなくこの世を 過しては いつかは浄土へ参るべき

                  (後白河上皇)


 後白河上皇が、今から約八百年まえ、いろいろの人達からあつめた、語りごとを綴って、今は『梁塵秘抄』といわれる書物を残されました。ですから、はじめの詞は、上皇御自身のものではありません。名もない人の思いです。後白河上皇は、源平のあらそいの頃の方で、親鸞聖人は、その頃生まれました。上皇は、源平の戦乱の中で腕をふるった立派な政治家でありました。王者の中の王者であったと言えます。
 英雄は朝方が寂しいでしょう。昼間は英雄は忙しい、歓楽の夜は更け、酔いはさめ、人の音せぬあかつき、ふと、寝ざめる。王も英雄も、そこでは、たった一人の人間にほかならぬ。おれは何だ、へつらう者もねむり、美女もおぼえない。千軍万馬の大将の心の中に、寂莫の風が通り抜ける。人生は何か。


 上皇は仏道に入って、法皇となりました。

はかなきこの世を 過ごすとて 海山かせぐと せし程に
 万の仏にうとまれて 後生わが身を いかにせん

『梁塵秘抄』の歌です。うけた時間の長さは、王も民も同じである。王の昨日も民の昨日も同じ長さである。去ってしまえば同じだ。

朕が身 五十余年 夢の如し
   万をなげすてて 往生極楽を望まん

(昭和三十九年十月)

五十 法の妻 「二条 弘子」

母のこと 思い出(い)ださば 法聞きて
み名 称う身と なり給えかし

              (二条 弘子)

嫁ぐ
 この十一月十二日十一時、東本願寺の新門さまは、結婚式をあげられます。新婦は、福井県にある真宗誠照寺派本山の二条秀淳管長の長女二条貴代子さまです。お仲人は、西本願寺のご門主さまです。嫁ぐ娘のために、お母さまは、はなむけの歌を詠まれました。二条弘子裏方が、そのお母さまです。お父さまが、世間でいう提灯に釣鐘です、と申される縁組み。お母さまは、気が気ではないに違いない。大きなご本山のお嫁さまになる娘だ。つらいことが多いに違いない。その度に、田舎の本山に住む母の気楽さを思い出すだろう。
 娘よ、母はね、お念仏の本山の母なのだからね、涙して母を思うよりもご法義をお聞き。母はご法義の中に住みます。辛い時も、ご法義を聞けば、大きな大きなふところのように慰められます。どうぞ、お念仏喜ぶお裏方さまにおなりよ。

聞く

おおけなき 幸めぐまるる この身なり
ひたすらみ法 聞かまほしけれ

          (二条 貴代子)

お嫁さまは、この歌を背の君に捧げました。

思いきや すくせのえにし 有難く
君に仕うる 幸うくるとは

お母さま、大善知識の妻になります。み法の妻になります。ありがとう。

(昭和三十九年十一月)

五十一 流星の光ぼう 「与謝野 晶子」

光りつつ 去りぬ 真白き 孔雀こそ
かの 流星の たぐい なりけり

            (与謝野 晶子)

光る
 晶子は、昭和十六年に亡くなった。鉄幹の妻であり、情熱の歌人といわれた人である。九条武子さんとも交わり、その死を悲しみ、生涯をたたえたのが、この歌である。冬空の星は凍るようだ。つめたい夜空を、白く光って星が流れる。その間だけ、空が賑やかだが、つかのまにまたもとのしじまに返る。武子夫人の生涯のようにである。またたとえると、武子夫人は、孔雀のような感じであった。白孔雀は、体の中が美しいから、白い羽根が生えるのではあるまいか。白い羽を生やすには、体の中で苦しい努力がされるに違いない。武子夫人に、われわれが美しさを感じ、清さを思うのはなぜだろうか。武子夫人御自身が、自身の煩悩を知りつつ生きられたからではないか。くもの巣にかかった蝶々のように、煩悩の中でもがいた人であった。煩悩でもがいてからまれた不自由さを知る。菩提心である。

去る
 京都大学の柳瀬先生が亡くなった。宗教学の先生で、心易いお方であった。五十四才。小川市九郎同行は、六月に亡くなったと浜田できいた。流星の光、消えにけり。  宇部の大林同行は、十一月に先立つ。俵山の鷲頭よし同行は、十二月四日去る。八十七才。右田耕作同行は、年頭であった。今年去る星多し。

(昭和三十九年十二月)

五十二 ご命日 「後生口説き」

ハー 今日はご命日 二十八日よ 皆もゆるりと
お茶 のむまいか 余り渡世のせわしき故に
大慈大悲の ご恩の程を 懈怠(けたい)だらけで
一日 暮らす
   ・・・・・
そこで 泣く泣く 六角堂へ
毎夜毎夜の歩みを運び 雨の降る夜も
風吹くよさも 雪や氷を 踏みわけ給う
きらら坂とて その名も高き 難所 峠を
おん徒歩(かち) はだし 百夜満願
そのあかつきに ふっと み法をこうむらせられ
嬉し涙にむせばせ給い
東山なる吉水寺に 訪ねまいらせ
み弟子となりて 弥陀の本願 おひろめなされ

伝統
 俵山はご法義の篤い所です。殊に木津小原は、西念寺の所として、今もご法義を大切にしています。この唄は、木津(きつ)に伝わる盆踊りの、後生口説きと申します。ほんの一部分です。
 書物から信仰に入ることはできません。賢い愚かの別なく、生きた人間から生きた人間に、ご法義は伝わります。夏の夜の踊りの口説、駒が勇めば花が散るというようなことではない。御開山さまのお生涯を、わが師として、踊りの中にも先輩は口説いて聞かせてくれた。雪にちがいがあるじゃなし。そんな歌ではない。先輩は雪にちがいがあると、口説き続けてくれたのである。

(昭和四十年一月)

五十三 苦境にうつ鞭 「九条 武子」

いとほしと 悲しとかつは おもへども
つよきしもとに わが心うつ

           (九条 武子)

苦境
 孤閨という言葉は、いやな言葉である。武子夫人は、御主君の洋行の留守をした。十年孤閨を守ったと人はいう。十年ひとりは、女の若さにとってはながいにちがいない。自分の心の中に、いろいろな思いがわく。清さに過ごそうとする。しかし若さは過ぎてゆく。

あめつちを 野に咲く花に うずめても
悲しかりけり おとろえのわれ

 女にとって空しく青春がおとろえてゆくのは何とも悲しい。そんな悲しい身になって、夫人は十年悲しい立場に耐えて来たのである。
 人はどなたも苦しい時がある。ながく苦しいこともある。それに耐えていくのである。苦境にまけるものかと。愚痴もいわずにあきらかに、苦境で働いている人の姿ほど優かしいものはない。
ところが、その苦境がないと、時としてそのことが悲しくなる。自分自身が可愛想になる。

打つ
若さの自分を、これ程いじめねばならぬ。みじめである。たった一度の過ぎゆくいのち。いとおしい、悲しい、そう思う。そこに武子夫人の本領が、頭を出してくる。堕落の入口だぞ、何が可愛相だ、辛棒はここだ、強い強い筈(しもと)で、我が怠け心を、打つのである。

(昭和四十年二月)

五十四 帰る旅 「小泉 義照」

楽岸は さぞ寂しかろう もう暮て
八十ちかく ゆきつまつたぞ

          (小泉 義照和上)

ゆきつもる 夢の旅路も 苦にならぬ
この坂こせば わが家なりけり

          (楽岸こと 藤岡 友二)


 今年の正月、豊田町の上野さんが、小泉和上の写真を、大きくして持って来て下さった。小泉和上は、大へんありがたい和上でありました。沢山の方々が、お育てをうけた。上野さんもその一人である。和上は、昭和三十二年七十五才で亡くなられました。私はたった一度、御縁あって御来化をうけた。小さな弱々しいお姿でした。一度でも御拝眉を得た私は、仕合せであります。偉いお方に会い得ることは、無上の幸である。今ありがたい方、偉い方があれば、百里の道を遠しとせず、お会いしておくがよい。人は世を去ったらもう追憶でしか会えない。私は九条武子夫人を知らない。生まれおくれたのである。小泉和上の老後は、信仰に偽りはないかと、自らを考え、かつ人にも問うた老後であった。

帰る
 凡夫をだますことは出来る。しかし、わが業はだまされぬ。人ごとではない。一切はおわる。この坂をこして帰らねばならぬ。まだ見ぬよそさまの家か、もう知っているわが家か。わが家に帰る。寂しき旅から、わが家に帰る。帰る家があるか。よかったなあ。

(昭和四十年三月)

五十五 老いらく 「佐藤 春夫」

若き命は 束の間の
よろめきゆくや 老来へ
わが言の葉を うたがわば
霜にしかるる 草を見よ

          (佐藤 春夫)

 佐藤春夫さんは、立派な詩人でありました。お念仏の心深い方でありました。先年までお元気に居た方でありました。この方の詩は、若々しい心でありました。その若さは、なまの若さではなくて、枯れた若さでありました。蘇った若さでありました。
 若さ、それは開いた花である。若さ、それは命のかぎりを打ち震う花びらである。若さ、それは束の間の春である。若さ、それは青い草である。若さ、それは煩悩の狂乱である。若さ、それは若さへの別れる惜しみの叫びである。煩悩という快い主人である。
 人は繋がれている。人は引きずられている。人は牽かれている。人はあしらわれている。人は縛られている。人は押しやられている。人は流されている。引きたおされまいとして、頑張って来た。縛りから逃げようとした。押されまいとして来た。踏んばって来た。真直ぐ歩もうとして来た。

老来(おいらく)
 若さから老来の足跡は、惨憺たるよろめきの乱れ跡であった。若さの煩悩から老来の煩悩まで、ずっと煩悩との斗争の乱れ足、千鳥足。束の間の若さの饗宴も老来の歩みも、ただ一度のいのちの火だ。ただ一度。今度の後生の一大事。間違いなく霜が降りてくる。

(昭和四十年四月)

五十六 しのびの殿御 「お軽」

かどに たたした しのびの 殿御
ゆきに あはして おこかいな

           (お軽)


 六連島(むつれじま)のお軽さんが、美人であったと聞いたことはない。むしろ醜女であったようなイメージが、私にはある。しかしお軽は女である。
 小野の小町は、美人であったという。そうでもあろう。深草の少将は、小町恋しさに魅かれて、忍び通いをする。毎夜毎夜通えども、仲々戸を開けてもらえない。夜の寒さに耐えて、夜毎たたずんだ。九十九日目の夜、門前で凍え死んだ。あわれな男の片想いである。小町はひどい女だ。男をして百夜も通わせて、中に入れずにやすんでいる。女の仕合せとは、そんなものかも知れない。恋いこがれてたたずむ男を、月が照らす。階(きざはし)に動かぬ影が一つ。風流である。 お軽もこの仕合せを思った。忍んで来た殿御がある。そっと、しかし熱く戸をたたく。引き入れようか、どうしようか。外は雪だ、親鸞聖人ならねども。


 私を想うてたたずむ殿を、雪の門前にほっておこうか。聖人は、石の枕に雪のしとねでやすまれた。広大なお方に想われて通われて、じれたお軽はそれでもあわぬ。雪にあわしていたわしや。お軽の驕慢自力は、如来様や聖人を、やすやす引き入れることはせぬ。驕慢のお軽を、雪に立っても想い続けて下さるとは。

(昭和四十年五月)

五十七 上皇遠流 「後鳥羽上皇」

限りあれば さても耐へける 身の憂さよ
民のわらやに 軒をならべて

           (後鳥羽上皇)

金の扉
 さきごろ、天皇さまの長女でましまし、照宮さまと申しあげていたお方が亡くなられた時、お気の毒であり、かなしくもあった。天皇さまも、無常のお方である。行届かざるなき医療をうけても、若くして逝かねばならない。後鳥羽上皇は、八百年も昔の方である。文芸にも政治にもすぐれたお方でありました。壇ノ浦の戦いの前年、天皇になられ、二十三年、法然上人、御開山さまを流し者にされた時の上皇でありました。国の王位にありながら、政治の実権は、鎌倉幕府にとられました。上皇も権力に惹かれる。承久三年、鎌倉幕府を討とうとして、却(かえ)って敗れ、逮えられて、隠岐の島に流されました。御開山を流してから十四年目、自らが流されたのである。

葦の軒
昔は 清涼紫辰の 金の扉に 采女 腕を並べて簾を巻き
今は 民煙逢巷の葦の軒に 海人釣を垂れて語らいをなす

 上皇は栄枯盛衰、今昔の思い深く、念仏に明けてくれる。民家に軒(のきば)をならべて、したこともない苦しい生活に、耐えねばならない。順調の日、誰も無常を思わない。世の幸福は、人の目をくらます。幸福であっても、今日は無常の一日だ。幸福は無常を覆う。しかし真実は、のっぴきならぬ無常である。

(昭和四十年六月)

五十八 赤い牛 「宏山寺 僧僕」

これ僧僕 わしが死んだら 何になるか
ハイ 御門跡さま 台下は
死なれますると牛に お生まれでありましょう
しかも 緋の衣を 着て居られまするで 
定めし 赤牛にお生まれで ありましょう

              (陳善院 僧僕和上)

牛になる
 僧僕和上は富山県に生まれ、一七六二年(約二百年前)亡くなった和上です。年四十才。学徳兼備の教育者で、英才、雲の如く排出した師でありました。本願寺の門跡は、時に法如上人。ありがたいお方である。死んだら何になる。牛になるという会話を、味なく読んではならぬ。これ、真面目な話である。僧僕和上は偉い。
御門跡といえども、牛にも馬にもなる、地獄ゆきである。わしが死んだらどうなる、と問わるれば、牛になるとでもいわねばならない。牛には赤牛というのがいる。赤牛も黒牛も、きっと前の世で、煩悩にいっぱいの生涯をすごしたのであろう。僧僕和上自身も、門跡を責める資格のない泥凡夫。門跡のあとから、また牛になど生まれる業をつんでいる。

仏にする
 しかし、その牛に当然なるものが、今度は仏にされるというのである。仏になるというより、仏にするのだ。そう告げ続ける。本願がすばらしい。牛になる、赤牛になるという会話は、必ず牛になる者が、必ず仏にするという本願への確実な讃(ほ)め言葉である。本願不思議、広大な仏恩への驚嘆である。門跡と和上、必ず牛になる二人が、本願の野放図な力を讃えている。

(昭和四十年七月)

五十九 大盤石 「九条 武子」

智恵の子は 大磐石の 下じきと
ならんとせしを のがれしと笑う

          (九条 武子)

下じき
 われわれの、心のうごきを知っている人は、外にいない。全く知られることのない胸の中で、われわれは途方もないことを、思いつづける。その心をたった一人、こと細かに知っているものがいるとしょう。その者は、大へんな智恵のある小さな者としょう。
智恵が洋服を着たような者である。その智恵の子が、われわれを笑うのである。なぜか。人はたやすく大磐石の下じきになる。そうすると、ぺしゃんこになる。下じきになろうとするまで、人さまには知れない。ある時は、本人さえ知りません。智恵の子は、じっと知っている。下じきにならずにすむと、智恵の子はカラカラと笑う。それは本人の努力が愛おしく思われるからである。いじらしいからである。

大磐石
 われわれを下じきにする。大磐石とは、何か。われわれを押しひしぐもの、それは、われらの中なる欲望である。煩悩である。憂いであり、快楽である。過去なる罪の思いもよくない。
 武子さんは、自らの逆境をいうのであろうか。疑いのとりことなることを、さすのであろうか。用心しないと、わが心に流される。われわれが、下じきの危機にあると真宗は告げる。

(昭和四十年八月)

六十 先立ちし子 「有田 甚三郎」

一つ二つと 石積むすべも 得知らざり
守らせたまえ 南無 地蔵尊

         (有田 甚三郎)

子を
 有田甚三郎という人を、私はどんな人か知りません。この人は、幼子を亡くしたのである。人の不孝の中で、先立つ不孝ほどの不孝はない。子は親よりあとまで生きねばならない。老小不定。老人が必ず先に死に、若いものがあとだと定まってはいない。しかし、逆憂いは悲しいことである。老が先で、小があとの方がまず望ましい。だから、子が親の死をとむらって泣くのは孝である。
 子は親の死の悲しみを背負って泣く。けれども、子に先立たれた親の悲しみにまさる悲しみはない。その悲しみを、親に背負わせるのが、先立つ不孝である。子に死なれた親の悲しみは、身も世もない。子が幼いほどそうである。死んだ子は、さいの河原で石をつむという。幼いものの積む小善根である。小善根を以て、福徳の因縁は満足しない。

思う
 幼稚園の園児を見る。腕白が威張り、幼児はむごい。石を数えも出来ぬ、積みも出来ぬわが子は、大きい子にまじって、今日もびりになって、石をつむであろう。お地蔵さま、私の子のを手伝って下さいませんか。父も母もいない河原、腕白の中に交っておろおろする子、淋しかろう。幽明をこえて思う親の悲しみである。

(昭和四十年九月)

六十一 愛語 「道元禅師」

愛語というは 衆生を見るに まず慈愛の 心を おこし
顧愛の言語を ほどこすなり
愛語を 好めば ようやく愛語を 増長するなり
しかれば 日頃しられず 見えざる愛も 現前するなり

              (道元禅師)


 道元禅師は、御開山81才の時、五十五才で亡くなられた方。曹洞宗の開祖である。弟子を養うこと、きびしいお方であった。しかし、仏道を行する者には、無限の愛が育つ。きびしさの底にあったのは、深い衆生愛であった。
 世間一般の愛は、広さをもたない。必ず憎しみが裏側にある。むしろ憎しみの中に咲くわずかな花が、世の一般の愛であるかも知れない。
 政治上の論議を聞いてもそうである。人間不信、憎悪、疑惑、怒りの会話である。若い新聞記者達の文章は、一見、民衆に愛ある人のように見える。しかし、その愛情らしきものは、必ずある一部の人に対する憎しみを込めている。その憎しみは、正義の名のもとに、よきことと思われている。


 一切の人々に愛語を用いよ、暴悪な語を用いるなと、禅師はいう。正義の名のもとに暴言を用いるな。いついかなる時も、愛語を用いて自らを訓練せよ。そうすれば愛が生じる、というのである。
 誰かを愛せずして、誰かを愛するは、本当でない。愛語で訓練せよ。

(昭和四十年十月)

六十二 聞き場 「浅原 才市」

あさましや さいちこころは あさましや
もうねんが 一どにでるぞ
にがにがしい あくのまぜりた ひがもえる
あくのまぜりた なみがたつ
あさましや ぐちのまぜりた ひがもえる
じゃけんもの あさましや とどめられんか
さいちがこころ くよくよと
おきるこころを たずねてみれば
てんにのりこす さいちがこころ

ここにちしきの ごけどうあり
これさいち ここがそなたの ききばぞよ
ありがとうござります
みだのほんがん なむあみだぶつ できたから
われがあんずることは ない

きけよ きけよ なむあみだぶつ ききぬれば
われが おおじょう これにある
なむあみだぶつは われがもの

              (浅原 才市)

聞き場
 信仰の門に立ちあゆみ進むと信仰の心は、次々に変る。そのときどきに、これこそ信仰の中心点だと思うのである。しばらくしてまた変る。御開山のお言葉の意味が、時々に変る。信仰の大切な曲り角がある。そこが聞き場である。曲り角は、曲ったものだけが、曲り角であったと知る。才市は大切な曲り角を、ここがそなたの聞き場という。どこか。わが心のにがにがしさを案ずる者に、われが案ずることはないという。心のにがにがしさを、案じつづけたのは、本願である。遠く深く案じて下されたことを聞くのである。

(昭和四十年十一月)

六十三 煩悩の過去 「九条 武子」

過去といふ またもかなしき 暗がりの
なかに空しく 今年も入るや
             (九条 武子)

歳暮
 貧乏人である私も師走となると少しあわただしい思いになる。今年も終るなァとい思いも次第に募る。何年かの歳の暮れをやって来て、今年の暮をその上に積みかさねるのである。いろんな人々とのおつきあいの一年であった。つきあいのなかには、けんかも含まれる。人はどこで育てられるのかといえば、おつきあいにおいてである。おつきあいは、すべて快くはない。一年、一体何人と関係するのであろうか。この一年、おつきあいの巷にすぎた。憶えていたくないこともある。年の瀬に、にがにがしいことを思いだす。もう一度あってほしい快い思い出もある。総じて人の世の巷に生きて来たのである。そこで私なりに育てられた。決して清浄な一年に育てられたのではない。

過去
 この一年は、煩悩の一年であって、煩悩の歴史にこそ、わが道場であった。昨年も、その前も、そうであったように、今年も、悲しき煩悩の過去であった。自らの業であって、立ち戻って繕うわけにわゆかない。過去とは、不分明な一団である。悲しく暗い塊である。そこに宝石の粒は光っていない。今年をそこへ送る。

(昭和四十年十二月)

六十四 御報謝 「句仏上人」

磬一下 今年報恩の 第一聲
           (句仏上人)


 新年おめでとうございます。句仏上人は、東本願寺の前の御法主さまであられました。昭和十七年二月六日、御遷化になりました。お歳六十九才。俳句その他の道に秀でたるよきお方でございました。殊にその句は、単なる風流でなく、深い法味を潜めるものでございます。磬(けい)とは、内陣の中央礼盤に座して、導師が打ちならすものです。お経のはじめにならして、それから声を出します。元旦、句仏上人の東本願寺は、広々とした内陣。寒さの中に、御開山さまは座っていらっしゃいます。元旦の内陣に、短く鋭くひびくはじめの物音は、磬である。その磬を打つ棒を打ち下ろすのは、句仏上人である。一年が御報恩の一年で、それ以外の何ものでもない。それがこの一下(いちげ)ではじまる。句仏上人御自身は、この一下からはじめて、御報恩に油断してはならぬぞと、思われるのでございましょう。


 磬を打つのも御報謝である。一つ何かをあげて、御報謝というのではない。元旦から晦日まで、報謝ならざるはない。油断してはならない。しかし怠けものは、退屈する日がある。凡夫の悲しさであります。

懈慢界に 生まれて永き 日なりけり
            (句仏上人)


勿体なや 祖師は紙子の 九十年


(昭和四十一年一月)

六十五 無常の愛 「外村 繁」

私は 先妻を 亡くして 慟哭した
その反動のように 今の妻を 熱愛する
世間の人は そんな私を嘲笑する ・・・
私は この 慈悲の始終ないことは 
徹底的に 知らされている 
泣くことの空しい同様 愛することも 至って空しい

            (外村 繁)


 外村繁は、昭和三十六年夏、ガンで亡くなった。立派な小説書きでした。後妻も、乳のガンで亡くなりました。二人は一時、二人がガンであることを、相知りつつ生きた。この人は、滋賀県に生まれた。京都の三高を出て、東京の大学の頃、カフェの女給、とく子と一緒になった。高校の時、歎異抄にふれて驚いたが、しっくりしなかった。潔癖な青年、外村は、とく子と一緒になり子をなした。その人は、愛に身を染めつくしていった。親鸞聖人の言葉への抵抗がなくなっていった。聖人の厳しい言葉の背後に、しみじみと慈悲光の満ちあふれているのを感じた。愛に狂うてみて、自分の愚かさを思い知った。

無常
 この人四十七才の暮れ。とく子は四十六才、五人の子を残して亡くなった。昭和二十三年である。この人の愛情は、静かで深く瑞々しく妻を看病した。翌年すぐ貞子(ていこ)と結婚した。三十九才、初婚。また阿呆のように新鮮に、愛に蘇生した。利己的で浅ましい人間の愛に身を置くより外なかった。この慈悲、始終なし。無常の愛が生まれてくる。

(昭和四十一年二月)

六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」

うきことに ををたひとなら わかるぞな
うきことに あわざるひとなら わかるぞな
ためいきほど つらいものはない
こころのやりばのない ためいき みだに とられて
なむあみだぶつ なむあみだぶつと もをす ばかりよ
             (浅原 才市)

憂い
 信仰は必ずしも苦しい生活をせねばならぬというものではない。世の中で、いわゆる幸せに暮らしている人も当然、信仰の人であり得る。
 とは申せ、生活の上のいろいろな苦しみ、悩みは、信仰への入口であるかもしれない。そして信仰にふみこんで、ますますその憂きことは、意味を深めてくる。これはどの宗教でも同じであろう。それかといって、われわれは苦しみを欲しくはない。また、それほどでもないことを、悩みだと思うのもおかしい。避けることの出来ない憂いは、甘受せなばならない。やり場のないためいき。孤独であるからやり場がない。八方ふさがりであるから、やり場がない。ため息が出る。

悦び
 始末の出来ぬため息をひっかついで、法蔵菩薩のため息である。私のため息がそのまま法蔵菩薩のため息である。衆生の苦悩は、わが苦悩。ため息を肩代わりしてもらって、楽になるものではない。ため息の中に、私と弥陀と立って、お念仏を申す。辛い。仏つねにこれを知り給う。

(昭和四十一年三月)

六十七 タノム 「宇右エ門」

うえもんさん 弥陀をたのむ味わいを 聞かして下さいナ
ヘイ 弥陀を たのまにや なりませんかいの
たのまにやならぬ様なら
如来さまが よき様に して下さいましょうぞいな

          (播州大田 宇右エ門)

タノム
 宇右エ門は、天保三年九月三日、兵庫県大田で往生した。七十五才。今から百三十年前である。古来たくさんの人々が、真宗の信心に工夫をしました。本人にとっては、大苦悩をして工夫した。一転してみれば、何のことはないのに信ぜられん、スーッとせぬ、と考えあぐねる。タノムところがわからん、という。何かわかることであると思っている。心理学のように思っている。どこがまちがっているのであろうか。この私などと、胸に手をやっているが、実はこの私とおや様との間に空気がある考え方をしている。おや様の前の私を、はたから見ている考え方から抜けていない。タノム私は、字にも絵にも言葉にも手まねにもあらわせない。私は私である。

タノマセル
 私は私を見ることできぬ。私を見、案じ、救い給うおや様を見るばかりである。宇右エ門は亀山御坊に参る。

宇右エ門さん 一口 御縁を下さいナ
この者をでございますそうナ

 この者が、タノムでない。この者を、タノマせて救い給うのである。

(昭和四十一年四月)