一 遠い純情 「九條 武子」

なにをもて なぐさめやらん かの日より
胸のいとしご おとろえゆきぬ
          (九条 武子)

純情よ
 そのころ乙女とよばれていた。紅顔の年というものである。
人はやさしく綺麗な心を貴び、美しい生活を作って行こうとするものに思っていた。
おとな達の狡猾なありさまを見聞きしては、あれはいけないことと思っていた。そうしては、自分の正しさを誇り、末ながく清潔であろうときめた。 不純は吐く程にいやらしいこと。

それに
 なのです。人を知り、人と交わって、もう年月、嘘をおぼえました。もっとひどいことには、人を疑うことを知りました。自分を疑う人を、怒りあざけったこともあるのに、人に疑いの目をむける。何とした、はしたないことであろうか。猜疑の猜という、みにくい字。もう何でも思い、何でもする。わたしはおとなになった。いたましい煩悩のもので、わたしはある。

償い
 かって胸に秘め、育て愛した、いとし子の名、疑いをしらぬ”純情”。衰えていったあの子を、どのようにして慰めようか。邪慳にされて、消え衰えた時、手をふって遠くなった。今は早、償うに足る心もない。

(昭和三十五年十月)


二 みおやの涙 「九條 武子」

百人の われに非難の 火は降るも
一人のひとの 涙にぞ足る
        (九条 武子)

母の
 林養賢という少年僧が、金閣に火を放った。驚きの朝があけて、京の街は悲しみに沈んでいた。戦争に打ち敗れたわれわれの、せめてもの誇りで金閣はあった。いや、金閣を焼かないように、戦争を負けてやめたのだ。
 その母が、想いを昂げて、京都駅についた時、百人が百人、白い目をして見た。目で射た。射られながら街を通った。少年の前に立って、母は子を責めることができなかった。もう責めなくてもよかった。
 翌日、母は肩をうなだれて、京を去った。山陰線で、金閣近くを通過し、嵐山の鉄橋を渡るとき、汽車から川へとんで、母は死んだ。泣いていたであろう。

父の
 凶刃と憎まれて、十七才の少年は、立派な政治家を殺した。戦争に打ち敗れて、われわれは自由を得た。いや、よい国に作り直すべく、戦争は負けてやめた。政治家は、働く者、貧しい者のために、機関車のように働いた。
 人は、少年と凶刃のグループを怒り恨み罵った。その父は官を辞めた。と、少年は、自ら死んだ。その父は、・・・だが・・・かわしそうです、ともらしています。

仏の
 困難ではあるが、悟りへの道はある。智慧をみがく術もある。その道にゆき昏れ、その術に傷ついた、いずれの行も及びがたき身に、一人だけ涙をたれて下さるみおや。金剛堅固の力である。

(昭和三十五年十一月)


三 小賢しき分身 「九條 武子」

いつとなく 見え隠れして わがあとに
間者めきたる ものの添いくる

              (九条 武子)

間者
 名はぶしつけだが、映画で親鸞というのを、二度見ました。ひどく心に残っているのは、少し足の悪い背かがみの小男です。盗賊の手先になっていて、聖人の様子を窺います。見ていてそして見てからも、妙な気がします。我輩の後にも、こいつがいるようだと、かねてうすうす思っていたので、そいつが現(うつつ)に見えて、飛び出してきたその味のわるさです。
 私をつけてくるのは、殺意ほどのものをもってはいない。小賢しいそいつは、どうも随分まえからいるらしい。

分身
 この間者らしいのは、付け窺うのでなくて、添い唆す役割だ。ある時は前にまわり、またの折は横からでもくる。注意深く私を見ていて、油断するとずる笑いをして、すばやく擽りにくる。
 そいつは、まぎれもなく私の分身のようです。他人様には見えない筈だが、私の目には、チラチラかかる。そいつに擽られると、一切の欲望が陰にこもって湧いてくる。仏の光をそいつはとても眩しがります。

(昭和三十五年十二月)


四 いたき鞭 「九條 武子」

ねぎらいも むくいもなくて 新たなる
年は来にけり いたき鞭もち

               (九条 武子)

おめでとう
 雪景色すがしく、新年がまいりました。重い音をして、年賀状が配達される。道理めくことをいう人もあるが、賀状はよきもの、新年はめでたきものである。 そこで、年頭の思いを思います
 年という者が、新しく来たわけだが、この者は、昨年と同じように、きっと鞭をもっている。今までの生きの中で、そう思っても参った自分であります。年というこの者は、色も形もなく、音もなく、ひと日ひと日、すぎてゆく。毎年大晦日になって、さよならとも、おいこらともいわず、去ってしまう。つかみどころのない年という者です。
 それが元旦には、面相を替えて、ヌーとやってくる。年の終り頃、よくぞこの住みにくい世に、ひと年、己が邪心悪心と闘ったお前は、と賞めてもくれぬ。また、心まかせに、煩悩を熾らせた奴じゃ、とあらわに叱りもしない。


 その年と、三十七回目のおつきあいです。聞法とは、形なく甲斐なきものかな。

(昭和三十六年一月)


五 みずからの道 「九條 武子」

生くる今も 死にての後も われという
ものの残せる ひとすじの道

                (九条 武子)

如月忌
 昭和三年二月七日は九条武子さまの日である。その夕七時半、また来ますといって、去られた。今、その心を推して・・・。
 人さまは、武子の生涯を、厳しいものと申されるかも存じません。武子がきさらぎに去るのは、それにふさわしいものでもございましょうか。こうして生きております今生にも、この後、永遠の将来までも、武子は、白い一筋の道を残してまいります。それは、武子の足跡だけがついた細い道。おぼつかない足どりではございましたけれども、今度はしっかりした歩みになります。
 いいえ、一筋の道を残すと申しましても、武子の過去が、人さまの前で光っているなどと、奢るつもりではございません。もっともっと昔から、武子の道を、歩んでまいりました。人さまが、武子の道を、過りもいたしませんでした。武子も、人さまの道を、踏みも申しませんでした。

われ
見はるかす 雪のひろ野に 歩み来し
われみずからの道 汚しえず

 繕うを得ず、悲しくもあり、誇らしくもある、武子の道でございます。これから後もどのようになりましょうとも、武子は、この道を呈示しながら、その責めを負いつつ、この道の果をまいります。

(昭和三十六年二月)


六 ほろびの玩具 「九條 武子」

うつくしき 裸形の身にも 心にも
いく重かさねし いつわりの衣(きぬ)

         (九条 武子)

京人形
 整うた座敷でか、飾った洋間でか、京人形を見たとしよう。ガラスケースも大きいのが、部屋に置いてある。京人形は、女の理想像であるのかもしれない。何ともあでやかではある。

夢みるような 京人形
乙女のような 京人形
匹田鹿子の たもとから 悲しいものが 覗かれる
細い小指の 折れたあと 黄色い乾いた 土の色

 武子さまの作であります。隙間なく粧うたのに、たった一つだけ、隙がある。姿が華麗であればある程、そこが悲しい。女の美しい粧いは快い。恍惚として見る。大きい帯での後姿も、奢らしくいい。たった一つだけ淋しいのは、振りである。あそこには、繕い損ねた悲しさがある。虚飾の悲しさであろうか。重ねても重ねても、中身の出口のごとく、取り残された隙間である。

外賢
 砕けば土塊にすぎない、人形の折れた指の土の色。美しい女の裸形が刹那の春を誇る。所詮、老いさらばえる紅顔である。人の世の営みは、畢竟ほろびゆく玩具。
 いいやいいや、そう観念しつつ、今日もまた、いつわりの粧いをこらします。幾重も幾重もかさねては、人の世の掟と、われを許し、粧い粧うては、人の世の掟と、人を斯(だま)し、内は愚にして、外は賢である。はずかしい。

(昭和三十六年三月)


七 御遠忌 「浅原 才市」

ごをんきがきた 上(じょう)どからきた ・・・
あんらくじのごをんき しゃばでつとめる
ごかい三のごをんきわ さいちが ごをんき
ごかい三ともりやいよ ごをんきわ ごをんほうしゃの
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
ごをんきわ よいものよ ごをんきに 
にょらい三の さいちがにょうぼにして ごせゆての
まいばんさいちわ にょらい三とねるげなよを 
しまいにわ 上(じょう)どいむこをにいくげなよ
さいちわ ゑゑことしたの

                 (浅原 才市)

御遠忌
 今年、生きていることのうれしいことよ。今年、御遠忌にあうこと、この世でこの年に生きていること、日毎日毎がうれしくありがたい。私、俵山の人達とこの年を待ち、この月を待ち、この日を待ちました。
 三月十二日朝、京都についた時、私は京都に来たと思った。ご開山さまの土地に来たのです。御遠忌の、その地に来たのです。お迎えの方が、萬里の遠路をしのぎ、莫大の辛労をいたして上京の方々、名聞人並ではありません。信心と御報謝の思いが大切でありますと、ご挨拶。さようさよう、ありがとうございます。

私のもの
 俵山からのつれは九十人です。その中、夫婦は十三組です。平均年令五十四才、十二日朝八時、本願寺前に着き手際よい導きに従って、堂内に進みました。

御影向
 広大な増設参拝席、真新しいたたみ。私の目を喜ばせ、私が御遠忌をつとめるために、立派にお待受けがすすめられたのである。御影堂内に着座、金障子が開かれると、輝くお荘厳です。明るい照明の中で、大蝋の焔が六つ、もの言うがごとくゆらめく。お供え二十六対、内敷の近代的模様、目もさめるお花、その中に、祖師は静かに御影向である。
 十時喚鐘。椽儀(えんぎ)が参進する。衆僧着座。お供えが、讃仏歌の中で伝供される。
たとい大千世界に
満てらん火をも過ぎゆきて
仏の御名(みな)を聞く人は
永く不退にかのうなり

 ひびきわたる讃えのうた。ああ、ああ、今ぞ御遠忌が来た、お浄土から来た。御開山さまを乗せて来た。御開山さまが、お浄土をつれておいでた。
 お祖師さま、おいでなさいませ。私もただいま参りました。暫く一緒に、お前に居らして頂きます。ご開山さま、あなた、今日はもやいの御遠忌でございます。
 何という嬉しい、この日この時、私の御遠忌、お祖師さまが、迎えに来て下さった御遠忌、御遠忌。

この道
 お祖師さま、あなた様、随分お辛うございましょう。ご開山さま、あなたがこの道を切り拓き、歩んでくださったので、私も御跡を歩めます。ありがとうございます。如来さまから呼びかけての南無阿弥陀仏であると、あなたは教えて下さいました。
 ああ、この道、御開山さまの道、親鸞さまの道。ええことをした、この人に会うた、この人の道を聞いた。如来さまに会う道、会うた、会うた。

(昭和三十六年四月三日)


八 うそ うそ 「浅原 才市」
もがりかやんな うきよのことを ひっくりかやうて
まよいになるぞ こころしずかに うきよをすごせ
たがいに これをはぎみま正(しょう)
なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ
わしのゆうこと をそをそ

                (浅原 才市)

うそうそ
 才市は、昭和八年一月十七日、八十三才で亡くなった。この人が、生涯かき綴ったくちあい、今は単にうたと、いっておこう。一首宛(づつ)時折によむ程度では、才市の全人格は伺えないが、中でも珠玉と思われるものを、検討してゆきます。今日のこの一首は、最後に至って、わしのゆうこと、うそうそという一行が光る。

無常
 はじめから才市は、信心の人の処世を、人に示した。才市は、浮世−世俗を捨てはしない。むしろ、この世にうけた「いのち」を、この上なく楽しんだ。あるうたに、
  さいちゃ どんどこはたらくばかり
と、いっている。互に励みましょうという心である。励むのではあるが、心さわいで、もがき働くのであるならば、それは無信の人の姿だ。念仏の信は、浮世がひっくり返ることもあると、その無常を教えてくれる。世を無常とした上で、無常でない念仏の信を、一本通し、そして心静かに無常の世を励めと、才市はいう。

真実
 才市はそういって、称名しながらしまったと思うのである。小慈小悲もなく、偉そうなことをいった。みんなうそです。仏さまだけが真実です。皆、六字の力です。

(昭和三十六年五月)


九 待伏の茶屋 「浅原 才市」

わしのうまれわ じごくのうまれ
わたしゃたびいぬ ををすべて
うきよをすごす なむあみだぶつ と
しゃばのせかいも あなたのせかい
さいちが ご正(しょう)の さだまるせかい
ここわあなたの まちぶせのちゃや

             (浅原 才市)

旅犬
 才市のうたを、この会報に書くつもりで、何百とあるものの中から、あれこれとえらんでおりますと、半日たちました。しまいには、才市の中に引きこまれて、どれもよくて決めかねます。
 善導大師の教によれば、才市は、生々流転の凡夫、すなわち地獄からの生まれである。金持ちに飼われたセパードではなくて、何処ともなく迷い来た、旅犬である。諸神諸仏に尾をふっても、善い所のないゆえに、笑われ叱られ通しだ。尾をすぼめてすごしていたら、一匹の犬がいた。これもみすぼらしい犬だが。

親友
 となってくれた。この犬、元来立派なのに、才市と一つになろうとて、身をやつし、なむあみだぶと名のって、生涯のつれとなってくれた。才市にとっては、この生涯のつれは、かけがえもなく尊いものである。おやさまに心とられてみれば、この娑婆は、あなたがしつらえた待伏せの茶屋なのだ。この茶屋に、待伏せにあったのが才市である。茶屋の主に見つけられ、もう迷いの旅は続けられない。

待つ
 あなたは、どれほどお待ちになられましたろう。この生涯全部が、あなたの茶屋、才市が浄土を待つ茶屋。

(昭和三十六年六月)


十 くよ くよ 「浅原 才市」

きみよむりよ十(じゅ)によらい なむふかしぎこを
そりゃそりゃ またでたでた くよくよが
くよくよよ でたけりゃでゑよ
でてもつまらん われがなをそい
わたしゃ しやわせ きほういたい
なんまんだぶつにしてもらい
ごをんうれしや なむあみだぶつ

            (浅原 才市)

くよくよ
 大正三年、才市六十五才のうたである。才市は、ある日のお内仏おつとめをすまして、これを書いたと思いたい。才市は殊勝な顔をして、おつとめをする我が身を、正信偈の最中に、ふと思った。自ら言うのである。才市よ、何という心で、お前は経をよむのか。勤行の心に、おおよそ遠い、お前のこころではないかと。
 そして、又またそんなことを思う、と思う。くよくよとは、世事のくよくよばかりではない。仏前に、信者としての心を、あれこれ細工する、その心を、くよくよといっている。乱れ心を抑える、抑えようとする心を抑える。その心を、更に否定する。イタチゴッコという、あの遊びのように。一が刺した、二が刺した、三が刺した・・・八が刺してブンブンだ。あのブンブンは、手続きの限界であり、思考の限界である。

先手
 才市は遂に、でてもつまらんという。自心のくよくよは、真の信仰では用いてはならぬのである。自心の思考、判断の無常を知っている才市は、われが遅いという。早いのは何か。仏だ。機法一体。才市はすでに南無の中にある。

(昭和三十六年七月)


十一 歓喜の称名 「浅原 才市」

わたしゃ こまうたことがある
むねに くわんぎの あげたとき
これを かくこと できません
なむあみだぶつと ゆうてかけ

            (浅原才市)

一文不知
 私は一週間ほど京都にゆき、七月六日に帰りました。七日お朝事は、八日ぶり再開です。松尾チヨさんは、いつものように参詣、私とものをいわぬまま、御和讃もすみ、いつものように法話、才市さんの歌はいいなあ、あと三分でやめよう。
九時七分、おばあさん、あくびをして坊守に顔を向けつつ、あっとゆうてたおれ、一切無言。
 十日夕景、ほんとうに、素懐をとげました。文字を知らぬチヨ女でした。信仰の喜びは、ひょんな時に、あげて来ます。つきあげて来ます。口べた手べたです。チヨ女は書けません。お称名する外、何も言えないのです。

ただ
 そのかずわずか六字の念仏、ありがたいな、ええの、これだけです。つきあげてくる歓喜を、書けないから残念か、困るか。いいえ、何の不足があろう。なまんだぶ、なまんだぶ、ただ念仏する中に、無上甚深の心があります。
 無常講の人達のおかげで、暑い道、かよいなれた寺参りの道を、チヨ女のなきがらは、光摂坊に参りました。
しきみ一対、法友誠隠居士の弔辞一つ。法話会同行、おのおの焼香。  チヨ女は、七百年目に、開山聖人に会うか。松尾さんよかったなあ。
マツオサン オッツケオソバニ マイリマス サガケン ミヤジエイ(弔電)

(昭和三十六年八月)


十二 夏安居 「浅原 才市」

上(じょう)どから ごをんきが
さいちがこころい ひをつけにきたよ
なみあみだぶつの ひをつけて いんだよ
あとわ ををごと きやさりやせんよ
いつも ぽやぽや ぽやぽやと
とても このひわ きやさりやせんよ
をやのこころが きやさりやせんよ
ごをんうれしや なむあみだぶつ

            (浅原 才市)

 今年は、祖師の七百回忌の年である。今年の俵山夏安吾は、それにふさわしく盛大であった。前後六日間、それは最早われわれの仕組んだものではない。講師和上も、法友大衆も、私にとっては、浄土から来たものであった。少し宛(づつ)育てられてはいるが、こうして、殊に大きな火をつけられた私は、懐炉の灰かモグサ。そして夏安吾は、往んでしまった。残って消そうにも、消されぬ火が、法悦が、ぽやぽやとぬくい。
 下関の辻野さんが、夏安吾はええの、これがたのしみでの、と喜ぶ。金尾さんは、沢山の熱心の方達と、同座さしてもらい、心の奥にしみついた感激と述べる。岡村さんは、我家の親様が一入(ひとしお)なつかしく、一人涙し、ご法縁の酔いが、今も身心に一ぱいとのお便り。わが心の煩悩共は、大騒ぎである。夏安吾のあとは、煩悩共はおおごと。
 こうして仏さまは、私を育てて下さるのか。うれしいこと。

(昭和三十六年九月)


十三 一隅を照らす 「伝教 大師」

国の宝とは何物ぞ 宝とは道心なり
径寸十枚は 是れ国の宝にあらず
一隅を照らすもの これ即ち真の 国の宝なり

             (伝教 大師)

一隅を照らす
 これは伝教大師最澄が、比叡山で仏弟子を教育した時の学則、すなわち『山家学生式』の一節です。
 径寸十枚とは、さしわたし一寸もある宝の玉十個ということで、むかし支那の梁の国王が誇った宝です。比叡山で、この学則の下に学んだのが法然上人であり、道元禅師であり、親鸞聖人でありました。この人達は、けっして国中を照らそうとした方ではありません。黙々として、わが足もとを照らしただけです。そういう生涯をつらぬいたのは、仏道への道心でした。

 人を責め、ひとの世話をしたがる世の中です。人の領分まで照らそうとします。争いになります。まず、わが領分を照らそう。机の脚は、どの脚も一隅を支えている。自分の隅も照らせないで、人の隅まで照らすなかれ。
 道心こそ平和の芯棒である。

(昭和三十六年十月)


十四 狐客 「古 謡」

青い芒(すすき)の 野にくれば 風に吹かれて 立つ波の
波のゆくえの 遠いこと 遠い思いの 野をゆけば
宵をほのかに 出る月の 月のすがたの 細いこと
細い出月の 芒野に 待ちも待たれも せぬ身ゆえ
素足 しろじろ 独り哭く

 ある頃の流行歌であった。この謡を、節まわしでご存じの方は、ありませんか。
 耶馬渓の奥の高原で、生い立った私は、芒の原のつれなさを過ぎた。背丈なす真萱の細道をゆけば、芒は頭の上にあたる。
 所として小高い道は、その原を見はるかせる。霜月の風はもう寒い。その風は、颯々と吹く。ゆるい起伏のある高原で、低目高目に戦(そよ)ぎます。白銀よりも凄じい、むしろ青い、それは波である。

旅ゆく
 遠い丘の穂並みが、きらりとゆれて、薄墨色に暮れる一人道。ものいわぬ十日の月がもの凄い。それは山の端から、ほとばしった赤い血の果てか。月も今宵は一人か。

狐客
 愛と欲のからまり合った人間どうしの絆の中に、どの一本か、金剛なのがあろうか。ここは、一人旅の宿屋か道中か。待つ人もなく、待たれる身でもない。芒の道の遠いこと。
 破れ沓は、足を包むにあらず。草の根もとの露にぬれて、素足が闇に白い。寂寥を哭く。旅である。

(昭和三十六年一月)


十六 今を惜しむ 「兼好 法師」

されば道人は 遠く日月を惜しむべからず 
ただ今の一念 むなしく過ぐる事を惜しむべし 
もし人来つて 我が命 あすは必ず失わるべしと
告げ知らせたらんに きようの暮るるあいだ 
何事をかたのみ 何事をか営まん 
我らが生けるきようの日 なんぞその時節に異らん ・・・
無益の事をなし 無益の事をいい 無益の事を思惟して 
時を移すのみならず 日を消し 
月をわたつて一生を送る 最もおろかなり

               (兼好 法師)

松の内
 新年おめでとうごうざいます。俵山は、年越しの雪で迎えました。心を少しよそゆきにし、家族と挨拶し、両親を訪(と)い、人と盃を交わしました。逢う人毎に、おめでとうを言う中に、松の内はすぎて、も早五日。お正月、お正月と言いもし、思いもしている中に、自分だけとり残されたようで、世は平生の姿になって了(しま)った。もう今年が五日ほど過ぎた。消えた。
 お前のいのちは、あす迄だと、人が来て宣告したら、のんびりはしていまいに。かねて無常ときき、言いもしていながら、無益のことに日を過ごしている。仏道を信ずる人は、日月を惜しむような、大様なことでは、いけないというのだ。

今の一念
 刻々すぎてゆく、ただ今を大切にせよといわれる。ほんとうに、もう取り返しのゆかぬ日々刻々だ。つなぎ止められぬなら、止めておきたい今日、ただ今。ああ、今年も五日消えた。

(昭和三十七年一月五日)


十七 寝ずの番 「浅原 才市」

あさましや さいちこころの ひのなかで
だいひのおやは ねずのばん
もゑるきを ひきとりなさる おやのおじひで

               (浅原 才市)

一月十七日
 浅原才市は、昭和八年一月十七日に八十三才で、どこぞへいんだ。この人のうたを、いくつもよんでいると、なつかしくて仕方がない。才市は、せかいをおがむ、また才市は、せかいからおがまれていた。なむあみだぶつは、せかいであった。せかいは、つづめて、才市のためにあった。浅ましい思いは、単なる反省ではない。才市は、わが心のあさましさを、火という。まさしく火である。狂いまくる業火である。この会報第一号に、武子夫人の
なにをもて なぐさめやらん かの日より
胸のいとしご おとろえゆきぬ

を、かきましたが、純情というわが心は、業火の前に、ひとたまりもなく、やけうせた。

仏とは
 才市が見つけ出した仏は、その心の業火の中に、立っていなさった。気がついたときだけいなさるかと思っていたが、仏は心の火を、ねずのばんをしていて下さった。私が京に行った間に、福隅信義さんも、山近さんも、亡くなった。家族は、寝ずの番をしたに違いない。寝ずの番、ああ寝ずの番、燃える私を、仏は自分の火として。

(昭和三十七年二月)


十八 華やぐ命 「岡本 かの子」

年々に わが悲しみは 深くして
いよよ華やぐ 命なりけり

         (岡本 かの子)

 かの子は、昭和十三年、四十七才で亡くなった。東京郊外に生まれ、岡本一平と結婚した歌人である。一平は、日本漫画の先達であった。この歌は、晩年のものとはいっても、老人ではないわけです。
 かの子は何か特別に、悲しいことを、この歌で示すのではない。人はどなたも苦労をおもちです。今は悲しい苦労の歌ではない。苦労と苦悩とはちがう。苦しみを重ねた人が、必ずしも宗教には、近づかない。悩みの心が、はじめてその人を、宗教に導く。特に何かの事件がなくても、宗教の智慧は、悩みをもつ。かの子の悲しみは、かの子の業苦の悩みである。

年々
 年を重ねるということは、楽しいものである。女の年を多くいうと、怒る女がある。あの心は全く解せぬ。青春がそれ程よいものであろうか。  心貧しい美人よりも、年にもまして、心つややかな老女を美しいと思う。体はどうせどうせ偽っても、干大根のようになりますわいな。  老醜の人になるか、老熟の境になるか。いのちの華が、身と共に廃れるか、心と共に華やぎ咲くか。それは、若い今日を、悩んでゆくかどうかにかかる。せっかくの命をかみしめて、ふくよかな命に進みたい。

(昭和三十七年三月)


十九 閉された生涯 「俚 言」

仕合せは いつも花さく 春四月
女房十八 わしゃ二十 遣って減らぬ
銭百両 死なぬ子 三人 みな 親孝行

胎生
 花が咲きます。木々の芽がふくらんで、やぶれて、ほほえむような、淡緑色に伸びはじめます。いい季節です。

やわ肌に 熱き血潮に ふれも見で
淋しからずや 道を説く君 

              (与謝野 晶子)
 方便化土へのいざないが、迫ります。大人数の仕事で、たった一人の欲っぱりが、私有の権利を固く守りますと、ハタと事業は行き詰まりです。銭を減らすまいとしがみついていますと、多くの人は、もう四、五年か、十年がまんしょう、いずれ年寄りだから、長くはない。あれが死にさえすればいいと、待っています。
ああよかった、銭を守ったと思って安心していると、人はみんな、その人の死を待って笑っています。早く死んで了(しま)えとおもわれながら、至極いばってくらしています。ひょいとすると、元気なわが子が、親孝行と寸分かわらぬ真似をして、まことにひそかに、まことに真剣に、老人の死を待っては居まいか。
 胎生は、浄土のことばかりではありますまい。仏の風景を、見ることができない生涯です。仕合せという、なまぬるい昨日今日に、目が眩みます。まだわしゃ二十と思っています。片目で見る景色です。

化生
 仕合せの垣根の中で、満足すること勿れ。真実報土の仕合せは、広い世界である。

(昭和三十七年四月)


二十 はすの花 「聖覚 法印」

ほかには善心あり 尊きよしをあらはして 
うちには不善のこころもあり 放逸のこころもあるなり
これを 虚仮のこころと名づけて 
真実心にたがえる相とす

             (聖覚 法印)

寺まいり
 五月です。降誕会の月です。あなたは、ようこそお寺まいりになって下さいました。お寺に住んでさえ、お寺まいりできない人のいる世にです。開山聖人とか、親鸞聖人とか、南無阿弥陀仏とか、口にかける身になって下さった。よくぞ掌を合わせて下さいました。
 栗の木のように、曲がっていると、言われましょう?。お寺まいりのくせに、と言われましょう?。火の満ちた世の中での、お寺まいりです。地獄も極楽もあるものか、だまされるな、あれは誡めだ、立派にくらしさえすればよいなどと非難します。その世に、よくぞ、お寺まいりになって下さいました。お寺まいりをくさす人は、すべて、みな軽薄な人間です。そとを飾った偽善者です。時には、慎みもなく、放逸に行って、正直ぶる人もいます。偽悪者と申します。

真実心
 お寺まいりをくさす人は、真実の心を求めない人です。不真実な私どもだからこそ、お寺にまいります。お寺まいりをくさす者こそ、己の不真実をかくす人です。ようこそ、お寺まいりになって下さいました。仏の至誠心に育てられました。仏の真心をもらいました。栗の木でなく、はすの花です。

(昭和三十七年五月)


二十一いのちの葉 「浅原 才市」


どがなら さいちや よろこばれるか
へ よろこびわ
わしのからだに こころのごとく
わしのこころに じひがみちみち
なむあみだぶつの ごさいそく

            (浅原 才市)

お朝事
 も早、6月でございます。今日も陽の光が、よりあかあかとした仏の光の中で、過ごさせていただきます。如来さま、お早うございます。御開山さま、お早うございます。
蓮如さま、お早うございます。今朝はようこそお参り下さいました。佐賀の甲斐さん、宮原さん、西市の福田さん、広島の川本さん、その外十人程でしょうか。
よかったですね。いい如来さまに値(あ)いました。いいお祖師さまに値(あ)いました。蚕が桑の葉をたべるように、たった一枚もらった人間のいのち。広さは七十年か八十年か。今日も味わってたべましょう。
このいのちの葉は、舌によっては地獄の味。舌によっては仏の味。舌によっては娑婆の味です。今や私の舌は、名号を称える舌になりました。今やこの命の葉は、仏の味がします。心はどこにあるのでしょう。
胸にあるのは心臓で、心ではない。頭にあるか。足先ふんでも痛い。足先にも心はゆきわたっています。心がからだにゆきわたるようにです。心に慈悲がゆきわたりました。
粗末な心にも、いい気持ちの心にも、なむあみだぶつが、満ち満ち染みつきました。申し上げようもない心のまま、染まって了(しま)いました。称え称えのご催促。へ、称えます。

(昭和三十七年六月)


二十二  恋ごころ 「良寛上人」

向ひゐて 千代も八千代も 見てしがな
空ゆく月の こと 問はずとも

                (貞心尼)

君や忘る 道やかくるる このごろは
待てど くらせど 音づれもなき

                (良寛)

 今から百三十五年前。良寛和尚は七十才、尼貞心は二十九才で、その門弟になりました。
貞心尼は、この老師を慕うのです。恋うのです。良寛和尚は、このよき弟子を愛(いと)しみます。貞心尼は、向い合った師と自分が、そのまま苔むす石になるまで、そのまま居たいのです。
仏の教は、月を指す指である。師に指導されて、月を見たいとは思わない。黙って師を見つめていたい。和尚は愛しの弟子を、想い待ちます。わしを忘れたか、道が草に埋もれたか、久しく言問うことのなきはいかにと案じます。
これは性なき恋いである。道の恋い。蒸留した恋いである。貞心尼は師に向い合っていた。
それだけで師は、われを磨き給う。師よ、月を指し給うなかれ。向い合う師こそ仏なる。和尚は弟子を想う。貞心よ、師を忘れたか、仏を忘れたか、仏道を歩まないのか、なぜ訪わぬのか。

十方衆生
 相手の性を見てする恋ではなく、相手の中の仏性を恋うのである。仏に十方衆生と呼ばれた同士が、互いに温め合って行く心である。美しい仏心を恋い合う。念仏の夫婦、家族、同行仲間は、こう、つきあいたい。

(昭和三十七年七月)


二十三 世は夢 命は露 「良寛上人」

立ちかえり またも訪いこん 玉鉾の
道のしば草 たどりたどりに

          (貞心尼)

またも来よ 柴のいほりを 厭わずば
すすき尾花の 露をわけわけ

            (良寛)

法友
 北陸・出雲崎の良寛和尚が七十才にして、二十九才の尼貞心と遇ったことは、墨絵に彩られた一筆の淡紅色のようにゆかしい。貞心尼、どれほど若く美しかろうとも、ただそれだけで愛しむ和尚ではない。貞心のひたむきな道心が、貞心を美しくする。その道心に魅かれた和尚である。
 貞心尼は若い女である。煩悩性欲のとりこであるのが通常なのだ。それとたたかう貞心尼が、老良寛にはよくわかる。和尚を慕い訪ねる貞心の姿は、性欲とたたかう姿である。貞心尼にとって、良寛和尚は単に人ではない。男であることも、否むわけにわゆかない。貞心が可憐である。

しおり
 お師匠さま、お暇します。また参ります。私には迷いの誘い道がたくさんございます。その折々には、あなたの示した指南を道標とし、枝折(しおり)として、あなたへの道、仏への道を忘れずにたどって参ります。
 貞心、またおいで。来ても傾いた草庵だ。わしも年傾いた愚僧じゃ。もしわしに、とる所あらば、また来い。世は夢だ。命は露だ。すすき尾花、たよりない世だ。仏道は、その道中にあるのだ。誘惑をわけわけ歩めよ。

(昭和三十七年八月)


二十四 無邪気 「良寛上人」

うたよまん 手まりや つかん 野にやでん
君がまにまに なして 遊ばん

           (貞心尼)

うたよまん 手まりや つかん 野にもでん
心ひとつを 定めかねつも

            (良寛)

面謁
 お師さまは、今日はお早うございました。お師さま、今日はずっとおいでて下さいまし。御持参の御書見もなさりたいでしょうけれど、今日はこの貞心につきあって下さい。
お師さまは無邪気なお方。そんなお年で、子らとかくれんぼうもなさる。でもお師さま、今日はお師さまのなさりたいように、貞心もついてまわりますから、御相手さして下されませ。うたのやりとりに、おあきなら、手まりはいかがでしょう。お散歩のお伴もいたします。野ぐさを摘んで、おつゆにしましょうか。
 貞心よ。待っていてくれたか。そうか。うたにしょうかな。どれ手まりじゃなよしよし。野に出たいか。ゆこう。じゃがな、貞心よ。わしはお前さまが慕うほど見事な仏者じゃない。心みにくい凡夫人じゃ。今日も今日とてな。

閃き
 貞心は、師にふれて過ごすのが、無上にたのしい。よき師よき仏者が、遊びの中でひらめかす仏道を、感じ取りたいのである。不用意な所作に閃く道が尊い。良寛は七十の今も求道(ぐどう)の外ない。良寛の遊びは、単なるたわむれではない。遊びも心定めんとする行である。

(昭和三十七年九月)


二十五 大風のごとし 「物種 吉兵衛」

子供が木の枝をもって この間 大風が吹いて
コナイ コナイ センド ゆられて
ポキンと折れました というと
もう一ぺん いっておくれ と自分も合わせ
コナイ コナイゆられて ポキンと折れましたか
と 何べんもよろこんだ

              (物種 吉兵衛)

大風
 物種吉兵衛は堺の人。明治十三年、七十八才で亡くなった。イリコ行商人です。吉兵衛のよろこんだのは、大風の為に枝が折れたということでした。
かぜは世界中にいっぱいあります。仏さまも、せかいいっぱいです。風がはげしく吹きますと、風にきがつきます。風は仏さまに似ております。コノ如来ハ 十方微塵世界ニ ミチミチテマシマス とは、親鸞聖人のおことばです。

大けな風が吹きまして あみだの風がふきまして
わたしにあたった なむあみだぶつ

 これは浅原才市のうたです。吉兵衛にも、大風が吹いたらしいが、才市にも大風が吹いたらしい。御開山は、疾風の如し、大風の如しとおっしゃる。また
濁世の 起悪造罪は 暴風駛雨に ことならず
ともあります。

善巧(ぜんぎょう)
 大風とは、あらしである。信仰の道には、度々あらしが吹きます。折角のこれまでが、ゆられます。せんど、ゆられます。ボキリと折れて、吹きとびます。もろもろの自力の心、煩悩の心が吹きとばされます。それがいい。私に当る大風である。弥陀仏の仕組んだ善巧方便です。大風は一過します。

(昭和三十七年十月)


二十六 他力 「物種 吉兵衛」

聞けばわかる 知れば知れる 聞こえたはこっち
知れたはこっち こちらに用がない
聞こえたこちらは おさらばと すてる方や
用というのは わりゃ わりゃ わりゃ
と向こうから 名のって下さる

           (物種 吉兵衛)

聞く
 吉兵衛は、大阪堺・船尾(ふのお)の者。四十才をすぎた頃から、信仰への道を歩みました。吉兵衛は、死んでゆけませぬ、というのが苦労であった。
四十年間の生涯をつづめて、人生の疑問が、死んでゆけませぬ、に総じてこめられていた。近畿その他の信者、師僧をたずね、西方寺の元明和上にめぐりあった。死んでゆけませぬ。和上、死んでゆけたらよいのか。
この一言、吉兵衛の目がさめた。死んでゆけるの、ゆける、を求めた所に、誤りがあった。ゆける、ゆけませぬは、吉兵衛の納得である。後に、わしゃびっくりしたでェ、重かったでェ、といっている。わが納得ではない。仏の力を聞くのである。浅原才市は、
   ただききたい ききたい むりがある
   きかせるひとは なむあみだぶつと
   もをす ほとけよ
という。

他力
 念仏は聞く一つである。だが、聞くに力がない。聞かせる仏が、すべてである。お前よ、お前よ、と聞こえ込んで下さる。

こんなもの 死んだらどうなります。

こんなもの 松のこやしになるなり やせ犬の腹を
こやすなり どうでもしたらよい胴体じゃ

(昭和三十七年十一月)


二十七 許す母 「与謝野 礼巌」

浮き沈む われを幾代か 待ちませし
心ながきは 阿弥陀 釈迦牟尼

            (与謝野 礼巌)

おや
 礼巌は明治三十年、七十六才でなくなった。京都在の坊さんである。五十二才の頃、鉄幹が生まれている。礼巌は、子にきびしい父であったらしい。単に愛することよりも、きびしく愛することはむつかしい。
して、愛とはいい条、子を叱ることはあさましい。冷たい顔はする、大きな声はだす。子は難作能作で働いている。いたいけない。それでも父は、鍛えの色をくずさぬ。
 仏前にすわる。温顔の前である。許しの仏である。仏よ、われは愛うすき父なり。仏よ、われは罪深き気短き父なり。仏よ、叱ることなく、心ながく、待ちまし給えり。心ながく


春日すら 父に嘖(ころ)ばえ 黙(もだ)をれば
母なぐさめて 餅食はせます

             (与謝野 鉄幹)

 鉄幹はこの頃十五、六才。父の心はわからない。父は雪の日も、木ほれ芋ほれ、風呂たけとのたもう。今日も今日とて、父に叱られた。母は、不機嫌な自分を見た。父の言分が正しい。自分が叱られるのは当然。母はそれを知っている。母の焼く餅の匂いはいい。黙っている自分に、母は多くを言わず、ひろし、餅をおたべ。あついうちがおいしいよ。母は父の為にも、自分の為にも、言いわけをしない。許しの母である。とんな時も、じっと待って、必ず許す母である。

(昭和三十七年十二月)


二十八 修正会 「九条 武子」

みあかしは 輝きみちて 誦(ず)す経に
み堂の春ぞ 明けそめにける

             (九条 武子)

御酒海(ごしゅかい)
 明けましておめでとうございます。
 元旦の御開山さまは、凛冽の中にお座りです。鳳凰のまう打敷。松に笹、枝垂れ柳を配したお花。ゆずり葉、だいだいをのせた五重一対の鏡餅。輪灯ほのめくお内陣です。前夜、鴻の間に用意した壺から、色衣五条の会行事が、御酒を銚子にくみます。み堂に運ばれた御酒は、紫衣(しえ)に、御下賜(ごかし)の菊花御紋の袈裟を召されたご門主さまによって、三宝の御盃に盛られ、お祖師さまに献げられます。開門前、五時からです。お障子は、閉められたまま、侍するものは会行事一人。血脈のご門主さまがなさる、たった一人の御祝儀です。

御流盃(ごりゅうはい)
 御酒海の儀がすみますと、鴻の間で、御流盃の事が行われます。総長以下各代表者などが、ご開山さまのお流れを頂くわけです。御門主さまの祝膳には、三宝に菱餅、昆布、勝栗などが配されます。年々に迎うる春は同じくとも、年々の想いはちがいます。ある年、武子夫人は、

元旦の 光みちたる 鴻の間に
君なき春を 久しとぞ思う

と、詠っています。御流盃に連なりながら、思うことは、あの人と一緒だったら。すみまして六時、元旦の修正会(しゅしょうえ)です。

(昭和三十八年一月)


二十九 親さま 「足利 源左」

この心に 相談すると も少しという
いつ相談して見てもいけん
親さんに 相談すりゃ
そのまんま助ける いつ相談しても
親さんは まちがいないけんのう

             (足利 源左)

この心
 昭和三十八年一月廿五日
  宇部・勝尾朝介
 昨今、少々風邪を引きまして毎日ねて居ります。ねて居りまして、色々のことが思われて成りません・・・。皆々様には、どんどん信仰が進まれますが、私、元来が愚者で信仰がどうも進みません。何か一番大切なものを忘れて居りましたようです。申しわけありませぬ。どうもお念仏の有難さや、その味わいの深さも頂けませんでした。誠に申しわけありませぬ。私も今年三十八年から、いよいよすなをな人間に成らして頂きたいと、心からお念仏を喜ぶ身にお育て頂きたいと、思い念じて居り、お目にかかれる日をたのしみにしてゐます。

親さん
 昭和三十七年十一月十五日
  博多・藤野与曽吉
 如来のお助けと口ではいえど、心と口とはちがうのです。私の考えることは、水の上にかいた字や絵のような、消えやすいものです。私の心は、当になりませぬ。なれど如来様は、まちがいなく助けてやると仰せられます。如来様はお慈悲ひとつ、信じさせて頂いております外、何も思うことはありませぬ。南無阿弥陀仏。

(昭和三十八年二月)


三十 常不軽菩薩 「宮澤 賢治」

あらめの衣 身にまとい 城より城を へめぐりつ
上慢四衆の 人ごとに 菩薩は礼を なし給う

われ汝らを 尊敬す あえて軽賎なさざるは
汝ら作仏せん故に 菩薩は礼を なし給う

             (宮澤 賢治)

不軽(ふぎょう)
 宮澤賢治は、明治二十八年、岩手県に生まれた。四才の頃は、正信偈などを暗誦した。二十才、法華経を読んで、ただ驚喜しおののいたという。その後一途にこの経を奉じ、そこに説かれる常不軽菩薩を学んだ。
 常不軽菩薩とは、字のごとく、つねに人を軽んじないことを、誓った菩薩である。どのような驕慢な人をも、その人を拝むことを、仏道の行とする菩薩である。
 人を選んでおじぎをするのが、世のつねである。威張る人におじぎをするのはいやなものである。さげすむ人にも丁寧には挨拶しない。どんな人にも一人残さず、会う人ごとに心からおじぎをする者の尊さになろうとする常不軽菩薩。賢治の理想である。

(らい)
 身に粗末な姿のまま城下町を、あちらこちらと、礼の修行をする。下賎とされる者をも軽んぜず尊敬すること、仏を礼するに同じ。その心は何か。一切衆生、どなたも仏に作(な)る人である。愚人・悪人そのものに、礼をなすに非(あら)ず。愚悪の人も、いかなる人も、仏になるべき人だからである。

コウイウ人ニ 私ハナリタイ

(昭和三十八年三月)


三十一 見聞知 「深川 倫雄」

麗しや おぼつかなしや 行道も
涙にかすむ その稚児すがた

かく歩め かくや歩まん 稚児めぐる
合掌の母 なぜ涙する

        (深川 倫雄)

養育
 光陽あたたかになり、寺々で開山聖人の大遠忌がつとまります。五十年に一度のいい御縁です。半年も前から、吾が子を稚児に出そうと待ったでしょう。晴れ着の上に母は手間どって、稚児衣装をつけました。顔も粧(よそお)い、ひたいに黒い点を二つ。  アノネ、きょろきょろせぬのヨ。前の人にくっかないのヨ。蓮の花はコウ持って、静かに歩むのヨ。
 子は内陣に上る。母は下陣に座る。色衣の諸僧、入堂着座。今や御影向の前に、次第は進む。大遠忌たけなわ。母の心は、右往左往します。天冠(てんがん)を落とさねばよいが。どじをふまぬように。行道、おねりが始まる。麗しき祖徳讃嘆である。歩む、歩む小さな白足袋の運びの乱れ勝ち。子よ、子よ、上手、上手、その調子、その調子、なんまんだぶ、なまんだぶ、母の目から盛りきれずあふれておちる涙。子を拝み、子をほめる涙である。

見 聞 知
 仏心なき私。拝まぬ私に礼拝させ、称えぬ私に称えさせ、憶わせる育ての親は誰か。阿弥陀仏。

   衆生仏を礼すれば 仏見たまい
   称名すれば 聞きたまい
   憶えば 知りたもう。
   十方の念仏の衆生を みそなわし
   摂取して捨てぬ仏 阿弥陀仏
   と 名づけたてまつる。

(昭和三十八年四月)


三十二 仕えてぞ「行基 菩薩」

法華経を わが得しことは 薪こり
菜つみ水くみ 仕えてぞ得し

           (行基 菩薩)

仏説
 日頃、法座に参って聞いておりますことは、私共にとっては、浄土の三部経である。行基菩薩が学ばれたのは、法華経ですから、お経は私共のとちがいます。しかし、何れも仏さまのお説きになったもので、人の説いたものではない。仏説であって、人説ではない。行基菩薩という方は、日本でただ一人、菩薩といわれる尊い方。千二百十四年前亡くなった。とても私共とは比べものにはならぬ修行をなされたに違いない。所が、法華経の奥義に達したのは、修行してからではないとの仰せです。薪を取ったり、芹や嫁菜を摘んだり、炊事や風呂の水をくんだり、そんな中に法華経がわかって来たという。  そんなら私共、菩薩どころじゃない泥凡夫ですが、同じことをして来ました。何ぼ聞いても忘れ、聞いては忘れて、お参りしただけでした。水くみ、山ゆき、台所、みな平凡な暮しです。聞いて覚えたためしはない。だけど御本願はとてもすばらしいとなった。

仕えてぞ
 なぜだろう。仏教は平凡な暮しで得られるのだろうか。ただの平凡ではない。仕えての暮しである。水くみ、菜つみ、皆仏に仕えるのである。

(昭和三十八年五月)


三十三 ひとの涙 「九条 武子」

あるときは 毒薬のごと おそれつつ
人のなみだを ぬぐはでありけり

            (九条 武子)

仕合せ
 ぽやぽやっとした仕合せは、人を最低の心境におとしこむ。ちょうど麻薬のような働きをもつ。
 家庭は人に馬鹿にされる程ではない。女として器量はよい。貧しくはない。人なみより増しの学歴をもっている。流行の尖端をゆく程、アホウではないが、地味に貴賓を身につける。家屋敷小ならず。若さの故に病気を知らず。両親健在でやさしく賢い。人間は己おのれの持場を守って平和であるべきだと、自分も真面目であるつもりでいる。どこの馬鹿者が不幸に泣くのか。泣く人はきっとどこかが間違っているのだ。めそめそと不幸に泣くなんていやらしい。泣く人は大きらい。
 そうして、人の涙を毒薬を見る程、きらっていたけれど、自分自身がせんすべなく不幸に立ち、夜がな日がな、涙にくれることになって、涙とはこんなものかと知れた。今日では、涙する人あらば寄り添って、自分のハンカチで拭いてやります。涙をおそれた頃の恥ずかしや。不幸が私を鍛えました、と。

苦しみ
 賢い人に、仏は信ぜられない。自分は賢いと感じている人が、賢い人である。心の汚さ愚かさを知らされた人ーー悪人ーーに仏がある。

(昭和三十八年六月)