はすを植えたよ

家のじいさんが庭の真ん中に、大きなコンクリート製の管を置いて池を作った。高さが1メートル、直径2メートル程の円筒形で、この中で 蓮を育てるという。

お浄土へ往けば、嫌でも蓮の華が見られるのに、などと小生はからかうが、一度自分の手で蓮を育ててみたかったとじいさんは言う。池に田んぼから泥を運んで、水を張り池が完成した。

早速近所からもらった蓮を植えてみたが、コンクリートの灰汁のせいか、池にはミジンコすらの生き物も発生せず、1年目は蓮の開花に失敗してしまった。

家の池に咲く蓮の華が、間違えて、お浄土に咲いてしまったのかも知れんのぉなどと、家族で言い合ったものだった。

さ〜て今年はどんなもんじゃろと、池の様子を見ると、ミジンコやらボウフラや、トンボの幼虫のヤゴまで池の中に住んでいた。小さな池の中でちゃんと一つの生態系が出来上がっている。

去年と違うて、こんだけ生き物が住んでいるんにゃさけ、蓮も仲間に入れて貰えるじゃろと、じいさんは今年も蓮を植える事にした。
ミジンコにはすまん事だが、水を入れ替えて、水の浄化に役立つといわれる水草も配置して、蓮を植えた。

「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず」といわれるが、じいさんは泥中の蓮華が好きなのだろう。九十年の貪瞋煩悩中にあっての、なんまんだぶつである。

称える側はどうしようもないが、称えられ、聞こえて下さる、声となった、なんまんだぶつである。

娑婆で蓮の華が咲かなくても、お浄土で、なんまんだぶつの蓮が花開いて、帰る処のある、用意万端整った御法義である。いやはや、どんな花が咲くのか小生にとっても楽しみなことであるなぁ。


なんまんだぶ なんまんだぶ 称名相続 ・・・




吉崎(よっさき)の虎


家のじいさんが吉崎で「御絵説き」を初めてから二十数年になる。蓮如上人の御一代を絵にした掛け軸の前で、一つひとつの絵に描かれた蓮如上人のエピソードを、御正忌に参詣の人の前で説明するのが、「御絵説き」である。

そんな吉崎での「御絵説き」の時である。いつものように参詣人の前で絵説きをするじいさんを、遠くから腕組みをして眺めている坊主がいた。
そして絵説きが終わると、じいさんの側へ来て、日本には大蛇はいませんと言ったそうである。

この坊主は絵解きの中で、池に住む大蛇まで、蓮如上人のご法話を聞きに通い、御教化を喜んだという逸話が迷信臭くて気に入らなかったのだろう。きっと現代教学とやらに毒されている賢い坊主なのだろう。

じいさんは、御文の一帖目八通に「年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して」とあるが、この吉崎には虎がいたんじゃろかのぉ、と答えたそうである。

吉崎には虎が居たんじゃ。大蛇の一匹や二匹、何の不思議があるもんかいやと、後日じいさんと笑いながら語りあったことだった。

吉崎、よいとこ一度はおいで、寺の数ほど面がある、と言って嫁威しの面を見に来る同行を御絵解きに誘い、お寺にある肉付きの面はみんなニセモンじゃ、ホンマモンの鬼の顔はここにあると言って、同行に壁に掛けた鏡を覗かせるじいさんである。

小学校も満足に出ていないが、小生がうろ覚えの御文を言えば、何帖目の何通にあるというじいさんである。
なんまんだぶつの御法義は、こんな名もない、じいさん達によって支えられてきたのかもしれんなあと思ったりしている、理屈をこね回してばかりいる小生である。


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南無阿弥陀仏のお相伴


今年九十になる家のじいさんには九十三の姉がいる。この姉は長らく寝たきりで入院生活を続けているので、たまにじいさんと一緒に病室を訪ねる。


そして二人の病室での会話を聞いていると、娑婆の話をしているのか、お浄土での話をしているのか訳が解らなくなることがある。

姉さん、安心して死んで往けヤ、オジジもオババもみんな待ってるでの。今度死んだら仏さまになるんやさけのお。喜びすでに近づけりちゅうて阿弥陀さまにおまかせして、目ぇ落といたらそこがお浄土やさけの。

ウラァ、先に往くかも知らんけど、オメも後からくるんやな。待っててやるさけなあ。オメも来いよ。なまんぶ、なまんだぶ。

ほやほや、死にがけに、辛うてお念仏の出ん時は、心の中ででもお念仏さしてもらおのぉ。ハッキリしてまいるんでねぇ、称えてまいらしてもらうんやさけのぉ。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・。

思わず小生も、貰い念仏をしてしまい、一緒に阿弥陀さまのお名前をお称えすることである。忘れていけない念仏ではなく、称えなければならない念仏ではないが、なんまんだぶつと口から出て下さる御信心のお念仏である。

九十年のいのち終わる時まで、息の通うほどは、阿弥陀さまご一緒の、なんまんだぶつである。娑婆も浄土もぶっ通しの、なんまんだぶつの御法義を味あわせて下さった事である。


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他者の慶びを

往生は一人のしのぎなりだから、それぞれの人が生きるということを通して、味わっていくしかないのが、なんまんだぶつの法義である。

しかし、他者のご法義の味わい、慶ぶ姿を通して、得る事の出来るものもあるのかもしれない。

田舎では、子供の頃は農耕用に、牛や馬を飼っている家が沢山あったものだった。
小生の家の前の家でも牛を飼っいたが、牛には名前などはなく○○んとこの牛などと呼んでいた。

友達と喧嘩して、仲間外れになり遊び相手がいない時などは、この牛とよく遊んだものだ。牛の大きな黒い目で見つめられると、小生の心の中を何でもわかってくれているようで、安らぎと平安を感じたものだった。

牛小屋の中で飼い葉桶の中の、切り藁とフスマと米糠の混じった餌を、うまそうに食べている牛を見ていると、何故か心が落ち着いたものだった。

牛の好きそうな青草を取ってきて、牛に食べさせ、うまそうに食べるのを眺めていることは、無性に楽しいものだ。
ある時などは、畑から野菜や芋を盗んできて、牛に食べさせているところを見つかって、こっぴどく叱られたりもしていた。

他力のご法義を、牛にたとえるのはおかしな話だが、他者がなんまんだぶつのご法義を、慶び、味わう姿を通して、知ることの出来るものもあるのだろう。

貧しかった時代には、わずかなおかずを、母親が自分では食べずに子供に与えたものだ。そして、子供達の喜び食べろる姿を見ることに、母親がよろこびを感じたように、他者が喜ぶ姿が、自分の慶びになるような世界があるのかもしれない。

御開山の書かれたご本典、教行証文類は、ほとんどが浄土門の祖師方の引文で成り立っている。
きっと御開山は、浄土真宗の七高僧の祖師方が、喜び、讃嘆する文言を通して、御開山自身がこのご法義を慶び味わっておられたのだろう。

味わいという感性は、ともすると個人の経験という意味に取られ易いが、他者の経験して下さった、その人しか生きることの出来ない世界を生きてきて下さった言葉を聴く事が慶びとなるる領域もあるのだろう。

なんまんだぶつのご法義に生きて来た、数多くの先哲、先輩の同行が、慶び讃嘆して来た「言葉」を聴き、それを自分の慶びとする楽しみも、このご法義には用意されているのだろう。

なんまんだぶつのご法義の「言葉」はこちら側が解釈する言葉ではなく、解釈して下さった言葉を、それぞれの持ち合わせのまま、唯々「聴く」だけのご法義かもしれません。

小生のような馬鹿は馬鹿なりに、賢い人は賢い人なりに、色んな味わいが用意されている、なんまんだぶつのご法義であります。

なんまんだぶつは、称え聞くことによって、何とも色んな味がするもんじゃ。


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御本山へ団体参拝


だいぶ古い話だが、家のじいさんから門徒の御本山団参の時のエピソード。

御本山の報恩講へ、団体で上山した門徒達の。帰りの汽車の中での話です。大体阿弥陀さまのご法義の門徒は行儀が悪いですし、まして気心の知れあった門徒同士ですから、車両の中のあちこちで、京土産を見せあったり、孫の自慢話をしたり、酒を飲んだり騒々しいもんです。

ところがある駅で、人相の悪そうな黒いコートを着た男が汽車に乗ってきました。
とたんに今まで声高に騒いでいた門徒達は、急に静かになってその男の挙動を窺い、ばあちゃんどもは小声でひそひそ話です。

ところがその男が座席に座って、自分の前に座っているばあちゃんを見て、ふとなんまんだぶと呟きました。

ばあちゃんはこれを聴いて、ありゃまぁ、あんたも御開山のお同行けぇと素っ頓狂な声を出しました。

このばあちゃんの一声で、車両の中は元の騒々しさに戻り、あちこちの席から、酒飲みねえ、これ食いねぇと酒やツマミが男のもとに届けられ世間話に花が咲いたそうです。

阿弥陀如来の本願力が、なんまんだぶつと声になって届けられ。聞こえて下さるご法義でありましたです。

一人ひとりの、想い、生き方、暮らしぶりには着目せず、小生に必ず称えられなければ仏にならないという、阿弥陀さまでありましたです。

貪瞋煩悩の中に、小生に称えられ聞こえて下さる阿弥陀さまの願いに順ずる故の、なんまんだぶつでありましたです。

そして、この道に生きる人の集いを御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう)というのかも知れません。


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葬式仏教考

葬式仏教が仏教を衰退させたなどと言う人がいる。しかし葬式という儀式があればこそ、なんまんだぶつのご法義が、連綿と相続されてきたのではないのだろうか。

浄土真宗は、阿弥陀さまの浄土に往生するご法義であり、往って生まれる処があればこそ、今少しこの娑婆を楽しんでみようかという、とても珍しい生死を超える仏教である。

なんぼ若い兄ちゃんや姉ちゃんであろうとも、やがていずれは死んでいくわけだから、葬式というものを通して”いのち”の行く末というものを考える機会になれば、葬式というものは立派な御教化の方法になる。

娑婆では死に方の話がよくされるが、よく聴いてみると死ぬための、生き方の話がされている。しかし、なんまんだぶつのご法義は、死ぬための生き方ではなく、唯々死んでいく話をする。

そして、どうしても死ぬとしか思えない事を、往生(往って生まれる)と示して下さるご法義である。
であるから、浄土真宗の葬式は、浄土へ生まれたお祝いの儀式であり、往生人と娑婆の人間との感応同交の場なのだろう。そして命日とは浄土へ生まれた先人の誕生日を娑婆で祝う、祝い事なのかも知れない。

最近世間では天国という言葉を使い、マスコミの馬鹿どもまで天国という言葉を使うが、あの場合の天国とは何を指して言っているのか気に掛かってしかたがない。
あれほど人を馬鹿にした言葉はないのではないかと、密かに思っていたりしている。



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永平寺の管長さんは偉い

あるご法座で、法話が終わり、門徒同士の雑談で、どれだけ偉い人を知っているかという自慢話になった時の話です。

「いやあ、永平寺の管長さんちゃ立派な人じゃ。こないだ仕事で永平寺へ行った時、管長さんと廊下ですれ違うたんじゃが、ウラんとこは浄土真宗やって知ってるのに、ウラんたなもんに合掌して礼拝してくんなった。偉い人は違うもんじゃのぉ」


永平寺の管長さんに挨拶をして貰ったのを自慢する門徒です。偉い人を知っていることが、偉い人だと思っているのだろう。

「あんた、そりゃぁ違うんでねんけ。管長さんはあんたに頭さげたんでねぇ。あんたの中に燃えている、阿弥陀さまの菩提心に合掌礼拝したんじゃねぇんけのぉ」

人の地位や立場が喧しくいわれる世の中で、地位や、根性や、人格や、性格や、生き方や、生活態度をあてにせず仕上げて下さった、ご本願でありましたです。

あらゆる人に届けられ、必ず口先に称名となって称えられなければ正覚をとらないという、阿弥陀さまですね。日々の暮らしの中では、三毒煩悩に騙されて他者といさかいばかりしておりますが、根本のところでは他者を、お育て下さる「我以外皆菩薩」と思い取らせて頂くのも、このご法義にはありそうです。


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