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阿呆堕落偈(あほだらけ)               前川 五郎松 著

《あ》
阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。

《い》
 いのちを大切に・・・と言うが、本当のいのちが明らかになったのを信心と言うらしい。
 そのいのちを私有しているこの爺々、これこそが誹謗正法・生盲闡提や。

《う》
 うぬぼれ根性に恥かしないか、恐ろしないか、われこそはと思う大化け物、この一息が止まったら灰にされるこの身体にシガミついて振りまわされている。
 この私とは、どこから来て、どこへ還るのか、考えたことも調べたこともない、平気で放っておく馬鹿人足、わが身知らずの阿呆狸、阿呆に呑ませる薬はないのかなあ、なむあみだぶつ。

《え》
 「廻心ということただひとたびあるべし」自分の心のデタラメに驚かされるほかない。

《お》
 鬼は両角あるのが見よい、蛇にウロコがあるほうがよい、栗には針があるのがよい、ズベ桃顔では、やりぞこなう。
 こら爺、ズベ桃顔で、尻っぽ隠いて、人をながめる古狸。

《か》
 悲しきかな、恥ずかしきかな。うらの若い頃をふりかえってみると、そら恐ろしい、恥ずかしい。
 強欲貪欲にだまされて、いのちよりもお金のほうが大事であったらしい。金さえあれば娑婆は安心・安楽じゃと思っていた。
 金の儲かることなら、人が迷惑しようがそんなこと構わず。それがために商売を失敗して、破産をしてもた。先祖代々・父母さまの財産を売り払い、家財道具も売りつくし、やっと精算した。
 そのとき、母親さまは居られたが、うらに一声の小言も言われなかった。
 うらは、そのとき母親・家内・子供七人家族であった。妻はそのために心配と疲れで病人になってしもうた。
 財産ははたき、無一文。たべる食糧もない。そのときは本当に娑婆がイヤになり、もう死のうと何度思ったか知れない。けど死なれん、うらが死ぬと母や妻子が路頭に迷う。死ぬに死なれず生きるに生きられず、七転八倒の苦しみ。
 このとき母親さまは、うらに言われた「お前そんなこと位で心配するな、まず働け。働けば何とかなる。働かんと金が欲しいのやから、あかんのや」。
 このときばかりは、我()の強いうらも泣かずに居れなんだ。それから無我夢中で働いた。
 お金は儲けるものではない。与えられるものや、自分一杯を尽くさせてもろうたところに。

《き》
 「聞くときは、さこそさこそと思えども、その場、過ぎればあとかたもなし」。人並み、名聞利養、居眠り半分、暇つぶし、これで助かりゃ、外道法。

《く》
 口に称名しても、心の奥は何ともない。ときどき意見をしてみても、ビクともせぬ。心コロコロ聞いてはくれぬ。ほんとうに、うらはどうしましょう。心を入れる器はないのだろうか。

《け》
 「化土に生るる衆生をば、すくなからずとおしえたり」と御開山さまは言われているが、”そうじゃケド””わかるケド”、このケドの根性が生まれる世界が「化土」らしい。

《こ》
 業を滅すること能わず、縁無き衆生を度すること能わず、衆生界を度し尽すこと能わず・・・これを「仏の三不能」と言うと聞かせてもろた。
 うらは、この三不能が知れることのほかに、お助けはないといいたい。

《さ》
 淋しくば、なむあみだぶつを称うべし、如来(おや)は六字のうちにまします。如来と二人で、いそいそ話、ほんとに気楽じゃ、ホコホコと。

《し》
 宿善・無宿善は一つや。うらは無宿善の自分に遇うてビックリした。

《す》
 好きじゃ、嫌いじゃで人間は苦労する。人間は知恵がありすぎる。ひとを、われの思い通りにしたいクセがある、わるいクセや。こちらが、ひと様に任せたら楽だろなあ。

《せ》
 せちがらい忙しい世の中で、仏法なんか聞いて居られるかいと言うが、心が忙しいだけや。温泉へ行っとる暇もある、馬鹿口たたいている暇もある。

《そ》
 葬列や、火葬場の煙に日曜なし。今日も小山で煙が立つ。あすの煙は誰の番かな。うらではない。

《た》
 第一に、困ったら何でもお阿弥陀さまに聞くことじゃ。それは真夜中の暗闇に仏壇の戸を開いて、如来さまに聞くことや、何とか言うて下さる。言うて下さるまで、何時間でも、毎日でも座り込みするのが一番。
 うらには、”親爺、あかんぞー”と言うて下さった。ただ一声や。なむあみだぶつ。

《ち》
 近ごろは、いろいろな宗教が盛んなようや。人間の迷いが如何に深いか、複雑かがよく現れていると思う。
 神さまに頼むと、願いが叶えられるという。神さまも、さぞ忙しかろう。

《つ》
 次つぎと、一難去ってまた一難。出て来る業は避けられぬ。たとえ親でも子でも、代わられぬ。「どうにでもなる」は、「どうにもならぬ」世界の中のことじゃ。

《て》
 手を出すな、手を出すな、仏の帳場に手を出すな、凡夫が手を出しゃ極楽も娑婆になる。裸で来たで裸で還ろう。

《と》
 称うれば、われも仏もなかりけり、唯なむあみだぶつ。念仏はどんなご利益あるのやら、狸爺は知らないけれど、出るにまかせて唯なむあみだぶつ。なむあみだぶつが知って居るから、うらは知る必要なし。

《な》
 なむあみだ、真似(まね)もはげめば上手になれる、あとにゃだんだん本物になる。

《に》
 憎まれ者、世にはばかると言うが、ほんとにそうじゃ、うらはこのように老いぼれて邪魔物になっても、まだまだ生きている、死にたくない。死なねばならぬことは分かっていても、死にたくない。
 死にたくないが、死なねばならぬ、死なねばならぬが、死にたくない。これを繰りかえしているうちに、死なせて下さるお方がある。なむあみだぶつ。

《ぬ》
 糠に釘、うらの念仏糠に釘、いくらうってもフラフラじゃ、ヘンななもんじゃヘンなもんじゃ。
 待てよ、こんなこと言うのは、ヘンでないものがうらに出来ると思うとるからじゃ。

《ね》
 念仏は爺々が称えりゃ盗みもの、親が称えりゃ光輝く。
 念仏は浄土への種やら地獄の業やらとは、祖師聖人のお味わい、親の宝に手をかけず、来るにまかせて拝むだけ。
 念仏は口でとなえりゃ呪文になるぞ、心でとなえりゃ神だのみ、出てくださるのを拝むだけ。
 念仏は称え心に世話やくな、出るにまかせて、なむあみだぶつ。
 寝ざめにも、称えやすき念仏なれど、親が留守じゃで口を割らない。

《の》
 のんきな爺々も、夜の寝覚めに”お前は何がために生きているのか、何を目的に生きておりたいのか”と自問自答してみるが、よい返答は一つも出てこん。
 それもその筈じゃ、うらが生きて居るのでないがやで。

《は》
 ハイ、漢字で書くと「拝」ぢゃと教えてもろたが、びっくりした。「拝」は南無や。爺々にハイがある筈のないことを知らされた。うらにあるものは「ケレドモ」ばかり。

《ひ》
 ひとかどの聞法者になりすましているうらやけど、毎日毎日欲の心にふりまわされて、あれもせねばならぬ、これもせねばならぬ。あの土地もうらのもの、このお金もうらのもの、この体や心は無論うらのものと・・・この執念で苦しめられてをります。
 本当はうらのものとては一つもない、みな借りもの、お与えものや。その証拠にうらの思い通りにはならん、期限が来るとみな返さならん。阿弥陀さんが間違いなく取りあげてくださる。それで平生只今、身も心も阿弥陀さんにお任せすると楽にならしてもらえる。
 ああ、うらも上手に説教するようになったなあ。

《ふ》
 仏壇の前は、なんでこんなに嫌なのか、それもその筈、鬼が仏の顔見りゃ恐いわ。
 仏壇の前は、なんでこんなに窮くつなのか、それもその筈、高い頭が押えられるで。

《へ》
 臍の話を聞いたことがある。母親の胎内に居るときは大切な役目をしたのだろうが、娑婆へ出て来たら、もういらぬもの。それが腹の真ん中にアグラかいて居る・・・と、こんなふうにうらは思っていたが、とんでもない考えちがいやということを知らされた。
 人間の体で一番大切な所は臍やと言う。その証拠に、どんな大手術をしても臍だけはよける、臍を切ったらその場で死んでしまうと言うことや。
 お臍がうらに叫んで居る”お前のいのちじゃないわい”
 みなさん、お臍を見ましょう、ながめましょう。

《ほ》
 放逸・放埒・放蕩者とはうらのこと。
 どら息子、親の財産あてにして、わがまま一杯押しまくる。
 孝行者は孝行な話を聞きたがる、話聞いては、わが身をつめる。
 この爺々は、よその孝行な話を聞くも、理窟ならべて、けなすだけ。
 親に不孝なこの爺々は、親ありしとき、親に孝行な話を聞くと、腹が立つやら、くやしいやらで、今は早や墓に布団も着せられず。

《ま》
 侭にしたい、侭にならぬ・・・これが毎日のすがた。
 爺々は侭にならぬと言う、阿弥陀さんは”爺々よ、侭になっとるぞ”と言うてくださる。
 侭は侭でも大侭ちがい、このちがいめがなかなかわからん。

《み》
 見る目、聞く耳、しゃべる口、他人をさばくことばかり、わが身をさばく智慧はなし、他人の穴は毛穴まで見える、なむあみだぶつ。

《む》
 昔の人は信心さえもらえば、仏さまに、助けてもらえると思ったのであろうか。信心とはどんなことか、判っきりしもせず、ただお助け話を聞いて有難うなったのが信心だと思ったのか。
 それではただ話の言葉を受け取っただけで、中味が明かでないから、わたしは信心もろうたけれど、あの人はまだもらえてをらん、信心もろうて喜ばれるようにならなあかん、だいぶ喜ばれるようになったけど、まだ腹が立つのが治らん、あんなのではあかん、こんなのではあかん・・・など、友だち同志で言い争いをする。あげくの果てには、お師匠様に”これでよいのでしょうか”と聞く始末。
 信心というお助け話、極楽話に終っている、言葉をつかんで、抱えこんでいる、危い危い。
 ちがうちがう。こんなこと言うとるうらが危い危い、ご用心ご用心。

《め》
 目を閉じて、念仏申せば思い出す、久遠の故郷(くに)のあることを。
 目を閉じて、なむあみだぶつと称えませ、それが久遠の故郷(ふるさと)の声。

《も》
 「妄念は、もとより凡夫の地体なり、妄念のほかに、別に心はなきなり」妄念の苦しみが、真実の親を尋ねる。

《や》
 闇と光について、いつかこんな言葉をお師匠様から聞いたことがある。
 「暗闇の中で宝があっても、つまづくだけや」と。
 燈明(あかり)をつけてもらうだけや、何にも変らぬ、見える見える、見えると安心や。

《い》
 いのちが終わったら火葬場へ運ばれて、灰にされて、あとかたもなし、それでチョン・・・と割り切って居られるお方が多い。
 そこで、うらはそういうお方におたづねしたい。
 ”あなたが死ぬことは、茶碗が破れたのと同じですか”と。
 お師匠様の言葉を借りると「物」と「者」の違いが、問題にならぬのだと思う。
 本当は常に「者」というところで生きていながら、心は「物」のところで生きているのではなかろうか。

《ゆ》
 「唯除五逆誹謗正法」・・・これは己の幽霊であることを照し出してくださることや。
 幽霊が髪の毛を後へふり乱しているのは、過去への執念をあらわすという。また手を前へウラメシヤと上げているのは未来に対する取り越し苦労をいうらしい。そして肝じんかなめの現在只今という足が無い。うらの毎日のすがたは幽霊じゃ。
 幽霊は明るい所は大嫌い、出んらしい。阿弥陀さんの光が大嫌い。ごもっともごもっとも。

《え》
 廻心は宿業を知らされた驚きや。この宿業を知らせてもらうことがご開山さまの教えのかなめじゃと思う。
 自分の生活のうえで起る出来ごとは、兎の毛・羊の毛のさきに居る塵ばかりも造る罪の宿業にあらずということなしと知らされる世界。
 この真理が分かれば、相手を見る目も変る、お互さまにご苦労さまやったの世界。受けねばならぬ業縁なら、嫌やじゃけれどか・・・いやいや、こんなこと言うとることが最早や分別や。
 いつでも業縁さまに頭を押えられ、さげさせられてしもうてをるわ。

《よ》
 夜も昼もついで働くは食うためや、なぜ食うのか、食わねば死んでまう・・・とよく言う。
 昔は食わずと死んだ人があったかも知れんが、このごろはそんな話は余り聞いたことがない。いまは食い過ぎて、みな癌になって死んでしまう。
 この爺々も八十八年も食い過ぎたで、もう死なねばならん。あとがつかえてきとるで。
 でもなかなか死なれん。食い過ぎてガンになっとるにちがいない。ガンやで生きとるのや。ガンのうちは、大丈夫や、この濁りが取れてカン(棺)になったときが別れや。

《ら》
 来年のことを言うと鬼が笑うと言う。この狸爺は、また来年、また来年と言うて居る。鬼が聞いたらおかしかろう。
 うらは、死ぬことを忘れたわ。

《り》
 理窟を並べるのが上手なうらやが、毎日の生活のうえで、善()し悪()しの理窟を作り出しているのがうら自身じゃ。
 己が心で善し悪しを極()めて、極めた心で苦しめられている。
 聞かしてもろた歌に「善きも悪しきも一つにまるめ、紙に包んで捨てをけ」なむあみだぶつ。

《る》
 流転輪廻とは、われわれの生活や。人間は親子・兄弟・夫婦・友人でも相手の心をさぐり合い、自分の心に合わないと憎む・妬む・怨む・嫌う・呪う、知らず知らずにこれをやっている。この性(しょう)が爺の性、何にも言わない素直な顔はして居っても、心の中は何を考えて居るか分からない。
 恋愛結婚をした夫婦でも、相手の浮気・多情・淫乱の噂でも聞こうものなら噛みつきたいような気持ちが起こるらしい。腹が立って寝ても寝られん、相手を殺してしまおうかと言う気持ちが起こるらしい。また殺す場合もあるらしい。
 嫁と姑も、これでありましょう。
 この爺々も子供や孫から、このもうろく爺々早くくたばれと言われたら、腹が立つだろうなあ、自分の蒔いた種がはえたのやに、あさましいなあ、なむあみだぶつ。

《れ》
 霊と聞くと、すぐうらは霊魂を思うてしまう。聞かせてもらってみるとそんな霊は亡霊・幽霊のことで、死んでも死にきれんと言うやつや。そんなものは早く死にきり、無くならねばあかん。無いほうがよい。
 ご開山さまが教えてくださったのは、「なむあみだぶつ」これが本当の霊にちがいない。
 「霊性」、不可思議な働き、この身を生かして下さって居る働き、これが真霊、親様じゃ。

《ろ》
 六方恒沙の諸仏が、なむあみだぶつを讃嘆なされると言うが、この爺々に先き立って、なむあみだぶつの本願に生きて下さったご苦労である。
 このご苦労、証明がなかったら、この爺々は今お念仏に出遇えない。
 諸仏とは善知識、お師匠さまのことじゃ。

《わ》
 「若かりと、イキな夢みて油断すな、夢がさめると、きっと後悔」・・・爺々もエラそうになった、お若い方々にいつのまにか意見をして居る、おゆるしください、なむあみだぶつ。

《い》
 痛さを感ずるのは生きとる証拠、痛みを感じないのは屍。ああ、「逆謗の屍骸」とは、この爺々のことやった。

《う》
 うらの称える念仏が 嘘か真か嫁に聞け
 嫁が居らねば嬶に聞け 嬶がなければ子や孫に聞け
 世間の見る眼も恐いけど 一番恐いは嫁と嬶
 それよりまだ恐いのは わが身に聞くと一番恐い

《え》
 穢土を捨て浄土に還る・・・穢土はこの世、ただ生きとるときの世界を言う意味ではないらしい。浄土はあの世、ただ死んだ向こうの世界を言う意味ではないらしい。「此世(このよ)」「彼世(あのよ)」と書くと言う。
 お釈迦さまと阿難さまは相対座していたが、お釈迦さまはお浄土に立ち、阿難さまは穢土に居った、彼世に生れたい。なむあみだぶつ。

《を》
 「鬼の心で集めた金を、餓鬼に取られて目が舞()うた」・・・これは昔のご高僧のお歌と聞く。
 己が「思い」ほどアテにならぬものはないなあ。アテがはずれ通しじゃ。
 はずれても、、はずれてもまた思う。思うあとからまたこわれる。こわれても、こわれてもまた思う。
 「思い」が間に合うことは一つもないが、また思う。たしかでないと思いつつ、また思う。思う思いに苦しめられる。泣くも、笑うも「思い」が元祖らしい。
 そこで念仏は「思い」に関係ないのじゃが、その念仏までも「思い」で聞いとる。
 頼みもせんのに他人のことまで「思い」が世話やく。悪口言うのも「思い」が言わせる、「思い」ほど仕末の悪いものはない。「思い」を入れる器もなく、「思い」を縛る縄もない。縄はないけど「思い」の縄で首くくる人もある。
 「思い」を離れ、「思い」を生かすことのできるのは、なむあみだぶつより外には、ないらしい。なむあみだぶつ。