◆
以下の文章は藤岡道夫師の了解を得ての掲載です。
尚、文章のタイトルはオリジナルにタイトルが無い為、一時的に付加したものです。
年が改まりました
年が改まりました。一年前はまだ赤ん坊で歩けなかった孫が、生後一年十ケ月、小さな腕をうち振り走ります。物の名を沢山覚えて、近頃少し言葉を連ねた”お話し”の形になる様子も見えます。
活発に遊び疲れて朝おそくまで、びっくりするほどよく眠ります。今も大人たちのご飯が終ったあと、食堂に孫の朝の食事が用意されてます。二階の寝室に小さなマイクがセットされ、台所のレシーバーに、孫の目覚めの声が伝わり聞こえます。まことに便利なものがあるものです。
幼い子を持つ親は、何をしていようとも子供の気配を感知するように、神経を廻(めぐ)らしています。親の慈愛を形にして、マイク・レシーバーまでもが仕度されました。
目覚めの時も眠りの時も、思いを離さぬ親がある。気嫌よければ見守り遊び、むずがればかき抱きして、周到な用意の親が在ります。
仕度ととのえ、用意万端の親があります。蓮如上人が仰言る。”弥陀をたのみ たすけたまえとたのむ心”これが名号、ナンマンダブツにご用意のおいわれです。
如来さまは、願い発動の時点ではやばやと、私の往生の見込をつけて、今やナンマンダブツと来て下さってます。仕度十分、万端ご用意の如来さまは、ナンマンダブツとごいっしょしていて下さいます。
ナマンダーブ ナマンダブ、ナマンダーブ ナマンダブ。帰命無量寿如来・南無不可思議光、親鸞さまが偈(うた)われます。
ナマンダーブ ナマンダブ、摂取心光常照護、大悲のみ手にかき抱かれて、み光りにまもられ過ごします。ナマンダーブ ナマンダブ。
昭和ひと桁世代
昭和ひと桁世代の私には、戦前の風俗の記憶が多分に残ります。それを近頃の世相風俗と思い合わせますと、今昔の感、ひとしお深いものがあります。
昔は村の道の辻、農家の広い庭先は、子供の恰好の遊び場で、いつも群がり遊ぶ子等でにぎわいました。
どの家の子も兄弟姉妹が多く、誕生までの赤ん坊は、おおかた小学校の大きい女の子に負んぶされています。弟や妹のない女の子は、近所の赤ん坊の子守をいたします。
背中に赤ん坊がいては、負んぶしてない友達と、運動量の多い活発な遊びはなりません。そこで五つ六つの幼い子や、低学年の子の輪の中に入って遊びます。 背中の赤ん坊と一緒では、ナワ跳びなど思うように跳べません。つまり、背中の赤ん坊のハンディキャップをつけて、小さい子達の仲間に入れてもらいます。
赤ん坊は、大きなお姉さんの背中にあって、小さい子達の遊びを遊びます。背中で共に弾んで、赤ん坊は大喜びしています。
法蔵菩薩因位時・・・、親鸞さまは偈にして、衆生を救う如来さまの願い発動のおいわれを、お経に基きおきかせです。
不可思議兆載永劫の善徳集積の間中、罪濁の凡夫、私を片時も離さずまします如来(おやさま)です。
諸有衆生(あらゆるしゅじょう)のその中に、とりわけ苦悩の有情、私こそが捨ておけないと、功徳の行が果たされました。ナンマンダブツのいわれです。
法蔵・弥陀(おやさま)の大願の背中に、私を弾ませ跳らせたもうて成就(しあが)ったナンマンダ仏。令諸衆生(しゅじょうをすくう)、功徳成就(くどくはしあげた)と告げらるるナンマンダ仏のおいわれです。
お説教に出向いたお寺
お説教に出向いたお寺の夕ご飯に、すばらしく香りの高いピーナツの和えものが副えられました。お給仕の坊守さんのお話では、頂きものの生ピーナツを、料理の直前、台所で煎りあげて用いられたとのこと。和えものの香りの豊かさも、もっともなことと肯きました。
和えるというのは、平和の和、和気藹々(わきあいあい)の和の字を用います。この和という字は”やわらぐ”の意味の字。野菜や魚介など、味や匂いや口あたりをやわらげますのが和えものです。
真宗の開祖親鸞聖人は、七十歳代の半ばから八十歳代の後半まで、膨大な数のご和讃を造り、それを精錬されました。これは日本仏教の歴史の中に燦然と輝く業績(おてがら)と申せましょう。
教えみ法(のり)の骨格をきっちり組みあげられました漢文体の”教行信証”をご本典と称しますのに対して、浄土・高僧・正像末の三帖、合計三百五十一首のご和讃も、お三部経と七高僧のお書物から、教法の意(こころ)を取り出しほぐし和らげ、流行の歌謡の形にまとめられました。
私たちは、この和讃集を”和語の本典”と尊称し、日常読みかつ詠います。
親鸞さまは”和讃”の字の左に”ヤハラゲホムルナリ”と、カナ書きされました。更に一字一字の発音を綿密にお示しになるのは、声に出して読み詠うようにの親切と伺います。
連劫累劫、粉身砕骨、報謝仏恩、この善導大師のお言葉が”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”と和らげられて、芳潤な香りで歌われました。聖人のご恩を偲ぶお取り越しの季節、お徳の一端を仰ぎます。
ご縁を得て
ご縁を得て長崎県の五島のお寺の報恩講に招かれて六日間、たっぷりご法縁に浸らせていただきました。
このお寺の総代さんが、紋付羽織に袴と威儀ととのえて、お給仕される姿を見て、伝統の重みを身に沁みて感じました。紀州和歌山からここに移り住んだ一族の幾つかの代表たちの手によって、本願寺の允許が願われ、初めて島に真宗の寺が建立されました。
ご院家さんがご案内下さいましたあるお宅では、家を新築された機会にお仏壇を新しく申し受けると共に、先祖から伝わり給仕されるご本尊さまの表装を、京都の表具店に出されました。
ところが見事な表装になってお帰りなった、ご本尊さま入仏のお勤めで、ご院家さんが改めてご覧になると、このご影像の裏の御判は、本願寺十四代寂如上人のもの。この村には外にも一族の本家筋に代々伝わる古いご本尊があるそうで、いずれも寂如さまのご判ものと推察されると伺いました。
寂如上人は、一六六二年に十四代を継承されています。今から三百二十年余を遡るはるか昔、西の荒海に浮ぶ島にお寺を招請建立し、一族ごとに本山下付の如来さまを安じては、廻りくるご正忌報恩講には、一族の長らが紋服に威儀を正してお給仕し続けました。
そして今も、口々に”ご開山聖人ご出世のご恩 次第相承の善知識の”と、お称えしている群参の人々に、私も声を揃え称名申します。
このお称えしておられるお姿、次第相承のまぎれもないお姿なんだなと拝みました。
書斎まで 上り来て
書斎まで 上り来て 何とりに
来しかしばらく 考えてゐる飛松実という八十三歳の老人の歌です。この方は、日常身辺の老境の実状(ありさま)をつつまず歌に詠まれます。肉体の衰えから機敏になど、とうていふるまえず、万事行動はのろくなりました。物の覚えが鈍りまして、何かかにかと探し物をする。記憶力の衰えは止めようもなく、物忘れは明け暮れ常のこと、そんな自らの様子を見据えて詠われました。
さて、恒例の報恩講の季節。親鸞聖人のお祥月のご法事とて、聖人のお噂をしてそのご恩徳を偲びます。
聖人の奥方恵信尼さまは、聖人ご往生の後なお六年、越後新潟の地に生き永らえて過ごされました。八十七歳の恵信尼さまが、京都に住まわれる娘御、覚信尼さまに、老い先残る命も僅かばかりと、近況を便りされました。
年を越して今年は、あまりに物忘ればかりしていて”ほれたるようにこそ”つまり、呆けてしもうた有様で、と書送られます。
平均寿命三十歳台の鎌倉時代に、すでに八十七。老いた恵信尼さまが、物忘れお探し物など無理からぬことと察します。
それが”わが身は極楽へ ただ今にも参らせていただこうほどに””なれば そなたもきっと きっとお念仏申されまして この母が待っています極楽へ参り合わせられますように”と、わが夫(つま)、親鸞さまお導きの言葉”まいりあう”嬉しさを書き送られました。老い衰えた身にも、明らかに命往きつく処をお持ちです。
ナマンダ仏の如来(おや)さまを、命の裡にはらむ身と、称名なされるお姿に偲びます。
明治三十七・八年の日露戦争
明治三十七・八年の日露戦争から昭和二十年の敗戦まで四十年。戦後はすでに四十三年。時の過ぎゆきの速さを思います。ところで、終戦記念日前後の七・八・九月頃は、例年湧きくるように戦争の歌が新聞に寄せられます。
軍令に 反きし兵に 引き金を
引きし戦友(とも)逝く 妻にも秘して (水沢市 千葉 幸男)これは朝日歌壇に見た歌です。
人類の大罪というべき戦争は、大きな深い傷痕を、兵士の胸に刻みます。歌の作者の戦友が、近頃死んだ。彼も我も、かって若く兵たりし時の苦く辛い記憶を胸に持っていた。軍の命令に反(そむ)いたとて、仲間の兵士に向けて銃の引金を引いた。爾来四十年余、脳裏に焼きつくこの光景は、吐き気を伴う夢に顕(た)って、今に失せはしない。そうして、彼も我も互いに語らずして四十年、胸の奥に埋めたまんま、このこと妻にも秘して、彼は死んだ。
俵山西念寺の深川倫雄和上の仰せに
”人は心をカプセルにして生きる。夫婦・親子すらが、時にその内側に立入るのを拒むものを持って、それをカプセルの内に包む。このカプセルの内奥(おく)にあるものに分け入るは、唯、弥陀の大悲あるのみ”
と、お聞かせいただきました。ともあれ、時に他人の立入るのを拒み、時にこの心、人に理解して欲しいと思いもする、凡夫有情の実情。
如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいして 大悲心をば成就せり親鸞聖人のこのご和讃を、声に出して二度三度読んでは、我とわが耳に聞いてみます。
人並みに
人並みに、私も印刷の名刺を持ってます。一つは浄土真宗本願寺派・大光寺とし、今一つは、大光寺住職・本願寺派布教使・藤岡道夫として、立場を明かすほどのものです。
ところで、頂く名刺にはずいぶんの肩書きを並べておいでのものがあります。身の素性を示されるのでしょう。いつぞや、元なになにと、すでにとっくにお辞めになった役職を誇らしげに入れておいでのを見て、ずいぶん可笑しく思ったことです。
昔武士たちは、たとえば長州毛利家々来、何の某(なにがし)と名告(なの)り、役目の上ともなると自ら役職をつけて、身分を明かしたことと思われます。 その武士も主家を離れ、家禄を失い浪人しますと、武芸・学問に秀いでた者以外、身分・地位そして収入も家も失います。こうした、いわば失職中の浪人を卑しめて、素浪人などと称したようです。
西念寺・深川倫雄和上がある日、
”ウドンは、テンプラウドンもあれば、肉ウドンもある。ところが、ウドンの他に、実や具を一切入れず、ただウドンに汁だけかけたものがある。これを素ウドンという。私の元の素性といえば、肩書き一つ持たぬ、いわば素凡夫だった。それが今や素凡夫ではない。この体、この命に充満して、如来さまがお宿りです。お覚り全体の仏智・仏力を挙げて、私の命に持ちこんで、ごいっしょ。何がどうしてどうして、広大きわまりもない価値(ねうち)ものですぞ”とお聞かせくださいました。正定聚・不退転・等覚の弥勒にオナジキ位にあると、本願の行者、念仏の命をたたえて下さいます。
県外のお寺の説教
県外のお寺の説教などで、旅する事が多うございます。この寺に生まれた坊守は、帰る実家もありませんし、それこそ温泉行き一つせず、結婚以来ずうっと、寺の裡に過ごしてきました。それが娘の結婚とともに、お寺の後継者も出来、私共廿七年目で漸く時間の余裕を恵まれました。先頃有難いことに、親鸞聖人ご存命の頃から、殊の外深いご縁に始まる、真宗高田派のご本山専修寺を、三重県津市一身田に訪ねて、かねて念願の参詣を果たしました。旅の途中立寄りました瀬戸大橋は、聞きしに勝る規模雄大で、眼を瞠(みは)るものです。
わが国開闢から江戸時代まで、中国の文明に追随すること千数百年。そして百年、イギリス・フランス・ドイツを目標に、その文化文明の吸収に努め続けた日本です。戦後、アメリカの圧倒的な文明に憧れをもって、追いかけました。つまり何時の時代も、日本には目標の国がありました。それが今、世界中から目標にされる−−−日本です。この日本の先端工業技術の粋を集めて、瀬戸大橋が完成しました。
テレビの空からの映像、新聞の詳しい解説で知りました。そしてこの眼で見上げ、見下ろし見渡して”凄い、こりゃあやっぱり来て見てよかったなあ”と、夫婦ともに、しきりに感嘆の声を上げました。
西念寺の深川倫雄和上、ある日の仰せに
”善導さまが 浄土対面して 相忤(あいたが)わずといわれるのは やっぱりなあ! ということです”とありました。事実極楽に参るというと、如来(おや)さまの仰せ、お釈迦さまのみ教え通り。まっこと、やっぱりなあ、という世界、疑いなく順う所をお示しです。
私の祖母の往生
私の祖母の往生は、戦後の昭和二十六年、私が十代最後の年で、すでに三十余年の月日が過ぎました。
祖母の思い出の中、甦る記憶の一つに、手打のうどんをこしらえる姿があります。濃い紺の絣の着物、襷(たすき)のひもで袂(たもと)をつかねあげ、麺棒を力を入れて押しています。竈(かまど)の火が威勢よく燃える。大釜の湯が、煮えたぎる中に、ぱらぱらほぐしながら麺を入れる。
今、飽食・グルメ時代と比ぶべくもない昔の食事は、いつもつつましく貧しいものでありました。それでも祖母がうどんを捏(こ)ねて打って茹であげる傍らに、固唾をのんで見守る。少年の日の私は、いつもお腹を空かしておりました。腹一ぱいかきこんだうどん。何ものにも替えがたいご馳走でした。
こうして食べるウドン、肉もテンプラも載りません。何一つ添えられません。”素ウドン”です。ウドンに汁だけ、何の変哲もない全くの”素ウドン”でした。
俵山西念寺・深川倫雄和上、或る日の仰せに
「この凡夫私が、如来さまの名号・ナマンダ仏に出逢わずして、娑婆にウカウカ過す中は、ただの凡夫、いわば”素凡夫”です。仏とも法とも知らなけりゃ、命のイミやネウチの実りはない、命のユクエも見えぬ、全く”実のない素凡夫”です。それが、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、私の命に居据わっていて下さる。今まさしく位は正定聚。等覚の弥勒菩薩に同じき価値(ねうち)もの。もはや私は”素凡夫”ではありませんぞ」と、お聞かせです。
仏の方より往生は治定せしめたもうた価値ものと、軽妙・洒脱に現わし尽くして下さる法悦です。
戸籍簿と 異なるわれの
戸籍簿と 異なるわれの 誕生日を
糺すことなし 母泣きしより前田はるえという人の歌です。戸籍謄本を手にした少女の日、そこに記載されている生年月日が、承知しているものとちがっている。それを尋ねると、母さんは泣いた。押して聞くには、はばかられる気配となって以来、ためらわれるままに年月は過ぎ、母さんは死んだ。
あれは一体何だったんでしょう。私の誕生日にまつわって、泣くほどにつらいものを、胸の奥に秘して抱いていたのでしょうか。娘には顕わに語りたくはないもの、胸に納(しま)いこんだまま、母さんは逝った。もはやうかがいようもないこと、とこんな歌であります。
さて私は今、人に奨められて、卵の黄味を煎りつけて作る卵油を、毎日飲んでいます。古くから伝わる滋養剤です。これは大変苦くて、その上猛烈に臭いものです。そのままでは到底口にできるものじゃありません。一寸こぼれでもすると、たまったものではありません。そこで、これをカプセルに仕込んで、なんなく一気に飲み下します。
深川倫雄和上に、カプセルのお話があります。
”人は誰でも夫婦・親子の間でさえ、寄せつけも立入りもさせぬものを、心のカプセルに仕込んで抱えている。中には、自分で思い出すことさえ厭な酸っぱく苦いものをつめ込んで、誰も私の事、解りはしないと心を閉じて生きている。このカプセルの中に、分け入り満ちるが如来(おや)さまです”大経に独仏知耳(ひとりぶつのしろしめすのみ)の仰せがあります。そうです。弥陀ご一仏、カプセルの中に分け入り立ち入って、孤独の思いに満ちまする。ナンマンダ仏とごいっしょしていて下さいます。
間もなく母の一周忌
間もなく母の一周忌、今しきりに少年時代のことが蘇ります。終戦の昭和二十年、私は中学二年生。学徒動員の町工場まで、片道九キロ、一時間四十分かけて歩きました。戦時時間の工場の始業は早く、朝五時に母が私を起こします。
それが毎日十八キロの往復に歩き疲れて、時には宵の口から眠り足りて、母に起こされずに目覚めることがありました。台所に起き出ますと竈の前に据わる母の姿がありました。壁から柱、黒く煤けた台所、十ワットほどのほの暗い灯りの下で、屈まり火を焚く決まった形の姿です。
兄が三人、兵士として出た留守の寺を守り、末の息子の私のために、日毎四時には起き出して、竈に火を焚き屈まった、朝の仕度の光景です。我が身のためじゃない。子故にふるまう日課です。ひたすら子故に起き臥し立居して、それで手柄になるじゃない、報いも償いも求めはいたしません。親業の営みです。
無量寿経に承ります。阿弥陀さまの衆生救済の功徳・仏力成就の運びには、骨折(ほねおり)・辛苦は山ほどでも、損じゃ得じゃと計られず、ひたすら衆生へ衆生へと持ちかける、大善根・大功徳が成った名号大行。
俵山深川倫雄和上は
”お経に衆苦を計らずとあるのは、阿弥陀さまのお慈悲は片道だということ。相互理解の話じゃない。ひたすら衆生を救う、汝を救うのお働きで、どこまでも、名号のおいわれは、片道で成りました”と、ナンマンダ仏のおいわれをお聞かせです。まこと無上殊勝の願、希有の大弘誓と仰ぎ、本願、弘誓のみ法(のり)と告げられます。
昭和天皇の死去
昭和天皇の死去に伴いテレビ新聞は、このことで持ちきりでした。天皇とその時代について、いろいろな階層・世代の人の論評がまことに賑やかでした。それも今では総合雑誌に舞台を移して、少し考察を深めた論述が行われています。
敗戦の年、中学二年、福岡県の片田舎の少年だった私は、父が早く死んだ後、上三人の兄が兵士となって出た家で、母と二人で過ごしました。戦争にまつわる記憶の一つは、敵の飛行機来襲を告げる警報・サイレンの響きです。サイレンが鳴るたびに”ドキン”としては緊張します。
やがて敗戦。戦後は村人の生活の節目、農作業の便宜を図って、朝・昼・そして夕方の時刻を定めて、農協の屋上のサイレンが鳴ります。戦後しばらくの間、サイレンが鳴る度毎に、胸がドキンとするクセが残っておりました。戦争の名残のクセが取れたのはいつの頃でしたろうか。ともあれ、その設備仕組みを直接間近に見た事はありません。私にとって”サイレン”は、機械のことではなくて、耳に聞こえる音そのもの、響きそのものです。
俵山西念寺・深川倫雄和上が
”ナンマンダ仏は、文字ではありません”とおしゃる。”親鸞聖人において、名号といえば、音がしよるのである”ともお聞かせ下さいます。幼年時代から文字教育の仕組みの中に育ち、ナンマンダ仏の名号を文字と眺める習慣がついて、解説し講釈して理解に到ろうとする。
親鸞さまが、名号大行は”無碍光如来のみ名を称する”と、仰言る。み名を称する。あくまで、名号は音に響き聞こえるナンマンダ仏です。
二誕生過ぎの孫娘
二誕生過ぎの孫娘、電話に興味があるらしく、私達夫婦の居間にかけてくる室内デンワの母親のデンワに割り込みお話したがります。”もしもし、えりこ、行ってもいい?”傍に居て私どもの仕事の邪魔ではないかと、都合をたずねる母親に教わるとおり口まねして”えりこ、いっていい”と、話かけます。
彼岸過ぎの先日、両親に連れられ瀬戸大橋から道後を廻る旅行をした孫娘。旅館に到着したこと、家に連絡のデンワをかける母親の傍(そば)に、孫の声がしています。デンワに出たがるから一寸替わるからと、受話器を渡した気配があって、やがて孫娘の声が受話器に現れます。
”もし もし えりこ もしもし”
”ああ えりこさんか おじいさん もしもし”
”もしもし もし もし えりこ 行って いい もし もし 行っていい”これには笑いました。私共夫婦が笑ってますと、またもや受話器に聞こえます。
”もし もし じいじ いっていい”山口県と愛媛県、瀬戸内海を隔てて距離がない計算がない話で、これは可笑(おか)しい。しかし、孫娘にとって受話器の声はまぎれもない、じいじ、おじいさん。おじいさんがおるのです。じいじにもう会うています。
俵山西念寺・深川倫雄和上、常に仰せに
”ナンマンダブツは、字ではない。娑婆の文字を知っている我々は、すぐに文字に当て嵌めるクセがある。そしてナンマンダブツを只の文字にしてしまう。これはいけません。如来さまは、凡夫私の耳に入り、この臭い私の口にかかって下さる、ナンマンダ仏、声で来てくださっているのです”と、お聞かせです。
青年には客気があります
青年には客気があります。十年一日の如き田舎の暮しは、若者に耐えられません。そんな暮らしに結構馴染んでいるような父親は、男として意気地なく思えてならない。俺は違う。俺は仕方なく生きている、そんな暮らしは真平だ。才能を試して自分の感性を磨いて、発剌たる人生を創造するのだ。ようし決めたと、父親の反対・説得も受けつけず許しを得ぬまま家出をする。
年月過ぎてこれという特技・才能も発揮出来ぬまま、感性・感覚も鈍化して、今や日本の平均的中年の男となった。日常これという変り映えもない暮しが、都会の巷の中に埋もれるように繰り返される。
子供も青春時代を迎えれば、中年の男親の大方が味わう親子世代間の断絶の心情を、骨身に沁みて痛感している。そんな時、田舎の父親が死んだ。残された日記を読む。
父の日記 開けば涙 溢れ来(き)ぬ
わが家出せし のちのその日記 (阿部 壮作)朝日新聞歌壇のこの歌を、深読みしてみましたものが、このお話しです。その父親の日記には、中年男となった息子を泣かしめたものが、書きつけられています。その具体は歌われていません。しかし、判る。一行・一文・一句一語のすべてこれ、息子を案じ気遣うて、責めも裁きもしていない。ひたすら、子を思う親の慈愛が滲み、温情立ちのぼる言葉が、刻まれてるに違いありません。
西念寺・深川倫雄和上に、伺いました。
”阿弥陀さまは、私の罪を示されません。責めも裁きもされません。ナンマンダ仏と現われて、ひたすら救いを示されます。罪深き私を抱いて、泣いていて下さる慈悲極まるすがたこそ、ナンマンダ仏です”と聞きました。
朝日新聞歌壇
朝日新聞歌壇の、遠藤千秋さんの歌です。
「人間は 誰でも死ぬ」を まくらとし
子は相続の 話言い出(い)ず「人は誰でも死ぬもんだ」と、今更のように尤も至極のことを息子が言う。「そりゃあ、誰だってそうですよ」と、話に乗ったとたん「そこで話だけどな、母さん」と、息子が持ち出したのは遺産相続のこと。老年期を迎える頃ともなると、死についての話や胸の内の予感が、日常生活の中に挿(さしはさ)まれてきます。
友人知人の死亡の報(しら)せが頻りに届きます。同年齢の者が亡くなると、取分けて感興しみじみとしたものを覚えもする。ましてや夫は病床にある。だから思わぬことではないにしろ、こちらからでなく息子からの遺産相続の話はきつい。
「父さんも、やがてじゃないか」と、鋭く押しつけられたようでたじろぐ。いや鼻白む思いでいる。こういった歌でしょうか。大無量寿経に”いつまでも生きるつもりでいるが やがて必ず死なねばならぬ”と、説かれます。
世に不公平税制の是正ということ、近頃耳にしますけれど、人間が造るものみな不公平です。経済・教育・福祉といえどもそうであって、万般不公平でないものはない。ただ死ぬこと一つ、誰の命にも片寄らず公平にある事実でくるいません。この公平な死の事実を内部につつみもって、如来(おや)さまのおまことがあらわれました。ナンマンダ仏と、その体が現れきて下さいました。
俵山西念寺の和上は
”如来さまの至心・おまことは、何が起ろうとくるわないもの”と仰せです。あらゆる命の事実をつつみもって、公平平等ナンマンダ仏がご一緒です。
テレビや新聞
テレビや新聞挙げていま、幼児誘拐して殺害に及んだ事件が連日話題になっており、この犯人を割り出す方法の一つに、筆跡鑑定が行われます。字の書き癖を見るのでしょう。思うに人は、なくて七癖というほどに、なにがしかの身についたものが誰にでもあります。
勿論癖というのは、人事についてだけ言うものでなく、竹や木などの曲がりぐせということもあり、紙や布地の畳じわを、くせがついたといい、癖のある馬などと言ったりもするようですので、癖ということずいぶん広く使われる言葉のようです。
でも癖という字に、やまいだれを用いますことからして、本来人の身についたことでいうことにちがいありますまい。手足の動きの伴う立居振舞から、顔の表情やら物言いの端々にまで、癖があります。寝姿・寝言にいびきも癖でしょう。酒に酔うて、くどい・からむ・笑う・泣く挙げたら全く際限もない有様と申せましょう。
こうした身についた癖、概その当人の覚えのないことです。たとえ傍の人から指摘されて、自分の癖に気付いたとしても、身についた癖がめったなことで止むものでは在りません。それが癖というものです。
さて今や私は、仏のかたより往生は治定(じじょう)せしめられました。ナンマンダ仏と如来(おや)さまがご一緒のいのちです。そして、この上の称名は御恩報謝と承りました。このご報謝の称名・お念仏について、俵山深川倫雄和上、或る日の仰せに「クセになるほどの、お称名」とてお聞かせ下さいました。お念仏の癖がつく、ナマンダブ ナマンダブ。
お寺のご法座
お寺のご法座が近づいたある日、草取りをしようと境内に出た私に従(つ)いて、孫娘が庭に出て来ました。漸く二歳と半年になる幼い子です。
”やあ、おじいさんのお手伝いしてくれるの”と申しますと、
”うん、おじいさんのお手伝いする”
”えり子、お手伝いするよ”と、女の子だけに、口の先はなかなか達者です。”さて、そうしたらまず、塵取りを持って来ようね。これに草を入れよう”と、私が塵取りを手に持ちますと、孫娘が口を出して、手を出します。
”えり子、一緒に持ったげる”そう申しまして、縦にしますと、孫娘の背丈ほどもある塵取りを持ち上げにかかります。
さして重いものではありませんが、内玄関の露地に飛び飛びに置いた踏み石を伝うて、こんな幼い子が物を抱えてたどれません。
”ようし、そんなにして、そこ持っててちょうだい”と、孫のしたいよにさせておいて、そのまま塵取りごと孫娘を抱きあげて、狭い露地を通り抜け庭に出ました。
親鸞聖人の仰せに伺います。弥陀本願のお誓いには、生死(まよい)の命をねらいの的に来て、ナンマンダ仏とお宿りの如来さまと、本願信楽(しんぎょう)するが他力だとお聞かせです。
俵山西念寺和上の仰せに、また伺います。
”本願を信楽するというのは、私が浄土の往生に、なんにもしないことです”とお聞かせです。煩悩に躓きとまどい、煩悩にもつれとどこうるまんまの私を、これが生死(まよい)の命ごとだと、丸ごと救う如来(おや)さまが、ナンマンダ仏とお聞かせです。
人生のほとんどを
人生のほとんどを、父ちゃんの背中と車イスとベットで過ごした、ぼく。・・・父ちゃんと母ちゃんは、ぼくに二十三歳の命しかあげられなかったことが、残念でならない。でも、ぐち一つ言わず、父ちゃんと母ちゃんに楽しみ一ぱいくれてありがとう。・・・
ぼくのところへ父ちゃんも行きたいけど、まだ母ちゃんの車イスも、じいちゃんの車イスも、父ちゃんが押さなければならぬからね、一人で我慢して下さい。巨人とカーペンターが大好きだったぼく。体が弱くても、たくさんの友達に恵まれたぼく。父ちゃんの大好きだったぼく。たまには夢の中で、父ちゃんの涙をふきにきてくれないか。
毎日新聞の読者投稿欄”男の気持ち”に見た、島根県・松本政雄さんの言葉です。
脳性小児マヒだったのか、二十三歳の息子”ぼく”が死んで半歳。
”俺はな、ぼく、まだ死なれん”と、松本さんはいう。母ちゃんも車イス。その上じいちゃんまで車イス。これを父ちゃん、押さなきゃならんという。なあぼく、夢の中でも父ちゃんの涙をふきに来とくれ、と松本さんがいう。無理もないなあ、そりゃ、涙が流れるよなあ、来年もそうだろうが、とこれを読み書きながら私は涙した。そして、やがて私の涙は日常他の事に紛れて、今乾いています。でも今も乾かず涙しまします如来(おや)さまがいらっしゃる。松本さんの涙の一つ、ひとつずつに、ナマンダ仏とお宿りの阿弥陀さまがごいっしょです。
わが父の かたみの合着
わが父の かたみの合着 今日は着ぬ
ポケットごとに 爪楊枝あり (清水 房雄)作者の父親が死んだ。相似ること多いが父と息子。父親の相服もまた、背格好の似た作者の体によく合います。袖を通した上着のポケットに何気なく入れた指先にふれた爪楊枝。ハンカチを入れればそこに。財布を入れればそこにも爪楊枝。探ってみれば、どのポケットにも爪楊枝がひそんでいます。
出勤のため家を出る折り、銜(くわ)えたものを捨てずに入れる。街の食堂のテーブル離れ際、つまんだその一本もポケットへ。青年期の者に爪楊枝は要りません。物食べるごとに爪楊枝欠かせなかった父は、まぎれもない老人だったのか。弱りもし衰えもしていたんだなあと、思いもうけぬところから、在りし日の父を偲ぶ歌であります。
平成元年の今年、私は数え年、五十八歳。老眼鏡なしでは新聞が読めず、差し歯もし、また部分入れ歯もしています。私の父は数え五十八で往生遂げています。今私はこの年です。父が最後の年、その体、その心に現れた衰弱は、如実にこの身に現れています。正しく加速していましょう。老年期に入ることは、肉体的にも精神的にも”弱者となる”こと、避けられません。
このこと、かねて如来の説き聞かさるる生死(しょうじ)・無常の道理(ことわり)の相(すがた)です。如来(おや)さまの無量のみ光に照らされて、剰すことなく見出された、命生死の断面の相です。
この無常、生死の命に来て、ナンマンダブツとご一緒の如来(おや)さまがある。光明てらしてたえざれば 不断光仏となずけたり、と親鸞さまが詠われました。ナマンダブ ナマンダブ。
大光寺の本堂ウラ
大光寺の本堂ウラに書院が仕上がりました。庫裡をやって下さった一級建築士さんに、今度も設計をして頂きました。設計書には平面図や・東西南北から見た立ち上がり図面、六つの部屋の構図・間仕切を画き別(わ)けた上、窓のカーテン類から、ローカの隅のコンセントに至るまで、用意周到を極めています。
建築士は、ノミもカンナも握りません。コテを使うて壁を一と塗りするわけでもありません。実際の工事自体は、大工左官職の手で進められます。しかし、工事が開始されるその日から、注文主の此方の意向を細大もらさず聞きとり汲みとって、施工現場を監督いたしますのが建築士です。
注文主が志し願うていることを、全て形に現した設計書です。設計書に仕組み画いた通りに仕上りゆくように、注文主に代わって立合うのです。建築士の本来の立場役割りは、大工左官の側にはなくて、終止、注文主の側に立って、全面的にその願い実現に尽くします。それで注文主としては、大工・左官職に口出し手出し無用です。設計書を作成した建築士が全権委任の姿でもって、完全引渡しまでを引受けています。
蓮如上人が”弥陀をたのみたてまつりて たすけたまえ”とたのむ心、これこそ名号にご用意のお謂れとお聞かせです。
宗祖は”超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり”と詠われます。
弥陀法蔵の衆生救済の設計書、超載永劫(ちょうさいようごう)の施工した上で、ナンマンダ仏と完成引渡されました。ナマンダ仏と受取るばかりです。
詩人大塚なお子
詩人大塚なお子は、与謝野晶子と並び称される才能豊かな人だと聞きます。それがこの人、惜しくも若くして死にました。文豪夏目漱石は、早過ぎる彼女の死を悼んで”あるだけの 花投げ入れよ 棺の中”と、一句詠んで献げたといいます。以下はこの大塚なお子の”お百度参り”と題する詩、
一足踏みて 夫(つま)想い 二足国を おもえども
三足ふたたび 夫(つま)想う。女心に 科(とが)ありや。
朝日に匂ふ 日の本の 国は世界に 唯一つ。
妻と呼ばれて 契りてし 人はみ国へ 唯一人。
かくて みくにと わが夫(つま)と
いずれ重しと 問われなば
只 答えずに 泣かんのみ戦場にある夫の身を案じ、無事を希(ねご)うて、お百度を踏むのです。建て前で言えば、国の勝ち戦を祈るのが国民のつとめごと。身を鴻毛軽きになして、国に捧げた命というのは、本音ではありません。妻たる身にとり切実なのは、たとえ手足はもがれましょうと、卑怯者よとののしられようと、兎にも角にも帰ってほしい、戻っておくれと念じます。堂々たる見識・思想を述べたてて、戦争反対となえるじゃない。唯ひたすら命請いするばかりです、とこの詩の心を読みました。
さて、元号改まりまして、平成元年。昭和が終りました。人により所によっては、昭和天皇の戦争責任有りや無しや、と論議も湧きます。がしかし大喪の礼の二十四日、振舞うべき仕儀知らず、所在なく一日過ごすより、昭和のみ代を送るべく、お念仏の一日にいたします。激動の昭和のみ代に押し揉まれたこの命を、大切にして下される阿弥陀さまを大切にして過します。
先月、お説教に訪れました
先月、お説教に訪れました鹿児島県の出水(いずみ)平野の一画・高尾町は、古くから飛来する鶴の群で知られ、今年は九五五三羽、史上最高の数に達したそうです。秋の気配が濃くなる頃、大陸のシベリア・中国の奥地から飛来し、春の兆しとともに帰ります。いわゆる北帰行・私が出向きました二月十四日、早くも第一陣が飛び立ちました。
ところで、北海道釧路湿原を中心に、渡りをしない鶴が生息します。世界中に現在一九〇〇羽ほどと見られる丹頂鶴です。仲々数が増えないこの丹頂鶴、ここ十年来少し増えて日本に今四九〇羽居るそうです。日本に住みつく丹頂鶴・卵を産んでは暖めますが、折角孵ったヒナも病気のために大方死にます。丹頂鶴は卵を三十四日抱きます。これを三十日三十一日と親鳥が抱いた所で、人間の手で孵卵器に入れて、人工孵化します。その上、病気の免疫処置をしたヒナを親鳥の巣に返すのです。
子の数が少ない動物は、わが子しか面倒見ません。酷い時はつつき殺しさえすると聞きます。人工孵化のヒナが巣に戻されて、丹頂鶴の親はどうするかといいますと、忽ち羽交(はが)いもし餌を与えて育てます。大丈夫です。少なくとも三十日なり親鳥に卵を抱かせておけば、幾通りか啼き分けながら、卵を抱た親鳥の声は、卵の殻の中のヒナの耳に聞こえ届いております。同時にヒナも殻の中で啼きます。かくて親子は声をもって承知します。互いにまだ見ぬ親子であっても、声を挙げては命の名告りをいたします。親子の命は声をもって連なり結ばれました。
名号大行、弥陀は、ナンマンダ仏と声挙げ、私に来てくださいました。ナンマンダ仏と如来(おや)さまは、お宿りごいっしょしていて下さいます。
生き甲斐を 今更らしく 思ふらし
生き甲斐を 今更らしく 思ふらし
集える老ら しきり欠伸す (杉山 長風)集会所に老人向けの講演会が催される。
今日の演題は”生き甲斐について”。趣味を持って自ら楽しむ。また大袈裟なことでなくても、近隣の人の為になることをやって、自分から老け込むことを止めるよう努める。あるいは誰のためでもなく、自分で心を明るく持って、体についてはこんなこと、あんなことして、健康を保つなどなど、小気の利いた話が行われるのでしょう。この歌の作者、杉山さんの眼に映るのは、頻りに欠伸をするお年寄り。”生き甲斐について”の演題も、今ここに、参加しているお年寄りの生き甲斐にならないらしい。今さら”生き甲斐”をと言われたとて、とこの歌の作者のみならず思われるのでしょうか。
お経に臨終の苦しみが説かれます。犯してきた罪の後悔の念(おも)い、そして死んで、その行方の見えぬ怯えとが、心の中に犇(ひし)めきあう。これぞ苦しみの極み、臨終・死の苦しみだ、と聞きます。心の持ちかた身ごなし程度で、埋めようもない命ごとなる苦があるぞと説かれます。
”まことの信心うる人は このたび さとりをひらくなり”と、親鸞さまが喜びを詠われます。よかったなあ。よろしゅうございました。人生の意味を正定聚と恵まれ、等覚・弥勒に匹敵のネウチもの。あまつさえ、大涅槃の証(さとり)に往きつく命です。よかったな、これはもう、お念仏申すばかりです。
隣合わせに 祝儀と葬式
隣合わせに 祝儀と葬式の 家ありて
電報配達の われは戸惑う赤川速水という人の歌。悲喜交々の人の世には、こんな事もあるなあ、と四、五年前ノートの端に記しました。その後忘れてましたが、先月生寺(じっか)の母の葬儀の日は、この歌どおりの光景でした。
私の里の路地一つ距てたお隣さんの娘さんが、母の葬儀の日にお嫁入りです。母のお通夜に、花嫁のお父さんが焼香しまして、”明日結婚式のため、お寺のおばあさんの葬式の手伝いも見送りもなりません”と挨拶いたします。すると居合わせたご近所の人が”あんた花嫁の父、明日泣くんじゃろな”と、まことに親しみをこめて声をかけたした。そこはお通夜の席のこととて、それ以上話題にならずはずみませんでしたが、花嫁のお父さん、おそらく泣くのでしょうね。
結婚式は華やぎます。装い華やかに、そしてこれはその行手になみなみならぬ苦労があるにちがいないと、親自らの経験から充分予感できるから、胸一ぱいの不安を含んで、むしろこれを華やかにするのかも知れません。軌道を走る列車すら、行く手に大惨事が興ります。中国旅行の高校生のあのニュースが物語ります。まして軌道一つもない生涯。行手は当然悲しみ不安一ぱいの門出、親の涙も無理からぬこと。
母の葬儀はしめやかながら安らかに、そして仏法味豊かに行われました。念仏の命の行く手に不安おびえはありません。涅槃・成仏の母を、見守り送りました。阿弥陀さま、ご開山さま有難うございました。
新南陽市富田
新南陽市富田(とんだ)から、山に向う曲折の多い坂道を、お招きのお寺に車を走らせます。すると荷物を振分けに肩にした女性が、坂道を歩いて登っています。この先、峠のトンネルの向うの村まで家がないこと、しばしばこの道を走って承知していますので、荷物は後ろ座席に入れて、この女性を助手席に乗せました。こんな場合、通常人は有難うございます、とお礼を言うものです。ところがこの女性、お礼を申しません。いや黙ってたんじゃありません。こう言いました。
”やれまあ えかったあ!”
周防の人らしいお国ぶりまる出しで、心底助かった嬉しさ、胸の裡一ぱいの気持ちを露に、大きな声で言いました。
”やれまあ えかったあ!”
お助けに会うた喜びを率直に口にいたしました。
問わず語りの車中のお話で、四時まで待てばバスがあること。お昼の今から待つより、二時間も歩けば家に帰れると歩いてたこと。病院に行ったついでの買物が、思わぬ大荷物になったことなどなど。短い間の矢継早の話で知りました。やがてここでという場所で降ろしますと”有難うございました””何とお礼申しましたらいいのやら”と車の脇でお辞儀をしながらとめどなくお礼の言葉を並べて、こちらが恐縮する程の挨拶です。
親鸞さまは”弥陀成仏のこのかたは 今に十劫を経たまえり”と、ナンマンダ仏に遇い得て”よかったなあ!”と讃詠(うた)われます。この嬉しさが”喜愛心”とこそ表現(あらわ)されたかと、窺い味います。
隣郡、万徳寺のご院家さん
隣郡、万徳寺のご院家さんが、中国新聞の”天風録”をコピーしてくださいました。この天風録の伝える八ツ塚実氏の毎日は、寝たきりの老いた母上のおむつ替え、三度の食事、毎日の入浴、そうして夜毎添い寝の明け暮れといいます。
実は九年前、尾道市内の女子中学生が”私達の先生は「みんな生きてるんだ」が口グセで、生きている先生がアダ名です。感動屋の先生は、泣きながら生徒を叱ります。すてきな先生です”と投書に寄せて、プロフィールを紹介された生きている先生こそ、この八ツ塚実氏です。八ツ塚さんは、この三月学校を退き先生を辞めました。脳梗塞で寝たきりになった八十八歳のお母さんの介護に専念するため、これがその理由です。
三月のお別れ式で先生は、
”もっとみんなと語りたかった。でも人間やりたいことを、あきらめなければならない時がある”と語りかけ、今がその時だとして、先生の職を辞められました。やがてその後”オレな、先生、涙が止まらんかった”と、デンワしてきたのは、グレかけていた男子生徒だといいます。
今、弥陀大悲のいわれを聞きます。如来(おや)さまは、真心・至心を極め、清浄・真実を尽す仏智・おまことから、功徳力・仏力を集めたナンマンダ仏のお仕上げに及ばれました。
煩悩ごとに躓(つまず)き、煩悩ごとに蹲(うづく)まって、人生の始終に煩悩立ちこめます。こうして生死(しょうじ)界を離れも脱(のが)れもならずして、煩悩ごとにグレッパナシの命を満たし、ナンマンダ仏が届きました。お覚り全体の仏力をナンマンダ仏に押し傾けて到りとどいて下さいました。
クリップしていた紙切れ
クリップしていた紙切れに”お慈悲は いつも立姿”とある一語に、記憶が蘇ります。畏友、広兼至道君は、入院検査を受けた大阪日生病院の寝台ごと、新大阪駅から新幹線で広島駅へ、そこから車で大竹市の国立病院へと移し帰されました。時に昭和六十年五月二十一日、宗祖聖人のお誕生日の事でした。
”真の仏弟子たる身のあるべき様は 如是我聞だよ”というて、主治医の診断結果を奥さんに、包まず丸事告げしめました。
動かすと骨がくずれると気遣われる、悪化しきった容態の末期ガン。あと百日の命、止めようもない容態と聞いて、自ら承知した至道君です。
大竹国立病院の玄関に、時八十一歳の父上が待受けていてくださいました。そこに居合わせたイトコの方が告げられるのに、
”あんたのお父さんはな、至道さん。新幹線が大阪駅を出発してからこの病院に到着するまでの三時間の余、今までずうっと立っておいでたよ”とのこと。
”藤岡先生、イトコからその話を聞きましたが、椅子にかけておっても新幹線は走ってくるのに、まあ、立って待っておったですと”
”お慈悲はいつも立姿ですね”と、こんな風に満面の微笑みをもって聞かせて貰うた言葉です。
”お慈悲はいつも立姿”空中に浮かぶ阿弥陀さまのお立姿を、韋提希夫人(いだいけぶにん)が眼(ま)のあたりに拝み見たと、観無量寿経に説かれます。これに因んで、私共が礼拝給仕するご本尊は、姿勢は前のめり、御身を傾け立っていて下さいます。
直立不動でなく動く如来(おや)さま。名号ナンマンダ仏のお姿です。病院の玄関ホールに立ちつくして三時間、この父上のお姿と如来様ナンマンダ仏が重ね合せて、満々たるお慈悲の様に味わわれた言葉です。