阿弥陀さまが、ごいっしょです (2)

藤岡 道夫師 法話 

以下の文章は藤岡道夫師の了解を得ての掲載です。
尚、文章のタイトルはオリジナルにタイトルが無い為、一時的に付加したものです。


今月始め

今月始め、四ケ月になった孫がいます。声を掛けると笑い、体をゆすると高声を挙げます。あやす私の方が存分に楽しんでおりました。その月初めから約束のお説教が続いて、十二日振りにお寺に帰りました。久し振りに、孫に対(むこ)うて声をかけますと、怪訝な顔をして笑顔を見せません。

乳呑児にとって十二日間は、まことに永い永い命の時間なのでした。祖父の顔は、その脳裏から失せました。見知らぬ訝しい男が現れたのです。これはそれだけ智恵づきの証(あか)しでもありましょうが。

ともあれ、布教の旅に出る前、様々あやして遊んだようにやってみます。ですが、眼を据えてただまじまじと、凝視(みつ)めたまま、笑顔を見せません。不振な者を見る顔許に、不安、怯えがうかがえます。

さてそこで、祖父たるもの、この愛らしい幼い命一ぱいの、怯えと不安を除かねばなりません。声音を変えてあやします。手を採ります。頭(つむり)を撫で頬ぺたをつつきます。体をゆすり抱っこをします。思いの限りの手段(てだて)を尽くします。やがて笑顔が戻りました。

”釈迦弥陀は、慈悲の父母、種々に善巧(ぜんぎょう)方便し、われらが無上の信心を、発起せしめたまいけり”と、親鸞聖人が讃われます。

お経に”明らかに、仏智を信ず”とございます。

ここを深川倫雄和上は”これは弥陀をたのむということです。凡夫はなんにもしないことです”と、お聞かせくださいます。

煩悩生死の私は、不審・不安をはらんで、無防備なおびえの命。南無阿弥陀仏の親さまが、きっと助くる、安らいでいておくれと、声に相(すがた)を現してまで、体一ぱい、命一ぱいに満ちてお宿り下さいます。


昭和五十六年の一月

昭和五十六年の一月、ご本山の御正忌法要の正一週間、総会所と御影堂にお説教をさせていただきました。時あたかも、私の実家の寺の母が、今年はご開山さまと同い年の九十才”というて、奇しくもこの年の、ご本山のご正忌を勤める私を、殊の他喜んでくれました。

ご本山で頂いたお説教のテープを持ち報告をかねて、坊守と娘を伴い福岡の田舎の生家に母を見舞いました。

一泊して山口に帰る間際に”また、その中来るよ”と、暇を告げますと、走り去る車の中で”おばあちゃんは、今日このお別れが、今生の別れのように、覚悟しておいでよ”と、娘と坊守が涙します。終(つい)の別れの最後の情景は、このようなものなのかと、私も胸中に、ふくれるものを覚えます。三人、車中お称名申し乍ら、立帰ることでした。

然し”もうよかばい”と、母がいうのは、実は、今や活躍中で”忙しゅうてならん”と、いう息子。それが又来るというが、こりゃ無理するに違いない。母たるもの、子に負担はかけとうないから”もう、よか、よかばい”と、親の気持をそこに集めて言うたのでしょう。親心の表れでありましょう。

お念仏の身の上は”金剛の真心を獲得(ぎゃくとく)す”と、ご開山さまは喜ばれ、金剛心の行人と仰言います。金剛心とは、真・実・誠の仏智を本体として、証果(さとり)をひらく種となる心だから、疑い一つまじらわらぬ心だと、如来(おや)さまのおまことを仰がれます。その如来の親心をあげて、ナンマンダ仏と、私に持ちこまれました。

深川倫雄和上は、ここを”私には、如来さまが、満ちていて下さる。今やまさに、黄金、こがねの如き私です”と、ご讃仰なさいます。


周りの人に、親切だと誉められ

周りの人に、親切だと誉められた、ある同行に”わたしや、親切どころか、腹に一物あるんですよ。そりや、ご近所に、ちょいと一口の煮物やら、野菜一握りを差上げとります。それもこれも、私が独り暮らしだからのこと。息子は神戸で所帯を持つサラリーマン。娘は嫁いで長崎暮らし。私が患うても、おいそれと間に合いません。

ところが、風邪ぎみで朝床を離れずにいると、ご近所の誰彼が声をかけてくださる。カーテンが開かんからとか、姿が見んからというて、気遣うていただく。時には、おカユさんの差し入れまで、いただくこともあります。有難いことです。わたしや、床の中でお称名させていただくことです。

咄嗟の病気には、近所のお世話になるは必定。そこで、かねがねつまらない物でも、せっせと近所に差上げて、宜敷く頼みますいう気で、いざという時に備えております。ちゃんとした下心あっての事。親切と褒められることじゃありません”と、くだけた話をうかがいました。

深川倫雄和上が”阿弥陀さまには下心がお有りです。私を覚りの仏とまで救い遂げられるのも、私に慈悲行を果たさせようとの、底意・下心があるのです。つまり、この私に衆生済度をさせようとの、歴とした下心があってのこと、これぞお慈悲の極まりです”と、お聞かせくださいます。

これは”還相の利益(りやく)は、阿弥陀如来の、衆生済度の本意を、顕すのである”という、親鸞聖人の仰せを和らげられるお話です。

念仏の命、私は成仏まぎれもなくて、衆生済度の希(のぞ)みを孕(はら)む命なんだと、わが身を撫で押えて、盆の月の仏前に、お称名報謝いたします。


落葉せる 太き欅の 幹の前を

アララギの歌人、島木赤彦の歌です。眼を患う子を連れて、医者に通う。亭々たる欅の落葉道。その道すがら、後になり、先になりする児と親の語らいがある。 ”この木、おっきいねお父さん””うんこりゃ、欅ってんだ。この欅の葉っぱが、落ちてるだろ。これが落ちて終うたら、寒うなるよ。間ものう冬さ。だからな、暖い中、せっせとお医者に往って、はよ、眼を治そうな”

”お父さん、あと何回、お医者さんに往くの””そう、何回かな。あと二回かな、三回かな。なに、じき治るさ”

まだあどけない子供は、父と一緒にあるけるのが嬉しい。時に駆けだし、時に遅れても、同伴する父と共に子は安らいでおれるし、親も穏やかに心が満ちている。

深川倫雄和上が仰せです。”真宗門徒の老人で、死ぬことを、お迎え、というものがおる。これは、臨終に阿弥陀さまのご来仰を頼みにする余裕の信仰からきたことばで、真宗では言わぬこと”と、お聞かせ下さいます。

『真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生さだまるなり』と、今日ただ今、お救いの中なること、親鸞聖人がきっかりお示し下さってあります。

”念仏の衆生、私の命の中味は、さながら阿弥陀さまだらけ。親さまが、今もうご一緒というのに、何を今さら、息の切れ際のお迎え、頼む必要があろう。臨終どころの騒ぎじゃない、今日も明日もナンマンダ仏、ナンマンダ仏の親さまが、ご一緒してお離れでないのです”と、聞かせてくださいます。


近頃、山口県の内外

近頃、山口県の内外広くいろんな町や村のお寺に、お説教のお招きを受けます。大変有難いことに、お寺の坊守さんが、さまざま心をくだかれた手料理をいただきます。

海のもの山のもの、魚料理、肉料理そして勿論、工夫を凝らされた精進料理にも恵まれます。彩りのよい盛りつけは、眼に味いを増します。

たくみな材料の取合せは、栄養面の気配りがうかがえます。そして暖かくあるいは涼しく運ばれる品々に、しみじみとした心根の優しさまで頂くことです。

心尽しの御馳走、有難うございます。まことにご馳走さまでした、とお礼を申します。”ごちそうさま”と、お礼を述べるのは全く頂戴したこちら側の態度です。

周到な用意があって、下拵えから配膳に及んだ料理に、体調ととのい、五体の力、気力まで養われるのは、ひとえに接待を尽くさるる、あちらの側の活用(はたらき)なのです。

深川倫雄和上のお話です。”ナンマンダ仏は、仏さま有難うございます、ちゅうことだと、孫に教えとりますと、いう同行がおるが、これはまちがい。いつ何時でも、誰にとっても、ナンマンダ仏は、汝を救う、必ずたすけると来て下さって、私に今もはたらく如来(おや)さまです。私の五体に満ちて往生成仏の正定業(ちから)となっておいでの親さまが、ナンマンダ仏。

空とぶ鳥から、軒端に巣を張るクモまでも、お前を助ける、必らず救うと、昨日も今日も、只今も、十劫正覚(さとり)の最初(はな)から、呼びかけ続けておいでになる名号ナンマンダ仏。ナマンダ仏ナマンダブと、声に出してお称え申すのが、こちら側私の、御礼ご報謝です”と、お聞かせ下さいます。


便利屋の 君のいまわの 悲しかり

朝日新聞に見た歌です。便利屋の看板掲げて、頼まれごと、何でも引受け、こなして生きて来たあなたは、今、まさに息引きとろうとする。

見れば、胸の前で何やら、しきりに両手を動かし続ける。呼びかけにも応えようともしないのは、もう意識も混濁しようとする時なのか。それがあろうことか、胸の前の両手の仕草は、便利屋稼業とて頼まれる、家移り仕事に引受けた、荷物くくり、あるいはほどいているのか、そんな仕草を繰り返す。なんと、男の息の切れ際の、悲しくもむなしい仕草だろうか。臨終のこの期に及んでやる事が、荷造り、荷ほどきの仕草とは。

男は、所帯を荷う。妻や子を伴うて、全身で引受けた男の責任。実直に仕事に生き、誠実に便利屋を生きたあかしの仕草をしつつ、命終わる。命に、実るもの一つもなく終る。

この命、見過しならぬ、この命、捨て置かれようかと、ナンマンダ仏と来てくださいました。親さまがもうごいっしょして下さいます。”不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身に満てり”と、親鸞さまがおっしゃいます。

深川倫雄和上が”世間の人は、苦しまずに息が切れるのを、いい往生という。これは、苦しんで死ぬ人を、悪い往生とする、差別であって、これはよくないことです”と、聞かせて下さいます。

呼吸困難の苦しみや、病気次第では、激しい痛みもありもしょうが、これは肉体、生理の上のこと。たとえ畳かきむしってもがく命の中にすら、ナンマンダ仏の親さまが、同居してご一緒、離れずいてくださいます。


きまじめに 勤めあげたる 四十年

毎日新聞歌壇に寄せられた歌です。謹直に職場の仕事をこなす気質では、家庭でも、きまじめな夫であり、父でありましょう。

競輪、マージャンなどの、賭ごとは勿論やれぬ。タバコの害が叫ばれれば、いちはやく健康に悪いと、これもキッチリやめる。ともかく、仕事が趣味のように、誠実に勤めあげて四十年。あとに一体、なにが残ったのだろう。

体力の衰えがある。のど元まできているのに、物事の記憶が形をなさぬもどかしさに、老いのかげりを覚える。平均寿命までの歳月を思えば、大きな計画もなりません。気力や、意欲のちぢむ、命の実状がある。実直・誠実な人生を過して、そして挙句空しく命終りに向うのか。

三界の衆生の、虚妄の相を知るによって、弥陀は真実の慈悲を生ずと、聞きます。生死流転(まよい)の命の相を、譬えをもって示されます。尺取虫が、物の縁をたどりめぐって、とめどもありません。また、絹糸を取るあのカイコは、自分で吐き出す糸でもって、自らの体を閉じこめ、縛ってしまう。まことに輪転きわまりもなく、とめどもない虚しき命の実状です。

この実状に居たたまれずして、如来さまは、もう空しくは終らせぬ。きっと生死流転(まよい)の命を止めると、的をしぼって、お慈悲の功徳をナンマンダ仏となし遂げられました。

深川倫雄和上のある日の仰せに”野球の名投手の球は、キャッチャーのミットに、狙い通りに納まる。弥陀願力の名号は、狙いをつけた私の命に、ナンマンダ仏と納まるように、仕上げられました”と、お聞かせです。そしてここを、ご開山さまが”本願力にあいぬれば、空しく過ぐる人ぞなき”と、仰せ下さいました。


寝返りもままならぬ主人の大きな体

寝返りもままならぬ主人の大きな体を、右に左に傾けながら、首から足の先まで、固くしぼった熱いタオルで拭います。毎日拭うてやりました。

私が丈夫なもんで、お陰でだいたい思うように看病させていただきました。永う患うた主人の見送りを済ませた今、心底ほっといたしております。

ところがさて、後に残った私。患いついた折り、家の嫁の手で、どんな看病して貰えるものやら、夜中にふっと目覚めて思います。下着の洗い濯ぎなんぞ、どうなるやらと、気にし出したらどうしても眠れません。

これは、溜息まじりに語る老同行の話で、身につまされる人も、多いことでしょう。

阿弥陀さまの浄土・極楽は、老人の憂い・心痛のひだに分け入って、溜息までも組み込むお慈悲をもって仕上がりました。洗い濯ぎなんぞ、苦にやむ身の上一切が、如来(おや)さまのお慈悲をかきたてる因(もと)となりました。極楽は、結構至極の功徳世界に整えられたと、如来の仰せにうかがいます。

深川倫雄和上は”親さまの正覚(さとり)のお徳全体が、ナンマンダ仏に仕組まれて、私の命に持ちこんで、今はもう、貧瞋煩悩の私に同居していて下さる。時々声に取り出し、お称えしながら、極楽に私は参り、お証(さと)り聞(ひら)くのです。それで、太陽が沈む西の方角が極楽と聞くからには、西の方角は、これは特別の方角だと、自分の胸に言い含め、言い含めするがよい。これはご報謝のやり方です”と、お聞せ下さいます。

理論・理屈の理解に、とどこおることをご指摘。”信仰生活は、実践です”と、ご報謝の工夫を奨められます。

ここに、親鸞さまが”本願の行者”と、お示しのお意(こころ)を、承ります。


門の傍に

門の傍に、自転車立てる気配があって、本堂の向拝口に近づく足音がある。ナマンダーブ ナマンダブ、ナマンダーブ ナマンダブ・・・、しばらく続くお称名。やがて足音が遠ざかって、自転車のスタンド払う音と共に、気配が消える。これは、ある同行が日課にしている、仏恩報謝のすがたです。

この同行が語ります。もしまだ、如来(おや)さまの、お慈悲を知らずにおれば、どうでありましょうか。一寸、病気が治りにくかったり、家が不倖せ続きにでもなると、あちの祈祷所に見てもらう、こちらの参り所でお札を貰う。お祈りするやら、お籠りするやら、身も心も大騒ぎで落ちついちゃおれますまい思います。

この世に生きとるほどには、煩悩だけは騒ぎます。それがあろうことか、もう有難い身にして貰うとります。この胸の煩悩のド真中に、ナンマンダ仏の親さまが、居据っていて下さいます。溜息つきつきでも、親さま、離れちゃのうて、ナンマンダ仏とご一緒しておいでの、気の安らかさ。どこの参り所ご祈祷所にも、慌て騒いで駆けつけるこたあ、一つもない。ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、私の五体にいつまでも同居しておいでます。そんなら、雑行を離れ、自力を忘れておる身の御礼に、一日一度、お育ていただいた、お寺の如来さま、きざはしからでも参らせて貰います。と、こんなお領解話でした。

深川倫雄和上”ご報謝は、親さまのお慈悲をいただく身の、一人一人の工夫努力のふるまいです”の、仰せをここに味わいます。また”ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、お宿りなさったわが体、生死流転(まよい)は、とどめられた。よかった、よかったなあと、ご恩報謝の工夫をこらし、信仰生活のよろこびごとといたしましょう”とも、お聞かせです


敗戦の年から

敗戦の年から、今四十二年。敗戦の年から遡って、日露戦争までが四十二年。歴史の今昔の感、深いものがあります。

近頃”レトロ”といいます。ファション界などで、昔に戻る・復古調ということだそうです。レトロといって、どの時代に戻るのでしょうか。

ところで今、七輪を使われる家が、どれほどありましょうか。魚を焼き、一寸した煮物をする。樫や楢など堅炭の火をおこす。ともかく、どの家にもなくてはならぬ物でした。新聞を丸めて入れ、ほど木と消炭、堅炭を載せる。マッチを擦って、団扇であおぐ中、やがて真赤に火が熾きる。

さて私、いつが始めやら、窺い知れぬ流転の間、煩悩まみれの命でした。善導大師が”信外の軽毛(きょうもう)”といわれる。功徳といわず善根といわず、吹けば飛び散る髪の毛ほども、この身に持ってはおらぬとおしゃる。それがまさしく信心のひが熾きた。弥陀願力・仏力が貪愛・瞋憎の身を的に、ナンマンダ仏の火種をもって来て下さった。

深川倫雄和上がお聞かせです。”あらゆる仏さま方は、この私は、煩悩具足の七輪、火種がない。布施・持戒・禅定や智慧と万行功徳を奨めて、あおいでみたが、火種がなければ見込みは立たぬ。凡夫が仏になる道なし、と見抜いたがこの私。ただ阿弥陀さま、ご一仏。正覚(さとり)の功徳の全部を火種に仕込んで、ナンマンダ仏の声となり、私に今は宿って下さる。今日も今日とて、貪欲・瞋恚(しんに)の榾木(ほだぎ)について、無明の炭が燃えるよう、ナンマンダ仏の如来さまが、離れず同居していて下さる”と、念仏成仏のおみ法(のり)をうかがいました。


さまざま、人の話を聞きます

さまざま、人の話を聞きます。金や財産・地位や名誉に関わる話。技術・資格を持つものが、人生たいへん有利である話。なんにもまして人間関係ほど、重大かつ深刻なことはないなどと、せつせつと訴えられもします。するとまた、そんなこと、どれほど満たされようと、健康でなくては何にもならぬ。まずは、健康第一と主張する人も出てまいります。

この世の苦しみ悩みを痛感している当事者として、いずれもそう思うに至ったなりゆきが、夫々訴え語る人の身辺に、あったにちがいないと察します。

ところで、人はまた精神的でもあります。倫理あるいは宗教的信条を心に含んで、人に強く説得する人があります。それ等の人が言う。たとえ生活環境、条件が整えられ、その上健康に恵まれたとて、心貧しくては幸福にはなれぬ。精神が貧相なままでは、しあわせは感じられない。そのため、常にわが心を豊かにしてこそ、心富める者となる。つまり、私自らが要ですから。だから、私を大切にして生きるのです・・・。と、大変教訓的に語られます。この類の話をする宗教家は、世にゴマンとあって、テレビにまで顔を見れます。

至極、尤もらしく聞こえましても、こりゃあ真宗ではありません。阿弥陀さまが不在です。

深川倫雄和上の仰せに”阿弥陀さまが、私を大切にして下さる。必ず救う。お前をきっと、証りの仏にする。私にかかりっきりにして、煩悩生死を断ちきったと、ナンマンダ仏の如来さまが、私にご一緒です。こう聞いた上からは、私を大切にして下さる阿弥陀さまを大切にする。私のことはなるべく小さくして、阿弥陀さまを大きくして生きる。これがご報謝の生き方です”と、お聞かせです。


医学者・佐々木隆興先生

医学者・佐々木隆興先生が”人間は、自分の膝の下くらいを持てば、わが体を持ち挙げられるような錯覚をする”と、おっしゃる。これは至言です。更にいえば、人は自らの生命力で、わが命を持ち挙げられはいたしません。にもかかわらず、多くの宗教の名で、持ちあつかえるように語るのは、つまり錯覚に過ぎません。

幸・不幸を論じ、善悪を裁いて、どれほどの人間の心をきたえ、命をみがいても、畢竟(ひっきょう)人間の話です。この境界を、一歩も出ません。

昭和十四年十月廿六日、父が往生遂げました。その二日後廿八日は、廿一才の姉も参りました。今年は二人の五十回忌です。母は永らえまして、この正月を数え九十七才で迎えています。でも、正月五日病院に運ばれました。そして一週間、最後の生命(いのち)を見守る状態になっている旨、昨夜兄のデンワを受けました。

この世に、わが命をあらしめ、ナンマンダ仏の如来(おや)さまを、この命にもたらした父と母です。仏の方より治定せしめられ、早く父は往き、まさに今、母もお浄土へ参ろうとしています。

人間のレベルで語っていては、この別れの思いは、満たされませぬ。人間の話はもう止します。

深川倫雄和上から、極楽の一日は広大に長い時間だこと、山口県野島の同行夫婦が、終(つい)の別れを告げ合う、有難い話に寄せて聞きました。

よかったなあ、お母さん。お父さんが往かれて五十年たあいうても、こりゃ人間の時間。極楽じゃ、ちょいと一服する間のこと。おお、もう参らせて貰いましたかと、お父さんの声がかかります。よかったなあ、お父さんにもう逢えるよ。ナマンダブ ナマンダブ ナマンダブ。


観無量寿経

観無量寿経の講義テキストの一三〇頁は、沢山の書き込みで上下左右の欄外が埋まっています。

その中に”広兼至道は、遠くへいくのではない”と、深川倫雄和上のお言葉が一句納まっています。そしてその言葉から一本の線が引かれて”阿弥陀仏去此不遠=阿弥陀仏は、ここを去ること遠からず”という観無量寿経の文字を、赤のマジックで強く囲んでいます。

この講義は、昭和六十年五月廿四日、山口の教務所で行われています。この日の朝、深川倫雄和上は大竹の国立病院を見舞われます。骨髄ガンの末期症状で、あと一と月の命と告げられ、これを承知の広兼至道君に、臨終説教に及ばれました。この様子は、今年出しました『阿弥陀さまが、ごいしょです』という、私のテレホン法話集に納めています。

今蘇ってくる光景があります。臨終法話と観経の講義が行われた翌る日、病院を訪れた私に、広兼さんが申します。

”藤岡先生、ゆうべの観経は、去此不遠・ここを去ること遠からずのところでしたね”と、ニッコリします。
”うん よかった! 広兼至道は、遠くへいくのではないって、先生が仰言ったよ”と、申しましたら、”今日が目的、これに来て同居ですもんね”と、胸から腹を一とめぐり、両手で撫で廻します。
あと一と月の命と知ったベットの上で、呟やいたにちがいない。今日、山口の観経は”阿弥陀仏 ここを去ること遠からず”と。

講義の席に連なる思いを胸に追うて。”ここを去ること遠からず”と。今月は至道君の三回忌です。


たわやすく 線を引き去る

たわやすく 線を引き去る 名にあらず
一周忌過ぎし 君がアドレス

例年になく暖かい年の瀬。それでも恒の如く、この期に果たさねばならぬいくつかの事どもがある。推(うずたか)い年賀状の束を前に、筆を手にするのも、そうしたことの一つであります。さて、宛名を追うて住所録を順次繰っては記(したた)める。

彼の名がある。生涯に亘って、わが交友の中に鮮やか。つややか、くっきりと、彼の命はまだわが裡に在る。

すでに、一周忌が済んだ。だからもう、この宛名の年賀状は、書かぬ。いつもならここで線を引いて、名を消すところ。それがしかし、この彼の名は消せぬ。消すに忍びない。この名は残しておこう。このアドレスにも、いやこの胸の底ひに、とどめておこう。

たわやすく 線を引き去る 名にあらず
一周忌過ぎし 君がアドレス

昨年暮の廿五日、山口聖典研究会、恒例の報恩講に於いて、深川倫雄和上が、朝日新聞歌壇の、この歌を引用されました。畏友・広兼至道君を偲びながら、仏恩師徳をご讃嘆、まことに感銘深いご縁でありました。あれから更に一年。広兼師の浄光寺には、この秋、三回忌の法要が営まれ、望まれて一席の法話を勤めました。今やここに歳暮れます。
 今年もわがアドレスに、彼の名は残る。胸の底からたっぷり、彼の命が顕ち上る一年でした。広兼さんをめぐる、阿弥陀さまを、ご讃嘆申す一年でした。

ナマンダブ 如来さまがご一緒です。ナマンダブ 親鸞さまもご一緒です。ナマンダブ 還相の至道菩薩もご一緒の、この一年を終わります。


昭和十四年十月廿六日の宵

昭和十四年十月廿六日の宵、父は往生を遂げました。小学二年、八ツの年の、その臨終の光景は、今も鮮明に残ります。

この日、父は熱がある私の額を、洗面器の水に浸したタオルで冷やしてくれました。床に戻って、横になろうとして、心臓マヒの発作があり、数分後には、息を引取る往生でした。来年は、父の五十回忌。秋の二日間を、おみ法に浸ろうと、法供養を目論んでいます。この世に結ぶ親子の縁は、僅かに八年足らず。他人の身の上なら、到底五十年を距てて、法縁の形の要はありません。まさしく忘却の彼方のことに違いありません。

阿弥陀さま本願の企に、人の世の恩愛人情を切り捨てず、ナマンダ仏・名号法に吸い上げ組込んで下さいました。恩愛・人情・煩悩の深みに降りきってくださった阿弥陀さまです。人縁を転じて、法縁にまで捲き上げてくださいました。

西方は、父いますみ国、西方は、母いますみ国、西方は、親しき者の逝きませる国、ああ相逢わん、只この一つのみ法(のり)にて、なもあみだぶつ、只この一つのみ法にて。

木村無相氏の念仏詩を呟くとき、お浄土はにわかに親しみを増します。お浄土は、父いますみ国です。遠い祖先(おや)達、そして父のお念仏の命に連なって、私もまた、まぎれずお浄土に参ります。よかった。よろしゅうございました。弥陀の大悲、お念仏のお法によって、先立ちいく人を、往生成仏の導きの命と肯きます。祖先(おや)たちの後に順(したが)い親しんで、あの人この人を、お浄土まで訪ねさせていただきます。


私が小学校二年の秋

私が小学校二年の秋、父は心臓マヒの発作で急死いたしました。この日母は、私の姉が入院先の病院で危篤状態だというので、そのベット脇に看取りをしていました。父が死んだ報せで、驚いて寺に戻ったその後、家族のいなくなった病室で姉は独り参りました。

その後二年、上の兄はニューギニアへ、次の兄はビルマへと、それぞれ兵士の一員として出征します。終戦後、白木の箱が二つ、母の膝の上に乗りました。

兄の三十三回忌の折り”わたしゃ、お父さんときも、キミ子のときも、英之のときも、宏のときも、ただ死んだって報せを聞くばっかりじゃったばい”母のつぶやきを聞きました。今年九十七才となった母は、元気に父と姉の五十回忌を迎えられるかと思うてましたが、正月が明けて入院、月半端から今までずっと昏睡状態で、命終の時を見守るところです。

正月三日は床の中で、重誓偈のお勤めをしたそうですが、あけて四日は、お念仏だけ。

思えば、父の声は遥かに距たり、また母の声も、今やこの世から失われます。そこにナンマンダ仏の如来さまが、声に現われて来て下さいました。有難いことに、極楽に備わるお徳があって、父の名・母の名・親しい人の名を呼べば、呼ぶ声に応じて忽ち会えるといわれます。倶会一処のお慈悲の功徳。ナマンダブ ナマンダ。

よかった。これっきりではないのです。ナマンダ仏 如来さまが、父の声、母の声をも伴うて、今ここにおいで下さいました。


私たち生涯の間中

私たち生涯の間中、何らかの形の挨拶をし続けます。お早うございます、お休みなさいなど、日常茶飯の言葉から、大イベントの開会挨拶に至るまで、さまざまあります。

結婚式や葬儀・告別式などでは、私どもにもその役目が当たります。そこで時宜に適した言葉をソツなくということともなると、挨拶の仕方の本なども時に必要ということになりましょう。

先日私も母の葬儀で、御礼・ご挨拶をいたしました。
松の内過ぎから病院にありました郷里の母は、九十七才をもって、この三月十一日参りました。

十三日、生家の寺の本堂で営まれた式の終り、親族代表挨拶というので立ちました。一旦、私は会葬者の皆さんに相対しまして”遺ります者に代わりまして、一言ご挨拶いたします”と、申しました。そうしておいて、改めて本堂の如来さまに真向うて、お礼のことばを述べました。

専照寺の如来さま、ここに母を送るに際しまして、御礼を申し上げます。如来さま ナンマンダ仏と母の命に来て、ようこそお宿り下さいました。

母がこの世滞在の間中、その命の裡に同居して、ずうっとご一緒し続けて下さいまして、まことに有難うございました。謹んで御礼申し上げます。

専照寺の親鸞さまに申します。ナンマンダ仏・本願のみ法、み恵みのおいわれを、よくよくお聞かせ下さいまして有難うございました。

このようなご挨拶をいたしました。人の縁を転じて、み法の縁として戴く母葬送の一日でした。


飼主を 刎(は)ねて死なせし

朝日新聞に見た歌です。牛舎に何頭もの牛を飼う。三百六十五日の給餌、つまり毎日餌をやらねばんりません。生き物を飼う農家に、休みはありません。

農業経営の柱であった夫が死んだ。あろうことか、夫は自分で飼うている牛が刎(は)ねて、打ちどころが悪く命を落した。この驚き、悲しみ、言うべくもありません。地の底に引き込まれるような思い。それでも生き物がいます。牛を飼わねばなりません。哀しいことには、農家の主婦は、休みはありません。

夫の死後も連日牛舎に入る。昨日も今日も、牛の給餌をいたします。牛舎の端から順に給餌をしていって、やがて、夫を刎ねた牛の番。これにも桶に飼料を満たします。手抜きすることは一切ありません。

飼主を足げにして、刎ね殺した罪すら知らず、この牛は餌を貪り食う。犯した罪すら解らぬ愚かさに、ただもぐもぐと喰うばかり。”なんちゅう奴かいの、お前は。ナマンダブ ナマンダブ 。そうら喰え。喰うとる丈の、哀れな奴かい、ナマンダブナマンダブ”

<>釈迦は娑婆往来、八千返と説かれます。曠劫流転の私は、その間ずうっと、おみ法聞くどころじゃない。仏さまを謗り、仏法の邪魔をし、お慈悲を足げにするやらして、ために、生死を重ねてきました。それが今、おみ法の響く国にあって、お内仏のある家に生まれ育ち、ナマンダ仏の命に相成りました。

”娑婆永劫の苦を捨てて 浄土無為を期すること 本師釈迦の力なり 長時に慈恩を報ずべし”と、ここを宗祖が歌われました。


夕暗みくれば まったく 見えぬ妻

夕暗み くればまったく 見えぬ妻
かたくわが手を 取りて歩むも

直方(のうがた)西村光次氏の歌。視力が衰えて、今はもう夕暮れになると、明暗の見分けもならぬ、その妻を詠む。歩みを始める時、妻の手は夫の手を探り、そして固く握る。にわかに不自由になった眼は、五歩十歩の距離がおぼつかない。一足前の物が見えず、足はとまどい心がおびえる。

もはや、千歩万歩はもとより、一歩をはこぶのに、確かにすがれるものがそこに要る。夫の掌がある。いや夫の方から、その掌が来た。しっかり掴む。いや掴まるように、夫の掌の方から添えられて来た。

すくんでいる妻の姿、心許なげな足許を見越して、探りくる妻の掌に先んじて、夫の手が当てがわれていく。

妻が望み、足先の向う所を、その折々に承知して、夫の足どりにためらいはない。指の強さ、たなごころの大きさはもとより、夫の掌から伝ってくる。足どりのまちがいのなさが、妻の胸に沁み入って、位置を占め、安らぎの思いが満ちてくる。

無明長夜の灯炬(とうこ)なり 智眼くらしと悲しむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪おもしとなげかざれ

親鸞聖人のご和讃です。恩愛のおもい深ければ、暮しにもつれは絶えず、罪は深い。生死・命の行方を知らぬこの身が、今、名号に遇い、弥陀のお慈悲を知りました。

罪の暮しを手探り、死の影におびえる命に来て、仏力・功徳力一ぱい、ナンマンダ仏が満ちて下さいます。生死の輪転(まよい)は終わった。今、もう罪の嘆きは要りませぬ。今日も来る日も、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、ごいっしょし続けて下さいました。


今日はどこにも出かけぬ我と

今日はどこにも出かけぬ我と 知りてより
妻は炬燵に 居眠り始む

これも西村光次氏の歌。西村さんが農業を辞めて、老後を過ごそうとし始めた頃、奥さんの眼が悪くなり、やがて視力は失われます。

夫婦の間の常として、夫の最後の看取りをし、そうして後、妻が逝く。これは、言わず語らず、連れ添い続けた夫婦・互いの胸に含んだ思いであるにちがいない。それが、いたわり合うていこうという矢先、妻は視界を失い患う身となった。も早、妻に看護を希むべくもない。そこを

おそらくは 盲の妻に 看取らるる
ことなく死なむ われと思へり

と、西村さんは歌うています。
にわかに視力を失うた身では、家の内の日々の起き臥しにすら、不安が伴い、何かにつけておびえる思いが離れませぬ。

万事、夫にすがって、その手を探り声を求めて明け暮れます。いじらしいまでの容子。今、妻は炬燵なあって居眠る。これとて、夫が今日は外出はせぬと承知して、はじめて安堵した姿。

そうか、お前の胸のその中は、俺が傍らに居て初めて和らぐのか。お前の今の寝息は、俺がこうしておることで、安らかなのか。うん、お前がこの世に居る間、その胸の中一ぱいの、安堵の思いが続くよう俺は離れはしない。そんな歌の心が聞こえます。

ナンマンダ仏の親さまが、悲しみの心に来てくださいます。命のおびえの胸に来て、独りにしてはおかないと、お宿り下さいました。縺れの悩みに耐え得ぬ心に分け入って、孤独じゃないよ、ずうっと一緒していよう、とナンマンダ仏の如来(おや)さまが、離れず同居して下さいます。


妻の煮し マーマレードも

妻の煮し マーマレードも 今朝終る
すくなき縁の またひとつ絶ゆ

妻に先だたれ、ひしひし胸に迫る、残された男の孤独の思いを詠む、並河津(わたる)氏の歌である。その妻は、家事の好きな、心配り細やかな女性でした。台所に揃える日常の食品も、かずかず手作りの品が調うていました。

それも尽きる。妻が逝き、日を経るにつれ、造り置かれた品の、あれを食べ終わり、これも尽きる。レモンなのかオレンジか、マーマレードもまた、今朝のパンに塗った分で絶えた。

物言うことなく、独り暮らすには、在りし日の名残りの物に、自から手がいく。こうして一つまた一つ、妻のえにしのものを失う。

家の内に明け暮れて、数十年。妻は優しさ十二分、身ごなしやら声音にも、そして種々(くさぐさ)造り貯めた食べ物にも、溢れるほどに妻がいた。悲しいまでに、とりとめもない淡いことどもに、一途に成って、なんと頼りなげなものに、心をくだいていてくれたのか。しんしんと胸に沁み入る愛(いと)おしさと、孤独の思いがめぐります。仕事に力を尽し、家庭の営みに心を傾けて、人の世を過ごし来たって、この命に実るものとてなく終る。

独り世に生まれ来て、独り世を去り死にゆく命。哀れ、なんと空しく過ぎゆく命かと、居たたまれぬ思いの阿弥陀さま。煮えたぎる願い・誓いをもって、空しき流転の命に来て、取りあげ抱いて下さいます。

十方苦悩の群生界に、空しく過ぐる者なきよう、仏力・功徳力を集めた、ナンマンダ仏。ナンマンダ仏のその中に、空しき流転の身を取り込んで、命の裡に実って下さいます。

独りの命を今まさに、お慈悲の的に来て、ナンマンダ仏と実り、お宿り下さいます。


がさごそと 衣(きぬ)を引きつつ

がさごそと 衣(きぬ)を引きつつ 寒の真夜
尿器をさがす 視力なき母

朝日新聞歌壇でみた歌です。真夜中、ひそかな物音がしていて、眼が覚めます。しゅびんを探して、母親が部屋をはいまわる。その着物が畳をこする音です。母は眼が見えません。だからこそ、娘の私が、こうして床を並べて寝てるんだから、おこしてくれりゃいいのに。

夜毎に、畳を這いまわる気配で、眼が覚める。あっさり、そういうてくれた方が、なんぼかいいのにと、舌打ちしそうな、作者の気持ちが伝わります。でも、探しあぐねる母親、この寒のさ中、冷えきった部屋にさらしてはおけません。さて、しゅびんを取ってあげましょ。そんな歌であります。

母親は母親ならではの思いがある。床を並べて寝ていてくれる丈でも有難い。仕事がある。疲れていよう。せめて今夜なりと、寝せておいてやりましょう。

寒の中、わかっています。真夜中、そうですとも、だから無言で探します。おしっこしたいからとて、一々この娘を起こしてはすまないこと。今夜こそと、こんなあたりと見当をつけて、尿器を探すのです。やれやれまた今夜もおこしてしもうたね、すまないね。

がさごそと 衣(きぬ)を引きつつ 寒の真夜
尿器をさがす 視力なき母

母と娘が寄り合うて、そして、もてあつかいかねる有様の、娑婆の命があります。阿弥陀さまが、苦悩の命を組み込んで、大悲の願をご成就です。ナンマンダ仏と来ておいでです。舌打ちしたい思いに分け入ります。夜毎、畳を這いまわるこの命に来て、ナンマンダ仏とご一緒なさいます。