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以下の文章は藤岡道夫師の了解を得ての掲載です。
尚、文章のタイトルはオリジナルにタイトルが無い為、一時的に付加したものです。
やがて死ぬ 娘にてあれど
やがて死ぬ 娘にてあれど 生業の
靴つくりやり 枕べにおく朝日新聞歌壇のこの歌の作者は、クツを造る職人。一足のクツを造り急ぎます。娘が病気、それも命止められぬと医者に告げられています。助けてやれぬ不憫な娘。やがて間もなく死ぬ娘の枕べに、造り急いで仕上げた靴を置きました。
今日が日まで、なんぼせがまれても商売物の仕事を言訳に、子供の望むクツなど造ってやりはしなかった。しかし今仕事やもうけを言うてはおれぬと造り上げました。
”この靴はいて遊園地いこな。デパートにいこ。レストランいこ。そうかおばあちゃんとこいきたいか。うんいこうな”と、語りかけ語りかけする有様に親の思いが傾けられます。
やがて死ぬ 娘にてあれど 生業の
靴つくりやり 枕べにおく娘は死ぬ。やがて死ぬ。靴を作りはしたけれど、靴をはかせて連れ歩くことはもう出来ない。そのことを承知している父親なれば、悔恨の思いが胸をしめつけてやみません。”ごめんなあ、はよ造ってやりゃよかった。ごめんな”。我子の命を止め得ぬ無力が、親として悲しい。娘の願いを聞き入れて果たしておかなかった親だから、我身をせめる思いに嘆きが深いのです。
今、阿弥陀さまを聞くに至りました。阿弥陀さまは大慈悲満足せられた如来(おや)さま。智慧と慈悲とを併せ円満充足せられた親さまです。慈悲と智慧とをナンマンダ仏に成しあげられました。流転生死の命、私の命に充満して離れたまわぬ如来さまです。浄土往生の志、畢竟成仏の願いまで、満足せしめられる阿弥陀さま。まさしく満足大悲の親さまにいだかれているのです。
皺ふかき この手を夫に
皺ふかき この手を夫(つま)に さし出すは
わが逝くときか 夫(つま)ゆくときかこれは老夫婦の歌です。ツマと詠みますのは、夫という字をそう読みます。
何事につけても節度を守る時代の生い立ち。取り分け女性の立居振舞いは、控目であることを美徳と躾られ、身にしみ入ったたしなみとなっています。夫婦が手を取り合うなど全く考えられもしないこと、日常あり得ることではありません。
それでも苦労の多かった生涯を気持ちの上では、文字通り手を取り合うて艱難を凌いで参りました。頑張ってやってきました。それがふと手を見て思う。もうツヤを失うて久しいこと。皺ぶかい手を見て思います。歳を取ったもの。主人も歳を取りました。出来ることなら、この手この体がかなう間に、私が主人を看取り介抱をしてお浄土へ見送って、その後から私は参らせてもらう。そんな思案も胸の中をめぐります。
さてどちらが先かはともかく、今生の別れを告げ合うその折りは、きっと二人で手を差しのべ取り合いましょう。私はそうします。上手に愛情を現す主人ではありませんでした。あるいは手を延べて握りしめてくれるのは、主人の方かも知れません。なんだかそんなような気もします。
皺ふかき この手を夫に さし出すは
わが逝くときか 夫ゆくときか生涯二人して頑張って来ましたね。力合わせてようやって来たと思います。もう頑張らなくともいいのですね。お浄土に参らせて戴きますもの。如来さまが存分周到(じゅうにぶん)に私共二人の事ご承知でお浄土ご用意下さいました。ナマンダブ、有難うございました。ナマンダブ、有難うございました。
張りつめし 心も緩び
張りつめし 心も緩び いささかの
言の葉に又 涙流れて皇后陛下の歌です。昭和三十六年七月二十三日、照宮・東久爾成子さんが四人の子達を残して亡くなられなした。
息引取られる前の日、朝九時から天皇・皇后両陛下とも病室につめられ身じろぎもされず看りをされました。侍従官が控えの間でのご休息をと度々申上げても十七時間もの間、まんじりともされず臨終に添い続けられる両殿下だったと聞きます。
血を分けた親子、情ある夫婦の間にあって、胸の思いは騒ぎ心は湧き立ちめぐります。天皇・皇后さまといえども、例外ではありません。恩愛の情まぬがるることない、煩悩の身の事実であります。まさしく煩悩具足の凡夫と如来の仰せを承りますこと、上下貴賎の別はなく、日常茶飯、凡夫境界の実際です。
阿弥陀さまは、まるで煩悩の貯蔵庫のような私を的に、ナンマンダ仏をお仕上げです。お助けの企ての最初から、煩悩具足を見込んでかかられました。
秘かにもらす私のタメ息すら、ナンマンダ仏に組込まれます。カケラ程の心痛とて、もらさず取込まれました。妙好人才市が歌います。
愚痴も仏になるそうな 共につろうて念仏申すと、共につろうてとは、つれだってということ。
愚痴をやめてではない、湧き出る愚痴を緒口(いとぐち)に、お称名申す。こぼれ出るタメ息と共に、ナンマンダ仏。愚痴心痛が私の日常茶飯。そこを阿弥陀さまが見抜かれて、煩悩たちこめる心痛ため息を現場にお働き下さいます。心痛と共にナンマンダ仏。タメ息と共にナンマンダ仏とお称名申します。
お説教に出向いたお寺で
お説教に出向いたお寺で、昨年十一月十三日の出来事を尋ねてみました。数十人の参詣の人、皆記憶がありません。この日南米コロンビア火山爆発、二万三千人の命が一瞬に失われました。然しそれが半年後の今、私共の頭にもう思い浮かびません。
他人事では私の心は動きません。他人事では私の思いは騒ぎもせず胸に湧く何物もないのです。
更にそのお説教の折り、ご主人に先立たれたという婦人にその折りのことをうかごうてみました。尋ねる私の言葉が終わるや否や、堰を切ったように話されます。山仕事から昼ごはんに戻る、自宅近くの道端に倒れられて、それが最後とか。奥さん自身は風邪で寝ていて山にはご主人独りで上がられました。
亡くなられたのは今を去る十九年前、昭和四十二年五月二十八日の十一時過ぎだったなど、実にその話は詳細をきわめそして尽きることがありません。私の心は他人事で動きませんが、血を分けた親や子供につけ、又情ある夫婦の間にはめぐりめぐって湧きくる思い、或いはたぎりたつ胸の覚えが刻まれて、何十年たっても今生の別れの記憶が失せません。
煩悩からむこと丈、たっぷり貯めこんでいる私、ナンマンダ仏と親さまが来ていて下さいます。如来さま悲願のご本意には、この私を救いにかかられる初めから、煩悩湧きたつ有様、見込んでかかられました。煩悩貯めこむ身のまま、やがてきっと終わるべき命を取りこんで離さじとかかられました。
本願功徳一切が、ナンマンダ仏に持ちこまれました。煩悩具足の私を的に来て、今もう既に、離れず一緒に居て下さいます。どうぞ、助けさせておくれよ、と名告り現れたまいます。
老い父の 味噌汁の好み
老い父の 味噌汁の好み 問う汝(なれ)よ
わが妻となり 目覚めし明けに母親を失って十年、父親と二人して豆腐屋を営む松下竜一氏が結婚しました。連れ添うは高校を卒業したばかりの、いわゆる幼な妻。
挙式後、初めて朝を迎えて幼い主婦の仕事始めは、先ずわが夫となった人のお父さんの味噌汁の好みを聞く事で始められます。
老い父の 味噌汁の好み 問う汝(なれ)よ
わが妻となり 目覚めし明けにこれから大人になる本当に若い妻のけなげな覚悟のほどが察せられます。それは正しく愛ある覚悟、慈愛の決意です。
女手のない所帯に入り主婦となる。そこに女の言い分けを持ち込むのでもなく女の気持ちを主張するものでもありません。
先ず自分が接していく人の好みを尋ね聞く事から始められました。聞き取り承認し受容(うけい)れきってこばむことがない。これは慈悲・慈愛の姿を物語るものと申せましょう。
阿弥陀さまのお慈悲は、仏説無量寿経に説かれて完璧です。お慈悲のお仕上げについて、意(こころ)に先だちて承問す、と説かれます。生れ出て必ず死にゆく命に立対(たちむか)い、その立場事情の全てを察し、身の煩い心の悩みの一切を汲みとり尽くして、余すところない弥陀の大悲を先意承問と示されます。
そこに愚かさの非難はありません。侮り・蔑み・全くありません。生き方あさましく、罪は極まりなく深かろうとも、裁かず責めず阿弥陀さまは、汝罪深しとは一言一句告げられません。この世に命ある間、煩悩暮し、とめどない身を抱えとられます。やがてきっと終り、輪転きわまりない命を悲しみ抱いてくださる阿弥陀さま。ナンマンダ仏と来てくださいました。
東京上野動物園で日本猿の赤ん坊が
東京上野動物園で日本猿の赤ん坊が生まれました。初めての出産をした若い母猿に乳が出ません。乳首を喰わえて赤子は死にます。息絶えた子猿を抱いて五日間、腐ってくずれゆくまで離さなかった母猿の話を聞きました。
二百種類を越えるあらゆる猿の中、寒冷地の北限は本州の北の端、下北半島に住む三群の日本猿で、世界に知られています。海峡を距ててそこはもう北海道、十二月から四月まで半年雪の山です。
暖かい土地の日本猿は八月まで子供を産みますが、下北の雪山の猿は四月に赤子をもうけて、この後もう子供を産みません。
雪の山に木の皮を噛って、命をつなぐのが精一ぱい。こんな食べ物では乳を呑む子猿がいても親猿の乳は出ません。子猿は育ちません。
日本猿の歴史は数万年。本州の最果て下北の猿も、おそらく昔七〜八月まで赤子を産んだに違いない。食べ物乏しい雪山に、出もせぬ乳首をくわえて死んでいった無量無数の子猿達。その息絶えた子猿を抱いて、離し切れずして悲しみ啼いた無数無量の母猿達があったに違いありません。
この悲しみの極まりから、下北の山の猿は十二月には生理がとまり身ごもらぬ体になります。死ぬ子を見るに忍びぬ親の体がかわったのでした。慈悲ある側が変わるのです。正しく慈愛のかぎり慈悲の至極と申せましょう。
私の命は死ぬ命、伴う者も代理もなくて、やがてきっと命終ります。この終る命の私に、ナンマンダ仏と親さまが来てくださいました。やがて終りお浄土に参るその時まで、ずうっと一緒に居て下さいます。体力・気力・身構え・気構え、なぁんにもいらぬナンマンダ仏。声に姿を改められた阿弥陀さま、親さまです。
東京上野動物園
東京上野動物園で、子供を産んだオランウータンが、赤ん坊に乳を呑ませませんでした。子供が啼きます。そうしますと母親は本当に可愛ゆうてならない様子で、赤ん坊の体中をなめまわし体をゆすってあやします。しかしめんどう見ても乳を呑ませないのです。抱きあげて自分の顔のそばに引きよせますから、赤子は胸の乳が吸えません。
本能なんでしょうね、お乳を呑もうと赤ん坊は、母親の顔のあたりのそこら中、やたら吸いついて乳を欲しがります。
二日、三日と過ぎます。赤ん坊が弱ります。そこでやむを得ません、四日目に母親を麻酔入りの飲み物で眠らせました。
赤子を乳首に寄せてやりますと、息もつかぬ勢いで乳を吸います。一回二回三回と呑みこみました。遂に一四二回も赤ん坊はお乳を呑みこみました。まるで手品を見るように赤ん坊のお腹がふくらみます。
やがて麻酔がさめました。しかし又も母親が赤子を顔元近く抱き上げます。再び赤子は乳が飲めなくなりました。
実はこの母親、生まれた時その親のお乳が出ませんでした。それで人工哺育で育てられたのです。胸に抱かれてお乳を飲んだ経験がないのです。悲しいことに親の乳首を知らないまま育って子供を産んだのです。
私はお念仏申します。父が母がお念仏申しました。お祖父さんお祖母さん、いや遥かな昔遠い遠い親たちから、お念仏お称名の声が伝わり流れて私に到りました。
智慧と慈悲との親さまが、ナンマンダ仏と私に到り届いて下さいました。彼岸の浄土に往きつく命とまでなられたお念仏。ナンマンダ仏の親さまです。
南アメリカ大陸の国
南アメリカ大陸の国、エクアドルの沖千キロのガラパゴス諸島は赤道直下。イグアナ・象亀など古生代からの生物が住み世界に知られます。ここは又カツオ鳥・軍艦鳥などの海鳥が数十万羽の規模で大繁殖します。
そのシーズンは足の踏み場もないほどの、無量・無数の海鳥の巣の卵がかえり、ヒナが生まれ親鳥は海から餌の小魚を運びます。無数の巣がありヒナがいるのに、親鳥は間違えずに自分の巣、つまり我が子の所に戻ってくる。間違えることなどありません。
親鳥は遠くから目で探し乍、巣に帰るのではなくて、親鳥とヒナの間は鳴き声で通信が交わされ、その存在が告げ合われているのです。
親のフイッシュコール、つまり親の呼声を聞くと、餌が貰えるものとヒナは体全体を口にして鳴き立てます。あたり一面、親鳥ヒナ達の鳴き声が湧き立つ中から、親鳥は我が子ヒナの鳴き声を正確に聞き分け聞き取って戻ります。岩陰や或いは夕暮れどきで、眼に探せなくても我が子の声を親鳥は誤たず捕らえます。
親鳥は卵からかえったヒナの声を、一回か二回で覚えるという。いやそれより前に、親鳥に抱いて暖められ卵の殻の中で育てられる中から、ヒナは親鳥の声の特徴の幾つかを聞かされ告げ続けられて、親の声をヒナは命全体で覚えとります。だから卵からかえったその時すでに、ヒナには親の呼声を体に持って生まれてくるといわれます。
わが如来さま親さまは、声となり名告りとなって、私に既に来ておいでになるナンマンダ仏。無常の命の私を、抱えこみ煩悩具足のこの身を取りこんでかかられる親さま。
今私の命に満ちて離れず、私がこの世滞在の間中、ナンマンダ仏とご一緒の如来さま。この上は、自らに言い聞かせてお称名申すばかりです。
鳥の生態観察
鳥の生態観察の為、庭に置かれた餌を見つけてムク鳥の群が来ました。まるでラッシュ時間の電車に乗る群衆のように、ムク鳥の群が餌の山に殺到いたします。
ところが中の一羽が、足に怪我をしていて駆けつけられず取り残されました。その時いち早く餌のそばに駆けつけていた椋鳥(むくどり)の群は、足の悪い仲間が餌の処に到着して食べ始めるまで待ちました。
その食べ始めるのをキッカケにして、ムク鳥の群も押し合いへい合い食べ始めました。この話を伝えるモーリスバートンの本に、今一つこんな話があります。
二羽のカモメが餌を与えられています。一羽のカモメには足が片方ありません。餌をもらっているこの二羽の所に、十数羽の他のカモメが飛んできましたら、一本足のカモメが餌を食べている間中、もう一羽のカモメは自分の餌を食べもしないで群のカモメを見張っていて、餌場に寄せつけないように致します。動物学では、こんなふるまいを動物の利他行動と呼ぶそうです。
阿弥陀さまの衆生の命、安からしめんと大誓願の心を聞きます。たとえ世の役にも立たぬ無能の者と見放される程の身も、弥陀の手の裡にあって取残されません。又世間の非難を一身に浴びる極悪非道の者こそ、見捨てられぬと取り掛かられたのが弥陀の大悲誓願です。まさに無能・無力・弱者の命の底に降り立って下さいました。
ナンマンダ仏、独りにしてはおかないよ、と来て下さいました。ナンマンダ仏、孤独の命を含みこんでご一緒です。心弱り体衰えたその時も、この命に満ちて離れず居て下さる、利他真実の親さまです。
集団で暮らす動物社会
集団で暮らす動物社会では、恵まれない体のメンバーとりわけ赤ん坊や幼い子供に対して、徹底した保護行動といわれるふるまいのあることが観察されています。
例えば猿の群は絶大な権力で群を掌握する、所謂(いわゆる)ボスを頂点に上から下に向って雄猿の序列があります。下の位の雄は意味もなく上位の雄猿には近付けません。
地位を脅かすと常に警戒されていて接近すると忽ち猛烈な攻撃を受けてしりぞけられます。
ところがボスや上位の雄猿に近付いて親密にふるまいたいその時は、下の位の雄猿がそこらに居る子猿を一頭拾いあげます。子猿を胸の正面に抱えて接近すると、ボスも上位の雄猿たちもまず攻撃することはありません。
雌の猿も独りの時には、雄猿のひどい攻撃を受けることがしばしばあります。しかし赤ん坊を抱いたり子猿を連れている場合には、まずどんな雄猿の攻撃も受けません。
そこには弱味を持つ立場が見守られ、脆く危うい命の保護行動が、徹底して行われています。いわば慈悲の精神に高まり及ぶ、その原(もと)の形がうかがえる話と申せます。
今、弥陀の名号、南無阿弥陀仏のおいわれを承ります。身の煩い絶えず、心の悩み湧いて離れぬ凡夫人、やがて果てる命を抱えこんで名号は仕上げられました。
親さま、南無阿弥陀仏のお仕上げには、弱き心、脆き命を見込んで、取り込み抱かれました。まさに弱者へ弱者へと深まりきった、お慈悲の極まるところから、南無阿弥陀仏が成りました。名告りの親さま、声の如来さまが、今私の命に漲り満ちていて下さいます。
誰でも誕生日
誰でも誕生日があります。明治・大正あるいは昭和に産声をあげて、一人一人誕生日がある。しかしこの命、生死の命です。死ぬことを切り離せぬ命、かならず死なねばならぬ命です。代わる者あることなしと、無量寿経に説かれます。
有ることなし、とは今はないが昔はあったとか、今はないが将来その内にありますといったものではないのです。またここにはないが他所にはあるとか、私にはないが他人さまにはあると、いうものでもありません。畢竟無といいまして、死ぬ命、代理は全く有りません。金輪際ないことのなのです。
しかもいつが始まりとも知れず、三界・六道の境界に生れてはやがて死に、生れてはやがて死にと、とめどなく流転往来やまぬ我が命です。
かくて今、切り離せぬまま今生にあるというに過ぎません。その私が親鸞さまに導かれ、阿弥陀さま、如来さまを知りました。寿命無量の親さま、ナンマンダ仏の親さまは、無常流転はこの度かぎり、生死の命はとどめきったと、私に来て離れずに居てくださいます。
私はこの世の息きれ命果てるを区切りとして、阿弥陀さまのお浄土に参ります。覚りの仏さまになるのです。
ここを島根県江津市(ごうつし)の嘉戸大恵先生は、言葉をつらねて喜ばれました。
”今日は私の誕生日。ナムアミダ仏の誕生日。育て出されし誕生日。
お慈悲の響く誕生日。迷い離れし誕生日。今日は私の誕生日。
今日も来る日も誕生日。ナムアミダ仏の誕生日”。まことに胸はずむお領解、こぼれ出た喜びと頂きます。
新聞歌壇
新聞歌壇で見た歌ですが、
行き場なき 老いともしりぬ いそいそと
尋ねしものを 子の家に来て子供が都会に家を建てた。来いという。嬉しいことに一緒に住もうとまでいう。それはともかく行ってみた。しかし勝手が違う、万事まちがい。
ガス器具・電子器具ばかりの家の内。説明を聞いてみても要領をえません。使えません。食事が違う。孫の好みで肉を使い脂を使う料理は、作りもならぬし毎日食べることとなると、とうてい一緒に居れるものではありません。
庭という程のものもない家に、草むしりもできず、繕いものの用事もない。電車・バスの様子がわからず、一人で乗り降りかなわぬ身では、買物一つしてやれませぬ。せめて掃除ぐらいと立上がると、お婆ちゃんは何にもせんでいいからと、手出しも壗なりません。
行き場なき 老いともしりぬ いそいそと
尋ねしものを 子の家に来て連れ添う人を亡(うしの)うた老女の歌でしょうか。胸にしんしんと沁み入りこみあげる孤独の思い、一人なんだなあ、そんな心持ちが伝わります。
お経は阿弥陀さまのお慈悲のご用意の程が告げられます。或いは長者・居士となり、或いは豪姓・尊貴となりまして・・・遂に、行き場もない老女の思い、孤独の心に分け入り給うのです。お慈悲の用意の最初から、孤独の思いを見込んでかかられ、独りぼっちの心を取り入れ抱え込んで、名号の功徳が仕上がりました。
ナンマンダ仏と、この命に来て”独りじゃないんだよ”と、御一緒していて下さる阿弥陀さま、親さまです。
ここを吉野秀雄氏が、
”既有其中矣とふ(すでにそのなかにあり)言の葉を
吾はつぶやく 朝・夕べに”
と、弥陀大悲の中にあって、お念仏申す心を歌われます。
もし死ねば あなたは泣くかと
もし死ねば あなたは泣くかと 妻言ひぬ
亡き母も言へり 父は泣きたりもし私が死んだら、あなたは泣くかと妻は問う。問われて思い出すことがある。母がふと父に問うた。”私がもし先に死んだら、あなたは泣きますか”と。今わが妻も、まるで同じように、もし私が死んだら泣くかと言う。女は男につれ添う妻の座にあって、みな一様にこんなふうに思うものでしょうか。
どうも男が泣きそうに見えぬのかも知れません。日本の亭主たちは、総じて女房に対して無愛想というか、そっけない。
その日常のそぶりから察するに、私が先に死んだとしても、果して泣いてくれるかどうか。どうも泣いてくれそうにないようにも思えてくる。そう思えるまま、ついふと聞いてみるのは、妻という女の心持ちなのか。
思い出す光景がある。母は父より先に往った。その時父は泣いた。声をしぼって泣き、涙を押しぬぐう肩がゆれる。慟哭の心があらわれる父の姿。蘇ってくる光景を思い浮かべ乍、俺も亦、泣くに違いないと思う。然しそりゃあ泣くさとは男は言わぬ。だから母の死に目に、激しく泣いた父親の様子を、妻に語り聞かせ察するにまかせる。こんな意味の朝日新聞歌壇の歌です。
さてこの歌は”もし死ねば”と歌い起こされている。だがしかし、人の命、生まれて死ぬに”もし”はない。お経に、
”必ずまさに死すべし 自らこれに当面し 代理するものなく
と、説かれています。
連れ添う者もなく 全く単独・個別の死が厳としてある”この命を見込んで、阿弥陀さまが来てくださる。ナンマンダ仏とご一緒して下さる。憂い悲しみの命を取込んで、お慈悲の親が同居して下さいます。
六・四・三・一
六・四・三・一、これは鳥取県の港町・賀露に、今も魚の行商をする山田輝子さんが、ご主人に死に別れた折り、手許に残された四人の子供達の年令です。六つ四つ三つそして一つ。それからの日々、港の町から村々をめぐって行商四十年、休みとてない年月が過ぎます。
おしん終り 客の出づるを 待ち待ちて
魚つむ車に すべなくおりぬ一昨年はテレビドラマ、おしんに湧きました。魚売りの朝は早い。八時にはすでに山の村に行っています。おしん放送の間、車に寄りつく人はない。見終わって出てくる客を車で待ちます。所在もなく待ってます。
業終えて 部屋にくつろぎ 見るおしん
わが生きざまの 沓き日の顕つ山田さんも、おしんを見る。行商を終えて昼からの再放送を見ます。するとおしんの魚行商の様子に、自分の商いの姿が重なります。若い折からの、子を引き連れて、辛苦艱難の痛切な思いが胸に湧き立ち、涙はとどめもありません。
彼岸会の 席にかしこみ 掌につきし
うろこひそかに はがしつつおり今日は彼岸のご法要。山田さんもお寺のご縁に会いました。魚売り終えて急いでごはんをかきこんで、お聴聞の座に連なりました。
なんまんだぶ、ナマンダ仏、お説教を聞き乍ら、ふと掌についた魚のウロコが眼につきます。かきはがし乍らも、なまんだぶつ。
幼子四人伴うて、食べさせてやらねば、着させてやらねばと、懸命に生きしのいでの四十年。今も行商に出るとは言え、既に老境、子供四人夫々(それぞれ)所帯をもち離れ住みます。山田さんは独りの住居。ここにナンマンダ仏の親さまがご一緒してくださいます。お浄土までご一緒してくださいます。
私共が普段話す言葉
私共が普段話す言葉は、時と所、立場や事情によって使い分けられます。つくろい事も、飾りごとも、当然のこととしています。
ところで今、我が国の文部大臣の発言が、韓国・中国をおこらせていると・・・新聞で見ます。これは大臣のふだんの物の言いぶりが、現れたとみられます。そこには身についたおもむきがうかがえます。
さて、お医者さんにかかって薬を出してもらう窓口では、大てい”お大事に”と言うて下さる。”どうぞお大事に”結構な言葉です。ところが、ある医院の看護婦さん、亡くなられた患者さんの”死亡診断書”を渡しながら言いました。”どうぞお大事に”と。
ここは”大変残念でございました”とか、”ご愁傷さまです”とか、言うべきところです。ところが治療中の患者さんに、薬を渡す折の習慣で”どうぞお大事に”と、ついうっかり申したことでした。
俵山・西念寺の和上、深川倫雄先生には、毎月お三部経のご講義を承ります。ある時和上”クセになる程のお称名を”と仰言いました。”仏恩報謝の営みは工夫をこらし努力もする。そしてそれがクセになる程の営みをします。お念仏をクセになる程に身につく御礼報謝をいたしまして”と、聞かせて下さいました。
阿弥陀さまのお慈悲を蒙って、今、現にお助けにあずかる身になりました。六道の生死のまよいも、今生が最後にして貰いました。輪転往来の境界も、この生涯を限りに止めて下さいました。ナンマンダ仏の親さまが、離れずご一緒して下さる、今や大安堵の我が命。報謝せずんばあるべからず。たとえ骨は砕かずとも、クセになる程にお称名申させて頂きます。
今、総理大臣が
今、総理大臣がアメリカの教育の水準・知的水準が低いと発言したこと、問題になっています。その事をアメリカの議会に対して陳謝し、一応国家の間柄の問題としては、鎮静したとされます。
しかしアメリカの社会一般・民間の生活レベルでは、まだまだ波紋が拡がって日本人個人に対しての嫌がらせや攻撃すら続いていると聞きます。
日本の高校生が大学受験に向かって猛烈な勉強をしていることは、誰でも承知している。いわば日本の社会現象とでもいった風潮です。
ところが大学に合格・入学した学生達が一様に勉強しなくなるということも、日本の今日の社会現象なのであると、しばしば識者の指摘するところです。勿論よく勉強する大学生もいましょうけれど、大むね入学した途端、学生は勉強意欲を失うようであります。
目標をもった上の努力は、目標を達成したところで努力の意欲がしぼみます。大学合格という目的が果たされて努力が要らなくなって、勉強意欲を失うのでしょう。
今、私は阿弥陀さまのご本願のいわれをききます。そこには恩を知るほどのものであれよとの、阿弥陀さまのご期待があって、お称名・お念仏がすすめられています。
ご恩を知るものの努力・報恩謝徳のうえから励むいとなみは、衰えることがありません。やむことがありません。今、現に私は六道輪転を永く断って、やがての往生成仏が確定しました。喜ばしくも正定聚の位に押上げられました。
”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”と、わが胸に言い含めます。
近頃、こんな妙好人の話
近頃、こんな妙好人の話を聞きました。手次ぎのお寺にお座が立ち、お説教があります。ところが事情があって、どうしてもお寺に参れません。そこで自分の家からお寺まで歩いて参る道のりの足数だけ、わが家の庭石を跳んで歩いて、お念仏申したという。仏恩報謝の姿です。
下関市・新地の妙蓮寺さまでは、六時にお朝事が始まり、参詣の門信徒とご一緒に、お勤めが行われています。最後は毎朝、ご院家さんが数十分のご法話をなさいまして終ります。明治から百年の歳月を越えて、連綿と続くお寺に於ける朝毎(あさごと)のご報謝の営みです。
この妙蓮寺のお朝事にかかさず参詣し続けるお同行に話を聞きました。お朝事が始まる六時に間に合うように参るのに、市内バスはまだ動きません。そこで歩きます。家を出てお寺まで四十分。
”丁度運動になってよろしゅうございます。お育てをいただいた上、お陰を蒙っております。ご恩の裡のことでございます”と、朝毎の参詣が、まるまるご恩報謝の営みであることが語られます。身の内に満ちる阿弥陀さまのお慈悲のほどが喜ばれてあります。
名号・お呼声は、わが往生治定の正定業(おちから)と、あらゆる仏さまがたが、こぞって証を立てて下さると、阿弥陀経に説かれます。されば劫を連ね、劫を累(かさ)ねても、身を粉にし骨を砕いても、仏恩の深い由来(いわれ)を報謝すべしと、善導大師が仰せられます。ここを親鸞聖人、和らげられて。
”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”と、詠われました。正しく恩を知るという事が、極上最善の心だと、如来さまのお育て、ご期待があると知らるるところです。
ご法事に参りまして
ご法事に参りまして”ご院家さん、おいくつになられますか”と、ご門徒の方が私の歳を尋ねられる。昭和七年生まれで、今年は五十五才ですがと答えます。
大体、数え年を申します。満年令は、産声挙げた日から、一年経過して一才と言います。この満年令には、母親の胎内十ケ月が含まれてません。
数え年は、胎内十ケ月を命の誕生と尊重するから、生まれたら一つと申します。ともあれ、この年令なるもの、五十五才と言いましょうと、八十才といいましょうと、自分の所持品、持ちものではないのです。
じぶんの持物なら向こう五十年間、これを使用できます。しかし年令は所有物でありません。実は失うた時間の長さ、これが自分の歳というもの。過ぎ去って元に戻しようもない、時の長さを言うにすぎません。
人間 怱怱として 衆務を営み 年命の日夜に 去ることを覚えず
これは善導大師さまの歌の一節です。
人間は忙しく仕事に追われて、日毎夜毎に命の去りゆくことをしらぬ、と歌われ、お法りに身をひたすよう奨められます。さて、有難いことに、この一年阿弥陀さまのお法りが聞こえ続けておりました。尊いことに、さまざま、如来さまのお慈悲のほどを、耳許に告げていただく一年でした。今、もう歳末になりました。一年の命を得て残すものとて無くとも、この命、如来さまとご一緒してもろうていました。身に保つもの乏しゅうてもナンマンダ仏、光寿無量の阿弥陀(おや)さまは、離れはなさいませんでした。
慌ただしい年末をご恩報謝の工夫をします。忙しいからこそ、まずは胸に言い含めてナンマンダ仏、我と我身を促します。
吉野秀雄
吉野秀雄という歌を詠む人がありました。感ずる所を大胆率直に歌い人間の本性を捉えた歌が数々ございます。
吉野氏は結核・糖尿病・心臓喘息と生涯患われました。奥さんは四人の子を残して胃癌のため亡くなられます。その後、漸く大学を卒業して職場も定まった長男が、精神の異常を来して入院されます。その当時の歌です。
死を厭い 生をも恐れ 人間の
ゆれ定まらぬ こころ知るのみ患いの体でも父と頼られては、生きていてやらねばとの思いがつのる。かというて、あしたの希みすらつなぎかねる有様に、胸ひしがるる悲しみ心も体も、今は限り。ギリギリの命の際と歌われました。その吉野氏がお念仏のいわれに親しみお法の心に順(したが)い乍ら、こう歌われます。
出づる息の 入るをも待たぬ 命ゆえ
かくあるままに すがらしめたまふまた、ただ念仏申すのみであります、とも語られています。
阿弥陀さまは極限にある命を見込んで来てくださいます。生き耐え難い思いの中に来て、独りにはしておかないよと、取り込んでくださいます。しぼり出される苦痛に分け入ってくださいます。この命、離してならぬ、お浄土までずうっと一緒していようと来てくださいました。
気がまえも身がまえも、ままならぬ思いの中に満ち満ちて、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、独りきりにはしておかないよ、と来てくださってるのです。大善大功徳の如来さまが、同居していてくださいます。