阿弥陀さまが、ごいっしょです (1)

藤岡 道夫師 法話 

以下の文章は藤岡道夫師の了解を得ての掲載です。
尚、文章のタイトルはオリジナルにタイトルが無い為、一時的に付加したものです。


はじめに

畏友・広兼至道氏往生の後、その父上と夫人の懇請を承けて、氏が設置して間もなかった、法話電話を引継ぎました。

大光寺に移設して一年、こんな形にまとめるのは、実のところ早過ぎます。

しかし、一話十日間、年間の聴取合計六、五五三回。それが、五月の末から広兼氏の”命の際を承知してのご報謝の極み”を語り始めて以来、一話三〇〇回を何度か超えました。
五月以降の八ケ月は、一と月平均六七〇回に及びます。これは、当初の予想をはるかに上回るもので、冥加を喜ぶばかりです。

老いた人の誰彼が、製本をせがまれます。”受話器から、かろうじて聴きとりますが、文字でゆっくりたどりたい”とおしゃる。

特に、広兼氏にかかわる話”今一度聞きたい””くり返し味わいたい”と老若の希望がしきりです。

本来、受話器を握った人のその耳許に伝わり、それで消え失せてよろしいかと存じます。

それが”録音テープをおこしています。本にして下さい。聞こえぬが、読める人のために”と請われて思いたちました。

十日ごと三十六話。重複の言葉が眼ざわりでしょう。
ただ、西念寺深川倫雄和上の”この身の助かりぶりではない。阿弥陀さまのお助けぶりを告げる”とのかつての仰せに順うよう心掛けました。

”阿弥陀さまが、ご一緒して下さる”のであって”私が阿弥陀さまとご一緒している”のではありません。
私のことでなく、阿弥陀さまのお話です。

ずさんな原稿のまま、手を加えてません。字ではなく、声をもって伝えようと試みたところを、おくみ取りください。
なお表紙に、広兼氏のキリ絵、恵信尼さまシリーズの一景を、夫人に借りて使いました。

他は、氏の生前に貰い受けたものですが、特に全ページに見える”弥勒像”は、往生十八日前に手渡されたものです。

深甚の領解を偲び、豊潤なる仏恩をかみしめています。
昭和六十二年 大逮夜に
    大光寺住職 藤岡 道夫


昭和六十一年

昭和六十一年歳が改まりました。元日ということで、身に沁み入って偲ばるることがあります。

私共のご開山親鸞聖人八十五才の正月は、元日とその翌日の二日に亘って、西方指南鈔という書物の校合ということをなさっています。

これは親鸞聖人のお師匠、法然さまのお三部経についてのお話、あるいはその御遺言や、ご往生をめぐってのお話などを集められた書物です。
現在では親鸞聖人八十四才、八十五才の折りの筆跡のもの丈がとどめられて、日本の国宝として大切にされています。

書きあげられた西方指南鈔を、一字一字丁寧にご覧になって、字の誤りその他の手落ちがないかとおしらべなさいました。
それが元日から二日と続けられおわりました処で、正嘉元年一月一日、二日とそれぞれ日付を入れられています。

聖人におかれては丁度半年前、大切なお法ご信心の上の事から、お子さま善鸞さまの縁を切られ胸にたっぷり悲しみをきざんで、正月を迎えられています。

この年三月二日に書かれたお手紙には”眼も見えず候”と記められ、きわめて視力が衰えておいでのご容子がうかがわれます。

失明された訳ではありません。八十八才の折り、弥陀如来名号徳という書物を著わされています。
ともあれ元日といえども、ナマンダブナマンダブとお称名され乍ら、お師匠さまを偲ばれ、如来大悲の恩徳を仰いで老齢の身を傾けられます。

壮絶なるご報謝を尽くさるる八十五才のご開山さまで、この年はまた有名な恩徳讃を含む正像末和讃百十四首が成りました。
壮大なご報謝の営みが元旦に開始されているのです。


建長七年親鸞聖人

建長七年親鸞聖人は八十三才になられ猛烈な忙しさで一年が過ぎます。
尊号真像銘文・愚禿鈔・三経往生文類などを書き上げられました。

又教行信証・文類聚鈔・浄土和讃など既にお仕上げの書物を写し採られる作業、その上この年、善鸞さまの為お法混乱の極みにある関東から、審しさ疑わしさに耐えかね訪ねてくる同行の応接に暇がありません。
キリもなく届く質問状に一々ご返事なされる等、誠にご多忙の聖人でした。
あまつさえ暮れの十二月十日、火事のお為お住いを失われます。

時に、円仏房なる関東の一人の門弟、誰の導きが確かやら思い惑うた挙げ句、この上は直にお師匠さまにお出会いしてと思いつめます。
下人身分の円仏に自由はありません。銭で売り買いされ、人一人前の扱いは受けられませぬ。

思い決して主人に無断で出奔し、関東を後に京都に到り着きました。
火事のあとでお移り先も定かでなく、まして不案内の京の街に漸く聖人を訪ね当て、適切懇ろなお示しを承わり終わりますと、忽ち帰郷を告げる円仏房に、走り書きして手渡されたお手紙が今もとどめられています。

思いつめて主人に無断で上京の円仏の身を気遣われます。
そこで真壁の城主大内国時の甥に当り関東同行の中心人物・真仏房に当て、円仏の主人に取りなして身の安堵がかなうよう依頼されます。

”この御房よくよく尋ね候いて候なり。志有難きように候ぞ”と仰言います。世の下積みに漸く命繋いで生きる円仏を、この御房といとほしみ志有難しと、弥陀大悲にうるおう信心の行者をおし戴かれます。

大悲の御手の中に、如何なる命も見込まれて手離されず、願海平等にして皆御同朋の命なりと、振舞われる親鸞聖人でありました。


親鸞聖人八十四才

親鸞聖人八十四才、五月二十八日付けの手紙が今に残ります。関東の老同行・覚信房に宛”命候はば、必ず必ず上らせ給うべく候”と京都へ上ることを促されています。

この便りの翌二十九日”自今巳後は、慈信におきては、子の儀思いきりて候なり”として、お法の乱れを静める処置の為、お子様・善鸞さまの絶縁の手紙を記められました。

この悲しみの報せと上京を待たるるお便りと併せ見て、覚信房たまりません。患いの身を押して旅立ちます。
同じくば み許にて終り候はば、終り候はめ”同じこの世の命終わるのも、お師匠さまの膝元ならば本望と上り着きました。

失望落胆、何事も手に付かぬ有様のお師匠さまかと来てみると、正像末和讃のご述作、言語文字の極限を磨き吟味を尽くされます。
また、法然上人のお話がまとめられます書物、西方指南鈔のご執筆に没頭されています。
壮絶な仏恩報謝の営み、崇高な師徳讃仰のお姿であったのです。

聖人お書き上げの西方指南鈔と、この折り覚信房書写のものと二つ、今も保存され国宝とされています。
やがて覚信房は、八十六才になられる聖人にお看とり頂き往生の本懐を遂げますが、臨終に聖人に申述べます。

喜び既に近づけり、存せんこと一瞬に迫る。刹那のあいだたりとも、息の通わんほどは、往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくは称名仕るなり”と、正しく領解・往生成仏の大慶喜・大安堵から、今生の命最後の一息まで、ご恩報謝のお称名しきりに絶えません。
その傍らに添はるる聖人の頬を流れる涙は、とめどなかりしと伝えられています。


この十日の夜、焼亡に遭うて候

この十日の夜、焼亡に遭うて候。これは七百三十一年前、八十三才のご開山聖人が、十二月十五日付けで認められ関東同行の束ね、真仏房に宛てられたお手紙の一節です。

この十日の夜、火事に遭いましたと仰言る。遭うて候と述べられるは、類焼の火災と察せられます。

さて、三十三才の若きご開山が恩師法然上人からお許しを得られて、一宗独立の柱とされる書物・選択集を書き写されました。ただならぬ感激は相続されて、この書物は身の傍から生涯離されることはなかったにちがいありません。

しかし、ご開山聖人のこの選択集の書写本は、今日に伝わりません。同じ若き日の精密な研鑽の文類をちりばめた、観無量寿経と阿弥陀経の集註というご開山の真筆本は、今に伝わり残ります。それが選択集は無いのです。恐らく火事に焼け失せましたろうか。だとしますと、燃え上がるは御師匠さまを焼く火か、我身を焦がす炎かと、お悲しみが深うございましたろう。

お師匠さまが自ら選択本願念仏集と題号まで書き入れて下さった何にも替え難いもの。あ嗚呼!なまんだぶなまんだぶ、なまんだぶなまんだぶ。あ、如来(おや)さまがいらっしゃてる。なまんだぶ、如来さまはご一緒していて下さった。なまんだぶなまんだぶ、如来さま離れず居て下さいました。なまんだぶなまんだぶ。

これより後、烈々たるお覚悟があって、ご報謝の中に仁王立ち、八十八才十二月二日書き終えられる。最後の著述、弥陀如来名号徳まで実に十数巻、驚嘆すべき数のお書物を著されたご開山さまを思います。今報恩講の季節、ご開山聖人ご出世のご恩です。


世に、又得難い親友・広兼至道君

世に、又得難い親友・広兼至道君。あなたの往生は、昨年九月三十日、数え四十五才の若さでした。

動かすと骨がくずれると気遣われる程、進行しきった骨髄ガン。あと一と月の命と診断が出たのが、一年前のこの5月。貴方はこの事実を自ら承知して往生までの四ケ月、たっぷりと豊潤なご恩報謝の病床でした。東西に活躍、稀にみる布教家だった貴方に約束のお説教先に向ける代わりの布教使さんの手配を一任されました。

年内一ぱい十二月までの約束を私が一覧表に写し終わったその時の事。”来年一月から後はもういいでしょ。その時僕はもう娑婆(ここ)にはいませんから。年末には喪中欠礼のハガキを出すはずですし、いずれ近い中に死亡通知を家内が出します折りには、藤岡先生、挨拶状の文面相談にのってやって下さいね”と、まことに凄絶な状況をにこやかに語る貴方。お念仏を申し乍らうなずくと、にんまり微笑んで貴方もうなずきました。

貴方は”凡数の摂に非ず”と仰言いますからと親鸞聖人のお言葉を反芻してました。信心念仏の身は真の仏弟子、流転は終わり、も早只の凡夫じゃありませんとね。み仏の智慧に同等、弥勒菩薩の覚りの位に同じ正定聚。覚りの仏となることは、命果てる一瞬に実現しますと。

喜びすでに近づけりと、お父さんが語りかけられたのを、有難いお説教だったとも聞かせてくれました。

すぐ帰って来ます。貴方はそう言いました。成仏は自己満足じゃなくて、阿弥陀さまのお救いの極まり、仏となった上からは、存分に衆生を済度を果たさせようとの下心、ご期待どおりにすぐ帰ってきますといいました。

お称名ご報謝の明るい命を拝ませていただきました。


またとは会い得難い親友

またとは会い得難い親友・広兼至道君。あと一と月の命と、骨髄末期ガンの宣告を受けた去年の五月から九月三十日の命の際まで、貴方の仏恩報謝の営みは、深厚の極みでした。

今日が目的です”と、何度も語りました。今息絶える極限の命を、見込み取り込んで掛けられた御本願です。救いの相手にレベルを定められません。規準もありません。規準レベルに達したら救うとあれば、稽古も訓練も必要。しかし大信大慶喜心のお法は非行非善、私の手出しすることではないと親鸞聖人の仰せをよくよく味わいました。
 十方衆生のその中で命の際の者をこそ、とりわけ急がねばならぬと見込まれた親さまです。その親さまがナンマンダ仏ともう今現にこの命に来て満ちて離れずご一緒なのですから。

お説教聞くのは如来さまに会う準備運動ではありません。お念仏もご信心もお助けに逢う段取りではありませんもの。ナマンダ仏、お称名のまま、只今が弥陀願力の摂取の事実。今日が目的ですと貴方が語るのは、お助けに会うた謝念のことば。

去年五月二十四日西念寺の深川倫雄和上さまが、黒衣五条に威儀を正して大竹国立病院の病室に臨まれました。今生最後のお説教をしますと、御讃題・御法話・そして聖人一流章のご拝読まで、まことお浄土の仏事と仰がるる希有のご法縁。

その折り貴方は言いました。全身の骨がうづき咳の為、呼吸困難ともあいなって声に出してお念仏申されないその時は、”如来さまに甘えさせて頂きます”そうつぶやきました。

仏恩報謝は他でもない。わが裡なる親さまとの親密ないとなみなのですから”甘えさせて頂きます”。まことにこれは、殊勝至極の御報謝なるかなとほれぼれ仰ぎ聞くことです。


骨髄ガンの為

骨髄ガンの為、四十五才で往生を遂げた広兼至道君、貴方のご報謝の営みが偲ばれます。

貴方のキリ絵、ご開山さまと恵信尼さま、それにお子達三人、旅の姿の後影。聖人と恵信尼さまとがナンマンダ仏、纏り歩まれるお子さまがたもナンマンダ仏。これが広兼さん貴方と奥さん坊や達三人の姿と重なり映って胸にしみ入ってきます。

去年十月二日貴方の葬儀の日、父上と奥さんとの間に三人並んだ坊や達、私の向う正面に見えてます。

お寺方のご導師が道俗時衆等と帰三宝偈を始められたその時、小学一年の一番下の坊やまで三人揃うて各発無上心、口許が動くではありませんか。お経本を持ちもせず最後の一句に至る迄唇が動きます。いまやお浄土の仏事の只中にあると、胸に充ちてくるものを覚えることでした。

西念寺の和上深川先生の常の仰せにあります。”ご報謝は、日常茶飯の習慣に保ってそれがクセになるほどに努力工夫して営みましょう”と。恩師の言に欣喜随順した貴方のご報謝の実践が、この三人の坊や達にまで及んで蓄積されてたことを知りました。

咳がこみ上げ骨がうずく中で、押し出すように貴方は呟きました。”声にお称名されないその時は、思いの裡をめぐらしてナマンダ仏、唇を動かし念仏申せぬその時は、心の裡に翻えしナマンダ仏、まだまだ盛大にご報謝が出来ますから”と語る貴方。

如来等同の至道如来と、和上さまのお便りにありました。貴方の個性人物のレベルにとどまらず貴方の中に満ちる如来さまを拝む、病院の見舞いは至道君、あなたを拝みに行くのだとも、和上のお言葉を承ることでした。


親友・広兼至道君

親友・広兼至道君。貴方の尊厳無類の仏恩報謝の営みを賛嘆させて頂きます。「藤岡先生、普通ガンの患者は病気のことを告げられていませんから、看護婦さんは患者に言います。

”暖うなったら家に帰れます”とか”涼しゅうなったら元気になられます”とか上手につくろうて看護するのに馴れてます。処が僕みたいに腰のあたりの脊椎三つがくずれてる骨髄ガンで、あと一と月の命と自分で承知している患者の看護の仕方を看護婦さん達は知りません。

”長いことじゃないけ仲良うしょうね”て言うと、看護婦さん困った顔をしよります。”そんな困った顔せんでもいいよ、貴方もその中ぼくの看護が上手になるよ”そう言うて慰めとります」と、にこやかなものでした。

これは主治医の話ですが、”今一度お説教出来る体にしてあげよう。退院してもらうその時は、この大竹国立病院の医者と看護婦一同が、お説教聞かせて貰うて退院を見送ろう”と、申し合われておられたと聞きました。

しかしやがて九月三十日、かけつけられた西念寺の深川倫雄和上さまと共に、貴方の命終に臨むことになりました。

和上さんが貴方の手をとって”五月に父上が喜び既に近づけりとは、今がそのですね”と仰言ると、三度四度貴方はうなずきます。

”声に称名かなわぬその時は、思いの裡を廻らしてナマンダ仏。まだまだ盛大にご報謝がなりますとも言いましたが、今が思いの裡を廻らすご報謝ですね”と和上が仰言るのにも亦、二度三度四度とうなずいて、四十分後の往生でした。

命の際まで離れずご一緒下さる如来さま、大切にと力を傾け尽す荘厳なご報謝、拝ませて頂きました。


昨年骨髄ガンのため

昨年骨髄ガンのため、四十五才で往生をとげた法友・広兼至道君の一周忌の法要に会いました。十余年間その学場に連なって欣喜随順した彼の恩師、深川倫雄和上の豊かなご讃嘆で貴いご法縁でありました。

往生百日前の六月二十日、至道君は深川先生のお手許に弥勒菩薩のお姿を、キリ絵に仕上げて贈っております。

菩薩像の傍らにスナハチミロクニオナジクテと片仮名で入れておりますキリ絵は線の乱れも見えません。

骨髄ガンで不治の宣告を受けて、そのことを胸に含み周囲に来る人に、残りの命が僅かでご報謝の時間がもう充分にないと語り乍ら、キリ絵のカッターを握りしめて仕上げたものでありました。

ところが九月十二日、私にも弥勒菩薩のキリ絵を贈ってくれました。コバルト治療が始まってから”食欲が落ちるだけでなく意欲が殺がれます”という彼、恐らく最後の気力をしぼったかと察します。

ゴメンナサイ、コレデと渡された作品には、スナハチミロクニオナジクテは、切り入れられていません。細かくカッターを操るのには、指先に力が及ばなかったろうと、その時の彼の無念の心中を思います。

成等覚証大涅槃、私共がなじんでいます正信偈です。ナンマンダ仏とこの身に来て下さった如来(おや)さまと−−ご一緒して、私は今や成等覚・正定聚、如来さまのお覚りに同等の位にまき上げられました。

ここを”すなわち弥勒に同じくて”と至道君は喜びました。親鸞聖人と同じ喜びを慶びました。衰えていく気力、指一本の力すらままならぬ命に来て、ナンマンダ仏の如来さまが、離れずご一緒していて下さいます。すなわち弥勒に同じくて、すなわち弥勒に同じくて。


本願寺第三代覚如上人の仰せに

本願寺第三代覚如上人の仰せに”如来の大悲、短命の根機を、本としたまえり”とあります。臨終命の際の者こそ、急ぎ救わねばならぬと、阿弥陀さまがナンマンダ仏のお慈悲のおすがたに現れて来て下さるとのお示しの言葉です。

余命いくばくもない命は、精神的にも肉体的にも訓練を受け続ける力はない。たとえ力があったとて充分な時間の残りはもはや有りません。

それが短命の者、命の際に臨む者なのです。そこには、教育していく時間の余裕も能力を開発してなどという見込み一つ立たない命を、取り込んで諸有衆生(あらゆるもの)を救う方便(てだて)が仕上がりました。

ナンマンダ仏、そこには身構え・気構え・体力・気力・全く見込めぬ命こそと、お慈悲きわまるところから聞こえて下さる声の如来さまがいただかれます。

さて再び法友・広兼至道君の話。
骨髄ガンの末期症状をこまかに説明をうけ、あと一月の命とも自ら承知して彼が語りました。

”真宗関係のいろんな雑誌を見舞いに貰う。然しどの文章にも大方、阿弥陀さまがおいでになりません。この世に五年も十年も生きとって、ゆるうっと読んで理解すりゃええ程度のことばかり書いてある。悠長なことです。私はあと一月長いこたぁない私には間に合う文章ではないですよ。

そこはさすが如来さまです。私を見込んで組み込んで、ナンマンダ仏五体一杯満ちて来ておいでですもんね。ナマンダ仏のお助けは、今日が目的ですもんね。極めつけの短命の機、私がお眼当てです”とお称名しきりでありました。


親鸞聖人の祥月命日のご法事

親鸞聖人の祥月命日のご法事、報恩講がここかしこのお寺で勤まります。そしてご門徒のお内仏毎に、帰命無量寿如来、お正信偈の声が響きます。真宗門徒のゆかしい報恩行、おとりこしが営まれる季節となりました。

お正信偈に添えるご和讃は”五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん 信心まことに うるひとは このたびさとりをひらくべし”以下六首、正像末和讃から特に取り出してお称えする慣わしです。

自ら力を尽し、功徳・善根を積んで百大劫。命を連ね、劫を累ねて到りつく菩薩の頂点を極められた弥勒さま、阿弥陀さまのお覚り同等の智慧を持つに至って、最早真の覚りは確定しきって、正定聚の位にのぼりつめられましたが弥勒菩薩。

ひるがえって私も有難くもはや正定聚。阿弥陀さまの智慧のみ光お慈悲の真命、無量の功徳を集めて持ち込み御成就(おしあげ)の名号、ナンマンダ仏に大安堵の身と成りおおせております。頭から爪先まで、五体中はおろか思いの裡の端々まで、光寿無量の如来(おや)さまが、余すところなく漲り満ちて離れず私にご一緒していて下さいます。念仏行者、私はまさしく弥勒に同じ正定聚。

いつも語ります親友・広兼至道君。彼は骨髄ガンの骨のウズキ、こみ上げる咳に耐えて”ご開山さまが、凡数の摂に非ず、と仰言いますから”と呟いた喜びも、ここの処のお領解でした。

信心の行者は、只の凡夫ではありません。この生死の息絶え命終る忽ちに覚りの仏たらしめられます。阿弥陀さま本源の覚り大涅槃に及びます。”このたび覚りを開くべし”という、ご開山のお喜びを慶んだ至道君でした。

すぐ帰ってきますと、還相の大利益まで仰いで往きました。


母みづから 母といふものを

母みづから 母といふものを 言はざりき
この母を母の中の 母とぞ思ふ

アララギの歌人・鹿児島寿蔵先生は、紙塑人形作家として国の重要無形文化財、世にいう人間国宝でもありました。亡くなられて二年目の一昨年福岡市の岩田屋デパートで、その人形の全作品が一挙に展覧公開されました。今詠みあげました歌も、先生の筆になる条幅で拝見いたしました。

人形は先生の感性・情緒・古典の教養による思索、そして独特の制作技法をもって練り上げられ玄妙優美極まりないものでした。

男が人形作りなどと人の嘲りにつけても暮らし向きの苦しさなど仰言らず、お母さんは励ましすら下さいました。少年期より六十有余年、この人形業の背後には母上の慈愛あることが偲ばれます。

母みづから 母といふものを 言はざりき
この母を母の中の 母とぞ思ふ

母はみづからを説明しない。ひたすら子故に振舞います。母自ら慈悲について弁舌をしない。しかし子の身を案じてはじっとしておれず、立ち廻ってやまぬもの。この母の身の振舞い行動自体が、慈悲のあらわれであり働きです。母親の中身は隅から隅まで子の為、子故にで満ぱい一杯なのです。

阿弥陀さまの中身は私のことで一杯です。愛憎止むことないまま命の際に向う私をいたたまれぬと見とどけて立ち上がって下さった。その最初からこの私を摂り上げて離されません。功徳を集めるもこの私のため、善根を持ち込むも凡夫この私故にで、弥陀名号のナンマンダ仏はなりました。

死のおびえはもちろん人間関係のもつれすら大きくため息となる、この身この命に来てナンマンダ仏の親さまが今もご一緒していて下さいます。


人間国宝の紙塑人形作家

人間国宝の紙塑人形作家でアララギの歌人・鹿児島寿蔵先生に、

母ありき その母ありき 父ありき
その父ありき その父母ありき

という歌があります。母上が逝かれお祖母さまももうありません。父上も又既になく、お祖父さまも早逝かれました。もちろんその親、ひいお祖父さま方もとうに逝き給うた事でした。

母ありき その母ありき 父ありき
その父ありき その父母ありき

血を分けて情を分け合うて偲ぶ思いは、遠い祖先(おや)たちまで遡ります。

然し世に在る者の悉く、がやがて命終、命の際を迎えそして終わります。この事に代理を務める者なく、更に伴う連れはなく、全く個別に行われる生死界の厳然たる事実です。寿蔵先生は又、”母は母の 行くべき処見ゆと言いき 臨終に逢わずとも よしと言いにき”とも歌われました。

お母さんが仰言る。私はお浄土に参ります。命の際に寄り添おうと駆けつけても間に合わぬ別れもあります。然し阿弥陀さまのお浄土は、極楽とまで呼ばれて再びの出会いが御用意されています。南無阿弥陀仏の命はまぎれもなくお浄土に往生遂ぐべき希みを持って安堵の身なのです。臨終の出会いかなわずとも、念仏申し合うお互いは、必ずやきっとお浄土の出会いをいたします。

お父さんが参られたのはもちろん小さい時、死んだあなたのお兄ちゃんになるあの子もお浄土に参らせてもろうてます。

命、はかのう逝った幼い体を抱いて泣きました。止まらぬかと思う程の涙の中からお導きお育てを聞きました。あの子はこの母をお法に導く尊い命の子でありましたと。これは正しく大経の”咸(みな)一類に同じ”そして阿弥陀経に説かれる”倶会一処”のお心です。


重度の障害のある子

重度の障害のある子を連れた中年の母親に聞きました。

大きい子供が三人居るのに四十前にもうけた末の子がダウン症。五才にもなって言葉の理解がない。飲み食いから脱着まで、朝夕一切、手がかかります。

”母ちゃんはこの子より先に死なれん。こうして面倒みてやれる間にお浄土に参らせて貰うがよか。”こんなこと申しますと、
長男が”母ちゃん俺長男じゃ、こ奴のこた俺が見る”といいます。
次男も”兄ちゃん、連れて行けん転勤も、その中あろう。僕が家を継ぐ。この子は僕にまかせとけ。”と申します。

娘も時には私に代わってこの子の面倒をみる中に”困っとる人の世話しよう”と、看護学校にはいりました。

それから船乗りの主人はひどく短気な男、私ゃあ腹を立てた主人に何遍もなぐられたものでした。それがこの子が馬鹿な子と知れて以来申します。

”母ちゃんお前、こ奴と遊んどれ何もせんでよか。傍に付いとらにゃ生きちゃおれん奴じゃけ”と、優しい事言う男になりました。
この子のお陰で三人、情のある子を恵まれて亭主も優しい男になったとこそ思います。要らん子じゃない、大切な尊い子とまで思います。それでも言うとります。

”あんた母ちゃんが面倒みておれる間に、お浄土にお参り。母ちゃんが達者な間に、親さまんとこお浄土に参らせてもらうがよかろう”そう言い言い、この子と遊んどります。こんな母親の述懐を聞くことでした。

案じられる命、気掛りでならぬ子故に寿命の無量を願うは慈愛の極まり。五感五欲の満足、快楽を希む話ではありませぬ。ナンマンダ仏は無量寿の親さま。無常の命の私を見込んでかかって受けこんで、離れずご一緒していて下さいます。無量寿は慈悲の極まるところです。


中国新聞の投書欄

中国新聞の投書欄”こだま”に、三十才の女性の次のような投書が載りました。

庭に干す布団を下取りに出して新しいのを買わないかと誘われました。然しこの古い布団には手離しかねる想い出があります。

十五年前、十五の歳中学を卒えて住込みの就職した年の事。冬近く急に寒くなった或朝、田舎の母さんがバスに乗って布団を届けてくれました。聞くと一番二番三番とも”バスに布団は乗せられない”と断られる。それでも四番のバスならばと待ってみて漸く乗せて貰うて来たとのことでした。

”先生と奥さんに可愛がってもらえ”と言い置いて、母さんは帰っていきました。

バスが通う回数とて少ない田舎のこと。乗せて貰えぬバスを一番二番三番と見送り乍、寒かろうと運ぶ布団を抱えて、母さんは停留所でよほど冷たかったろう。そう思うたら結婚する時にも里に置いとく気持ちになれず持って出た布団。とても新しい布団の下取りには出せません。

こんな投書を読みました。住込んで独りぼっち。まだ幼いほどの娘です。寒い思いをさせられないと、思い立ったら退けませぬ。満々たる母の慈愛の働きです。

阿弥陀さまのお慈悲の姿をうかがいます。衆生界等しく身の煩いに伴うて命のおびえを抱えます。また例外なく心を悩ますのは、骨肉の情ある者に関わる愛憎の境界。実は此処が弥陀本願の舞台であり現場です。

まさしく煩悩具足の凡夫を見込んだ上から弥陀大悲の利益は実現します。あらゆる衆生の立場を汲んで、憂い悲しみ悩みそして苦痛の全てを受け込んで南無阿弥陀仏は仕上がりました。弥陀の名号、ナンマンダ仏は、私に添うて離れぬ親として今やご一緒していて下さいます。


山口県・俵山の西念寺

山口県・俵山の西念寺、本願寺司教・深川倫雄和上さまに、昭和三十五年六月以来二十六年間随順しています。特にこの十余年間は、お三部経のご講義を毎月承りご法義の極意をお聞かせ頂いて無上のお育てを蒙っております。

和上さまの西念寺には、お手伝いのサヨチャンがいます。サヨチャンは中学を終えた年から俵山の温泉宿のあちらに一週間、こちらに十日間と引取られた先を六〜七年も転々として、どこも長続きしなかったそうです。

それが西念寺に居ついて今もう二十二年。四つ五つの子供なみのお手伝いをし乍お寺に暮らします。サヨチャン物の数が分かりません。五ケ、六ケと数がふえるとそれはもう一ぱいなんです。物の道理もわかりません。お寺に居るようになってサヨチャンお念仏を聞きました。お称名絶え間ない和上さま。それにご家族・お同行のお念仏を耳にしてサヨチャンお念仏しようとします。

ナマナァマァ、まるでそれは赤ちゃんの片言のようなものだったそうです。今、朝夕の御飯の前には、必ず本堂にお礼をします。如来さまの前に座って、ナァマァダ仏。ご開山さまの前に座って、ナァマァダブ。そして善知識さまのご影の前に座って、夫々にナァマァダ仏。十五・六年も前に、私はこのお礼の姿を眼のあたりにしました。胸にこみあげてくるものを覚えることでした。

如来さまのお慈悲は極まりまして、資格・レベル無用・極限の能力に及びます。どんな愚かな拙い身にも間に合うナマンダ仏。もし頭脳弱ければ、片言にでもその口に表れて離れず一緒していよう、お慈悲を声に極めて下さいました。親さまのお慈悲の立働かれるご様子をサヨチャンのお礼の姿に、拝むことでありました。


幼い子供が泣いています

幼い子供が泣いています。声を限りに泣いています。じれ切っています。泣いている子供の傍らには母親がいます。あれほどじれて泣く子なのに、なんとか声をかけてやればいいのに。

傍(はた)迷惑なこと、うるさくってしょうがないとふとみると、子供に寄り添うた母親は、しきりに指を動かしています。なんと手話・手ばなしでもって子供をなだめるのに懸命なのです。耳が不自由なため声を出してお話が出来ないお母さんです。

耳が聞こえぬばっかりに、この子が訴えていることに気付くのが遅かったのでしょう。じれきった子は、仲々お母さんのなだめに静まりません。

よくみると一生懸命手話をしているこのお母さん、頬を涙が伝わります。たえ間なく流れてやみません。しかし涙して、そして満々たる慈愛の思いを顔に集めてほほえみます。

泣きわめく 子にほほえみて 手話をする
母あり頬に 涙流れいき

これは朝日新聞に載った短歌です。
子供の訴えを聞きとどけてやれぬ母は悲しい。声をもって話をしてやれぬ母はつらい。子供がふびんでなりません。善処(ありったけ)の方便(てだて)もつきる思いから母は涙します。それでも慈愛は止みません。ありったけのやさしさを満面に集めてほほえみ続けます。

木村無相氏の念仏詩があります。

念仏は うちあけ話 如来さんの うちあけ話
どうぞ 助けさせておくれよと 如来さんの うちあけ話

そうです。命は一人。一人きり。孤独の命の裡に分け入って、添うて離れずいて下さる。ナンマンダ仏の親さま。今ご一緒していてくださいます。