煩悩かるた


雪山 隆弘師



【む】 無明の 酒に酔う
(無明=むみょう)

百八つ、八万四千・・・いろんな煩悩があるわけですが、諸悪の根源は、この無明なのだと仏さまはおっしゃっています。

むかしからこのことばはあったようで、よこしまな考えや、深い欲望のために、仏法の真理を悟ることができない状態を、酒の酔いにたとえたようです。もとは空海の「徒らに忘想の縄に縛られ、空しく無明の酒に酔う」という言葉から広まったようですが。

善導大師はこの無明について「無明煩悩のわれらが身にみちみちて、欲も多く、いかりはらだち。そねみねたむこころ多くひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」ーーーという強烈な一文を残されておりまして、それこそが「凡夫」だとおっしゃってくださるのであります。いやあ、もう、どうにもこうにも、ここまでいわれたら。口のききようがないといった感じでありまして、それなら、サッと酔いがさめるかといえば、またまた、もう一杯・・・。





【う】 馬の耳に 念仏
(不正知=ふしょうち)

不正知というのは、不完全な自覚のことでありまして、やるべきことは何なのか、また、やってはいけないことは何なのかが、わからない状態をいうんだそうです。

こんなことをいうと、あの、ハムレットの名セリフを思い出す方もいらっしゃるでしょう。

「トゥ・ビー、オア・ノット・トゥ・ビー、ザット・イズ・クエッション」(長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ)という、第3幕1場のセリフ・・・いいですね。え、ローレンス・オリビエやら、芥川比呂志を思いだしちゃう。

まあ、それはさておき、ここで注目すべきは、ザット・イズ・クエッションでありまして、どうすべきかそれが疑問だという。問題意識をもっている。彼は狂気に走ったけれど不正知ではなかったみたいですね。それに比べるとわれわれは、やっぱり「馬の耳・・・」?





【ゐ】 いざ カネ倉
(貪=とん)

鎌倉に幕府があったころは、天下の一大事となれば、とにかく、カマクラに駆け参じたものだそうです。

で、いまはどうかというと、カマクラでなくて、カネ倉。バクフでなくてサイフ、ですからねー。

貪というのは、迷いの生存の根元としてのむさぼりのことなんですが、字を調べてみたら「貪」は「今」と「貝」から成っています。で「今」はなにかというと、家の屋根の下ということなんです。そして「貝」はといえば財産のこと。つまり家の中に金をためているという字なんですって。

新聞見たって、社会面をにぎわすもの金、金、金、そして、なぜか近頃、どこの新聞も、経済面を増ページして、政治や社会より、カネを売り物にしているみたい。あいさつ、より、万さつ、という時代なんでござんすねー。





【の】 のぼせて語る わが自慢
(悼挙=じょうこ)

悼挙というのは、心が軽躁なことなんだそうで、軽はフワフワと浮いている感じ。躁はザワザワ落ち着かず、さわがしいという感じであります。

お医者さんに聞くと、これは一種の病気でありまして、病名を「マニア」というんだそうでありす。

つりマニア、カメラマニア、パチンコマニア・・・いろいろあるようですが、俗にいうマニアが高じると、もう、のぼせちゃって、他人のいうことはちっとも聞こえない。ペラペラペラペラ、わが自慢をいうだけいわなきゃ気がすまないってことになるようです。

お経には、この悼挙と、後に出てくる恨沈(こんじん)とを合わせて、心のフタの一種であると説いてあります。じゃあ他のフタは何かといいますと、一に先の「欲貪」二に「瞋恚」三に「睡眠」四にこれ、そして五は「疑」のフタでありあます。こいつがしまると、とにかく”プッツン”だそうです。





【お】 おかげさまより お金さま
(無愧=むき)

愧というのは、心を鬼にすることでありまして、この鬼というのは、ギュウッと縮めるということなんだそうです。で、つまり、愧とは、外に恥じ、天に恥、悪をおそれるという心になりまして、これが世の中を良くするすばらしい心の根本なのであります。

が、ここでは「無愧」であります。そういう心がまったくない、破廉恥(ハレンチ)極まりない心というのであります。この心は、世の中を破壊する元凶といえるでしょう。

さらに、お経には「棄恩背徳」とあります。恩を棄て、徳に背く・・・。
「悪いこと好きですか?」と聞かれたら
「嫌いにきまっている」
とおしゃるが、ほんとうかしら。

口ではいっても、心の奥底では、わたしたち、悪いこと大好き人間なんじゃないですか?。

で恩を忘れて、おかげさまより、お金さま、の毎日ですもんねー。





【く】 口に密 ハラに剣
(両舌=りょうぜつ)

これはどこやらの、ことわざ辞典で見つけたもので、その解説にはーーー

「言うことはやさしく、おだやかであるが、内心は陰険なことをいう。この種の人間には腹黒い政治家肌の人もいるが、とにかく一種の変質者で、女性のように柔かい外見とことば使いだが、一たんその本性を出すと、氷のような残酷なことや惨忍なことを平気でやるものである」

とありました。読んでいて思ったんだけど、腹黒いのは政治家肌の人だけかしら?

そしてまた、こういう人は一種の変質者なのかしら? そんなことありませんよね。わたしたちみんな、これですよ。みんな口で甘いこといってるけど、ハラの中はまっ黒。

で、仲のいい二人を見たりすると、ハラに剣でありますからして、片方づつによからぬことを告げて親好を破る、なんてことは日常茶飯。でもね。こういうの地獄に落ちたら、抜かれるんだって、舌を。一枚、二枚、三枚・・・。





【や】 安物買いの 銭失い
(悪見=あくけん)

むかしからこのことわざはありましたが、当時はビンボーな人が、高い物や本物が買えないで、安物を買い、そのため、長持ちもしないので、また安物を買うこと、結局、ビンボーヒマナシということになる、とまあこんなことだったかと思います。

ところが、近頃はちょっと違うみたい。売り手の方がとにかく上手で、安物や偽物をいいものだ、本物だといって、高い値段で売りつける。これをまた、コロリとだまされて買うんだよねー、なさけないかぎりです。

ところで、悪見ーーーこれは、ものごとの真実を見る目を持たないことでありまして、細かく分けると、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見と、五つあるといわれます。その説明は、あとの項へちりばめておきますが、とにかく、買い物で安物や偽物をつかまされたのなら、訴えもできますが、人生の本物と偽物も区別がつかず、一生、偽物で終わるとしたら、こりゃあ、とり返しがつきませんぜ。





【ま】 負けた恨みは 末代
(恨=こん)

れだって、負けたら、ハラが立ちます。そのハラ立ちの心が高じると、この恨みというやつになりまして、うらめしやーなんてのは通り越しちゃって、子々孫々、末代に至るまで、ということになるみたい。

うちの近くで、イワシとタイで十五年、というケースがあります。

お母さんがお魚屋さんで、安くて栄養たっぷりのイワシを買おうとしたんですって。そうしたらお隣の奥さんが、横でちょっとつぶやいた。「何かおいしいおさしみないかしらン」。お母さんムッときたのか、イワシをさした指をグッとタイの方に向けて「これちょうだい」。

その夜の食事は、お母さんの恨みつらみの独演会。その息子が十五年たって、明かした衝撃の告白はーーー「以来、俺は学校で成績悪くても、隣りの子に勝ったといえば、おふくろニッコリ」だったそうです。

ヤーな事だけどこれが本当のわたしの姿。





【け】 けんかなら こい!
(不和合=ふわごう)

接着剤ーーーボンドっていうんですか。すごいですね。何でもくっついちゃうんですね。むかしなら、小麦粉こねたようなもので、なかなかくっつかなかったけど、いまや、紙でも布でも、木でも鉄でも陶器でもなんでも、ペタン一発なんですね。

でもどうしてもペタンとくっつかないで、これにつけるボンドはないというものがあるんですってね。

そう、人と人、これですね。不和合です。仲良くくっつかないんです。さっきのお母さんとお隣りの奥さん。嫁と姑、その他モロモロ・・・自分にとって都合のいいものとなら、それこそいつでもどこでも、すぐにペタンなんですが、一つ都合の悪いことがあると、もうくっつかない。ペタン変じて、ドタンバタンと、ケンカです。

好きですねえ。火事とケンカは江戸のなんとかっていうけれど、江戸だけじゃないよ。どこだって、我と他がガタガタ。彼と此がピシピシ。ガタピシガタピシ、やかましいこった。





【ふ】 不服の 明け暮れ
((昏)沈=こんじん) (昏)の字の左にりっしんへんをプラス

心のめいること。ふさぎこむことを(昏)沈といいまして、ドローンとしちゃって、もう何もやる気なしという状態です。

で、やる気がないから静かにしているかといえば、これだけは達者で、朝から晩まで不平不満不服をタラタラ・・・

「あーあ、やんなっちゃうなあ。もう少し寝かせてくれないのかねえ。ほら、これだろ、朝ごはん。もうちょっとましなものないのかねぇ。ああいやだいやだ。このラッシュ。もっと人口減らないもんかねぇ。それにしても、会社もきついよなあ。これだけ働かせといて、ちっとも給料あげないんだものなあ。ちぇっ今夜も屋台のおでん屋か。酒、うすいんじゃないのかい。それにしてもあの上司・・・。あーあ、帰るか、うちじゃ女房がふくれているんだろうなあ・・・ただいまー」

と奥さんが、
「また飲んできたのォ。かせぎもないのによくやるわねえ」と、またブツブツ・・・。





【こ】 こころ ころころ
(散乱=さんらん)

落ち着かないんです。じっとしていられないんです。じっとしていても、心は千々に乱れちゃって、なにやってんだかわからないんです。だれが? いえ、わたしが。そして、みなさんも、でしょ?

人の心って、どれくらいの速さで、コロッと変わるのか、コロコロというけど、その、コロとコロの間はどれくらいなのか、そんなことどうだっていいじゃないかと思っていたら、ちゃんと、お経に説いてあるんですね。

コロとコロの間は一刹那ーーーこの刹那というのは、ほら、刹那的なんていうでしょ。あれです。これはインドの時間の単位でしてね。

男の人が、パチンと指を鳴らすでしょ、あの時間を六十五刹那としたという説もあるくらいで、まあこれをいまの時間にしたら七十分の一秒ぐらいじゃないかというんですけど、ちょうど写真機のシャッター、そしてわたしの、あなたのまばたき一つで、コロッと変わっちゃう。そんなものですって。





【え】 エー 毎度 バカバカしい・・・
(綺語・妄語=きご・もうご)

エー毎度バカバカしい、お笑いを一席・・・。

この落語というものは、お説教じゃございませんで、バカバカしいお話をして、お客様に笑っていただこうってんで・・・ええ”オイ、隣りの家に囲いが出来たね”。”ヘイ”。てんで一口ばなしでまあ、笑っていただく。でまあ、世の中にはバカな人がいたもんで、この話をマネしちゃってね、あわてて”オイ、隣りの家にヘイができたね”とやっちゃったもんだから、相手があわてて”かっこいい”なんちゃって、エーおあとがよろしいようで・・・。

とまあこんな具合で、綺語、妄語。綺語とは、つまらない冗談とか、真実味のない言葉とかで、妄語とはウソ。うちの寺にも毎年、ハナシ家さんがやってきて、本堂で落語会をやってるんですが、あの方たちは、ちゃんと、バカバカしいって断ってますよねえ。ところが聞いているお客や、わたしたちは、バカバカしいことをバカバカしいと断らないで、いつもチャラチャラ・・・。舌抜かれちゃうから。





【て】 手ですることを 足でする
(悪作=あくさ)

「これ! そんなワルサしてはいけません」と、小さいころおばあちゃんによくいわれたものです。あれも、悪作からきているんでしょうね。

蓮如上人の言葉に「神にも佛にも馴れては手ですべきことを足でするぞ」というのがあります。

むかしから、敬うべきもの、尊ぶべきものはたくさんありました。浄土真宗では弥陀一仏といわれますが、世の中では、神、仏、太陽、月、じいさん、ばあさん、父や母など。それにいまでは学校の先生やお医者さま・・・と、いろいろあるわけですが、近頃は、どうもなれなれしくて、こうしたものに手を合わすどころか、逆にアゴでつかっているみたい。

なお、この悪作というのは、身体の行為による罪悪という他に、それこそワルサなんだから、悪いことをしたとして、悔い改めれば、罪はなくなる程度の小悪であるともいわれています。





【あ】 朝に乱心 夕べにカンシャク
(忿=ふん)

朝に礼拝、夕べに感謝ーーーという言葉がありますが、なかなかそうはいかないのがわたしたち。どうやら毎日、朝に乱心、夕べにカンシャクてなところではないでしょうか。

忿という煩悩は、自分の心にかなわぬ対象にに対して、怒りの情をいだくことだそうですが、それこそいつでも、フン!フン!プン!プン!、ばかりですよねえ。

山陰の妙好人、源左さんでしたか。
「あんさん、癇癪というのはな、かんしゃく玉ちゅうて、玉じゃ。宝物じゃ。じゃから、めったに他人さまに、見せはんすなよ」

といったそうです。うまいですねえ。わたしたちの心の中は、それこそ煩悩だらけで、どうにもならんですが、ハラの立ったときには、このことばを思い出してみなくてはいけませんねえ。なんといっても、癇にさわれば、筋肉がひきつり、気分いら立ち、癪にさわれば、キリキリカリカリ胃やら頭にきちゃうのがわたしたちなんですから・・・。





【さ】 砂漠で 水くれ
(愛着=あいじゃく)

「長く使っていると、愛着がわいてくるもんだわね〜」

なんてよくいいます。物をいとおしむ心なんだからいいじゃないか、何事も愛着を持たねば・・・とおっしゃるかもしれませんが、仏法ではこれを、むさぼりの心でもって、ものにとらわれる、いやらしい心だというんです。同じ意味で「渇愛」という言葉がありますが、ノドが乾いて水を求めるごとく、貪ってとどまるところを知らないのがわたしたちだといわれます。

ハラがへったら、食いたい食いたいという愛着がわいてきます。で、ガツガツと食べる。終わったら「ああ、うまかった、もう死んでもいい」なんていったりするけど、あれで死ぬ人はいませんね。またハラがへって、もうちょっと、もうちょっと・・・物でも、人でも、なんでもかんでも、気に入ったら、トコトン、もうちょっともうちょっと・・・いまの日本、これで世界中からきらわれているみたいです。





【き】 聞くはしから 忘れる
(失念=しつねん)

「あーそうですか。ハイ、ハイハイ、うん、なるほど、そうですね。ハイハイ、わかります。いやあ、そう! ごもっとも!」

よく人の話を聞いて、相づちをたくさん打つ人、いますよね。あれ、全部聞いているのかしら? ひょっとしたら、いいかげんに話をやめろといっているのかもしれないし、相づちうちながら、自分のいうことを考えているのかもしれない。よくあるでしょ。テレビのインタビューなんかで、同じこと何度も聞いてるの。あれも結局、聞いてないんだよね。

それに、お酒飲んだりしたら、もう、ポーッとしちゃって、忘れるどころか、自制心まで失ってしまう。昔、おしゃかさまの弟子で、酒を飲んで、ボーっとして、聞いた戒律みな忘れて、近づいてきた女性にウソをつき、ものを盗んで、犯して、これは大変と、殺してしまったという事件があったそうです。それから、不飲酒、酒に飲まれるなという戒律ができたそうです。お経の名は・・・忘れた。





【ゆ】 ゆずれない わが思い
(見取見=けんじゅけん)

聞きなれない煩悩ですね、けんじゅけん。誤った見解を正しいと執着すること。あるいは愚劣な知見をすばらしい考えであると思い込む心、こんなのを見取見というんです。

いまや情報ラッシュの時代ですから、誤った情報はいくらでもあります。いや、ほとんどといっていいくらい、真実なる情報などというものにはお目にかかりません。

なのに、わたしたちときたら、その情報を真にうけて、
「間違いありませんったら。だってテレビでいってたもん」
とやります。テレビでいってりゃ、みんな本当だと思っているというのは、とっても、こわいことだと思います。

最近では、健康に関する耳より情報とか、困ったものでは、宗教に関する邪悪な情報がずいぶん多い。ニュースだってあぶないもんだ。気をつけて下さいね。 自分でこうだと思っていることも、じつは見方はたくさんあるんですからね。これ、ホントの情報です。





【め】 めったなことでは 舌も出ず
(慳=けん)

あの人はケチだから、出せといっても、舌も出さん、なんていい方ありますね。

「おい、悪いがトンカチ貸してくれないか? え、だめだって? 持ってるんだろう? それでもダメ。ちぇっケチ。へるもんじゃなし・・・。お前みたいなケチ、はじめてだ。仕方がない、俺のを使おう」

いやまあ結局、みんなケチなんですなあ。そういえば、目蓮尊者のお母さんもそうでしたってね。とってもいいお母さんだったんだけど、ある時、乞食がやってきた。施してやろうと思ったけど、息子、目蓮のことを考えて「これを乞食にやったら、目蓮の分が減る・・・」と思って断った。そのケチの報いで、お母さんは餓鬼道に落ちた・・・というお話、お盆によく聞くでしょう。あれも目蓮尊者のお母さんだけじゃありませんよね。世界中のお母さん、みんな子供のために、餓鬼になっちゃうんですよねえ。乞われて、なんでも出せる人、いないよねぇ。





【み】 見ぬは極楽 知らぬは仏
(疑=ぎ)

行ったこともないし、見たこともない。地獄や極楽あるやら、ないやら・・・こんな疑いを持つ人、けっこう多いんですよねえ。

わたしのひいじいさん、鮮妙という和上の前に、元気な男があらわれました。

「和上、わたしは、仏法聴聞してはおるけど、どうもあの地獄や極楽というのは、ないのと違うか?」
「あるぞ。たしかに」
「まさか、そんなら地獄はどこにある」
「お前の足の下じゃ」
「足の下は床じゃ」
「その下じゃ」
「その下は地べたじゃ」
「その下じゃ」
「そんなら一ぺん掘ってやろうか」
「そうそうそれじゃ、そのお前の心と姿が地獄じゃ」

では、極楽ってどんなところ? 仏さまってどんな方? 左様、疑わずに後編の本願カルタをご覧あれ。





【し】 死んだら しまいか?
(辺見=へんけん)

辺見というのは、片寄った極端なことに執着する心でありまして、日常生活の中でもよくあることです。

「だれが何といおうと、こうだ!」
などと両極端がぶつかり合ってカンカンガクガク。○か×か、是か非か、黒か白か、ピンポーンかブブーか・・・なんてこと、しょっ中ありますよね。

そこでその極端の最たるものはというとーーー。
「死んだらしまい。なんにもなし。灰になったら、ハイ、それまでよ」という考え方。これは仏法では「断見」といって、これに片寄ることは誤りだといいます。

で、もう一つありましてーーー
「死んでも、霊魂は不滅だろ。このわたしのタマシイは、永久不滅なんだよ」という考え方。これは「常見」といってやはり誤り。

じゃあ一体どっちなんだと仏さまに聞いたら、黙して語らず、だったそうです。





【ゑ】 エーッ ウッソー!
(不信=ふしん)

娘の会話を聞いていると、これがやたら出てきます。

「エーッ、ウッソー」で、次ぎに続く言葉が「信じらンなーい」!
耳よりな話を、もう一度、確認するために使うんでしょうな。「そんなこといったってちゃんと、かくかくしかじかなんだから、間違いない」というと、「あーそうなんだ。ホントなんだねー」とくる。

日常会話なら、そうたいしたことではないし、また、あまりなんでも信じると、ダマされることもあるので、まあ、この不信の心、あるいは疑いの心を起こしてみて、確かめるのもいいかもしれませんが、仏さまのおっしゃることに不信を抱くのは、よくないことですね。

どうしてよくないかといいますと、信じないで、疑っている人間は、仏さまのおっしゃることが聞こえてこないからです。そういう人は救われませんよ。信心とはまことの心。仏さまのまことの心は、ハイと素直に聞くものです。





【ひ】 ひとにおべっか 心に鉄火
(諂=てん)

他人に気に入られようとする心を、諂といいます。いまの言葉だと、おべっかとか、お追証(ついしょう)とか、へつらいとか、なんだか聞くだけで、いやーな感じがですね。

そうそう、ゴマをする、なんてのもありますね。なんでゴマをするというのかというと、あれ、ゴマをすると、すり鉢にもすりこぎにも、そこらじゅうにくっつくんですね。で、だれにでもくっつくというところからきたんだって。

それから、ごきげんとり、なんて言葉もあります。これは仏教語でして、譏謙と書きます。譏は、そしる。謙は、きらう。つまり、そしられたり、きらわれたりしないようにするにはどうするか、という戒律から出た言葉なんです。で、そうするには、ゴマすって、おべっかつかって、へつらうのかといえば、そんなことしたら心に鉄火、自分の心に怒りや卑屈さが残ります。要は、悪い事をせず、物を貯めず、ぜいたくしない、これなんですと。





【も】 もっけの ワイワイ
(戒禁取見=かいこんしゅけん)

もっけのさいわいという言葉があります。このもっけのさいわいというのは「勿怪」と書いて、つまり物の怪、もののけこことなんだそうです。で、もののけですから、思いがけないことという意味になって「物怪の幸い」と使われるようになったんです。

ところで、戒禁取見。聞きなれない言葉ですが、戒禁とは、仏教以外の外道の立てた戒律や禁則のことでありまして、そういう誤った教えを、ありがたくいただいて、これこそしあわせの道、さとりの道とうれしがっている人のことを戒禁取見の人というわけです。

そんな人、見たことないって? 冗談でしょ。茶ばしらが立ったとよろこんで、今日の運勢は吉とか凶とか、星座があっち向いたとか、キツネがついたとか、ヘビがそうしたとか、三りんぼうだ、友引だとか、交通安全のお札で事故がないとか・・・

みんなやってるじゃないですか。因果の道理に反するものは、みな誤りなんだけど、世の中、本当に勿怪がワイワイだねー。





【せ】 セコいゾ ウソのカーテン
(覆=ふく)

覆面の騎士、なんていうと月光仮面や、怪傑ゾロ、古いか。ならパーマン? まあ、どうでもいいや、とにかくあの人たちはみんな、面を覆していますよね。正体知れたらいけないんでしょうね。

で、あっちは正体かくして、いいことするんだけど、わたしたちはどうかといえば、顔をかすさず、心をかくす。自分のつくった罪をウソのカーテンでおおいかくすという、せこい根性を持ち合わせているんですね。

マルサの女ですか。とりあえず、名利のために、命をかけて財産かくしをやりますね。でっかいのでは、ロッキードかくしなんてのがありましたねえ。何か不利益なことがあると、国全体をおおいかくすことも、よくある手口のようですね。

他人事ではありません。わたしたちみんな自分の罪はかくしたい。知られたくない。その心が「覆」なんです。で、バレたら「わたしじゃないわ、あの人よ」と責任転嫁。





【す】 すんだあとで しまった!
(愚痴=ぐち)

グチとは、無智なものからこぼれ出るものだそうです。すんだあとで、しまったというのは、智恵がないからなんですね。はじめにわかっていれば、失敗なしですもんね。

あらゆるものは、ご縁によって成り立っている。深く因果の道理をわきまえて、善い因をつくって、善い結果をうる、これが智恵というものなんですが、とにかく、これがわかったようでわからない。名利に目がくらむと因果の道理もあればこそ、あれもこれもとうつつを抜かし、すんだあとで、しまった、となる。

台所にある植木鉢だって、枯れる前に水をやり、正しい育て方を知っていれば、美しい花を咲かせてくれます。そんなこと、よくよくわかっているはずなんだけど、じつは、ちっともわかっていない。いつまでたっても、グチばかり。花ならもう一度ですむけれど、わが人生は一回こっきりなんですがねえ。・・・