煩悩かるた
雪山 隆弘師
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はじめに 利井 興弘
来年は数え年八十にもなる。老人のくりごとでありますが、次男隆弘が「煩悩カルタ・本願カルタ」を仕上げました。この仕事は大変なことだったと察するに余りあるものでありました。それは「直腸ガン」と云う大病の病中、手術、病後の時期にこの労作を仕上げたことは、驚くべき仕事といわねばなりません。よくやったものであります。
小学校へ入学する前から、毎年正月前から「いろはがるた」を出して、「犬も歩けば棒にあたる」と遊んだものでありまして、小学校へ入学する自分には「犬も歩けば棒にあたる」と大分は覚えておりました。
それが中学時分には「いろはがるた」はしませんでしたが、中学三年時代だったでしょうか、この「いろはがるた」に疑問が起こりまして、「犬も歩けば棒にあたる」これはおかしい「犬が歩く」ということはわかるが、「犬も歩く」ということになると「犬と犬と」とか「犬と人間」とか、何しろこの「犬も」の「も」にひっかかって数年たちました。
そして大学時代何かの雑誌を読んでおりましたら、私のような変なことが気になる人もおるもので「私は永い間、いろはがるたの最初からわからなかった」とありまして「犬も歩けば棒にあたる」これが第一わからない。
この犬は「眼が見えない犬」であろうか、それなら「棒に」にあたることもあろう。この犬が「のら犬」であるなら「棒に」ではなく「棒も」とんでくるであろう。
これは「犬」は動物の「犬」ではなく「探偵」である。「棒」は木の棒ではなく「泥棒」である。そこで探偵もじっとしておっては泥棒も捕えられない。そこで「探偵もーーー犬もーーー歩けばーーー行動すれば、泥棒に当る−棒にあたる。これが正解である」というのにぶちあたったが、こどもの遊ぶ「かるた」に「探偵」ーーー犬「泥棒」が出て来ていいもんだろうか、こんな時「解説書」があれば問題はない。こんな時に起る煩悩はと考える時、「煩悩カルタ」には「解説」が丁寧に書かれてある。心くばりに頭が下がります。
「カルタ」は小さい時からに限ります。短い言葉、覚えやすい、意味は深し、子供にその意味がわかりにくいことが多い。私は子供の頃聞覚えた歌が二つありましたが、その意味はわからない。一つは「箱根の山は天下の嶮(けん)」。唱いつつ、どんな剣だろうか、天下の剣というのだから、どんな立派な剣だろうか、と思ったりしていたものです。
二つ目は「卯の花のにおう垣根に、ほととぎす早やも来鳴きて」これも上の句はよくわかるのだが、「はやもきなきて」というのが長い間わからなかった。そういうふうに子供の頃から覚えた「言葉」は音でわかるが、その意味がわからなかったことが、長ずるに及んで段々わからされて来ました。
姉が二つ違いでありましたから「百人一首」を覚えはじめたのは小学校五年の時でした。歌は意味もわからず、何しろ上の句が読み終わって「かるたの下句」に合すのだから、始めはいつも負けていたが、中学二年時分には姉が「かるた」はしなくなった。それでも「むすめふさほせ」の一枚札は今でも覚えています。しみついたものは恐ろしいものです。
「本願カルタ」は本願が中心です。「一切衆生、もらさず、救う」話で聞いたことはなかなか身につかぬが口で言うと身につきます。「解らぬ我身と解らされた」と知らされます。
【い】 いちばんよい子は この私
((驕)慢=きょうまん) (喬)の字の左にりっしんへんをプラス
「差別の根源は、衆生の驕慢心にあり」とおっしゃったのが、おしゃかさま。わたしたちの思い上がりの心が、世の中に多くの差別を生んでいるというわけです。
国民の意識調査なんかを見ますと、近頃はほとんどの人が、中流気分だそうですが、じつはこれ、アンケートに答えた適当なタテマエなんじゃないですか?ホンネはやっぱりなんてったって、自分が一番よい子だと思っているはずです。
とにかくわたしたちは、それくらい思い上がっていなくては、安心して生きてはいられないんじゃないですか。もちろん、そんなこと、他人に言えたもんじゃないですが、心の奥底をさぐってみれば、それこそ、内心ひそかに、後生大事に、こんな煩悩をかかえ込んでいるわけです。
ところがね、この驕慢心というヤツは、他人を傷つけたあげくに、なんと自分まで苦しめてしまうというおそろしい煩悩なんですよ。
【ろ】 ろくでもないのは みな他人
(慢=まん)
驕慢心を細かく分けると、まず、この「慢」です。どんな思い上がりの心かというと、他人と比べて思い上がるという心です。
「みんな仲良くしましょうね」などと口ではいいながら、わたしたちはいつでも、他人と比べて、自分が一番よい子だと思い込んでいるものなんです。「凡夫は自他の差別を見る」とある和上がいってますが、ほんとうにそんなものなんですね。
山根の源左さんは、これとまったくさかさまで「いっち(一番)悪いでしあわせだぁ」といいました。ろくでもないのは他人ではなくて、このわたしだったと気づかれたのです。そして、そんなわたしに、如来さまはご苦労くださっているのだと、よろこばれたのです。
なかなか、源左さんのマネは出来ないんじゃないですか?「なによ わたしはちっとも悪くないわよ。悪いのはまわりの人でしょッ」いつでも、これですものねえ。
【は】 ハッハッハ ざまあみろ
(増上慢=ぞうじょうまん)
一番よい子はこの私で、ろくでもないのはみな他人・・・とくれば、もう天にものぼる気分になって、ハッハッハ!と高笑いもしたくなる。こんな心の状態を、増上慢といいます。要するに、のぼせて、増長して、手のつけようがないわけです。
こんな人を、昔から、日本では「天狗」といいます。鼻高々の赤ら顔、カンラカラカラと空を飛ぶ・・・。
「どう、あの人、天狗になっちゃって・・・」
で、この天狗といったら、お宮さんのまつりに出てくるので、仏教と関係ないように思っていた、という人も多いかもしれませんがじつはそうじゃない。天狗のもとは、インドのサンスクリット語でウルカーというんですって。これ、流れ星のことなんだそうですが、転じて、仏道修行をあやまって、俺ほどえらいものはいないという増上慢に陥ったものをさすことになったそうです。まあ、天狗になったらおしまいだけど、なるよなあ。
【に】 にっこり笑って 人を刺す
((驕)=きょう) (喬)の字の左にりっしんへんをプラス
人の心は傷つきやすく、また、傷つけやすいものですね。自分ではまったく気づかずににっこり笑っているだけで人の心をつき刺していることがよくあります。家柄、財産、地位、健康、博識、美貌、能力などなどに関する思い上がりの心で、これは「慢」のように比べてよろこぶんじゃなくて、比べるものなく、喜ぶんだそうです。
でも、これが外に出たらどうなるか。
スマートな奥さまが、ちょっと太めの奥さまの前でーーー
「あたし、もう少しやせたくて、ホホホ」このホホホで相手は、グサッとくる。健康だってそうです。
「いやぁ、なんといっても健康が第一ですねえ。わたしはこの年になるまで医者の世話になったことないんですよ。ハハハ」
本人気づいていないけれど、これを病気や障害をもつ人間が聞いたら、どんなに心が痛むでしょう。
【ほ】 ほんとはあいつも 俺くらい
(過慢=かまん)
過ぎたる人をさして、じつは、その人も、自分と同じくらいだーーーと思い上がって安心するという慢心です。
よくあるでしょう。たとえば、受験生。「自分以外は、みんな敵!」なんちゃって、必勝のハチマキしめて、とにかくがんばってる。それ自体は、まあ、競争の世の中なんだから仕方がないかもしれません。けど、三月ごろになって、合格発表があって、新聞紙上にライバルの名が載る。自分がねらった大学に、相手が先を越してパスした。(チェッ、あいつも成績は俺と同じくらいなのに・・・)とか。
そのパパは、三月の人事異動の新聞とにらめっこ。「おっ、あいつ、部長になったか。ふーむ。おい、母さん、あいつ、とうとう部長になったぞ。ホラ、俺と同級生のあいつがさあ。えらくなったねえ。俺と同級生だぜ、あいつ」
同級生というところにずいぶん力が入っている。カンケイないと思うけど、それを強調しないと落ち着かないのよねー。
【へ】 へりくだって ほくそえむ
(卑下慢=ひげまん)
「りっぱな家が建ちましたねえ」
「いやいや、ほんのウサギ小屋で。」
このとき、あなたがこう答えたらどうなるか?
「なるほど、そういえばウサギ小屋だ」
「まあ、奥さん、ステキなお着物」
「あらいやだ、安物、安物!」
このとき、あなたがこう答えたらどうなるか?
「あら、ホント、安物ねえ」
まあ、おそらく、しばらくは絶交ということになるでしょうね。そうなんです。こちらがオメたら、日本人はすぐ卑下する。これを美徳のように思っている。しかし、仏さまにいわせると、品性下劣。卑下したら、もうひと回り大きなホメことばが返ってくることを期待しているだけなんだ。これを卑下して自慢する卑下慢というんです。よくあるよなぁ。
【と】 徳もないのに したり顔
(邪慢=じゃまん)
智恵もない。徳もない、真実まことのかけらもない。困ったものですねえ、最近のテレビ。なのに世の人みなすべて、テレビのいうこと真にうけて、わかったような顔をして、
「ああ、あの問題ね。そう、あれはね、そもそも・・・」なんてのたまう。聞けば、ほとんでテレビの受け売り。なさけないったらありゃしない。
それに、ほら、よくあるじゃない。テレビじゃないけどおうわさで「これ、体にいいのよ」とか「ゼッタイ効く!」なんてたぐいの、よこしまな情報。
さらに、近頃多いのは、深く因果の道理をわきまえず、占いやら、まじないやら、現世祈祷やらに、うつつを抜かし、自分だけバカ見るのならまだしも、したり顔で、他人をそそのかし、悪い仲間を引きずり込むやから。許せないね。
いいですか。よこしまでない、正しい教えの基本は、なんといっても「深く因果の道理をわきまえる」ということ。忘れないでね。
【ち】 ちっともわたしは かわらない
(我慢=がまん)
じっとガマン・・・のもとの意は、自分だけは変わらないと思い上がることなんですって。
「青葉の候、お変わりございませんか?」
などというお便りをいただいて、
「有難うございます。相変わらずの毎日で・・・」
などというお返事を書いたりしていますが、変わらないわけがないですよ。諸行は無上でありまして、時々刻々、生滅変化しているんです。どれくらいの速さで?なんて聞いた人がいるんでしょうね。お経にちゃんと出ている。刹那無常。その一刹那とは、まばたき一つ。時間でいえば、七十分の一秒ぐらいの速さで、すべてが変化しているとある。
いまなら、もっと正確な時計があるから、百分の一秒、いやもっと短い時間かもしれない。なのに、です。世の中が、そして、他人さまが、どう変化しようと自分はちっともかわらないと思っている。ガマンならんだろうね、仏さまは。
【り】 りっぱな人より 俺が上
(慢過慢=まんかまん)
自分より秀れた、立派な人物を差して、先程は「俺くらい」と、自分と同等に見るという、思い上がりの心「過慢」を紹介しましたが、こんどはそれがさらにエスカレートして、「あれより自分が上」と思い上がるマンカマンというすごい慢心です。
お坊さんとか、先生とかによくある慢心で、たとえばこうです。
「ほら、今、テレビに出たり、本を書いたりしているあの人、有名になりましたね。りっぱな文化人ですねえ。そう、あの人、じつは私の教え子なんですよ」
本人はそういうつもりはないんでしょうけど、やっぱりマンカマン。
「そうそう、あの人は財界の大物になりましたねえ。ええ、あの方、うちの門徒なんですよ−−」今風にいえば、カンケイナイッツーノ。自分がえらいわけじゃないし。とまあそんなわけで、カマン、ガマン、マンカマン・・・思い上がりの慢心には十分気をつけて・・・。
【ぬ】 盗んだものは 数知れず
(偸盗=ちゅうとう)
中国の善導大師という方が、その書物に、「わたしは無始よりこのかた、この身に至るまで、一切の三宝、師僧、父母、六親眷属、善知識、法界の衆生の物を盗み取ったことは、数を知ることができない」と書いておられる。びっくりしましたね。
「他人さまのものを盗んではいけません」といって育てられたわたしは、はじめて、この善導大師のことばを聞いて、この方、そんなに悪い人だったのかと思ったものです。
しかし、考えるまでもなく、わたしたちはみんな、他人さまのものを盗んで生きているのです。もちろん、それをいただきものだと手を合わせ、おかげさまとよろこんでいるなら別ですが、ほとんどは、どっかからふんだくって自分のものとして、それこそ「盗んだもので、わがもの顔」。「盗っ人たけだけしい」とはこのことじゃないですか。一度指折り数えてみてはいかがでしょう。なにもかもが他人さまからのいただきもののはずです。
【る】 流転輪廻の 身のほど知らず
(無慚=むざん)
無慚とは、はじらいのないこと。自分自身に対して、罪を罪として恥じないこと、でありまして、この無慚のものは、迷いの六道をぐるぐるとめぐる、輪廻するといわれています。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上ーーーという六つの世界でありまして、迷いの衆生はこれをへめぐるんだそうです。
ところで、いま、迷いの衆生といいましたが、これは仏さまがおっしゃるお言葉で、私たちは、じつは、迷いを迷いと知らずに迷っているのであります。迷いを迷いと知ったら、「こらえらいこっちゃ」という気になりますから、次ぎからは迷わぬようにしようと心掛けたりもします。ところが、知らずに迷っているのがわたしたちでありますから、それこそ身のほど知らず、なのであります。
「二つの黒法あり。無慚と無愧なり。この二つ、よく世間を破壊す」と仏さまはおしゃってます。世の中悪くするのはこの心です。
【を】 女は色香 男は名利
(欲=よく)
欲の皮がつっぱるなんていいますが、お経には欲のフタがしまるというのがあります。このフタがしまると、他人のいうことが聞こえないそうです。
で、それはどんなときかといいますとーーー
まず、女の人は、一に色香。美しくありたいと願う心でありまして、これにはどうも力が入ります。二に家庭。一家の主はとうさんかもしれないが、帰り所はおふくろのふところですものね。三に子供。チャイルド(子宮)というぐらいですから、子の痛みがわが痛み。欲も出ます。四に生活。わかりますねえ。亭主はみんな感謝してます。そして一から四までに一生懸命ですから五に安全、平和を願うわけです。女の欲はこの五つに関する事がほとんどです。
さて、男は? たった一つ。名利です。えらくなりたいが男の欲望ーーーそうかも知れませんね。まあ、そんなわけで男も女も、その道にまっしぐら・・・なのであります。
【わ】 われ面白の 他人困らせ
(害=がい)
生けるものに危害を加えて、快しとする心を「害」というんだそうです。
近頃はなるべく、この害をなくして、住みよい社会をーーーということが叫ばれるようになりまして、タバコの害なども、ずいぶんやかましくなりました。喫煙者もようやく気づいて、ちょっと遠慮するようになったようです。
で、これはまだ、あまりいわれてはいませんが、お酒、どうですか?
「ええ!? キミ 飲めないの」
「・・・」
「なさけないねぇ。大の男が。ちょっとぐらいつき合いなさいよ。さあ、一杯つぐからさあ、だめ? こんなうまいものが飲めないの? 不幸だねぇ」
なんて、お酒飲めない人をまるで罪人扱いしている風景をよく見かけますが、あれ、どうなんでしょうね。まあ、みんな好みが違うんだから、それぞれ認め合えばいいんだけどねえ。それがわかれば仏さまかーーー。
【か】 勝手気ままに 仕放題
(放逸=ほういつ)
気ままに遊ぶこと。怠惰なこと。心が散漫で、善い行いに専心しないこと。これを放逸といいます。
「ちょっと、遊んでばかりいないで、勉強したらどうなの? あなた、何年生になったの。少しは将来のこと考えて、自覚をもってやらなきゃあ」
ドラクエかなんかうつつを抜かしてピコピコやってる子供に、むずかしい顔をして小言をいっているお母さん。自分はテレビの娯楽番組でバカ笑い。
お父さんはといえば、昼間の仕事でぐったり、家へ帰れば、一杯飲んで、寝るか、ウサを晴してステテコでカラオケ。
「困ったもんだなぁ、ばあさん。わしらの若いころは・・・」
なんていいながら、することなくて、これまたテレビでうつらうつら・・・
いまや、こんな放逸家族が日本中に何百万何千万・・・。豊かになったからなんでしょうねーーー。
【よ】 よその花は 赤い
(嫉=しつ)
ねたみ心でありまして、わが身の名利を求めるが故に、他人の繁盛しているのを見たり聞いたりすると、くやしくてならないというあれです。
だいたい、わたしたちは、他人の幸福をすなおによろこぶこころがありません。
隣がりっぱな家を建てた。
「まあ、よかったわねーーー!」
なんて、口ではいうけど、ハラの中は煮えくり返っていて、なんとか慢心でもって、相手を引きずり下ろして、安心したいと願います。ところが、どうあがいても勝ち目はない、となると、こんどは、この嫉です。ねたみです。
「そりゃ、いいわよ、あちらさんは、地位もあるし、財産もあるし・・・それにしても、ああ、グヤジー」となる。困ったもんです。
あそうそう。なぜねたむかというと、自分も、その気があるからなんですよ、その気がなかったら、ちっともクヤシくないもんね。
【た】 他人の飯は 白い
(妬=と)
前と合わせて、嫉妬。やきもち。
この妬の字は、もとは、(女+戸)と書いて、他の男女が仲良くやっているのをねたんで、女が石をもって、戸口に立っているココロだ、とかなんとかいってますがね、どうしてここで二文字とも女ヘンになるのか、なんてこと、こだわり出したらキリがないけど、ねえ、男だって、シット心、あるよねえ。
で、このやきもちやきのことを、近頃は、トーストなんていうそうだけど、知ってました?
まあ、そんなことどうでもいいけど、どうでもいいついでに、じゃあなんで、やきもちやきなんていうの? と聞いたら「これはね、否気持、つまり、イヤキモチ、からきたんです」といった方がおられたが、なんだか当たってる感じですね。他人のしあわせは、イイキモチになれないで、イヤキモチ、つまりヤキモチになっちゃうってわけ。どう考えたって、みんなイヤキモチ、持ってるよねーーー。
【れ】 礼にはじまり 乱に終わる
(諍=そう)
世の中、なんたって、競利争名の世界。利を競い合い、名誉を争う。試しに新聞を見るといい。1ページから最終ページまで、とにかく名利の競争ばかり。
「あいつがえらくなった」
「あいつとあいつがケンカした」
「もうかった、損した」
個人単位、町単位、県単位、国単位・・・どれをとっても競争のない所はないみたい。それもはじめは、なんだか殊勝な顔をして、「はじめまして」「よろしく・・・」なんていってるけれど、そのうち熱くなってくると乱、乱、乱、であります。それをまたお手本のように見せてくれるのが国会であります。その点、オリンピックはまだましですね。とにかく、聖火の下、参加することに意義があるってわけですからね。仰ぐものがあるってのはいいですね。まつりの良さはそれですね。でもなかなか、いつもそうはいかない。大戦争がないだけ、良しとしませんか。
【そ】 そっと耳うち 他人の噂
(悪口=あっこう)
うわさ、という字、尊い口 なんて書くけど、どうしてなんでしょうねえ。わたしたちの口から、尊いものなんて、出てくるわけがないと思うんだけど・・・。
そりゃあ、最初はいいんです。
「ほら、奥さん、あの方ご存知でしょ」「ええ、いい方よねえ」「そう、とってもいい方ですねえ」とくる。で、ここで終わればいいけど、実はここからがはじまり。
「けどさあ、なかなか、あれで、いろいろあるそうなのよォ」
「でしょ。わたしも聞いたのよ、それ」
なんてことになると、止まるところを知らず、ドドドドーッと、悪いおうわさの数々。いやですねえ、なんていいながら、結局は、すきなんですねえ、他人の悪口をヒソヒソやるのが・・・。そういえば、シャバ=娑婆の元の意は、他人の足を引っぱる所、なんですってね。
【つ】 強い者が 勝ち
(闘=とう)
<先の「諍」という字は、力のはいった腕を強く引きとめるところから、まあ、引っぱり合って相争うという意味になったそうですが、この「闘」というのは、そのものズバリで二人が手で打ち合っている形からきた字だそうです。
「コノヤロー!」
「なにィ!!」
だいたい、自分の気に入らないことには、ハラが立つ。ハラが立ったら、ケンカになって、とっ組み合いになる。で、弱者救済どころか、強い者が勝ち、となる。
人はもともと闘争心を持ち合わせた生き物でありまして、放っておくと必ずケンカになるわけです。
「ケンカをして、勝ったキミ。できたら、少し、負けた相手のことを考えてみよう。もしそれができたら、キミは、ほんとうに強い子だ」(永六輔)「ハッハッハッ ざまあみろ!(増上慢)」では困るのです。
【ね】 眠気は 無智から
(睡眠=ずいめん)
ねむくなるのは、生理現象だと思い込んでいたんです。お医者さんに聞いたら、ホルモンの分泌の関係だとおっしゃるし、聞かなくったって、疲れたら、ねむくなるんですからそれまで煩悩だといわれたら、ついてゆけない感じもします。
もちろん、仏さまだっておやすみになりました。必要最小限の睡眠は欠かせないものであります。しかし、いつもボンヤリ、アクビとコックリ・・・というのはいただけません。
仏さまがおっしゃるには、この睡眠ーーーつまりねむ気というのはどこからくるかといえば、なんと無智からくるんですって。智慧がないからよく眠る。つまり、アホはよくねむるんですと。まいりましたね。ハラが立つけど、当たってますね。ムズカシイことやわからないことを聞いていたら、それが大事なことでも、ウトウトですからね。どんな時にねむくなり、どんな事でチカッと目が覚めるかーーーこれであなたの智恵の程度が計れますよ。
【な】 ならぬ堪忍 しない堪忍
(瞋恚=しんに)
「俺も、これで、ずいぶんガマンはしてきたんだ。しかし、今日という今日は、もうガマンにもほどがある。とうとう堪忍袋の緒が切れた!」
お不動さんみたいな顔をして、ついに怒り爆発! なんてこと、よくありますねえ。本来、それからもう一ペン、辛棒する、それが堪忍、あるいは、忍辱(にんにく)というんですが、だいたい、人のガマンの程度というのはタカが知れていて、堪忍袋にヒモがついていたのかしら? と思うほどです。
人は、自分の意のままにならないことにはハラを立てます。そして憎みます。その心はエスカレートして、しまいには、都合の悪いヤツは消えてなくなれ、という気にまでなってしまいます。はっきりいって、これは心の中で殺人を犯しているのです。おそろしい心です。三毒の煩悩の一つです。そして、その心のままが、地獄だといってもいいでしょう。わたしたちは、心の中に地獄を持っているのです。
【ら】 楽して 得とれ
(懈怠=けだい)
すべての善い事を、おこたり、なまけることを懈怠といいます。
近頃、とくに、豊かになって、一生懸命、精進努力するなんてのがはやらなくなってきました。仏道修行をなまけるどころか、日暮らしのなまけ志向も大したものです。世にヒット商品などといわれるものがありますが、ほとんどは、便利というより、楽を売る商品のようです。
なんでもかんでもスイッチポンのリモコン付、全自動という電器製品から、ほかほか弁当、宅急便、数えあげればきりがありません。
でも、そのラクチンを手に入れるには、やはり、それなりに働かなくてはなりません。ところが、仕事となるとーーー
「あーあ。疲れるなあ。もうちょっと楽な仕事で、もうちょっと金をたくさんくれないかしら・・・」
おしゃかさまの遺言は「つつしんで懈怠することなかれ」なんですが・・・。